―第二十五章:初戦開幕―
ついに迎えた、宗次郎達と蘇芳一派との決闘の日。
朝日が昇り始める頃には宗次郎、剣心、弥彦の三人は支度を終え、葵屋の玄関の前に立っていた。今日は快晴、これから京都の片隅で日本の命運を賭けた闘いが再び始まることなどをまったく感じさせないような、見事な秋晴れの空だった。
宗次郎は腰には勿論愛刀・天衣を帯び、手には手甲をつけ、足は全力で縮地を使うことになっても走りやすいように袴を脚絆で巻きつけていた。奇しくも、十年前のあの志々雄のアジトでの闘いの時と同じように。
あの時は迎え撃つ立場だったのに、今回は攻め入る立場だなんてなぁ、と、宗次郎は因縁の不思議さをぼんやりと噛み締めていた。
「よし、それじゃあ行くぞ!」
何故か弥彦が仕切り、宗次郎と剣心は静かに頷いた。彼らを見送るように、その向かい側には薫、剣路、操、蒼紫、翠、翁、近、黒尉といった一同が勢揃いしていた。
薫が剣路の手を引いて、スッと前に進み出た。気遣わしげな顔でそれでも笑みを浮かべながら、皆の武運を祈る。
「剣心も、宗次郎君も弥彦も、皆気を付けてね。絶対にちゃんと一緒に帰ってくるのよ」
「ああ」
剣心はにっこりと笑って頷く。剣心もまた、十年前、比叡山に赴いた時のことを脳裏に浮かべ、この移ろった時の数奇さを思う。あの時の自分は、まさか敵だった宗次郎と十年後には共に闘うことになろうとは、夢にも思わなかっただろう。
「ホラ、剣路も何か言いなさい」
薫は剣路の肩に手を置き、父である剣心の前に押し出すようにした。ぶすくれた表情で目だけで見上げてくる剣路に、剣心は苦笑しながらも身を屈めてその頭に手をぽんと置いた。
「行ってくるでござる。薫殿を・・・・母さんをよろしく頼むでござるよ」
「・・・んなこと、言われなくても分かってらァ!」
強情そうに声を上げる剣路に、剣心は再び苦笑した。剣路は目をきっと吊り上げ、まるで泣くのを我慢しているかのような複雑そうな顔でこう続けた。
「絶対に帰って来いよな! 母さんが泣くからな! それに、宗次郎も死ぬんじゃねーぞ! お前との決着はまだついてねーんだ!!」
「あはは、分かってますって」
「おろ〜・・・剣路は手厳しいでござるな」
宗次郎も剣心も小さく笑った。薫や操も笑うのを堪えている。剣路は口では生意気なことばかり言っているが、本当は意地っ張りなだけで、内心ではちゃんと皆のことを案じているのだ。素直じゃねェなぁ、と弥彦も傍らで溜息を吐きながらも顔は笑っている。
剣心は今度は操と蒼紫の方へと向き直った。
「葵屋のこと、よろしく頼むでござるよ」
「まっかせて! ・・・本当はあたし達も、一緒に行きたいんだけどサ」
操は自分の胸をどん、と叩きながらも、一方で未練がましそうに宗次郎を見る。視線を受けた宗次郎は、にこっと笑って言葉を返す。
「それは駄目ですよ。蘇芳さんのことだから、十年前のあの時みたいにここを襲撃するってことは、十分考えられるでしょう?」
「う、まぁそりゃーそうなんだけどさ・・・」
言葉に詰まる操に、宗次郎はまた笑みを返す。
そう、十年前に志々雄は方治の発案で、アジトで剣心達を迎え撃つ十本刀を宗次郎と宇水、安慈の三人に搾り、一方で京都大火を阻止した葵屋を襲撃するという作戦に出た。それは万一のことを危惧していたとはいえ、存分に剣心達の裏をかいた策だった。
最終的には葵屋を襲った十本刀は敗北、アジトに残った面々も剣心達の前に敗れ去ったのだが、それでもあの蘇芳のことだから再び葵屋を奇襲する計画を立てていてもおかしくは無い。
蘇芳を始め、真由、真美、雪哉、雷十太、鈴、といった面々の顔は割れているが、それでも他にどんな配下がいるかは未知数。葵屋襲撃の可能性を考えれば、宗次郎側の闘える者を全員蘇芳の屋敷へと駆り出すわけにもいかない。
そこで昨夜、皆で話し合って、屋敷へと向かうのは宗次郎、剣心、弥彦の三名だけとし、蒼紫や操、薫といった面々は、葵屋襲撃に備えて残ることになった。
戦力のことを考えると、蒼紫が葵屋に残るのは正直痛いなぁと思った宗次郎だったが(何せ、剣心はもう飛天御剣流をほとんど撃てない、それでも強いとはいえ十年前と比べると純粋な戦力は格段に劣る)、あの底意地の悪い蘇芳の性格を考えると、志々雄の作戦を逆さに取って決行するということは十分に有り得る話だ。惜しいが仕方ない。
まぁ、元々は自分の闘いだから、他者を巻き込む方が本当は間違いなのかもしれないけれど。
「・・・・言われなくても分かっている。気兼ねなく行ってくるがいい」
蒼紫が静かに口を開いた。冷静な表情を崩さないながらも、強き意志が窺える真っ直ぐな目に、剣心も宗次郎も頷いた。
操の後ろからぴょこん、と翠が出てきて、宗次郎に駆け寄った。その後を翁が追い、孫を抱き上げるようにして翠と宗次郎の視線を合わせた。翠はにこにこと笑って宗次郎に小さく手を振る。
翁もうむ、と頷いて、白い髭を揺らしながら宗次郎に声をかける。
「わしらはここで、武運を祈っておるからの」
「行ってらっしゃい、宗兄ちゃん!」
詳しい経緯を、翠はまだ幼いから、きっと理解はしていないだろう。ただそれでも、彼女もまた御庭番衆の血を引くからか、宗次郎がこれから闘いに行くということだけは何となく分かる。
何が起きようとしているのかよく分からなくても、これから出発する者にかける言葉はただ一つ。
「うん、行ってくるよ」
屈託なく笑って見送る翠に、つられるようにして宗次郎も笑みを零す。そうして今度は皆の方を見て。
図らずも協力してもらう形になってしまったが、それでも何だかそれは宗次郎は有り難かった。にっこりと笑って、皆を見回して言う。
「それじゃあ、行ってきます」
操達が頷くと、宗次郎はゆっくりと踵を返した。その後を追うような形で剣心と弥彦が続く。
見送る者達はもはや何も言わない。それぞれが言葉を贈った以上、これ以上かけられる言葉は何も無いのだ。ただ、あの十年前と同じように、彼らが無事に戻るのをただ信じて待てばいい。
緩やかに昇る日の光を背に受けるようにして、宗次郎、剣心、弥彦の三人は葵屋を出立した。
三人の健脚を以ってすれば、朝早くに葵屋を出れば約束の時刻の正午までに嵐山に着くことはそう難しいことでは無かった。
雪哉が寄越した地図の通りに嵐山へと向かえば、初めは遠くに見えていた鮮やかな山裾も次第に近付き、まるで赤や黄色を基調とした西陣織をそのまま山に覆い被せたような、見事な紅葉が見て取れた。
これには弥彦もはぁ〜と感嘆の溜息を吐く。けれどすぐに頭を振って思い直す。その枝いっぱいに赤い掌を散らしたような紅葉の下に連なる山道を今は歩いている、地図によれば蘇芳の屋敷はもう目と鼻の先、いわばここは既に敵地なのだ。油断するわけにはいかない。
弥彦は新たに気持ちを引き締める。と、その時涼しい風が吹いた。赤い紅葉の葉が揺れ、何枚かは風に吹かれるがままにその身を空へと躍らせた。
「う〜ん、気持ちのいい風ですね〜」
緊迫感のまるで無い宗次郎に、弥彦はがくっと脱力しかける。半ば呆れながら、弥彦は歩みを止めないままで隣を行く宗次郎に言う。
「ったく、お前って奴は・・・。分かっちゃあいたが、緊張感がまるでねェのな」
そうですか?と不思議がる宗次郎の横で、丁度弥彦とは反対側の位置にいる剣心は案外さらっと。
「まぁ、それも宗次郎のいい所でござるよ。闘いの前に平常心を保つことも、大事なことだと思うでござるが?」
(まーそーかも知れねーけど、コイツの場合、普通の平常心とはちょっと違うだろ・・・・)
内心突っ込みを入れつつ、確かに何事にも動じないのはある意味凄ェのかもな、と弥彦は変な納得をしてしまう。
そうこうしながら三人が歩いているうちに、ようやく蘇芳の屋敷の前へと辿り着いた。剣心が翁から借りた懐中時計の指す時刻は正午より二十分前。約束の時間よりは早く着いたが、遅れるよりはいいだろう。
それにしても、と宗次郎は思う。
「ふぅん、案外普通ですね」
志々雄のアジトが六連ねの鳥居の祠、という奇怪な造りをしていたのに比べれば、蘇芳の屋敷はごくありふれたような物のように思えた。周囲に同じように建つ別荘の群れよりはいささか絢爛な造りはしているものの、二階建ての瓦屋根の一般的な京都風の建物だ。
本拠地を一般の建物と同じ所に堂々と構えている辺り、流石に蘇芳は只者では無いとも思うが。
閉じられた玄関はしんと静まりかえり、誰かが出迎えに来る気配も無い。このまま踏み込んでも良かったが、宗次郎は一応、剣心達に振り返る。
「どうします? 緋村さん?」
「そうでござるな、とりあえずここで約束の時刻まで待って・・・・」
言いかけて。
剣心は口を噤んだ。何者かがぱたぱたと、屋敷の中を走ってこちらへと近付いてくる足音が聞こえたからだ。そうしてそれは玄関の前で立ち止まると、がらっと戸を両手で開け放った。
両手両足を広げて、丁度大の字のように立った姿勢で宗次郎達を出迎えたのは、忍装束を身に纏った鈴だった。
「ようこそ、あたし達のアジトへっ♪」
嬉しそうに鈴は言う。三人は何となく面食らったような気分になるが、それに構わず鈴は続けた。
「案外早かったね〜。でも歓迎するよ、瀬田さんに緋村さん、それに明神さんv」
「もしかして、鈴さんが案内役ですか?」
かつて宗次郎もそれを新月村でやったことがある。鈴は一見、丸腰だったが、そして実際そうなのかひらひらと両手を振って見せる。
「そうだよ。よろしくねっ♪」
弥彦がぼそっと敵なんかとよろしくできるかよ、と呟いたが、確かに敵である以上警戒を怠るわけにもいかない。剣心は苦笑しつつも、この少女の動向には目を光らせるつもりでいた。
一方の宗次郎は、案内役がいることは別段構わないが、それとは別に鈴に確かめたいことがあった。
「案内、よろしくお願いしますね」
「うん、よろしくv」
「・・・・ところで、蘇芳さんと、さんは?」
笑いながらも少し声のトーンを落として言った宗次郎の言葉に、鈴はほんの一瞬だけ、動きを止めた。何故か何かを考えるような顔をして、けれどすぐににかっと笑って宗次郎に告げる。
「蘇芳さんもちゃんも、このアジトの一番奥で待ってるよ。ちゃんに会いたかったら、頑張って勝ち抜かないとね」
そうして、鈴はすたすたと奥へ向かって廊下を歩き出してしまう。日本の礼儀作法に反してはいるが、鈴は草鞋を履いたままだし、闘うことを考慮すると(何せ闘う部屋がどんな造りなのかも分からない)、足袋で行くわけにもいかなかったから、宗次郎達もそのまま屋敷に上がり込む。
(一番奥、か。そうだよね。あの時、志々雄さんもそうだったんだし)
鈴の返答に納得しながら、宗次郎はその後を追う。敵の総大将は一番最後に控えていると相場は決まっている。
頑張って勝ち抜かないと、と鈴は言っていたが、元よりそのつもりだ。
これは本来、宗次郎個人の闘い。蘇芳達との因縁にケリをつけるために、そしてを自分のせいで死なせないために。負けるわけにはいかない。
宗次郎の先を歩く鈴は、廊下の途中で立ち止まると左側へくるりと体の向きを変え、その前の襖を開けた。そして中へと入って行くから、宗次郎達もそれに続く。
一見、ごく普通の客間のようだった。
広さは十二畳程、こざっぱりとした和室で、部屋の隅には座布団が重ねられている。淡黄色の壁には墨で龍を描いた掛け軸がかけられていて、何とも言えぬ風情を醸し出している。ただ、そこは無人で、格子窓の向こうにも嵐山の紅葉が広がっているだけだった。
ここに一体何があるんだろう、と首を傾げる宗次郎達の前で、鈴は掛け軸の所まで歩いていくと、バッとそれを剥ぎ取った。
あ、と思わず一同の目が丸くなる。忍者屋敷よろしく、そこには隠し通路がぽっかりと口を開けていたからだ。
「狭いのは最初のうちだけだから。それじゃあ、どうぞ」
言うやいなや、鈴は壁に開いた四角の空間にスッと身を滑らせる。しばしぽかんとしていた宗次郎も、言われたままにそれに続く。
隠し通路は暗い上に狭く、初めのうちは肩が両側の冷たい壁に当たるものだから、体を斜めにして苦心して進まなければならなかったが、五間程歩いたところで空間が開け、壁に取り付けられた角灯が明るく火を灯す木造りの階段に出た。
しばしそれを降りていくと再び平らな廊下へと辿り着いた。その頃には鈴を先頭にして、その後ろを三人横に並んでも楽に歩けるくらい、横幅に余裕ができていた。
壁は漆喰で固めてあるものの、階段を降りてきた距離を考えると恐らくここは地下なんだろうな、と宗次郎は見当を付けた。何となく、かつての志々雄のアジトに雰囲気が似ている。
隠し通路があったことを考えると、この先に続くのが蘇芳の本当のアジトなのだろう。これじゃあ探っても簡単に見つからないわけだ、と宗次郎は変な感心をしてしまった。
丁度懐中時計の長針と短針が重なり、十二の英数字を差す頃、四人は廊下の行き止まり、観音開きの大きな扉の前へと到着していた。鈴はようやく後ろを振り返り、不敵に笑んで言う。
「それじゃあ、いよいよ闘いが始まるわけだけど・・・・覚悟は、できてるよね?」
「当然ッ! 聞くまでもねェぜ」
胸を張って一番に答えたのは弥彦だ。剣心も深く頷いて、凛とした眼差しで言い放つ。
「ああ。この国に再び動乱が起ころうとするのを、見過ごすことなど拙者はできぬ」
鈴は目線をつい、と動かし、宗次郎の方を見た。宗次郎はいつもと変わらぬ穏やかな笑みで、にっこりと目を細める。
「大丈夫、今更逃げ出したりしませんって」
冗談めかしていたが、宗次郎からは確かな意思が感じられた。それで鈴もほんの少し笑う。ちょっとだけ、彼女のことを伝えたくなった。
「・・・・ちゃん」
「え?」
「ちゃん、いつもあなたのこと心配してたよ」
不意に出てきた名前に、宗次郎はきょとんと目を丸くした。その反応に鈴はまた笑うと、戸を両手で押し開きながら、付け加えた。
「宗次郎君に迷惑かけちゃったなって、言ってたよ」
「そんな、さんてば嫌だなぁ、迷惑かけちゃったのはこっちなのに」
吐息交じりの笑みを零して、宗次郎は答える。振り向かないまま、けれど再度鈴は笑って、ぎぃと軋む音を立てる扉を強く押した。
「まぁ、でもそのちゃんに会う道のりは長いけどね。せいぜい頑張ってね」
宗次郎達の目に飛び込んできたその部屋は、床を石畳で敷き詰められ、壁に廊下と同じように備え付けられた角灯のおかげで中は明るかった。
鈴は軽快にその部屋の真ん中まで走っていく。その部屋は丁度正方形の造りで、縦と横の長さはそれぞれがおよそ八間といったところだったろうか。一間の長さが現在で約1.8メートルだということを考えると、かなり広めの部屋だ。
宗次郎達の正面(丁度、鈴の背後だ)、それから部屋の左右には、入り口と同じような観音開きの戸が据えられている。
今は鈴以外には誰もいない。何が待ち構えているのかは知れなかったが、いや、何が待ち構えていたとしても、宗次郎達に引き返すつもりなど無かった。そのまま三人は歩を進め、鈴から二間ほど距離を取ったところで立ち止まった。
鈴はふふ、と笑うと右手を上げた。
「まずは、小手調べよっ!」
鈴はぱちん、と指を鳴らした。するとそれが合図だったのか、前方と左右と扉が一斉に開け放たれ、ざっと幾つもの影が雪崩れ込んできた。
「!」
反射的に、宗次郎と剣心、弥彦は互いに背を預けるようにして身構えた。扉から雪崩れ込んできた影は、黒い忍者のような装束を身に着けた雑兵達だった。数はざっと五十人、すっかり宗次郎達の周りを取り囲んでいる。
「・・・ったく、そんなことだろーと思ってたぜ」
逆刃刀の柄に手をかけながら、弥彦は憮然と呟く。素直に進ませてはくれないだろうとは予測していたが、案の定だった。雑兵達の得物は刀の他に槍、鎖分銅といった類。恐らくは数種類の武器を持たせることで宗次郎達を撹乱し、仕留めるつもりだろうが。
「嫌だなぁ、鈴さんってば。僕の力量は東海道でとっくに測ったじゃないですか」
口で嫌と言っている割に全然そんな風に見えない顔で笑いながらも、宗次郎もまた天衣へと右手を伸ばす。小手調べだと鈴は言っていたが、今更そんなことをするのに何の意味があるのか。
宗次郎の言葉を受けて、鈴はにんまりと笑う。
「ま、ね。確かに瀬田さんの闘いっぷりは見たけどさぁ、でも明神さんと緋村さんはそうじゃないんだよね。特に・・・・緋村さん」
既に抜刀の構えを取っていた剣心は、周囲の雑兵達に気を配りながらも、スッと鈴に視線を移す。
「その弱った体でどれだけできるのか、ちょっと気になるんだよね。蘇芳さんや真由達も期待してるんだし、がっかりさせないで欲しいなぁ」
「・・・・・・」
剣心は無言を保ったまま、鈴を見据えている。
弥彦は鈴の物言いにムッとしながらも、けれど一方でそのことについても考える。剣心は体自体の調子も年々悪くなり、飛天御剣流ももう使えない。剣気や威圧感は全く衰えていないとはいえ、それでもその弱った体でどこまでやれるのか。剣心の強さに、心から信をおいているとはいえ―――。
ほぼ同じような懸念を宗次郎も浮かべていた。だが、背中越しに剣心の「弥彦、宗次郎」という、自分の名を呼ぶ声がし、ふっと思考をそちらへと向ける。
「拙者のことは気にしなくていい。ただお主達は、自分の相手に向き合うことに専念するでござるよ」
「あ、ああ!」
先に頷いたのは弥彦だった。時を経ても、剣心はやはりかつての剣心と変わらない。剣も、心も、何もかも含めて日本一の男だと信じて疑わず、いつかあの背に追いつくんだと誓ったあの頃と。
その剣心から元服の祝いに受け取った逆刃刀の柄を、弥彦はぎゅっと握り締める。
「緋村さんがそう言うんなら、遠慮しませんよ?」
宗次郎も穏やかな笑みを湛えたまま、抜刀の構えを取る。剣心は声の調子を変え、今にも「おろ」とでも言いそうなどこか愛嬌のある顔で一言。
「拙者が言わなくとも、お主は遠慮などする気は無いでござろう」
「あ、分かっちゃいました?」
宗次郎はあははと笑って頭をかく。確かに剣心の体の調子が気になるのは本当だが、彼は仮にも自分を破った相手だ、こんなところで雑魚相手にあっさり負けるとは到底思えない。それに、三対五十の不利な闘いであっても、自分の相手を確実に倒していけば、いつかは五十の数も底をつく。
「ふふっ♪ いつまでそんな余裕でいられるかしら・・・・ねっ!」
鈴がもう一度指を鳴らしさっと後ろに飛び退くのと、宗次郎達を取り囲んだ雑兵達が襲い掛かってきたのはほぼ同時だった。
突き刺そうと迫ってきた槍の穂先を宗次郎は抜刀術で斬り飛ばすと、すぐさま左手を柄尻に添え天衣を振り下ろした。
一人の雑兵が崩れ落ちる間も無く、左右から二人の男が宗次郎に向かって攻撃を仕掛けてくる。右は刀、左は鎖分銅。先に伸びてきた鎖を宗次郎は右手で神業のごとく掴み取ると、力任せにぐいと引っ張った。体勢を崩した鎖分銅の男に刀の男がぶつかり、見事に同士討ちの形になる。
背後にも声を上げて宗次郎に刀を振り下ろしてくる男があった。宗次郎は脚力を生かして瞬時に、逆にその男に背中側に回りこみ、脇腹に横薙ぎの一撃を叩き込む。そうして刀の柄を握り直し、次の敵に向き直る。
宗次郎の背後で、弥彦も逆刃刀を振るって雑兵達に応戦していた。柄尻を雑兵の額に強く打ちつけ一人を倒したかと思えば、即座に柄を持ち直し、返す刀で別の男を叩き伏せる。
弥彦が横目でちらと宗次郎を窺えば、涼しい顔で次々に雑兵を倒しているのが分かる。弥彦は内心、舌を巻く。
(へッ、流石だな)
勿論、その全ては賞賛ではなく、宗次郎の強さに対する悔しさもまた入り混じっている。けれどそのことに気を取られたのもほんの刹那のこと、弥彦は目をキッと尖らせると、逆刃刀を龍巻閃の要領で振り回し、周囲の敵を薙ぎ倒す。
「ふふ、やるじゃないのv」
安全な前方の壁際に避難し、腕を組みながら鈴は冷静に三人の闘いぶりを観察する。
足の速さと軽い身のこなしを身上とし、天賦の素質を生かした天衣無縫の剣の宗次郎。
神谷活心流の特徴でもある柄を用いた技も巧に使い、勢いとキレのある剣を振るう弥彦。
そして、もう一人は。
「おおおおッ!」
腹の底から響く声を上げ、裂帛の気合と共に剣心は雑兵に向かっていく。剣心の鋭い剣気に相手が竦み、動きが止まった隙に人中や顎、鳩尾といった人体急所に確実に木刀での一撃を入れている。鈴が見たところ、飛天御剣流の技は使っていないようだったが、それでも彼の誇る速さは未だ健在のようだった。それは、動きの速さというよりも。
「・・・そっか、読みの速さか」
鈴は何かを納得するかのように一人ごちる。
以前、蘇芳から聞いたことがあった。彼のかつての主、志々雄は剣心の剣をこう評していたという。
『そもそも、抜刀斎の強さの所以は、相手の感情を読み、先読みして制することにあった』、と。
戦国の頃より伝わる古流の剣術、飛天御剣流は剣撃の速さ、体のこなしの速さ、相手の動きの先を読む速さなど、全ての速さを最大限に活かして闘う流派。そのため、最小の動きで複数の相手を同時に仕留めることが可能で、主に一対多数を得意とする。
その使い手である剣心は、とりわけ先読みの速さに秀でていたという。確かに、相手の動きが先に分かっていれば、仕留めることなど造作も無い。
飛天御剣流の技自体が撃てなくても、先読みの速さと長年の剣客としての直感は剣心からは失われていない。加えて、歴戦の経験も、だ。
不利な状況ではあっても、今までに培ってきたことを惜しみなく発揮し、相手の動きを読み先回りして制することで、かつてと同じようにとまではいかなくても、十二分に剣心は闘っている。
(あちゃあ、こりゃちょっと見くびってたかな)
流石は伝説とまで謳われた人斬り抜刀斎、と鈴は認識を改めざるを得なかった。或いはもう少し苦戦すると思っていたのだったが―――。
(・・・・となると、あたしの相手はやっぱりあの人だね)
いつしか雑兵の全てを倒し終えた宗次郎達は、部屋の中央にしっかと両足で立っている。ほとんど息も切らすことなく(とはいえ、やはり剣心だけは息を整えていたようだったが)体についたのも掠り傷程度、といった宗次郎達三人。そのうちの一人に、鈴はこっそりと目を付ける。
「あれ、いつの間にか全員倒してたみたいですね」
「あれ、じゃねーだろ。何だかんだでお前が一番倒してた癖に」
「だって、みんなして僕の方に来るんですもの」
三人の周りには、呻き声を上げながら累々と横たわる雑兵達の群れ。弥彦の指摘通り、何だかんだで宗次郎が倒した数が一番多かったのだが(それは宗次郎を倒せば蘇芳に認めてもらえると目論んだ者が大勢いたからだったが、当人は無論知る由もない)。
敵を全て倒し終えたとはいえ、いささか呑気な宗次郎と弥彦の会話に、剣心は苦笑する。木刀を腰紐に元通りに差し込み、案内役である鈴の方に向き直りかけ、けれどある気配に気付き、剣心は鋭く言い放つ。
「二人とも、跳べっ!」
「えっ?」
「ッ!?」
疑問符を浮かべながら、宗次郎と弥彦は剣心の言うがままに跳躍する。警告した剣心自身も、言うや否や地を蹴っていた。
宙に浮いた三人のすぐ下を、疾風が駆け抜けた。あと一歩反応が遅れていたら、その風は三人の体を容赦無く切り裂いただろう。
空気を真っ二つにするかのように通り過ぎていったそれは、壁に鋭い真一文字の傷を残して、ようやくその動きを止めた。
「・・・・!」
驚きながら、宗次郎は思い出す。京都に着いたばかりの頃、同じものを宗次郎は見た。蘇芳の情報を求めて、操の知り合いが師範を務める道場に赴いた時。
確かその技は、飛飯綱といったか。
「・・・っ、てめえ・・・・!」
宗次郎がそのかまいたちが残した傷を唖然として見ていると、隣から歯噛みするような声が聞こえてきた。見れば、弥彦が忌々しげに眉根を寄せて、ギッと前方を睨んでいる。
宗次郎もその視線を辿るようにそちらを向いた。剣心はとうに鋭い眼差しで、現われた闖入者を射抜くように見ていた。
そう、その飛飯綱を放ったのは、石動雷十太に他ならなかった。
「また不意打ちかよ! 十年経ってもちっとも進歩してねェな、てめぇはよ!」
弥彦は怒りのあまり声を荒げる。それでも雷十太は全く動じる様子は無く、前の扉から悠々と中に踏み込んでくる。
雷十太が隣を通り過ぎる時、鈴はからかうような調子で言った。
「惜しかったねぇ、もう少しでみ〜んな殺れたのに」
「・・・・・・」
雷十太は鈴を一瞥するだけで、何も答えない。
「ま、それじゃ張り合いってもんが無いけどさ。やっぱり瀬田さん達、大したもんだよ、あはははっ♪」
鈴は宗次郎達を褒め称えるかのようにぱちぱちと拍手をする。弥彦はチッと舌打ちした。雷十太の相変わらず卑怯なやり口だけでも頭にきてるというのに、鈴のそんな態度を見ると尚更腹が立つ。
「弥彦。焦りは禁物だ」
「そうですよ、向こうの思う壺ですよ」
「・・・・ああ、分ってるさ」
剣心と宗次郎の二人が双方から諫めるように言ってくるが、言われずとも弥彦は分かっていた。ただそれでも、簡単に怒りの気持ちは治まらない。
蘇芳の一派の中に雷十太がいると知ってはいたが、実際にこうして彼を目の前にすると、十年越しの彼に対する怒りがふつふつと込み上げてくるようだった。加えて、つい先程の不意打ちが、尚更それに拍車をかける。
けれどそれをようやく押し殺して、弥彦は目を閉じてふっと笑った。
「剣心。俺、あの時、雷十太との勝負、剣心に譲ったよな」
「・・・・ああ」
剣心は頷いた。
十年前、由太郎の右腕と雷十太に対する憧れが、その当の雷十太によって無残に斬り裂かれたあの夜。
由太郎の無念を晴らすために、勝てない相手だと分かっていても弥彦は雷十太に挑もうとした。弥彦としてはどうしても譲れなかったその闘いを、けれど最終的には剣心に譲った。同じ無念を晴らすなら勝てる方がいいと、左之助に諭されたのもある。だがそれ以上に、その時の剣心には鬼気迫るものがあり、弥彦が手出しをしていいものではないと、本能で察知してしまったのもある。
けれど、今は違う。もうあの頃の、弱かった自分じゃない。
「だから、今度ばかりは譲れねェ。雷十太との勝負は、俺が受ける!」
「ああ。勿論でござるよ」
強い意志を漲らせる弥彦に、剣心は今度は力強く頷いた。
あの時、弥彦の悔しい思いを痛い程分かっていながら、それでも剣心は己の不覚が原因で由太郎を傷つけてしまったことが許せずに、雷十太との勝負を彼から譲り受けた。
けれど、今この時は。今度こそ、彼が雷十太と闘う番だ。
「宗次郎も、異論はねーだろ?」
「ええ、弥彦君に任せますよ」
宗次郎はあっさりと頷く。彼と雷十太との因縁は、前に聞いていた。だったら弥彦が闘うのが筋だろうし、何より彼がそう強く望んでいる以上、口を挟む余地は無い。
宗次郎の了承も貰い、弥彦は頷いて一歩前に踏み出した。逆刃刀を手に、弥彦はざっと雷十太に向き直る。
雷十太は底の見えない暗い瞳で、ニィ、と不気味に笑った。
次
戻