―第二十四章:I will follow him―
京都の西部に位置する、嵐山。
赤、橙、黄色、色とりどりの紅葉で染め上げられたその一角に、蘇芳の屋敷は存在していた。
だが、誰もそこが国家転覆を企む男の住む屋敷だとは考えていない。その屋敷は嵐山の名物でもある紅葉や桜を楽しむための別荘地に紛れて建てられていたからだ。造りは豪華ではあったが、一見ごく普通の別宅と変わらないため、近隣の者達も特に怪しむことも無く、上流階級のみに許された贅沢の権化だとばかりに感じるだけであった。
周りの目を欺くために使用人の風体をした雑兵に常駐させているから、とりわけその屋敷が目立つことは無い。その上、あくまでもその屋敷は表向きのものであって、実際の本拠地は地下道で繋がれた先にある。尚更、周囲の人間に気付かれる恐れは無い。
木を隠すなら森の中、人を隠すなら人込みに混じればいい。
まさに、その言葉を地でいく策と言えよう。
「いよいよ、明日ね」
その蘇芳の本拠地、西洋風に誂えられた広間の一角で、真美はソファに腰掛けてワインを傾けていた。深紅色の液体が、グラスの中で揺れている。
酒が入ったせいもあるのだろう、真美はいつもより上機嫌そうな顔をして妖艶に笑む。生前の由美を知る者が見れば、彼女と真美はまさに瓜二つだという感想を抱くに違いない。
その片割れでもある真由は、ソファの横に立ち、腕組みをして悠然と構えている。弱冠十六歳には到底見えぬその威厳のある様は、やはり生前の志々雄を彷彿とさせる。
「ああ。宗次郎と抜刀斎の二人に、誰が最強かってことを篤と教えてやる」
いよいよ明日に控えた決闘を前に、志々雄の遺児である二人は待ち遠しくて仕方が無いと言った風な愉悦の笑みを消せずにいた。
そんな二人を見て、上座のソファに座った蘇芳は、ククッと小さく笑みを漏らしている。彼らから離れた位置、壁に背を預けて立っている雪哉は、腕を組んで冷めた眼差しでそんな三人を静観している。雪哉からは丁度正反対の位置で、やはり同じように壁に背を預けている雷十太も、瞑想するかのように瞼を閉じている。
「ところで、蘇芳? もし宗次郎が私達に敗れて、あなたと闘えなくなったらどうするつもりかしら?」
真美は艶やかながらも挑発するような目線を蘇芳に向ける。同志の会話に我関せずといった態度を取っていた雪哉も、ぴくっと顔を上げ同じく蘇芳の方を見た。自然、真由と雷十太の視線もそちらへと向く。
四人分の視線を受けた蘇芳はふっと笑んで、考えるまでも無く即答した。
「もしそうだとしたら、瀬田は所詮そこまでの男だったということだ」
膝に手を当て、ほんの少しだけ身を前に乗り出すと、蘇芳は続けた。
「だが、腐っても奴はあの志々雄が最強の修羅と見込んだ男だ。果たしてお前達の手で斃せるかどうか・・・」
「あら、随分と安く見られたものね、私達も」
蘇芳の発言にムッとした様子を隠さないまま、真美は言い返す。
勿論、そのことは重々承知している。天剣、縮地、そして感情欠落。簡単には突き崩せないその三つの素質を兼ね備えた宗次郎だったからこそ、誰よりも強い修羅だと志々雄も認めていたのだ。最も、その志々雄がそうなるように造り上げたというのもあったのだろうが・・・。
ただ、感情欠落という修羅として最も重要であったものは、今の宗次郎からは失われている。そして、流浪人となってからは以前ほどの闘いの日々を送ってはいないはずだ。
真由と真美はこの日のために腕を磨き続けてきた。たとえ彼がかつて十本刀最強であっても、簡単に負けるつもりはない。無論、同じく幕末に最強と呼ばれたあの緋村抜刀斎に対してもだ。
「絶対に負けなくてよ、私達は」
絶対に負けない。いや、絶対に勝つ。斃してみせる―――あの二人を。
真美は静かな闘志を胸の中で燃やす。と、その時真美は何か言いたそうな顔でこちらを見ている雪哉に気が付いた。
その視線の意味することを察し、真美はくすりと笑む。
「安心なさいな。あなたにはちゃんと、宗次郎との一戦目は譲ってあげるから」
「・・・・・ああ、分かってるさ」
雪哉は静かに頷いた。
そんなことは言われずとも分かっている。家族の、咲雪の命を直接的にではなくとも奪った存在である宗次郎とは、雪哉はどうしても闘いたかった。蘇芳や真美・真由相手に宗次郎が敗れるかも分からない、だから何としてでも一番手で闘いたいと。そう強く願い、蘇芳達に申し出て、対宗次郎の先鋒を任されるに至ったのだ。
最も、蘇芳達は家族の仇を討ちたいという彼の思いを汲んだというだけではなく、雪哉ごときに宗次郎が負けるはずなどない、という思惑も、あったのかもしれなかったが。
真美の言い方に自身もまた甘く見られているのだろう、ということを感じ、雪哉もほんの少し意地悪く笑んで彼女に視線を向ける。
「そんな余裕面してていいのか? 俺が瀬田を斃すっていう可能性もあるんだぞ」
「そうしたらその時は、宗次郎は所詮そこまでの男だったということね」
先程の蘇芳の言葉を皮肉たっぷりにそのままそっくり返してきた真美に、雪哉は苦笑せざるを得なかった。蘇芳も小さく肩を竦めている。
と、ここで真由があることに気が付いた。
「そういえば、鈴の奴はどこ行ったんだ?」
蘇芳の組織の幹部が一堂に会している中、あの底抜けに明るい少女だけがいない。
双子の弟の疑問に真美はあぁ、と小さく声を上げると、ワインを一口煽った後に答えた。
「大方、あの人質の女の子のところじゃないかしら? 何だか妙に気に入ってるみたいだしね」
人質であるの話し相手に、と蘇芳が鈴に命じてから、彼女は言われた通りに会いに行っているようだ。初めはそこまで長居はしていなかったのだが、最近は居心地がいいのか、鈴はの部屋にやたら入り浸っている。
「成程ねェ。おい、蘇芳?」
「何だ?」
呼ばれるがままに、蘇芳は真由の方へ顔を向ける。真由は何かを楽しむかのような笑みを湛えながら、言葉の続きを口にした。
「あの女は最初は宗次郎をこちらの言う通りに動かすためのもんだったけどよ・・・・最後は一体どうする気だ?」
「決まってるさ」
蘇芳はにや、と底冷えのするような冷たい笑みを浮かべた。
「は無論、瀬田宗次郎の目の前で殺すのさ」
それは、例えば地獄にいる鬼ですら浮かべないと思えるような、限りなく酷薄そうな表情だった。
つくづく嫌な男、と真美は横目で見ながら、またワインを一口煽った。
その話題の渦中にいた鈴は、果たして同じく話に上がっていたの所にいた。
座敷牢の真ん中でと向かい合い、取りとめも無い会話を繰り返している。
話し相手を寄越す、と蘇芳が言っていたとはいえ、初めて鈴が自分の所にやって来た時は、流石にも身構えたものだった。が、話してみると鈴はちょっと変わったところがあるとはいえ案外普通の女の子で、はすぐに警戒を解くこととなった。鈴は歳もと二つしか変わらないというし、気さくに話しかけてもくるものだから、それも大きかっただろう。
鈴が話すのは単なる世間話や後は主に蘇芳一派の人物の裏話(「蘇芳さんは昔、瀬田さんに負けた後、その日は悔しくて一睡もできなかったんだってさ。・・・本当はナイショなんだけどね」)などだったが、話し方も巧いものだから、も人質という立場も忘れかけてしまう程に会話に夢中になってしまっていた。
いや、むしろ鈴が話し相手として訪れてくれる時だけ、人質であることを忘れているといってもいい。そうでない時はは大抵、宗次郎や浅葱の心配をしたり、足手纏いになってしまった自分に対する自己嫌悪に陥っていたりするからだ。
何はともあれ、沈みかけている自分に屈託なく接してくれる鈴の存在は、にとっては有り難かった。それこそ、こんな立場で出会ってなかったら、と思わずにはいられないくらい。悪い子には全く見えなかった。少なくともにとっては。
とある話題を一通り話し終え、鈴ははぁ〜と満足気に溜息を吐いた。そうして子猫のようなくりんとした目を細めて、にぱっとした笑顔をへと向けた。
「いよいよ明日だね」
「え? 何が?」
鈴の言っている言葉の意味が分からず、はきょとんとした顔になる。一体明日、何があるというのだろう。さっぱり見当が付かない。
何かを期待するような笑みを浮かべていた鈴は、のその薄い反応に、あ、しまったとでもいう風に目を丸くして口に手を当てた。
「あれ、ごめん、言ってなかったっけ? 明日なんだよ、瀬田さん達がこのアジトに来るの」
「・・・・え?」
また、はきょとんとした顔になった。蘇芳は確か、には彼と宗次郎との闘いの中で果たしてもらいたい役割があると言っていた。決闘の日まで大人しくしていろ、とも。
その目的が何なのかは分からないが、とにかく、宗次郎が来るということは、その決闘の日は明日なのだ。の知らぬ間に、事は確実に進行していた。
またも反応の薄いに、鈴は意外そうな顔になる。
「嬉しくないの? こーゆー場合、普通喜ぶんじゃない? だって要は、瀬田さんがちゃんを助けに来るんだよ?」
「え、あ、嬉しくないわけじゃないんだけど・・・・」
どこか言い澱むは、困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「嬉しいというより、迷惑かけちゃったなって気持ちの方が大きいかな」
頬を人差し指で掻きながら、は小さく笑った。
宗次郎がこの屋敷に来る大きな理由は、まずは蘇芳との決闘のためにだろう。けれど鈴の言う通り、人質であるを解放するため、という意味合いも無くは無い。
この際、宗次郎がをどう思っているかということはともかく。宗次郎がを助けるために敵の本拠地に来る、その事実は動かせない。
人質がいる以上、有利なのは蘇芳側の方で、それが宗次郎にとって悪い方へと働いているかと思うと、は素直に喜べなかった。まぁ、嬉しいと思う気持ちも確かにあるのだが。
ちゃんはきっと喜ぶんだろうな〜、と鈴は単純に思っていたので、のその答えは意外だった。今度は鈴の方がきょとんとした顔になって、けれど一呼吸おいてまたにっこりと笑った。
「ちゃんはお人好しだね〜。・・・・でもさ、」
そうして、普段の鈴からは考えられないような影を帯びた笑みを浮かべた。
「優しさだけで、誰でも救えるってわけじゃないんだよ」
それはどこか、に挑むかのようで。
何故突然鈴がそんなことを言い出したのか、には分からなかった。けれど、言っている意味は良く分かる。
しばしの沈黙の後、は、
「・・・・そうだね」
と、肯定の意を口にした。
何かを認めたくないような、負の表情を浮かべていた鈴は、負の表情を浮かべたまま、ほんの少し目を見開いた。
の返答が、ただ意外だった。
「・・・・意外。ちゃんはてっきり、『そんなこと無い!』とでも言って、反論してくるかと思った」
鈴は浮かんだ思いをそのまま口にした。本当に驚いたような顔をしている鈴に、は小さく笑う。
きっと鈴も昔、何か辛いことがあったんだろう。何となくそれが分かった。そうでなくては、あんな風に皮肉気に、優しさを否定したりなんかしないだろう。
けれど、優しさだけでは誰かを救うことはできない、世知辛い台詞ではあるけれど、もまたそれをよく知っていた。それこそ、身を以って。
「・・・・私の両親、二人とも医者だったの」
ぽつり、とは話し始めた。視線を己の膝の先にある畳に落とし、ぼんやりとその連なる目を見ている。
今でも思い出せる。頼もしくて、笑顔の穏やかだった父。たおやかで優しくて、けれど芯の強かった母。
二人が人の怪我や病を治すのを、傍らで兄と二人でずっと見てきた。そんな二人が医者になりたいと思うのも、至極当然のことだったろう。
「腕がいいって評判だったんだけどね。四年前、二人とも、病に倒れちゃって」
脳の病だった。当時は成す術も無かった。
既に父の助手を務めていた浅葱は、懸命に治療法を探した。無論、も両親を救うために、必死になって兄を手助けした。或いは、両親が弱気にならないよう、努めて明るく振る舞って―――。
けれどその甲斐も空しく、両親は他界した。仲の良かった二人の命日は、半年も離れてはいなかった。
葬儀の日、浅葱は両親を救えなかった自分の不甲斐なさが悔しくて泣いていた。も同様の思いを抱えていた。浅葱との二人が両親のような、いや両親以上の医者になってみせると胸に誓ったのはその日だったが、同時に医学で救える命にも限界があると悟ってしまったのもその日だった。どうあっても助からない患者さんをそれまでも目の当たりにして、そんな事はとうに分かっていたはずなのに。
「私はお父さんとお母さんを助けられなかった。きっとお兄ちゃんも今でも悔やんでる。だから、分かってるんだ。優しいだけで、誰でも助けられるってわけじゃないって」
優しさだけで誰かを救えるというのなら。
きっと、両親は助けることができた。けれど、現実はそんなに甘いものではないから。
両親の死は自分達のせいではなくても、助けられなかったという重みは変わらない。両親だけではない、浅葱とが二人きりで診療所を始めてからも、救えぬ命も確かに存在した。そんな時は自分の無力さと、生命の儚さをつくづく痛感する。医術で全ての人間の死を防げるわけではないと、知っていても。医者を続ける自信も、そういう時は喪失しかける。
けれど、それでも。
『すごいなぁ、お医者さんなんですか』
初めて出逢ったあの日、彼は自分達に向かってこう言った。
子どものような無邪気な笑顔で、裏表無く、ごくごく素直に。
『僕は医学のことはよく知らないけど、怪我や病気を治すのって、きっと大変なことですよね』
彼が旅の途中で一人の少女が病で死ぬ様を目の当たりにした、というのは後になって聞いた。
最も、それがあの桐原咲雪であるという事は、は知らないが。
『僕は自分にとっての真実がまだ無いから、ちゃんとした信念を持ってる人ってすごいと思いますよ』
彼は、瀬田宗次郎はそう言った。
宗次郎の言う言葉の意味を真に理解したのは、しばしの時が経ってから、彼のことをもっとよく知ってからのこと。
信念なんて、そんな大それたものではなかったが、それでもは宗次郎にそう言って貰えて、その時、嬉しかった。
宗次郎のそれは優しさではない、きっと。優しい、などという概念を宗次郎は理解していないだろうし、それに基づいて行動したわけではない。率直な感想を述べていただけだ。
ただ、それでも。
は嬉しかった。
「お父さん達は私達に、気に止む必要は無いって、言ってくれた。そうは言われても、気にしちゃうんだけどさ・・・・」
の思考は再び両親のことへと戻る。自分達を救えなかったことを気に止む事は無いと、両親は言っていた。それは優しさだった。浅葱とを思っての。その言葉が逆に浅葱とに自責の念を募らせたのだが、それでも、両親が自分達のことを考えての言葉だということは重々承知していた。分かっていたから、尚更辛かった。けれど両親が優しかったことに違いは無くて。
だから。
「優しさで、全部救えるとは思えない。思わないよ、私も。でも、」
は視線を上げて鈴を見た。この鈴も、あの宗次郎も、優しさだけでその心の闇を取り除けるとは思っていない。けれど、自分がそうだったように。
全てではなくても、その重荷を軽くすることはできると思う。それが自分にできればいいと思う。
「優しさで、どうにかできる部分も、世の中にはあると思うんだ」
ははっきりと、自分の意見を述べた。顔にはどこか清々しさをも感じさせるような笑みが浮かんでいる。
真っ直ぐに笑顔を向けてくるを、鈴はまだ茫漠と見返していたが、ややあって感想を漏らした。
「やっぱり、お人好しなんだね、ちゃんは」
小さく溜息を漏らしながらの笑みだった。それでも、先程のような皮肉めいた様子は鈴からは微塵も感じられなかった。
「でも、ちゃんのそーいうトコ、あたし嫌いじゃないよ」
そうして、鈴はすっくと立ち上がる。自然、が見上げるような形になる。鈴は数歩歩いて襖の前まで行き、後ろ向きのまま言った。
「きっと、ちゃんの親はいい親だったんだろうなぁ。ちゃん見てれば分かるよ」
それは、どこか羨望するような響きがあった。
が眉を顰めると、鈴はくるりと振り向いて、明るい表情のまま続けた。
「あたしの親はろくでもなかったからさ。そんな優しさなんか、一遍だって向けられたことなんか無かったよ」
鈴はさらりと、とても哀しいことを言う。
が何と言葉を返したらいいのか迷っていると、鈴はやはり屈託の無い笑顔のままで。
「まぁ、でも今じゃ感謝してるんだ。酷い両親だったけど、あの人達がいなかったら、あたしはここに存在しなかったんだし」
「そ、そうだよ、鈴ちゃん! どんなご両親か知らないけど、鈴ちゃんをちゃんと産んでくれたんだから・・・・!」
以前、宗次郎にも似たようなことを言ったことがあった。宗次郎の母親は父の妾だったという。彼も周囲からは望まれぬ誕生だったのかもしれない。
新時代になって間もないこのご時世、古くからの悪習は未だ続いていた。堕胎は元より、生まれたばかりの我が子の命を口減らしのために殺めてしまう、所謂『間引き』などだ。御庭番衆の般若の生まれた村では子返しと言っていたらしいが、とにかく、凄惨この上無いがそういった現実は確かに存在する。そしてそれは、今でも続いている。
そのことを思えば、鈴もまたこの世に生を受け妙齢まで生きられただけでも、有り難いと言えるのだろう。
言葉の裏の残酷な事実に胸を痛めながらも、はそう返すしかなかった。けれど鈴はその言葉を打ち消すかのように、開いた手を振る。
「あぁ、今のはそーいう意味じゃなくてね・・・・」
そのまま、何事かを言いかけて、止めた。鈴にしては珍しく、複雑そうに笑いながら。
「―――ま、いっか。話すと長くなるし」
どういう意味だろう。が不思議に思いながらも、鈴は続きを話す気は無いらしく、再びくるりと背を向けてしまう。そのまま右手を伸ばして、襖に手をかけかけた。
「鈴ちゃん、」
は思わず呼びかけた。呼びかけたものの、続く言葉があるわけではない。ただ腰を浮かしかけ、膝で立つような格好で鈴の背中を見つめるだけ。
しばし沈黙を守っていた鈴は、独り言のように言葉を紡いだ。
「優しさで、どうにかできる部分、か。確かにそうかもしれない。たとえ、蘇芳さんは私達を利用してるだけだって知ってても、それでも私達、蘇芳さんが垣間見せてくれる優しさが嬉しかったもの・・・・・」
いつもの明るい声とは違う、沈んだ声だった。
はそれに何か違和感を覚えた。声だけでは無い。鈴の口調が違う。一人称も普段と違う。
見過ごすこともできるような些細な変化だったが、それでもは鈴の僅かな豹変が気になっていた。立ち上がりかけ、けれどその前に、鈴が顔だけで振り向いた。
「でもね、ちゃん」
それは、いつもの鈴だった。
戸惑うに鈴はニコッと、満面の笑みを浮かべてみせる。
「蘇芳さんが、蘇芳さんだけがあたしを、あたし達を必要としてくれたんだ」
そこに迷いは無かった。
鈴は胸に手を当て、瞼を閉じて何かを確かめるかのように、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「だからあたし達は蘇芳さんのために動く。あたしも、如月も、一郎汰も百合も・・・・それに多分、ふみも」
それは鈴の悲壮の決意のようにには感じられた。
鈴の今までの十五年の人生を、は知らない。それでも、その中で蘇芳だけが、彼女の存在を必要としたのだろう。いや、言葉の中の名前の羅列を信じるのならば、それはどうやら彼女だけでは無いようだったが。
「瀬田さんにも緋村さんにも、勿論ちゃんにも何の恨みも無いけどさ、それでもあたし達は蘇芳さんのために生きるって、決めたから」
実の親にすら疎まれた鈴の存在を、認めてくれたのは蘇芳だけだった。だから鈴は、きっと蘇芳のために命を投げ打つ覚悟でいる。たとえ、彼に利用されているだけだと、分かっていても。
鈴を必要としてくれたのはただ一人、蘇芳だけだったから。
「・・・・そんな顔、しないでよ」
鈴が苦笑して言った。はいつしか、目に涙を滲ませていた。唇も震えていることから推し量ると、きっと今、泣くのを堪えているような顔になっているのだろう。
滲んだ視界の中で、鈴が言おうか言うまいか、悩んでいるような表情になった。そして、彼女は言った。
「あたし、ちゃんとは違う出会い方、したかったな」
「・・・・私も、鈴ちゃんとは違う形で、出会いたかったよ」
も言わずにはいられなかった。言った途端、目からぼろっと涙が零れ落ちた。そう思っていたのは、だけではなかったのだ。
震える声で、は続けるしかなかった。
「だって、鈴ちゃん悪い子じゃないもの、悪い子、なんかじゃ・・・・」
それでもう一度、鈴が苦笑するのが分かった。
鈴は今度こそ襖に手をかけると、スッと横に引いた。一歩踏み出して、からは顔を背けて、言った。
その表情は分からなかった。
「もし、明日瀬田さんが死んじゃっても、恨まないでね」
音もなく襖は閉じ、後にはただ、だけが残された。涙はまだ止まらなかった。
夜空に丁度、円に近付きかけた月が出た頃のことだった。
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