「―――所詮、この世は弱肉強食」
ぽつりと、宗次郎は呟いた。
腕の中の咲雪はとっくに冷たく、硬くなっている。
「強ければ、生き」
今、この場に生きているのは宗次郎で、
「弱ければ、死ぬ」
物言わぬ屍と化しているのは咲雪だ。
その摂理に基づくのなら、二人の生死を分けたのは純粋な強さ。
けれど、本当にそれだけだろうか。
―――否。
きっと、否。
何故なら、咲雪を死に追いやったのは、元を正せば宗次郎達の犯した罪。
人一人を失くしただけでこんなに苦しいのなら。
今までどれだけの人達に、その痛みを強いてきたのだろう。
死にたくないのは誰もが同じなのに。
自分自身、死にたくないと強く願っていたのに。
どれだけの命を奪ってきたんだろう。
”僕は強いから”
ただそれだけの理由で。
今なら、ちょっとだけ分かる。咲雪があんなにも、弱肉強食を認めたがらなかったこと。
強いって何だろう。
弱いって、何だろう。
―第二十三章:寒梅、花をつけしや未だしや 八―
その村の慣習に習い、咲雪は村の共同墓地に土葬で葬った。
咲雪を虐げていた村人達も、流石に決まりが悪いのか、葬列には一応、参加していた。とはいえ、ほとんど列から離れて歩くような感じだったが、もはやそんなことは宗次郎はどうでも良かった。
手甲、脚絆を身につけ、すっかり旅支度を整えた宗次郎は、墓地の片隅にひっそりと建てられた咲雪の小さな墓の前に立っていた。手にしていた一本の梅の枝をそっとその前に供え、手を合わせて小さく拝む。手向けた梅は、言うまでもなく咲雪の家の裏の梅だった。
皮肉にも、あの梅は咲雪が荼毘に付された翌日に咲いた。枝の全てに花をつけると、それはもう見事な様子だった。待ち望んでいた本人が生前に見ることは叶わなかったから、だから小振りの枝を一本だけ失敬して、こうして墓の前に持ってきたというわけだ。
けれど案外、咲雪なら『勝手に枝を折って!』と怒るかもしれない。
そんな光景を思い浮かべ、宗次郎はくすりと笑った。けれど分かっている。もう彼女が何かを話すことなんて無いのだ。
三月になり、日差しは大分暖かなものとなっていた。方便だと言っていたが例の梅の花も咲いたし、吹雪の心配もなくなったし、何より償う筈の相手だった咲雪には最期まで何も償えないまま彼女は逝ってしまったので、宗次郎はこの村を今日出立することを決めていた。
気がかりがあるとすれば、咲雪が生前言っていた兄のことだ。名前も聞いていないし、宗次郎や勿論他の村人もその居場所を知らないから連絡の取りようが無い。出稼ぎから帰ってきてみれば妹が故人となっていたなんてさぞかし驚きそうではあるが、何をどうする手立てもない以上、仕方が無かった。
一縷の望みは、咲雪が何らかの形で兄と連絡を取っていたと考えることのみであったが、それも彼女がいない今では知りようの無いことだった。
ただ、と宗次郎は思う。
もし、いつか彼女の兄と会うことがあるのなら、その時こそ償う為の何らかの方法を、見つけていたらいいと思う。
合掌していた宗次郎は、下げていた頭を上げた。屈託の無い笑顔で、墓の下にいる咲雪に呼びかける。
「咲雪さん、僕、もう行きますね」
たくさんのことを教えてくれた人。自分のせいで死んだ人。
体は弱かったけれど、内に確かな強さを持った人。
彼女との出会いは、宗次郎に様々なものをもたらした。色々なことを考えるきっかけにもなった。
けれど、まだ、分からないことは幾らでもあるから。
「僕、まだまだ知らないことが多過ぎるや」
独り言のようにそう言って、宗次郎はすっくと立ち上がった。
たった一人を失くしただけで、あんなにも苦しかった。多くの者を殺めたことで、多くの者にその苦しみを味合わせていた。
人を斬りたくないと思っていた。それは自分の利己的な思いでしかなかった。今まで宗次郎に斬られてきた人間だって、斬られたくは無かった筈なのだ。
強くても弱くても、生きているのは同じ。いずれ死ぬのは皆同じ。
今更ながらそれを知った。たった一つの命が、どれだけ重いのかも―――。
咲雪が、文字通り命を懸けて教えてくれた。
答えはすぐには出ないけれど、咲雪が教えてくれたたくさんのことを、この先の長い流浪の中で、ゆっくりと考えていきたい。
もう一度だけ咲雪の墓を見て、そっと踵を返し、宗次郎は北の方へ向かう道を目指して一歩踏み出した。辺りの雪景色は相変わらずだけれど、空は晴れ渡り、空気も以前より柔らかい。雪解も少しづつ近付いている。春が来るのも、そう遠くは無いだろう。
咲雪は宗次郎の胸に、確かな痛みを残した。それだけでなく、他にも多くのものを残した。失っただけではない。だからこそ、宗次郎はまた歩き出せる。
明治十六年、三月。
宗次郎は再び、自分の真実を見つけるために流浪れ始めた。
「・・・・咲雪さんは、僕が死んで欲しくないって思った、初めての人でした」
言いながら、宗次郎は少しずつ思考を現在のことへと移行していく。傍らで話を聞いていた弥彦は、ただ黙って宗次郎を見ている。
「勝手な言い分ですよね。咲雪さんは僕のせいで死んだのに」
白い色に塗れていた思い出は少しずつまた記憶の彼方へと仕舞われ、現在の自分を取り巻く状況に、意識が次第に向けられていく。
あの時、咲雪には死んで欲しくなかった。その引き金を引いたのは他ならぬ自分なのに―――
そうして時を経た今、再び自分のせいで命を脅かされている人がいる。
「さんを、咲雪さんみたいに僕のせいで死なせたくない」
彼女もまた、形は違えど宗次郎にたくさんのことを教えてくれた。を咲雪のように、自分のせいで死なせたりなどしたくなかった。
それに。
因縁のケリをつけるのは、蘇芳や真由と真美だけではなく、雪哉に対してもそうであるから。
咲雪の時はできなかった償い、今度こそはその答えも、見つけてみせる。
宗次郎は顔を上げ、にこっと微笑む。その変化に弥彦が僅かに戸惑うが、それに構わず宗次郎は言う。
「行きましょう。蘇芳さん達のところへ」
決戦は明後日。
果たしてその先に待つものが何なのか―――
今はまだ、誰も知らない。
次
戻