―第二十二章:寒梅、花をつけしや未だしや 七―
その日になっても、梅はまだ咲かなかった。
蕾はもう、ほとんど膨らみきっているのに、それでもまだ咲かなかった。
だから咲雪は、白く可憐な梅の花が枝いっぱいに咲き誇るのを、結局見ることはできなかった。
「・・・・・咲雪さん」
腕の中の咲雪に、宗次郎は遠慮がちに話しかける。
二月の終わる頃には咲雪はもう布団から出られなくなっていて、食べ物もほとんど喉を通らなかった。体は痩せこけ、顔色は終始、冴えなかった。
今も、激しい咳を何度も繰り返したばかりだった。もう吐く血も無いのではないかというくらいに喀血を繰り返し、宗次郎が咲雪の体を起こさせその背中を―――丁度以前に言われた通りに―――さすっても、全く効果は無いようだった。
唇の端から赤い筋を幾つも流しながら、咲雪はただ宗次郎の腕にもたれかかるようにしてぐったりとしていた。目は虚ろで朦朧としている。口からは苦しげな吐息が漏らされるばかりだ。凛とした眼差しも、宗次郎に悪態をついていた唇も、もうその面影は無い。
「大丈夫ですか?」
そう話しかけたところで、全く大丈夫ではないことはどう見ても明らかだった。答える気力も無いのか、咲雪はただぼんやりと宗次郎を見ているだけだ。
宗次郎は自分の心臓の鼓動が、全身を揺らしているような気がしていた。心臓の音ってこんなに大きかったっけ?と宗次郎は場違いにも思う。それは胸の奥で苦しいくらいに早鐘を打っている。
どうしてだろう。
全力で闘っているわけでもないのに。
「宗・・・・次郎・・・・」
「何ですか?」
掠れた声が咲雪の口から漏れ、宗次郎は弾かれるように返答を返していた。
宗次郎は咲雪の言葉の続きを待った。けれど、咲雪は力無くにこ、と笑うだけで、それ以上何も言おうとはしなかった。
―――まさか。
(そんなはず、無いよね)
湧き上がった嫌な予感を、宗次郎は打ち消した。
そんなはず無い。だってついこの間まで元気だったし、こんな風に血を吐くことだってザラだったんだ。
そう、だからきっと、そんなはず無い。
宗次郎もにこっと笑うと、返事をしない咲雪に、構わずそのまま話しかけた。
「昨日、梅の木を見てきたら、蕾も大分膨らんでましたよ。あの分じゃもうすぐ咲きそうですね。明日か、明後日か・・・・もしかしたら、今日かもしれませんよ」
宗次郎の声の調子は限りなく明るい。けれどどうしてだか、やたらと早口だった。
咲雪の反応は無い。
「あ、そうだ、夕方になったら見に行きましょうか」
また、咲雪の反応は無い。
「今日も夕陽、綺麗だといいんですけどね。もし咲いてたら梅の花と夕陽とで、すごく綺麗なんじゃないですか?」
咲雪の反応は、無い。
あははは、と笑い声を上げかけていた宗次郎の、口の端が急激に下がった。
まさか。
再び湧き上がった嫌な予感を、宗次郎は今度は打ち消すことができなかった。
同時に、頭の中を閃光のように過去の映像が駆け巡る。氷雨の中、無惨な躯を投げ出していた義理の家族達。無念を顕にした凄まじい形相で息絶えた大久保利通。その他にも、宗次郎がその手で殺めてきた人達。そのどれもこれもが、死体だった。
動かない。もう何を言うことも無い。
これまでに多くの人間を斬り殺してきた宗次郎だったから、それは良く分かっていた。
けれど、まさか。
咲雪も、あんな風になってしまうのか?
この間まで元気で、宗次郎に憎まれ口だって叩いてたのに。労咳なのにも構わず、すごく、そう、生き生きしていたのに。
でも、分かり切っていたことだ。いつかはこんな日が来ることは。
予想より、いや予想以上に早かったけれど。いつも気丈に振る舞っていた裏で、もう手遅れなくらいに病が進行していたなんて。
いつかこんな日が来ることが分かっていたはずなのに、酷く息苦しかった。考えたくなかったことが、けれどどうしても、頭に浮かんでしまう。
血の海の中で倒れている、もう動くことの無い大勢の人達。あんな風に、咲雪もなってしまうのか?
今の今まで、生きていたのに。
―――もう、死んでしまうのか?
「・・・・嫌だ」
低く、搾り出すように宗次郎は呟いていた。咲雪の背に回していた手が、無意識にその着物を握り締めていた。
咲雪が死ぬなんて、考えたくなかった。
だって、言っていたじゃないか。当分は死ぬわけにはいかないって。
あの咲雪に限って、こんなすぐに死ぬはずが無いんだ。
こんな簡単に、死ぬはずが無いんだ!
「嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ! 何で・・・なんで咲雪さんが死ななくちゃいけないんですか!?」
堰を切ったかのように、宗次郎の口から次々に言葉が溢れていた。それは、例えば大人の事情を知らぬ子どもが吐き出す我侭に、似ていたかもしれない。
痛い。
喉の奥が痛い。苦しい。
この痛みは何か。
このお腹の中から突き上げてくるような感覚は何なのか。
彼は、知らない。
「恨んでいい・・・・僕のこと、ずっと憎んでていいです。だから、」
頭で考える前に、自然と言葉が紡ぎ出される。
考える暇すら惜しいと言った風に、ただ思ったままを宗次郎はそのまま口にする。
「どうか、死なないで下さい、咲雪さん・・・・!」
己の身勝手でも何でも。
今、目の前にいるこの人に、死んで欲しくなかった。
他人に対してそう強く願うのは、初めてだった。
何故そんな思いが込み上げてきたのか、宗次郎は自分でも良く分からなかったけれど。
言ってからはっきりと、自分自身で認識した。
―――ああ、そうか。僕は、あなたに、
死んで欲しくないんだ。
「・・・・宗次郎」
はっきりした、凛とした声が聞こえた。宗次郎の、僅かにくしゃりと歪んでいた顔がそちらを向いた。
瞳に強い光を再び灯し、咲雪は真っ直ぐに宗次郎を見上げていた。ほんの少しだけ、微笑んでいた。
「・・・・あんたでも、そんなこと、言うんだね・・・・」
話すのが辛いらしく、途切れ途切れに咲雪は言った。
けれど、その一言一言の発音は明瞭だった。
何か懐かしいものに思いを馳せるような眼差しを、咲雪はただ宗次郎に向けていた。
「そうだよ・・・・私はあんたが憎かった・・・・でも、いつの間にか、それ以上にあんたのことを―――・・・・」
咲雪はそこまで言うと、笑って口を閉じた。続きは、悔しいから言葉には出さない。
これは最後の意地だ。
「前に・・・・この世は弱肉強食だって言ってたけどさ、強くたって・・・・弱くたって・・・・死んだら、終わりなんだよ」
ごほごほと、咲雪は咳き込んだ。咲雪を抱え上げる宗次郎の腕や着物に、すっかり見慣れた赤い点々が飛んだ。
咲雪は浅い呼吸を繰り返し、咳が止まったのを見計らって、また宗次郎を見上げる。
「あんたが、簡単に死んじゃったらさ・・・あんたに命を奪われた人達の死が、本当に無意味になっちゃうよ・・・・」
両親のことを思い出しているのか、咲雪はどこか涙声だった。
それでも、言っている言葉の内容は、宗次郎に向けてのものだった。
遺言といってもいい。咲雪は最期の力を振り絞って、宗次郎に言ってやりたいことを全部、言うつもりだった。
命を狙ったのは本当で、死なせてやろうと思ったのも本当で。
けれど彼が答えを得るまで、生きていて欲しいと思ったことも本当だから。
咲雪は微笑った。自分でも不思議なくらい、穏やかに。
「だからさ、宗次郎。あんたは生きなよ。少なくとも・・・・自分の真実とやらが見つかるまではさ」
宗次郎の目が、驚いたように見開かれ、そしてすぐに歪みながら細められた。
喉の奥が苦しかった。下の方から何かが込み上げてくる感覚があった。目頭にはじんわりとした痛みが広がっている。
苦しくて苦しくて息を吐き出してしまいたかった。けれど息が零れたら、他の何かも溢れ出しそうだった。
だから宗次郎は、そのまま何も言わずに頷いた。外に出たがっている息が宗次郎の唇を震わせた。
「・・・・・・」
再び、咲雪が微笑んだ。それを見て、宗次郎もようやく胸の中いっぱいに溜まっていた息を吐き出す。その拍子に、目から温かい何かが零れ落ちた。
咲雪は一瞬、きょとんとして、今度は泣き笑いのような表情になった。
「なんだ・・・・あんた、ちゃんと泣けるんじゃない・・・・」
涙だと、咲雪に言われて気が付いた。
何で僕は泣いているんだろう、という疑問に反して、その温かなものは次から次へと宗次郎の目からぼたぼたと落ちていった。零れた涙は宗次郎の着物に遠慮なく染みを作っていく。或いは、抱え上げた咲雪の頬に落ちていく雫もあった。
そう、宗次郎は泣いていた。
宗次郎自身は、その涙の理由も分からないのに。
「あれ、あれ・・・・・何でだろ、どうして・・・・」
流れていく涙に宗次郎がいつになく狼狽する。未知の感情に振り回されている宗次郎を、咲雪は目を細めて微笑って見つめながら、もうほとんどうまく動かせない唇をかろうじて震わせて柔らかく言葉を紡いだ。
「大丈夫・・・・・だったらきっと、大丈夫だよ・・・・・」
何がですか、と宗次郎は聞き返したが、それはもうほとんど咲雪の耳には届いてはいなかった。
生気の輝きがゆるりと失われていく咲雪のその瞳に、浮かぶのは確かな安堵。
人の生死に意味づけをするのもおこがましいけれど、それでも誰もが何かの為に生きているというのなら。
強さ弱さのみを頼りにしていた彼に、誰かに心を動かすことの無かった彼に、失くしたものを取り戻そうとしていた彼に。
何かを伝えることができたなら、きっと、これでいいのだと思う。
これで良かったのだと、思う。
「きっと、大丈夫・・・・・」
うわ言のように咲雪はもう一度その言葉を繰り返した。宗次郎の滲む視界の中にぼんやりと見えた咲雪の顔は、虚ろな瞳でもそれでもその口元は笑っているように思えた。
「咲雪さん・・・・・?」
そっと、宗次郎は呼びかけた。返事は無い。咲雪の薄く開いた乾いた唇からは、ひゅうひゅうと息が漏れるだけ。
呆けたような瞳にかつてのような凛とした色は微塵も窺えず、かろうじて開いているといった風な瞼も、力無くゆるりと下ろされた。
宗次郎はその様子を成す術も無く見守ることしかできなかった。目の前で起こっている事象は緩慢に移り変わっていくように宗次郎に映り、けれどそれでも、それは実際は数度瞬きするほどの僅かな時間。
そのほんの僅かな時間に、咲雪は最後に深く大きく息を一つだけ吐いた。それはとても長く、まるで息と共に体から生そのものを全て吐き出しているかのようだった。
そして。
宗次郎が支えている咲雪の体が、急に重みを増した。がくりと頭が傾き落ちる。その瞬間は酷く、あっさりしていた。
先程まで続いていた苦しげな息の音も消え失せ、後に残されたのはただ静寂。
いつの間にか涙の止まっていた宗次郎が、今度は茫然と瞠目して、腕の中のぴくりとも動かなくなった咲雪を見下ろす。
はらりと顔にかかった長い髪すら、それきりもう静止していた。
「咲雪、さん?」
今度は遠慮がちにその名を呼ぶ。何も返事は返ってこない。咲雪の瞼は堅く閉じられたままで、その黒い瞳が宗次郎を見据えることも無い。
確かにその光景は見えるのに、宗次郎にはどこかそれが現実味を帯びていないように思えた。自分の目で見ているはずなのに、まるで夢でも見ているかのように酷く実感が無い。
けれど、この腕に圧し掛かる咲雪の体の重みは紛れもなく現実。咲雪は確かに此処にいる。けれどもう、此処にはいない。もう、どこにもいない。
咲雪は、死んだのだ。
「―――嫌だなぁ。本当に、死んじゃったんですか・・・・・?」
宗次郎は、知らず知らずのうちに笑みを浮かべていた。そうしてもう動くことの無い相手に、聞くまでもない問いかけをする。そうしてその問いに、もう決して答えが返ってくることも無いのに。
案の定、咲雪の口からは何の言葉も紡がれはしなかった。ほんの僅かでも体が宗次郎の言葉に対して反応する、そんな素振りすらなかった。咲雪の機能の何もかもがもう完全に生命活動をやめてしまっている。
当たり前だ。もう此処に命は無い。
宗次郎の唇が、震えながらも笑みを深めた。それは今にも崩れてしまいそうな、涙目の歪な笑顔だった。
「言ってたじゃないですか。まだ死ぬわけにはいかないって。僕が答えを出すのを見届けるまでは、意地でも生きてやるって・・・」
縋るような問いかけにも、何も返ってはこない。
どんなに呼びかけても、答えることは無い。
それが死だって、知っていたはずなのに。
「本当に死んじゃったんですか?」
どうしてこんなに、苦しいのだろう。
「なんで・・・・死んじゃったんですか?」
―――僕は、あなたに、
死なないで欲しかったのに。
小さく宗次郎は呟いた。
喉の奥が苦しかった。
彼の胸の内を占めるのは悲しみではなかった。
何かを失くしたかのような錯覚すらあった。
何を失くしたのかは分からなくても、それは久しく忘れかけていた喪失の痛みだった。
哀しいんじゃない。
苦しかった。ただ一人を失うことが、こんなにも。
宗次郎はそれを初めて知った。
失ってからでは、遅いのに。
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