―第二十一章:寒梅、花をつけしや未だしや 六―
「・・・綺麗な夕陽だね」
畑仕事からの帰り道。いつだったか二人で夕陽を見た時のように、咲雪は茜色の空を見ながらそう言った。
あれは、いつだったろう。
そうだ、確か宗次郎が弱肉強食の言葉を口にした途端、咲雪が突然怒り出した時のことだ。その後二人で大喧嘩して・・・・今にして思えば、あれは人生初の大喧嘩だったかもしれない。
そんなことを考えて、宗次郎はくすりと笑う。まだあれからそんなに時が経ってないのに、ずっと前に起こったことのように感じる。
そう、まだあれからそんなに時が経っていないのに、咲雪の容態は次第に、悪化していた。表向きは何でも無いように振る舞っているが、それでも一日の喀血の回数が増えたこと、以前よりもまた更に痩せたことがそれを物語っていた。
それでも咲雪はまだ凛然としていたが、体自体は弱々しくなっていることは確かだった。
元気に言い合っていたあの頃が、何だか懐かしく感じる。
「どうしたの、宗次郎?」
「いいえ、何でもないですよ」
黙り込んでいた宗次郎を不思議に思ったのか、咲雪が振り向いて声をかける。宗次郎は言葉通り何でもないといった風に穏やかに笑う。そのまま、先程まで咲雪が眺めていた夕陽に視線を移す。
今日の夕陽は橙色というよりも赤に近い色をしていた。例えるなら、まるで柔らかな光を放つ紅玉を空にそのまま浮かべたような太陽だ。
「綺麗ですね」
宗次郎は薄く笑む。空は鮮やかな錦をその面に映し出し、地を覆う真っ白な雪は照り返した黄色の光をそっと湛えていた。
咲雪は歩いていた足をふと止めた。宗次郎も自然、立ち止まる。
斜め前に立つ咲雪の髪がさらりと夕風に靡いた。以前よりも艶を失った黒髪は、それでもなお、咲雪を凛として見せていた。
背を向ける咲雪の表情は分からない。ただ咲雪は宗次郎に背を向けたまま、もう一度綺麗ね、と言った。
いつになく、元気が無いように見える。
宗次郎は歩みを再開し、咲雪の前に回ってみた。咲雪はどこか真剣な面持ちで、遠くを見つめるような眼差しで夕陽を見ていた。咲雪の物静かな様子に、宗次郎も面食らったような気分になる。
「今日は、元気に過ごせたけどさ・・・・」
ぽつぽつと咲雪は口を開いた。目線は夕陽から動かさないまま、けれど確かに宗次郎に向けて静かに語りかけるように。
咲雪の黒目がちの瞳の中では、映し出された夕陽が茜色の光彩を静かに放っていた。
「明日の太陽は見られないかもしれないって思う。最近は特にね・・・」
それだけを言うと、咲雪はまた口を噤んでしまう。
いつもの威勢はどうしたというのだろう。昼間はこんな風じゃなかったのに、と宗次郎は思い起こす。
「何だか咲雪さんらしくないなぁ、そんな風に弱気なのって」
笑い飛ばすように宗次郎は言う。けれど咲雪は、真剣な表情を変えないままで。
確かにらしくない咲雪の様子に、宗次郎の顔からふと笑みが消え、不思議そうに首を傾げる。
「咲雪さん・・・?」
「ねぇ、宗次郎」
ようやく、咲雪は宗次郎の方を向いた。宗次郎の目を真っ直ぐに見据えている。以前に睨まれた時とは違う眼差し、けれど真摯に宗次郎を見ていることに変わりはない。
「前に言ってたよね、強ければ生き、弱ければ死ぬって」
それは、偶然だったのか。
つい先程宗次郎が思い出していた出来事と恐らくは同じことを、咲雪は脳裏に思い浮かべていた。
「今だから言うけど、あの時あんたを可哀想って言ったのは、半分以上は皮肉だったんだ。何でそんな風にしか考えられないんだろう。馬鹿みたい・・・って」
自嘲するような笑みを、咲雪は小さく口元に浮かべた。
「でも、今はちょっと違う。あんたも、その言葉を信じるのには、理由があったんだものね」
風が二人の髪を撫ぜ、互いの表情を隠した。
頬に張り付いた髪を宗次郎は軽くかき上げる。笑みはまだそこには無かった。宗次郎もまた真っ直ぐに、咲雪を見つめ返している。
視線をかち合わせたまま、咲雪は緩やかに口を開いた。咲雪もまた、笑みを湛えてはいなかった。
「もしも、私がもう死ぬとしたら・・・・それは、私が弱いから死ぬんだと思う?」
咲雪の、その問いかけに。
以前の宗次郎だったら、『勿論です』と即答していただろう。『弱い者は死に、強い者だけが生き残る』。それが現実。
けれど、すぐに返事ができなかった。肉体的には、咲雪は弱い。ただの少女で、剣の心得も無い。仮に咲雪が宗次郎の命を直接奪おうと襲い掛かってきたところで、返り討ちにするのは造作も無いこと。
彼女は弱い。自分より遥に―――けれど。
村人達に虐げられても屈さず、毅然と振る舞っていた姿。仇である自分を前に、怯むことなく向かい合ってきた姿。死に至る病に体を侵されながらも、それでも毎日を懸命に生きようとする彼女の姿。
それは、彼女の強さだった。宗次郎に出会ってから、彼への憎しみをばねに生きているのだとしても。
そこにあるのは紛れも無く、強さだった。たとえ彼女の体がもう、ボロボロだったとしても―――。
「・・・・いいえ」
ややあって、宗次郎は答えを返した。
口元には淡い笑みが浮かぶ。楽の感情から来る笑顔ではなかった。それが何の感情からきているのか、宗次郎には分からなかった。
「多分、違うと思います」
枕詞に『多分』を置いて、違うと言い切れなかったのは、宗次郎に弱肉強食の理念が染み付いているからだ。
けれどそれでも、この先彼女が死んでしまうのだとしても、それは彼女が弱いからじゃない。そう思った。強ければ生き、弱ければ死ぬ、それは誰もが逃れられない自然の摂理のはずなのに、例外も確かにそこにはあると。
『強かったら何でもしていいの? 弱いからって何でもしていいの!?』
強ければ生き、弱ければ死ぬと決め付けてしまうことは、強者の傲慢なのか。先日、咲雪が叫ぶように言った一言が、不意に甦ってきた。
そう、かつては宗次郎自身も弱者の分類に入る存在で、強くならずとも弱いままの自分で今まで通りに生きていきたいと思ったこともあったのに。
強くても、弱くても、生きているのは皆同じ。
そんな当たり前のことを、どうして忘れていたんだろう。
「違うと思う、か」
はっきりしない返事でも、それでも咲雪はどこか安堵した風に笑った。ほんの少し目線を落として、そうしてまた真正面から宗次郎を見た。
強気に笑って、宣言するように咲雪は言った。
「決めた。私、そう簡単には死なない。何が何でも、あんたが答えを出すのを見届ける。じゃないと、安心して死ねやしないわ」
「何ですか、それ」
そう言いながらも、宗次郎の顔は笑っていた。
咲雪にいつものような毅然とした態度が戻ってきていた。踵でくるっと回って見せ、夕陽を背にして立つと腰に手を当てた。
ニッと笑うと、宗次郎の顔を覗き込むようにして見た。
「あんたが自分の真実を見つけるまで、意地でも生きてやるんだから!」
宗次郎は一瞬ぽかんとした後、声を上げて笑った。
やっぱり、咲雪はどこまでも咲雪らしかった。
こんな風に元気に宗次郎に悪態を吐いている彼女を見て、自然、宗次郎の顔にも明るさが戻っていた。
「やっぱり、その方が咲雪さんらしいや」
前向きで、真っ直ぐで。言いたいことをはっきり言って。
病の身でもそれに負けず、むしろその逆境を利用して仇を討とうとして。
その方が、やっぱり咲雪らしい。
「当分死ぬわけにはいかないな。あんたがどんな答えを出すのか、分かったもんじゃないもの」
「あ、何か酷い言い草じゃないですか、それ」
「当たり前でしょ。結局、弱肉強食なんて結論出したら、今度は一発殴ってやるから」
「あはは、咲雪さんてば怖いなぁ」
少しずつ傾き始めた夕陽の下、二人の影が雪道に長く伸びる。
それはいつもの帰り道だった。宗次郎がこの村に来て以来の。
それは、いつもの帰り道だった。
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