―第二十章:寒梅、花をつけしや未だしや 五―



朦朧とした風景から引き戻されるように、咲雪は目を覚ました。
見慣れた天井が見える。けれどすぐには意識ははっきりとしなくて、咲雪は目を二、三度瞬いた。ようやく頭が少しずつ冴えてくると、咲雪はむくりと体を起こした。その時、自分がいつの間にか布団にいることに気付く。そうして冷え冷えとした空気と小窓から漏れる白い光で、新しい朝が来たということにも。
昨日、宗次郎に怒りをぶつけ、大泣きしたことは覚えている。彼のシャツを掴んで泣いて、そこで記憶は途切れているから、どうやら疲労と体調不良とが重なって、そのまま眠った・・・というよりは、気を失ったのかもしれない。
自分で布団を敷いた覚えはないから、恐らくこれは宗次郎が用意してくれたのだろう。着物こそ昨日のままで、乾いた血が元は白地の着物に薄茶色の模様を張り巡らせていたけれど、畳に飛び散った血などは綺麗になっていたから、それも宗次郎が雑巾か何かで拭いてくれたらしかった。
その宗次郎は、この部屋にいない。
「・・・・・・」
咲雪は無言でゆっくりと立ち上がると、板戸を引いた。見慣れた囲炉裏がすぐに目に映る。そこに火は灯されておらず、宗次郎の姿も無かった。
溜息を吐き、無理も無い、と咲雪は思う。
宗次郎に対する復讐、という目的を明かし、咲雪が労咳を病んでいると知れた今、この家に彼が留まる道理は無い。さっさと逃げ出した方が賢明である。
労咳だと知られた以上仕方なく、思わず言ってしまった、というよりは、それがきっかけとなって宗次郎に対する本音を洗いざらいぶち撒けた、という方が咲雪にとっては正しかったが、それでも本当はまだ言うつもりは無かった。隠し切れなくなるまで、隠しておくつもりだった。
その反面、隠しているのが辛くなってきたのも事実だった。何故辛いのかは、咲雪は考えないようにしていた。
それはそれとして。
(・・・・流石に、言い過ぎたかな)
昨日吐き出した言葉は全て本心からのものだったが、それでも言い過ぎだったかもしれない。宗次郎が挨拶も無いまま出て行くのも当然だ。
茫漠とした思いを抱えながら、咲雪は土間に下りて雪駄を履いた。下から伝わってくる冷たい空気に、昨夜は雪も降ったのかも知れないと咲雪は思う。
二、三歩歩いて戸に手をかけ、咲雪はそのまま引いた。目に飛び込んできたのは、予想通りの雪景色。空も灰色でまた雪がちらつきそうな天気だったが、今は空から降りてくる白いものは見えない。
立ち止まったまま、咲雪はぐるりと辺りを見回した。やはり、宗次郎はいなかった。もう一度、今度は無意識に溜息を吐いて、視線を足元に落とす。
その時、ふと気付いた。まだ踏み固めて道を作っていない、白く雪の積もったそこに、自分のものではない足跡があることに。それは玄関から続いていたから、宗次郎のもの以外に考えられない。
村から出て行くようにと伸びているのだと思ったそれは、けれど違っていた。咲雪から見て右の方角へ、家の角を曲がるようにぐるりと足跡が続いている。丁度、あの梅の木がある方だ。
咲雪はその足跡を追いかけるように歩いた。雪に足を何度か取られそうになりながらも歩いた。
まさか、と思いながら咲雪が家の裏にある梅の木の所まで辿り着くと。
果たして、そこには未だ花をつけぬ梅の木を見上げながら笑みを浮かべている宗次郎の姿があった。
咲雪が来たことに気が付くと、宗次郎はにっこりと笑ってこう言った。
「あ、おはようございます、咲雪さん」
「・・・・・おはよう、じゃないでしょ・・・・・」
いつもと変わらぬ様子の宗次郎に、咲雪が脱力したようにがっくりと肩を落とす。
宗次郎はそんな咲雪の反応を見て、相変わらずにこにこと笑っていた。
何事も無かったかのように接してくる宗次郎に、咲雪は呆れる一方で、どこか、安心していた。
「え、じゃあ、こんにちはですか? でも朝ご飯もまだだし、そんな時間でもないんだけどなぁ」
「あのね、私が言ってるのはそーゆーことじゃなくて・・・・」
宗次郎の方もまた、結局は今まで通りのように接してくる咲雪に、どこか安心感を覚えていた。頭を抱えるように額に手を当てた咲雪は、けれどふっと表情を真摯なものに変えると、真っ直ぐに宗次郎を見据えてきた。
「・・・・出て行かなかったんだ。私はてっきり、あんたはもう出て行ったんだとばかり思ってた」
「ええ、僕もそれは考えたんですけど、」
そう、あれから色々考えた。咲雪は宗次郎にしがみつきながら意識を失ってしまって、とりあえず彼女を布団に寝かせて、部屋中に飛び散った血を掃除して。
そうして考えた。咲雪が言ったこと。自分が犯した罪のこと。どう償えばいいかということ。
短く纏めてしまえばたったこれだけのことだが、それでも宗次郎が考えることはたくさんあった。咲雪が宗次郎を憎んでいることを踏まえ、本当は家に泊めたりなどしたくなかったと吐露した以上、彼女の家にこれ以上いない方がいいのかもしれない、とまで考えは及んだ。
けれどそれでは、根本的な解決にはならないと宗次郎は思い至った。咲雪の下を去ったところで、宗次郎の罪がなくなるわけではないし、彼女の憎しみも消えるわけではない。このまま出て行くのでは、考えるのを放棄するも同じだ。
いずれは向かい合うことになる、己の罪。どうやって償えばいいのかなど知らない。分からない。本当に償えるかもすら。
けれど、こうして向き合わなければならなくなったからには、真っ向から向き合ってみようと思う。そうしてそれは答え探しにもきっと、繋がっているから。
「昨日、咲雪さんに言われて、僕はたくさん悪いことをしてきたんだなぁって、改めて気付いたんです。でも、それをどうやって償っていけばいいかなんて、全然分からないから」
本当に償えるのかな、という疑問も宗次郎にはあった。けれど、それら全部をひっくるめて、ようやく考え始めたことだったので。
「だから、もう少し咲雪さんの側で、それについて考えてみたいなぁって思ったんです」
にっこり、と宗次郎は笑う。これまた宗次郎も着物が昨日のままだったので、彼もまた体のあちこちに血を纏っていたのだけれど。
それでも表情は限りなく無邪気に見えた。
「・・・・・・」
宗次郎の返答に、咲雪はしばし言葉を失う。ほんの少しだけ目を見開いて、けれど表情を緩めると、ふっと試すように笑った。
「私はあんたの命を狙ってんのよ。それでもいいの?」
「ええ。咲雪さんが迷惑じゃなければ、ですけど」
宗次郎も笑い返す。昨日村人達が言っていた通り、咲雪は実際色々と企んでいたわけだが、それを知ってもなお、宗次郎はもう少し、ここにいてみたかった。探し続けている自分の真実の一欠片をこの地で得られるような気がしていたし、何より、この梅の花が咲くまで、という咲雪との約束もある。
「まだ、この梅も咲いてないですしね」
屈託無く笑う宗次郎を、けれど咲雪は残念でしたといった風に一笑に付した。
「そんなの、方便に決まってるじゃない。仮に梅の花が咲いたとしても、何かと口実作ってあんたを引き止める気だったわよ、私は。ようやく仇討ちができるかもしれないってのに」
蓮っ葉な物言いに、宗次郎は一瞬きょとんと目を丸くした。けれどすぐに、あはははと声を上げて笑い出す。
「あはは、咲雪さんは流石だなぁ」
「何がどう流石だってのよ」
宗次郎の言葉尻を捉えて、咲雪がじとっとした目で宗次郎を見る。それでも宗次郎が可笑しそうに笑っているのを見て、咲雪はふっと頬を緩めその視線を引っこめた。
代わりに、彼の後ろに立つ梅の木を見上げる。
「でも、この梅の木が咲くのが楽しみっていうのは本当。そのくらいしか楽しみが無いってのもあるし、それに、この木は兄さんと私で世話をしてきたものだから」
「兄さん?」
首を傾げながら、宗次郎は思い出す。そういえば昨日咲雪が言っていた家族の中に、兄の存在も挙げられていた気がする。
「咲雪さんのお兄さんはどこにいるんですか?」
「出稼ぎで大きな街の方に行ってるわ。この村じゃ、働いてもお金は大して稼げないからね」
咲雪は一旦言葉を切って、目を伏せて微苦笑を浮かべながら呟くように言った。
「いくら高いお金でいい薬を買ったって・・・・私の労咳はもう治ったりなんかしないのに」
それで宗次郎も悟った。咲雪の兄は彼女の為に、都会に行って働いているのだと。少しでも咲雪の病が快方へと向かうように、労咳に特効薬というものは無いが、それでもいい薬を手に入れて少しでも彼女を生き長らえさせる為に。
「でもね、兄さんには感謝してるんだ。申し訳無くも思うけど・・・・。私の為に、頑張ってくれてるからね」
今度はにこっと咲雪は笑う。咲雪の言動からすると、妹想いの兄に違いない。
故郷から遠く離れた馴染めない村で、両親を亡くし自身を労咳に侵されても、それでも彼女が自分を失わずに生きてこれたのは、恐らくはその兄の存在と、この梅の木に向ける思いが支えとなっているからだろう。
咲雪がこの梅の木にこだわる理由の一端を、宗次郎はようやく知った。
「早く、咲かないかな」
咲雪は目を細めて梅の木の枝を見つめている。細く雪を乗せているその枝に、白い花びらは一つも見えない。蕾は以前よりも膨らみ、丸みを帯びていたが、それでもまだ咲く様子を見せなかった。
咲雪は何かを諦めた風に薄く笑って溜息を吐く。
そうして、何事かを考えるような顔になる。笑みを象っていた唇の端が、ゆるりと下ろされた。
「・・・・昨日のこと、だけど」
宗次郎は視線を咲雪の方へと向けた。話題が再び昨日のことへと戻り、宗次郎も何となく身構えるような気分になる。
咲雪はもう怒っている風でもなく、ただ真剣な表情で宗次郎と向かい合っている。
「流石に言い過ぎたと思う。ごめん」
存外、あっさりと咲雪は謝った。宗次郎の方が驚いてしまう。咲雪の怒りの理由を思えば、彼女が謝る道理など無いのに。
宗次郎が何も言えずにいると、咲雪は微苦笑して、今度は念を押すように言う。
「でも、私も言い過ぎたけど、昨日言ったことはみんな事実なんだからね。そのこと、忘れるんじゃないわよ」
ビッと人差し指を突きつけてきた咲雪に、宗次郎も苦笑した。
そう、確かに昨日の彼女は感情に任せて捲くし立てていたのだろうけれど、それでも述べていたことは事実だ。己の罪も、それによって多くの者が苦しんでいたということも。
どうすればいいかなんてまだ見えないけれど、それでもそのことは確かに、忘れるわけにはいかない。
「肝に銘じておきます」
言いながらにっこりと笑うと、そんな宗次郎を見て咲雪も少しは満足したかのように頷いた。
そうして、ごくごく自然に。
「さ、それじゃ朝ご飯にしましょうか」
「そうですね。お腹も空きましたしね」
またいつもの調子に戻った会話に。
宗次郎もまた笑顔を浮かべ、踵を返した咲雪の後を追う。
そうして雪をさくさくと踏みしめて去っていく二人の後ろには、ただ例の梅の木と二人分の足跡が残されているだけだった。











それからまた何日か経ったが、咲雪の宗次郎に対する態度は、以前とほとんど変わらなかった。
ただ、『あなた』という丁寧だった二人称が、『あんた』というぞんざいなものに変わっただけだ。多分、宗次郎に対する呼び方としてはそっちの方が地なのだろう。本意がばれた今、宗次郎に取り繕う必要は全く無いわけであるし。
そうして今日もまた、二人は畑に出かけていた。咲雪の病のことを思えば安静にしていた方がいいのだろうが、それでも彼女はそうしなかった。ただ布団の上で静かに死ぬよりは、できるところまで普通の暮らしをしていたいと、咲雪はそう願っていたのだ。
だからいつも通りに畑仕事や柴刈りを終え、宗次郎と咲雪は家へと戻る道を歩いていた。とりとめも無い話をしながら歩を進め、けれどその前方にこの間宗次郎に忠告した村人達がいるのが見え、足取りがほんの僅か、緩やかになる。
何だかこの間からよく会うなぁ、と宗次郎は思った(同じ村に住んでるのだから、出くわす可能性が高いのは当たり前のことではあるが)。
その村人達は宗次郎が相変わらず咲雪と行動を共にしているのを見ると、目に見えて非難するような顔をした。ふと足を止めた宗次郎と咲雪の横を、わざとゆっくり通り過ぎながら、これ見よがしに言う。
「もうすぐ死んじまうってのに男なんか連れ込んで、この色狂いめ」
「労咳病みは考えることが違うよなぁ」
「こんな女の色香に惑わされた男も、どうしようもない馬鹿だねぇ」
明らかに二人を邪推した、嫌味たっぷりの言葉だった。自分達の忠告に宗次郎が従わなかったから、尚更気に食わなかったのだろう。
色狂いって何だろう、と不思議がる宗次郎の隣で、咲雪は失礼極まりない発言をする達が去っていくのを、ただじっと無表情で耐えていた。
「ったく、人の事情も知らないで勝手なこと抜かして・・・・馬っ鹿みたい」
けれど村人達が行ってしまうと、はーやれやれといった風に肩を竦めて、咲雪は逆に低俗な考え方しかできない村人達を批判した。心底呆れたといった感じの表情だった。まぁ、実際は宗次郎の命を狙って引き止めたという咲雪からしてみれば、無理も無い話しだが。
「ま、別に今更あの人達に何言われても気にならないけどね。一々気にしてたって仕方ないし」
相変わらず悪口を言われても平然としている咲雪に(しかも逆に悪態を吐いている始末だ)、宗次郎は思わず小さく笑みを漏らす。
「でもまぁ、確かに勝手なこと言ってますよね」
それでも、事実無根の悪口でも、気にする者はいつまでだって気にするだろう。
いくらか気にしているとはいえ、それでもすぐにあっさりと切り返した咲雪に、宗次郎は思ったままを率直に言う。
「咲雪さんは逞しいですね」
「逞しいって何よ、逞しいって。そんな風に言われても、あんまり嬉しくな・・・・っ」
何事かを言い返そうとした咲雪は、言葉途中でひゅっと息を飲み込む。そうして次の瞬間には喉元にさっと手を当てていた。顔色の変わった咲雪に、宗次郎も何事かと思う前に、彼女は大きく咳き込んでいた。
霧状になった血が、道の脇に広がっていた雪面の上にさっと飛び散った。咲雪は今度は口に両手を当て、なおも咳き込んでいる。立っているのが辛いのか、咲雪は膝をつき、背中を丸めて咳き込んでいる。
宗次郎も咲雪に合わせて屈んでみるが、医学は専門外の彼のこと、こんな時どうすればいいのか分からない。
しばらく咳き込んでいた咲雪は、ややあって落ち着いたようだった。咲雪は喀血で血に濡れた唇を手の甲でぐいと拭い、しゃがみ込んだ宗次郎がぽかんとして自分を見ているのに気付くと、呆れたように言う。
「・・・こーいう時って普通、声かけながら背中さすったりするもんよ」
「そういうものですか?」
「やっぱ宗次郎って、何か普通じゃないわよね。まぁ、あんたに介抱されても、何だか複雑だけどさ」
大概失礼なことを咲雪も述べながら宗次郎を見る。その目がまた見開かれた。また喀血の衝動が込み上げてきたのだろう。
再び苦しそうに咳き込んでいる咲雪に、宗次郎は首を傾げながらも先程言われたままにその背中をさすり始めた。咲雪がほんの少しだけ、今度は違う理由で目を見開いたのが、宗次郎には見えなかった。ただ、さすった背中が前に触れた時より、更にその肉が薄くなった気がする。
しばしさすり続けていると大分楽になったのか、いつしか咳は止まり、落ち着いた様子の咲雪はふうと大きく息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
「・・・ったく、素直っていうか馬鹿正直っていうか・・・・」
声をかけた宗次郎に対する第一声がそれである。素直に自分の言うことを実行した宗次郎に、咲雪は半ば呆れているようだった。
けれどそれで、何か思うところあったらしい。咲雪はもう大丈夫と見て、宗次郎が身を起こしても、咲雪は俯いたままだった。
どうしたんだろう、と思って、宗次郎は呼びかける。今咲雪が何を考えているのか、見えない表情からは知りようが無い。
「・・・・あんたのしてきたこと、許すつもりは無いけど」
「咲雪さん?」
「あんた自身はさ、そんなに悪い奴でもないんだよね」
それは、宗次郎に言っているのか、或いは独り言なのか。
宗次郎が判断に迷っていると、咲雪は己の膝の辺りの着物をぎゅっと掴んだ。赤い色が滲んだ。
「もっとずっと悪い奴だったら・・・・きっと憎み切れるのに・・・・・」
それきり咲雪は黙り込んでしまった。
宗次郎もまた、無言で咲雪を見下ろしている。今の言葉は、どういう意味なんだろう。いや、それより―――。
冷たい風がひゅっと吹き、二人の周りの雪をほんの少し巻き上げた。冷たい雪の礫が宗次郎や咲雪の頬や髪を叩く。
宗次郎は笑みを浮かべた。本人は意図してなかったが、それはどこか、咲雪を安心させるように。
「帰りましょうか。風が冷たくなってきましたよ」
立ち上がるのが辛そうだなと思って、宗次郎は何となく咲雪に手を差し出した。
咲雪はようやく顔を上げた。そしてじっとその手を見た。怒っているような、泣いているような、眉を歪めた複雑そうな顔だった。
振り払われても無理も無かったのに、意外にも咲雪は宗次郎のその手を取った。宗次郎はほんの少し驚いたが、また小さく笑って、咲雪が立ち上がるのを手伝った。
繋がれた手は、存外、温かかった。