―第十九章:寒梅、花をつけしや未だしや 四―
それからまた二週間が過ぎ、暦の上では二月を迎えた。
相変わらず寒空は続き、ただそれでも日暮れまでの時間は少しずつ長くなっていて、着実に春に向かっているのだという兆しはある。
それでも、咲雪の家の梅はまだ咲かない。
「あれぇ、咲雪さん行かないんですか?」
いつものように野良支度を整えた宗次郎は、未だ囲炉裏端に座り込んだままの咲雪の声をかける。咲雪も用意を済ませてはいるものの、宗次郎が戸口の前へと立っても、依然動こうとしない。
「うん・・・・ごめん、先行ってて。何だか眩暈がするの」
いつになく、沈んだ声だ。咲雪は額に手を当てて、痛みに耐えるような顔をしている。
よくよく見れば顔色も悪い。
「大丈夫ですか?」
「ん、ちょっと休んでれば大丈夫。私もすぐに行くから」
宗次郎を安心させるように、咲雪は淡く笑う。本人が大丈夫と言っているのならそんなに酷くは無いのだろう、と宗次郎は判断をした。朝晩の冷え込みが厳しい時期だし、風邪でもひいたのか。
「大丈夫だから、私のことは気にしないで」
「分かりました。じゃあ、先に行って始めてますね」
咲雪の言葉が駄目押しして、宗次郎も引き戸へとようやく手をかける。
いつもきびきびしている咲雪がこんな風に元気が無いなんて、宗次郎も何となく調子が狂うが、その当の本人が気にしないでといっているのだから、素直にその言葉に従うことにする。
血の気が失せ、暗い影を帯びているような彼女の面持ちは、やっぱり少し気になるものの。
(無理して具合悪くならなければいいけど)
それでも構わずに一人で出かけてしまう辺り、やはり宗次郎である。思考の根っこにあるのは、本人がああ言っているんだし、というところによるところも大きいが、それでも普通はもう少し具合の悪そうな相手を気にかけてもいいものだ。
とはいえ、宗次郎も、
(咲雪さんが本調子じゃないんじゃ、その分僕が頑張らなきゃなぁ)
などと、ぼんやりと考えていたりする。
咲雪の家から村の中心部へと続く道を宗次郎は歩く。一人で村の中を歩くのは久しぶりだった。この地に留まってからは、宗次郎はほとんど咲雪と行動を共にしていたから。もっとも、彼女の家に寝泊りさせてもらい、彼女の仕事を手伝っているうちに自然とそうなっていたのだが。
雪の上から半分ほど顔を出している砂利道の上を、宗次郎は軽い足取りで歩いていく。ひゅっと吹いた朝の冷たい風に身を竦ませた宗次郎は、その時遠く前方の方から歩いてくる影に気付く。
農民風の男女が数人。この村の人間に違いなかった。何人かは、初めてこの村を訪れた時、咲雪に石を投げつけているのを見ていたから。
宗次郎より一回りくらい歳が上そうな村人達は、行く手に彼がいるのを見て、一瞬立ち竦んだようだった。けれどお互いに何事かをひそひそと囁き合って(何を言っていたのかは宗次郎には聞き取れなかった)、再び歩き始めた。くたびれた農民姿の男が三人、女が二人、この距離になればはっきり分かった。
そのまま行ったら道の真ん中で鉢合わせするのに違いなかったが、宗次郎は構わずに進む。宗次郎が彼らを避ける道理は無いし、それに向こうにも前のように顔もつき合わせずに家に帰ってしまうという素振りも無いからだ。最も、ただ単に彼らから見て丁度宗次郎がいる方角に、彼らの家があるのかもしれなかったが。
近付くにつれ、村人達が皆訝しげな顔をして宗次郎を見ているということが分かった。かと言って、宗次郎も別にどうするわけでもない。村に来て早々に彼らと一悶着を起こしたことは先刻承知だったし、だったら無理もないよなぁ、と思っていたので。
「おはようございます」
それでも、すれ違う寸前、宗次郎は立ち止まらないまま村人達に明るく挨拶をした。社交辞令に近いものだったし、返答も別に期待などしていなかったから、村人達が結局無言のまま横を素通りしてしまっても、宗次郎は別段何も思わなかったのだが。
「あんた、まだあの女の所にいるのか?」
そのまま行ってしまおう、と思っていた宗次郎は、その一言でぴた、と足を止めた。
振り返ると、村人達も同じように歩みを止め、唇を引き結んだ奇妙な表情で宗次郎を見据えている。
あの女、が誰を示すまでは考えるも無い。
咲雪だ。
「咲雪さんのことですか? ええ、そうですよ」
「あんた確か旅人だろ? あんな女の家にいつまでいる気だい?」
先程宗次郎に声をかけたのは男だったが、今度は女だ。どこか咎めるような口調に少し引っかかりはしたが、宗次郎は率直に返事を返す。
「ええと、とりあえず春になるまでです。咲雪さん、色々親切にして下さって助かってます」
にこにこ、と機嫌よく言う宗次郎に、村人達はますます怪訝な顔になる。
「・・・・あの女、何を企んでいやがるんだ」
「企む?」
穏やかでない単語に、宗次郎は思わず聞き返す。
あの咲雪が? 何を?
真っ直ぐに感情を出してくるあの彼女に何か裏があるなんて。そうは思えない。
確固たる自信は無かったが、それでも宗次郎の直感と、咲雪の裏表の無い態度を考えると、この人達は何を言ってるんだろう、としか宗次郎は考えられない。
「あはは、嫌だなぁ、咲雪さんが何か企んでる、だなんて」
だからあっさりと笑い飛ばした宗次郎だったが、村人達は彼のその反応に更に眉を顰めた。
しばし目配せし合って、そして一人の男が意を決した風に宗次郎をじっと見て、忠告するように言った。
「・・・・悪いことは言わん、早くあの家から出て行った方がいい」
「え? どうしてです?」
宗次郎はまた首を傾げる。どうしてこの人達はそんなことを言うんだろう。さっきから訳が分からない。
きょとん、とただ目を丸くする宗次郎に、村人達はいよいよ神妙な顔つきになって、ただ一言。
「あんた、知らんのか。あの女はな、」
「・・・・労咳病みなんだぞ」
『先だってもう長くねぇってのに、何を考えていやがるんだか―――』
言い捨てるように去っていった村人達を追い抜くようにして、宗次郎は歩いてきた道を引き返した。ますます表情を険しくした村人達にも気付かないまま、宗次郎は足早に歩いていた。
労咳の恐ろしさくらい、宗次郎でも理解していた。ただそれよりも、本当に咲雪は労咳を病んでいるのか、ということが気になっていた。咲雪の口から直接聞いたわけでなく、彼女を村八分にしている者達の言うことだ、全部信用はできない。
けれど、もし、それが本当だったとしたら。
何故黙っていたんだろうという疑問はさておき、とにかく、その真偽が知りたかった。
もし、彼女が本当に労咳を患っているんだとしたら。
いずれ、彼女は確実に死に至る。
「咲雪さん、さっき村の人から聞いたんですけど、」
本人も気付かぬ焦りに急かされるようにして、宗次郎は咲雪の家へと舞い戻った。ガラリ、と戸を開け放ちながら宗次郎は中にいるはずの咲雪へと声をかける。
けれど、そこに人影は無い。
「咲雪さん?」
どこかへ出ているのか、と部屋を見回していると、ごほ、と誰かが咳をする音が聞こえた。奥の部屋からだ。戸が締まっていて中の様子は窺えないが、確かに聞こえた。宗次郎が立ち尽くしている間に、また苦しげな咳が響く。今度のそれは長く、続いていた。
咳き込むその声が間違いなく咲雪のものであることを察し、宗次郎は雪駄を脱いで板間へと上がるとそのまま奥の部屋に向かった。戸の寸前で立ち止まり、先程と同じように、勢いよく戸を開ける。
咳が一層、近くで聞こえた。ほとんど何も無い部屋の真ん中でうずくまり、何かにむせた時のように絶え間なく咳を繰り返していたのはやはり、咲雪だった。
宗次郎は僅かに瞠目した。咲雪の着物に、畳に、あちこちに飛び散っていた赤いものは、紛れも無く血だったからだ。
「咲雪さん」
咲雪の前にしゃがみ込み、顔を覗き込みながら声をかける。咲雪には答えている余裕も無いようだった。両手を口に当て背中を丸めて、ごほごほと咳き込むばかりだ。押さえきれない血が咲雪の細い指の間から流れ、ぽたぽたと着物の上に落ちていく。
本当に労咳なんだ、と宗次郎は思った。医学に疎い宗次郎でも知っているその病は、一度発症したら治ることはないという不治の病気だった。
労咳を病んだ者は肺を病魔に侵され、喀血を繰り返す。村人から聞いた時は半信半疑だったが、こうして実際に咲雪が酷い咳と共に血を吐いているのを見れば、確かめるまでも無い。
「咲雪さん、さっき村の人から聞いたんですけど・・・・」
先程と全く同じ言葉を、宗次郎は反復するように言った。咲雪は咳は落ち着いたようで、ぜぇぜぇと掠れた息を絶えず赤い唇の合間から漏らしている。よほど苦しかったのだろう、閉じている瞼の端には、涙も浮かんで見えた。
宗次郎が声をかけると、その目がゆっくりと開き、何か言いたげに宗次郎を睨んだ。
「労咳、なんですか」
「・・・・・・」
咲雪は答えない。ただ低く呻くような息を漏らしながら、目だけで宗次郎を見ている。
宗次郎は微苦笑を浮かべ、そのまま言葉を続けた。
「びっくりしましたよ。まさか咲雪さんが、そんな病気にかかってたなんて・・・・」
言いながら、宗次郎の頭の中では今まで不可解に思っていたことが、ぴったりと組み合い始めていた。
今朝、眩暈がすると言っていたのは元より、以前にもあった立ち眩み。華奢を通り越して細過ぎる体つき。
何よりも、咲雪が村の者達から疎まれ、蔑まれてきたこと。
それら全てが、咲雪が労咳を病んでいたからだったと考えれば合点がいく。労咳は死病であり、誰もから恐れられている。まして明治の世においては感染理由も明らかでなく、いつうつるかも知れない。閉鎖的な村人達は、確実に死に至る病を抱えた者が近辺にいるのでは安心して暮らせないと思ったのだろう。だからこそ咲雪を傷つける手段を選び、彼女が村から出て行くように仕向けた。
けれども彼女はそうしなかった。それどころか、得体の知れない旅人を村に招き入れ、共に暮らし始めた。
村人達が懐疑の眼差しを強めるのも当然―――そしてようやく今日、おそらくは何も知らされていなかったであろう宗次郎に、真実を告げたのだ。
「・・・・そっか、知っちゃったのか」
咲雪はふっと何かを諦めたかのような笑みを浮かべ、再び瞼を伏せた。
ほとんど吐息交じりだった声を吐き出した後は、咲雪は俯いて、畳の上についた両手をぎゅっと握り締めた。
「あなたには、知られたくなかったのに・・・・・」
握られた拳がぶるぶると震えた。真っ赤な血に塗れていた。彼女の口元を染め、両手や着物までも濡らしていたその色は、今までに斬ったどんな相手のものよりも鮮やかな赤だったと、宗次郎はふと思った。
その手の上に、涙が落ちた。
咲雪は泣いていた。血の上に落ちた涙はその赤と混じり、奇妙な模様を咲雪の白い手の上に描いていた。
「咲雪さん」
何と言ったらいいのか、宗次郎は迷った。
どうやら咲雪は、宗次郎には自分が労咳病みであることを知られたくなかったらしい。知られれば、宗次郎の態度も村人のようになるとでも考えたのだろうか? ―――そんな咲雪の殊勝さに気付き、宗次郎は知らず知らずのうちに、その面に笑みを浮かべようとしていた。表情がほっと緩んでいた。
けれどそんな宗次郎の目の前で。
涙を浮かべた咲雪は、憤怒の表情を宗次郎に向け、叫ぶようにこう吠えた。
「私の目的を果たすまでは、あんたに知られるわけにはいかなかったのに!!」
「・・・・え?」
浮かびかけた笑みがそのまま止まった。呆気に取られる宗次郎に構わず、咲雪はその襟元をがっと掴んできた。シャツがぐっと掴みあげられ、咲雪の手に広がる血が、白い生地を染めた。
突然の事態に、宗次郎の思考がついていかない。
「もう少しだったのに! もう少しであんたに、あんたが気がつかないうちにこの病をうつせるかもしれなかったのに!」
心底悔しい、といった風に咲雪は眉根を歪める。そのままがくがくと宗次郎を揺すった。
咲雪の目から零れた涙が宗次郎の頬の上に落ちてきた。熱かった。
「咲雪さん、どうしたんです? いきなりどうしたんですか?」
訳が分からないまま、宗次郎はそう尋ねるしかなかった。咲雪は更にキッと目尻を吊り上げ、宗次郎を射抜くように見た。
「私がこんな病にかかったのは、誰のせいだと思ってんの!? あんたが、あんた達が・・・・!!」
そのまま、ぐっと言葉に詰まる。宗次郎のシャツを掴んでいた手を離し、咲雪は己の口元へと移動させた。ほぼ同時に咲雪は再び咳き込み始める。ごほごほと、全身が大きく揺らぐくらいに辛そうな咳を。血の飛沫が宗次郎にまで飛び、彼の頬に点々と明るい赤色を残した。
手を離された拍子にすとんと尻餅をついた宗次郎は、ぽかんとしたまま苦しそうな咲雪の様子をただ見ているしかなかった。大きく咳込んだ咲雪は、咳がようやく治まると、鋭い眼差しに、赤い唇に、激しい怒りを燃え上がらせながら宗次郎に向き直った。
「私が元はこの村の者じゃないって事は知ってるわよね」
話すのだって辛いはずなのに、それでもなお咲雪ははっきりとした声で宗次郎に告げた。執念めいたものをその内に秘め、血塗れの口元にはどこか自嘲するような笑みさえも浮かべて。
「私の本当の故郷を教えてあげましょうか? 私の故郷は―――新月村」
咲雪の述べた真実に、宗次郎は目を見開く。
「新月村って・・・・」
宗次郎が知らぬはずなど無い。かつて志々雄の下にいた頃に、東海道地方制圧の拠点として政府から奪い取った村の一つだ。志々雄は統括者に尖角を据え、村を占拠し余所者は殺し排除するようにと命じた。志々雄は軍事拠点とするために新月村を自分の支配下においたが、その村に沸く温泉も気に入って、たびたび逗留していた。無論、側近たる宗次郎も控えていた。
尖角が緋村剣心に破れてからは一派は新月村からは手を引き、志々雄自身も国盗りより剣心達との決闘に傾倒したため、以降は新月村への興味も失せたのだが・・・・。だから宗次郎も剣心と対戦した後の新月村がどうなったかなど、考えたことも無かった。
まさかその新月村が、咲雪の生まれ故郷であったとは。
「あんたは知らないでしょうけどね、あんたが村の駐在さんを殺した時、私はその場で見てたんだから!」
責めるような咲雪の口調に、宗次郎も思い出す。確かに、七年前、一番初めに志々雄の命で尖角と共に新月村を訪れた時、見せしめに駐在の警官を斬り殺していた。一見人畜無害そうな宗次郎があっさりと人を殺すことで村人達に恐怖心を植え付ける、志々雄の狙いはそこにあったのだが、宗次郎はそこまで考えていなかった。ただ、志々雄の言うままに、村を占領するのに邪魔そうな人間を殺しただけだ。
「笑いながら人を斬ってたあの時のあんたの顔、今でもはっきりと覚えてるわよ・・・・!」
咲雪はまるで化け物でも見るかのような目つきで宗次郎を睨みつけた。
そんな目には宗次郎は慣れていたはずなのに。
どうしてだろう。喉の奥がちりっと痛んだ。
「その時にあんたと一緒にいた尖角って奴も、後から来る警官を次々と殺して、ついには政府からの人間は誰も来なくなって・・・・見捨てられて、暴力で支配されて、私達がどんな辛い生活を送ってきたか分かる? 分からないわよね!?」
咲雪は毅然と宗次郎と向き合う。宗次郎は一言も返せないまま、咲雪の言葉を聞いている。
志々雄一派に占領された村で生活してきた者の気持ちなど、それは咲雪の言う通り、宗次郎には分からない。
分かるはずもない。
考えたことがなかった。志々雄の言う通りにしただけだから。
「もうこんな村じゃ暮らしていけないって、一家みんなで何とか逃げ出して・・・・けど、他の村の人達を見捨てて逃げたっていう罪悪感と、慣れない土地での生活に父さんと母さんは疲れ果てて、それで呆気なく病に倒れて死んでいったわ。
何が弱肉強食よ。父さんたちは弱いから死んだんじゃない、あんた達が殺したのよ! 強かったら何でもしていいの? 弱いからって何でもしていいの!?」
それは確かに、聞こえているのに。
咲雪が連ねる言葉の羅列は、はっきりと認識されないまま、ただ宗次郎の傍を通り過ぎていく。
ただ頭の片隅で、先日咲雪が弱肉強食の言葉にあんなにも怒りを顕にしていたこと、そのことを思い出す。
「やっとこの村に慣れてきたと思ったら、今度は私が労咳なんかにかかって・・・・後は、言わなくても分かるでしょう!? 私がどんな目に合ってきたか!」
咲雪は忌々しげに目を怒らせて宗次郎を見た。
あぁ、と宗次郎は思う。
やはり咲雪は、平気なわけではなかったのだ。病にかかったのは咲雪のせいではないのに、村人達から不当に蔑ろにされて、悔しくないはずがなかった。
「あんたを見た時は驚いたわ。まさか、またあんたに会えるとは思わなかった。私はもうすぐ死ぬ身だし、どーせ死ぬなら、私達の生活を滅茶苦茶にしたあんたに一矢報いてやろうって、殺してやろうって思った。でも、ただ殺しただけじゃ、私達の苦しみなんて分からないでしょう?」
歪んだ笑みが咲雪の口の端を吊り上げた。
反対に、宗次郎の唇は何の音も紡ぐことなく、ただ小さく開かれている。
「だから、私はあんたに労咳をうつしてやろうって考えた。私みたいに、苦しみながら死んでいけばいいって、そう思った。そうじゃなかったら、誰があんたなんか家に泊まらせるもんですか・・・・!」
宗次郎の頭の中に、じんわりと痺れるような衝撃が走り始めていた。
あの、時。宗次郎が咲雪を助け、その礼に自分の家に泊まって行けばいいと申し出てくれた時。
その時、咲雪の胸にあったのは自分を助けてくれた旅人を手助けしようという親切心では無かった。
自分達が苦しむ元凶を作った者をいずれ死に追いやってやろう、そういった復讐心だったのだ。
今の今まで、何もかもが演技だった。宗次郎を、自分と同じ死病へと堕とすために―――。
「あんた達が新月村にさえ来なければ、私も父さんも母さんも兄さんも、みんなあの村で今でも平和に暮らしてたんだ! あんたがいなければ、私だって、労咳なんかになることだって無かったかもしれない! あんたがいなければ、今でも、元気に、あの村で・・・・」
再び咲雪は宗次郎の胸倉を掴み、がくがくと揺すった。
宗次郎はただ、されるがままになっている。咲雪の言っていることは分かる、ただ、理解がついていかない。ぼんやりと、頭の中で反芻するだけだ。
(僕の、せい? 僕達のせいで咲雪さん達は苦しんできた?)
涙を流し髪も振り乱し、形振り構わずに宗次郎に掴みかかってくる咲雪を、宗次郎はただ見ていた。
この人は僕を憎んでる。
それが分かった。今まで何食わぬ顔をして向き合ってきたが、内心では宗次郎をずっと憎んでいたのだ。何もかもが嘘だった。咲雪は宗次郎を騙すつもりだった。復讐という目的を果たすまで。
―――でも、本当に?
咲雪が宗次郎に見せてきた姿は、嘘だったのかもしれない。
けれど、
『ありがと。手伝ってくれて助かったわ』
全部は嘘ではないと。
『・・・・一見、悪い人には見えないのに』
宗次郎はそう思った。
『・・・・あんたも、辛かったんだ』
そう思いたかった。
「あんた達のせいで、私達が、どれだけ・・・・」
咲雪の、宗次郎のシャツを掴む手は震えていた。
敢然と宗次郎を睨み付けていた咲雪は、悔しげに、悲しげにその瞳を歪めてぼろぼろと涙を零した。そうして言葉に詰まったかのように大きく息を吸い込むと、宗次郎の丁度鎖骨の辺りに額を押し付けて嗚咽を上げ始めた。しゃくり上げるたびに、その小さな肩が震えている。
半ば茫然としながら、宗次郎は咲雪の啜り泣きの声を聞いていた。笑みはとっくに消えていた。胸の中を得体の知れぬ靄に支配されたかのような息苦しさを、宗次郎は感じていた。
謝らなきゃ、とふと思った。自分のせいで咲雪は泣いているんだ。
「・・・・すみません」
「謝るくらいだったら、最初からするな!」
しゃくり上げながらも咲雪は宗次郎に言い放った。咲雪のキッとした視線と、驚いたような宗次郎の視線が至近距離で交差する。
咲雪はしばし鋭い眼差しで宗次郎を見据え、しかし、それはやがてどこか哀しげに歪んだ。きゅっと噛み締めた唇は、小刻みに震えていた。
咲雪はどん、と拳で宗次郎の胸を叩いた。
「何でよ・・・・誰も助けてくれなかったのに、何で私を助けたのはあんただったのよ・・・・」
そのまま二、三度宗次郎の胸を殴りつけ、咲雪は宗次郎に縋りつくようにして泣き続けた。
「あんた達のせいなのに・・・・何で・・・・・」
声を押し殺して泣く咲雪を前に、宗次郎は立ち尽くすしかなかった。自分の顔のすぐ下にある咲雪の頭を、ぼんやりと見下ろすしかなかった。
咲雪が自分のせいで泣いていることだけは分かった。
咲雪はやり切れぬ怒りを、憎しみを、目の前に現れた一人の仇にその全てをぶつけている。多少八つ当たりめいていても、燃え上がる怨恨の思いは確かなもの。
彼女の苦しみの全部を宗次郎が引き起こしたわけではないのに、それでも、全部自分が悪いのだと、宗次郎は言われた気がしていた。
あたかもそれは、宗次郎が今までに犯してきた数多くの罪を、咲雪という存在を通してその重さや苦しみを見せ付けられているかのようで。
(そっか・・・・僕、たくさんの悪いことをしてきたんだ)
はっきりと自覚したその事実。自分が多くの悪事を働いたことは分かっていても、それでも今この時、宗次郎はそれをしっかと実感した。
同時に湧き上がったのは、言い表せぬ、もやもやとした不快感だ。胸に立ち込めたその思いは、人を殺すのは悪いことだと思っていても、それでも斬った人達へは抱くことは無かった気持ち―――多分それは、罪悪感。申し訳ないという感情。
『真実の答えは、お主自身が今まで犯した罪を償いながら、自分の人生の中から見い出すでござるよ』
ぼんやりと、剣心が言った言葉が蘇ってきた。今更になって。
真実を見つけてみようとは思っていた。けれどもう一つの方は、未だ実践していなかった。
たった今、突きつけられたのだ。己の犯した多くの罪を。ようやく向き合わねばならなかった。罪を償うという、もう一つの課せられた題に。
けれど、
(でも、緋村さん)
でも、と宗次郎は思う。
(償うなんて、どうすればいいんですか?)
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