咲雪の家へと帰る途中、何度も何度も先程の言葉が宗次郎の頭の中を回った。
何であんな風に言われたのか分からなくて。
そのうちに、何であんな風に言われなきゃならないんだろうと思い始めた。






―第十八章:寒梅、花をつけしや未だしや 参―




「ただいまぁ」
「・・・・お帰りなさい」
にこやかに帰宅の挨拶を告げた宗次郎に、咲雪は相変わらず機嫌を損ねている様子で、ぶすくれたまま返事を返す。宗次郎が戸を閉める前に見えた空はすっかり藍色に染まり、雪こそちらついていないものの吹き込む風は冷たい。
雪駄を脱いだ宗次郎が板間に上がっても、囲炉裏端に正座していた咲雪は全くの無関心といった様子で、囲炉裏にかけてある鍋の中身を汁杓子でかき混ぜている。宗次郎はそろりと、咲雪の斜め前に囲炉裏の角を挟むような形で腰を下ろす。自然、鍋の中身が目に入った。
どうやら今日の夕飯は雑炊らしい。根菜と一緒に一煮立ちさせた柔らかな米は温かそうな湯気をほかほかと上げている。漂う味噌の香りが宗次郎の空っぽのお腹になお響く。
果たして咲雪のこのご機嫌斜めの状態で、夕飯を貰えるかどうかは難しいところだったが。
「嫌だなぁ、そんなに怒らないで下さいよ」
「別に怒ってなんかいないわ」
和やかに声をかけてみたものの、咲雪はむすっとしたままで宗次郎の方を見ようともせずに答える。口ではそう言っているものの、咲雪がまだ腹を立てているであろうということは、態度や表情を見ればどう考えても明白だった。
(困っちゃったなぁ)
宗次郎は実際、顔に困った風な笑顔を浮かべる。
「何でまた、そんなに怒ってるんですか?」
「だから、別に怒ってなんかいないってば!」
バン、と咲雪は空いている手を板間に叩きつけた。その大きな音と、ようやくこちらへと顔を向けた咲雪の剣幕に、流石の宗次郎もびっくりする。
目を丸くし、ぽかんとした宗次郎に何か思うところがあったのか、感情に任せて声を荒げていた咲雪は、次の言葉は飲み込み息は吐き出して気持ちを落ち着かせようとしているようだった。
それでも、咲雪の顔つきはやや険しい。
「・・・ごめん、大きな声出しちゃって。でも本当に怒ってるんじゃない。ただちょっと、さっきは宗次郎の無神経な発言に呆れただけ」
自分の言動に多少の後悔はあるらしく、咲雪は最初に謝った。けれどその後に続く言葉は辛辣である。
「呆れた・・・・?」
怒ってるわけじゃない、という咲雪の言葉は今ひとつ納得がいかないが、それよりも次のその言葉に引っかかるものを感じ、宗次郎は首を傾げる。それはまたどういう意味だろう。
「何ですか、さっきから僕が可哀想だの、呆れただのって。何でそんな風に言われるのか分からないし、何で僕がそんな風に言われなきゃいけないんですか?」
自然、問い詰める口調になっていた。どこか不満気な言い方になっていたことに宗次郎自身は気が付かなかったが。気が付かないうちに宗次郎の気分はイラついている。丁度、京都で剣心と問答をしたあの時のように。
「だって、結局この世は弱肉強食じゃないですか。またそれが僕の真実になるかどうか分からないけど、強ければ生き弱ければ死ぬって、そのことはどうあっても動かせない自然の摂理でしょう?」
穏やかながらも僅かに険を帯びた宗次郎の語調に、咲雪も少し戸惑った様子を見せる。が、すぐにまた表情を元に戻し、キッと宗次郎を見据える。
「じゃあ言うけど、所詮この世は弱肉強食って、言い切っちゃってる時点で可哀想だってのよ。何でそんな考え方しかできないわけ? それだけがこの世の全てじゃないわよ!」
「分かってますよ。だから今は、その考え方だけに頼るのをやめて、答えを探して旅してるんじゃないですか」
「どーだか。今だって十分こだわってるように見えるけど?」
「それは、だって、ずっと正しいと思ってたから、簡単には否定できませんよ」
「ほら見なさい!」
「そう言う咲雪さんだって、怒ってないとかいう割に、やっぱり怒ってるじゃないですか」
まるっきり口喧嘩である。
主義主張を掲げるのではなく、己の思うままに言い合っているに過ぎない。ただそれでも、案外気性の激しい咲雪はともかく、宗次郎もがそれにつられてかすかな感情の動きのままに言いたいことを言っているということに、果たして彼は気付いているかどうか。
知らず知らずのうちに楽の感情で覆い隠された心が剥き出しになっていく、そんな感じだった。たとえそれが口喧嘩に等しいものであっても、それでも宗次郎にとっては誰かとこんな風に言いたいことを思ったことをぶつけ合うのは久しく無い経験だった。新鮮だったと言い換えてもいい。
そうしてしばし言い合った後、咲雪はどうしてだか悔しそうに唇を噛み締め、俯いた。けれど、瞳に宿る強い光は衰えていない。咲雪と出会ってから、何となく感じ取っていた彼女の芯の強さ。宗次郎は、それがそこにあるような気がしていた。
「私は認めない! 認めたくないよ、幾ら強い人間が栄える世でも、全てが強さ弱さで決まるなんて、そんなの・・・・!」
「咲雪さん、でも、」
「父さんも、母さんも、そんなので死んでいったなんて思いたくない・・・・!」
でも、の続きは宗次郎の口から出てこなかった。
自分が信じていたものを否定されるということは。それまでの自己の全てを否定されるのも同じこと。己の人生が、生き方が間違っていると言われたも同じこと。
自分自身を否定されて面白い人間などまずいない。誰だって、自分は間違っていないと思いたい。自分は正しいと思いたい。自己の存在が根底から覆されてしまうから・・・・・だからこそ宗次郎も、あの緋村剣心との闘いの最中で自分は間違っていないと、生き方の指針を教えてくれた志々雄は間違っていないと思っていた。
義理の家族達から殺されかけたあの時、宗次郎は弱肉強食の道を選び取らねば死んでいた。それが間違いだったというのなら、あのまま死んでいたのが正しいのか? いや、そんなことは無い。多分、きっと―――だって、宗次郎は死にたくなかったのだから。
強くなりたかった。志々雄と肩を並べるくらい。その志々雄が唱える理念が間違いではないと証明できるくらい。
自分自身こそが正しかったと、示せるくらい。
強くなりたかった。あの時のその思いは嘘じゃない。
同時に存在した、本当は誰かを殺したりなんかしたくなかったという思いは、心のずうっと奥に仕舞い込んだ。
その日から、弱肉強食は宗次郎の真実。剣心との闘い以降、自分だけの真実を探しに歩き出したとはいっても、宗次郎の根元にあるその現実は決して切り離せやしない。
だからこそ、咲雪にそんな生き方を全て打ち消されたような気がして、再度、生き方を間違っていると言われた気がして、内心が揺らいだ。けれどそれは、咲雪もただ己の感情のままに言っているのではなく。
確かな、理由があったのだ。
「・・・・咲雪さん」
咲雪の両親の事情や、どんな風に死んでいったのかは宗次郎は勿論知る由も無い。けれど、咲雪にそう言わせるだけの死に方ではあったのだろう。深い繋がりがあったのだろう。
宗次郎は僅かに目を丸くしたまま、咲雪を見る。その小さな肩が震えている。瞳に浮かぶ光は変わらぬまま、けれど眉根をぎゅっと寄せて。まるで今にも泣き出しそうな顔にも見える。ただ、表情が滲ませるのは悲しさではなく悔しさだ。
宗次郎の思考が、何で咲雪さんは怒ってるんだろう、から、こんな時どうすればいいんだろう、に変わってきた。こんな風に目の前で誰かが苦しんでいる様を見せても、宗次郎はどうしたらいいのか分からない。多分、あの緋村剣心なら何か胸を打つような一言を言って相手を力付けたり、あの志々雄真実なら苦しみすらばっさりと断ち切ってしまうような厳しい言葉を告げるのだろうけれど。
どちらも宗次郎にはできない。何を成すべきか分からない。まして、咲雪が苦しんでいるのが己の言動が原因であるとするならば。
宗次郎はまた、困った風に笑った。こんな時でも、子どもめいた顔に浮かぶのはやはり笑みだった。小さく溜息を吐いて、けれど紡がれる言葉は真っ直ぐに咲雪へと向けられた。
「すみません、咲雪さん。でも、やっぱり弱肉強食の言葉が僕を助けてくれたこと、それは紛れもない事実なんです」
俯いたままの咲雪の顔がぴく、と動いてほんの少しだけ宗次郎を見上げた。睨みつけるような眼差しに、けれど構わずに宗次郎はにこっと微笑って、なおも言葉を続ける。
弱肉強食の理念に従って生き始めたあの日。考えるとほんの刹那、過去に立ち戻らずにはいられない。それは本当に僅かな時間、けれどそれでも、心の痛みは容赦なく、苦い記憶を呼び戻す。
「もうずっと前、僕が殺されかけたあの時。あの時、誰も僕を助けてくれなかったから。誰も僕を守ってくれなかったから。守ってくれたのは、その真実と、一振りの脇差だけだったから―――・・・・」
―――本当ハ殺シタリナンカ、シタクナカッタ。
ダケド誰モ、助ケテクレナカッタカラ―――
そんなことを、他人に話すのは初めてだった。剣心や由美に話はしたけれど、それはあの闘いの関係者であったからだ。あの闘いを何も知らない、宗次郎の素性を何も知らない人間に、こうして話すのは初めてだった。
問われたとしても、安易に答えたりはしなかっただろう。それは無意識のうちに触れたくは無い、触れられたくは無い記憶だった。
それでも、何故か、今は言いたかった。弱肉強食の理念に憤慨する咲雪に、知って欲しかった。そこに到るまでに自分も理由があったということ。だからその事実を、否定しきれるわけではないと―――。
「だから、ずっとその言葉が正しいって思ってました。でも、その弱肉強食とは全く逆の答えを出した人がいて、その人は人を殺めるためにじゃなくて、弱い者を守るために剣を振るってたんです」
あ、言ってませんでしたけど二人とも剣客だったんです、と宗次郎は付け加えた。咲雪は無言で、表情ももはや無表情で、ただそれでも真摯に宗次郎を見据えている。
「その人との勝負で僕は負けて、だから僕はその人の『弱い者を守る』って信念の方が正しいのかと思った。でも、そうじゃなかったんですね。勝った方が正しいっていうのは、結局は弱肉強食の理念の方が正しいんだってことだから」
宗次郎の脳裏には、剣心との闘いの時のことがありありと思い出されていた。あれから五年も過ぎた今でも、鮮やかに蘇る記憶。それはそれ程までに、宗次郎のその後の生き方までも変えてしまう程に印象的だった出来事だったからだろうか。
「どっちが正しいのか分からなくなっちゃった僕に、その人は言ったんです。『真実の答えは、自分の人生の中から見い出せ』って。厳しいなぁって思いましたよ。だって、答えなんて、自分で探すより教えてもらった方が簡単に決まってますもの」
くすくすと宗次郎は笑う。それは剣心を揶揄するのではなく、純粋な思い出し笑いだった。
答えなんて、確かに教えてもらえば簡単だ。正解の無い答えを自分で見つけ出す方が何倍も難しいと思う。流浪れている今では特にそう思う。
けれどそれでも、剣心はそう宗次郎に諭した。それは剣心自身が自分の人生の中で苦しみながらも自分にとっての確かなものを見つけ、その末に得たものだからこそ確固たる信念となったからだと、今ならば分かる。そうして恐らくは、いやきっと志々雄も自分の生き方の中からそうしてその弱肉強食の理念を得るに到ったのであろうことも。
どんなに時間がかかっても、どんなに過酷な道を進んでも、自分自身で見い出したものこそが本当の『答え』―――形は違えど、志々雄も剣心も、そのことを宗次郎に教えてくれた。今はそう思う。
「でも、僕は本当のことを自分自身で探してみたいって思いました。どんな答えが出るのかはまだ分からないけど、いつかは僕だけの真実を見つけたいって。だから、」
宗次郎は一度言葉を切った。何かに迷っているような色を浮かべている咲雪の目と、視線がかち合う。
宗次郎はただ、にっこりと笑った。
「僕は、自分の真実を見つけるために流浪れてるんです。」
ようやく、ここまで言えた。
咲雪に果たして理解してもらえるかどうかは分からないけれど、それでも宗次郎がここに到るまでの経緯を、大まかにだけれどようやく伝えることができた。
やっと言いたいことを言い終えたとほっと息を吐く反面、宗次郎ははたと思い出す。
(僕、何でこんな話、咲雪さんにしてるんだろう)
もっと簡単に説明しようと思えば幾らでもそうできたはずなのに、どうしてこんなにも長々と自分のことを語ってしまったのか。
それが分からなくて宗次郎は首を傾げる。けれど、言ってしまったことだしまぁいいか、とすぐさま思い直し、今度こそ心置きなくにこにこにこと宗次郎は笑う。
自己を否定されて思いがけずムキになってしまった反面、だからこそ自分自身のことを理解して欲しかったのだという思いもまた存在したということに、宗次郎自身は気が付いていない。
「・・・・ご飯」
「え?」
「ご飯食べよっか」
「はい?」
やっと顔を上げてくれた咲雪の唐突な一言に、宗次郎は思わず聞き返す。きょとんとする宗次郎に、咲雪はまだ険しい顔を向けて。けれどそこに先程までの刺々しさは無い。
「早くしないと底の方が焦げちゃうし。お腹も空いたでしょ」
「あぁ、そうですね」
軽く頷きながら、宗次郎はもう咲雪が怒っていないということを何となく感じ取っていた。元々、どちらが悪いという喧嘩でもないから(とはいえ、咲雪の方が先に怒り出したんだという認識は宗次郎にはあった)、お互いにしっかりと謝るわけでもなかったが、咲雪のこの態度を見れば、もう言い争いは止めにしようと言っているようなものだと悟る。
お互いに言いたいことを言って、却ってすっきりしたのかもしれない。
いつの間にか、宗次郎の中からもイライラは消え失せていた。
「いやぁ、本当においしそうですね〜。僕、お腹空いちゃいましたよ」
先程までのいささか鋭い語気はどこへやら。咲雪から雑炊の入ったお椀を受け取って、にこにこ笑いながら夕飯が待ち遠しくて仕方がない子どものように(現にそうとしか表現できない)宗次郎は明るく言う。
険悪な雰囲気を和ませるとか咲雪のご機嫌を取るとかそういうのではなく、裏表の無い素直な宗次郎の言葉。自分の分の雑炊をお椀によそいかけていた咲雪は一瞬、手を止める。再び瞳に迷うような色を乗せ、誰に言うとも無く、ぽつりと呟く。
「・・・・一見、悪い人には見えないのに」
「?」
ふと漏らされた呟きに、何のことだろうと宗次郎は咲雪の顔を見る。どこか憂いを帯びた顔。先の一言を紡いだ後は、薄い唇はきゅっと引き結ばれている。宗次郎と咲雪が腰を下ろしている位置は、隣同士でもなく、真正面でもない、斜めの場所。どこか近付きがたい微妙な距離がそこにある。
ほんの少し俯いた咲雪は、宗次郎と目線を合わせないまま、やはり独り言のように。
「でも、・・・・そっか」
咲雪は短く頷いた。
「・・・・あんたも、辛かったんだ」
同情の見て取れる表情だった。そしてそれは、自分の同族を見つけたという感覚に、もしかしたら似ていたのかもしれない。けれどきっと、完全な肯定ではなく。
それでも、それは咲雪が宗次郎が内に秘めた苦しみをほんの少しでも理解しようとしたからこそ漏らされた言葉。辛かったのは自分だけじゃなかったのだと、宗次郎にもまた、苦しみがあったのだと。そのすべてを、咲雪が知ったわけではなくても、ただ、宗次郎は。
咲雪が自分の中にある確かな痛みを、僅かでも見つけて、共に感じようとしてくれたこと。自分ではうまく言葉にできなくても、何となくそれが分かったから。
自然、口元に笑みが戻っていた。
「だからって、その摂理を認めるわけじゃないけど」
けれど一転、素っ気無く咲雪は言い放つ。宗次郎はまた、一瞬目を丸くして、次の瞬間ぷっと吹き出す。
「あはは。厳しいなぁ、咲雪さんは」
そのまま声を上げて笑う。何だか酷くおかしかった。
ある意味では、志々雄や剣心以上に咲雪は厳しいと思う。
それでも、その厳しさは嫌じゃなかった。
空気が冷たいせいもあるのだろうが、その日の夕飯はとても温かく、そしておいしかった。