―第十七章:寒梅、花をつけしや未だしや 弐―
朝。
昨夜の吹雪が嘘のように、天気は快晴だった。
煌々と地を照らす陽の光は雪に反射して更に眩しく、見る者の目に突き刺さった。
高さが一尺に届くかという程雪は積もっていて、山や野原、そして村を白で埋め尽くしている様はまさに雪国、といった観を呈していた。そしてその白に反して、空には透き通るような青。
雪の重みで軋む木戸をようやく開け放って見た景色に、宗次郎は思わず目を細めた。吐く息は白く、生まれるそばから空気へと溶けていく。
「へぇ、こうして見ると結構綺麗ですね」
「そうかもね。でも、呑気なこと言ってる場合じゃないわよ」
背後から聞こえてきた溜息交じりの声に宗次郎は振り返る。
咲雪だった。木綿の白の着物にもう一枚厚手の着物を羽織った姿でそこに立っていた。昨夜は(当たり前だが)二人別々の部屋で寝ていたので、今日は宗次郎は今初めて咲雪と顔を合わせた。
「おはようございます、咲雪さん」
「おはよう」
挨拶もそこそこに、咲雪は手にしていた平べったい二枚の板を宗次郎に押し付けてきた。板には二つの穴が空けられ、そこに縄が輪になるように通されている。宗次郎は何となくその縄の部分を摘んでぶらんと吊り下げてみた。
「何ですか、コレ」
「カンジキよ。雪が柔らかいうちに道を作っておかないと」
説明しながら、咲雪は雪駄の履いた足をその板の縄の輪の中に通した。細い足の先に大きな板をつけている様に、宗次郎はピンと来るものがあった。
「あぁ、北海道に行った時に見たことあります。形が大分違うけど・・・確か雪を踏み固めるのに使うんですよね?」
以前訪ねた北海道もまた積雪量の多い土地だった。そこに住む人々は、先人より伝わる厳しい自然と向き合って生きていく智恵を持っていた。
北海道のカンジキは、桑の木などを湯の中で曲げて加工し、歩きやすいように先端を反らせた形をしていたが、咲雪の持つカンジキも用途は同じ。新雪を踏み固めるのに使うもの。
「分かってるなら話は早いわ。協力してね」
宗次郎の返事を待たず、咲雪は手始めに玄関前の雪をカンジキを履いた足で踏み固めている。宗次郎も咲雪に渡されたそれを見様見真似で足に着けると、むぎゅむぎゅと雪を踏み始めた。時々雪が足先に触れ、足袋を湿らせた。雪の冷たさがじんわりと伝わってくる。
雪が固くなる前に踏み固めて道を作っておくことは、雪国に住む者にとっては日々の習慣なのだろう。よくよく村の方を見てみれば、村人達もそれぞれの家の前に出て、おのおのが道を作ったり、屋根の雪かきをしていたりするのが分かる。
咲雪の家から村へと続くように道を作っていると、自然に村人達との距離も近くなり、宗次郎はとりあえず一番近くにいた中年の男に声をかけてみた。
「おはようございます。毎日大変ですねー」
するとその途端。
その声が聞こえる範囲にいた者が、一斉に宗次郎の方を見た。そうして次に咲雪へと視線を走らせ、怪訝な顔をして近くにいる者と何やらヒソヒソと囁き合い出した。
ちらちらと宗次郎と咲雪の様子を窺っている様が、恐らくは良からぬことでも話しているんだろうといった空気を醸し出している。
そうして彼らは挨拶を返すことも無く、そそくさとその場を去っていってしまった。
「あれれ・・・」
一気に村人が退散していく様子を、宗次郎はぽかんとした顔で見送るしかない。その後ろから咲雪が、溜息交じりで事も無げに言う。
「気にすること無いわよ。あの人達、いつもあんな風だから」
「はぁ・・・・」
いや、僕は別に気にしてませんけど、と宗次郎は心の中で続けた。
(気にするとしたら、咲雪さんの方なんじゃあ?)
そもそも、咲雪は昨日村人達から口汚い言葉と共に石を投げつけられていたくらいだ。そうであるにもかかわらず、その当事者である咲雪は不思議と平然としている。
「さ、今度は屋根の雪かきよ」
言いながら、咲雪は早くも宗次郎に背を背けている。
或いは、ずっと昔の宗次郎が笑顔で身を守っていたのと同様に、咲雪も無関心を決め込むことで自分自身が傷付かないようにしているのかもしれない。
定かではない憶測をぼんやりと思い浮かべながら、宗次郎は咲雪のその後を追おうとした。けれどその目の前で、咲雪の体が不意にぐらりと傾いだ。艶やかな黒髪が揺れる。
「!」
咲雪の横に回り込むようにして、咄嗟にその肩を宗次郎は抱き止めた。
軽い。
昨日も咲雪の体は華奢だと思ったが、見た目よりもずっと、咲雪の体は軽いように感じた。支えた肩も酷く薄い。肉感が無く、着物越しでも骨に触れている感触がある。
いや、これは華奢というよりも、あまりにも細過ぎるような・・・・。
(冬場だし、普段あんまり食べてないのかな)
どこかズレたことを考えながら、宗次郎は咲雪の顔を覗き込んだ。途端に咲雪はぎょっとしたような顔になる。
「大丈夫ですか?」
「あ・・・・へ、平気よ」
咲雪はパッと宗次郎から離れた。それはどこか動揺している風にも見え、慌てている風にも見えた。咲雪は雪の上にたたらを踏みながらも、何とか堪えてしっかと立つ。
咲雪は頬にかかる髪を軽く耳にかき上げながら、平然と言う。
「ちょっと、眩暈がしただけだから」
「ならいいんですけど」
当の本人がこう言っていることだし、と宗次郎は深く追求せずに頷く。
「さ、それじゃあ朝ご飯にしましょうか。お腹も空いたし」
「そうですね」
今度は大いに賛成しながら頷く。朝食も取らずに動いていたからお腹はぺこぺこだ。寒い中にずっといたから、何かあったかいものが食べたいなぁ、と思わずにはいられない。
そうと決まれば早く家に戻ろう、と宗次郎は足を踏み出す。けれど先に言い出した咲雪が何故か、ぴたりと動きを止めてしまっている。
何歩か歩いたところで宗次郎も歩みを止め、咲雪の方を振り返った。咲雪は何かを考え込むかのような顔をしている。漆黒の瞳からは、何を考えているのかは読み取れない。
「どうしたんです?」
「ちょっと聞きたいんだけど・・・」
何ですか?と宗次郎は首を傾げた。雪は止んだものの空気はまだ冷たく、風に晒された頬がほんの少しだけピリピリと痛む。
寒さで咲雪も頬を少し紅潮させながら、宗次郎をじっと見ている。
「あなたの旅ってさ、どこか目的地はあるの?」
「目的地、ですか?」
宗次郎はう〜んと空を見上げた。
目的地はあるようで無い。自分自身の真実を見つけられる場所なんて分かるはずもなかったし、ただ色々なところを流浪れてみればそのうち何か分かるかなぁ、といった足の向くまま気の向くままの旅だったから、目指す場所は特に決まってはいない。ただ、今は一応進路を北に向けていたので、また日本列島を北上して行こうとは思っている。
「特に無いんですけど、とりあえず、北ですかねぇ」
「そう・・・」
宗次郎の返答を聞いて、咲雪は顎に手を当てて再び何事かを考え込むような仕草を見せる。そうして、懸念するような眼差しを宗次郎に向けて。
「北、ねぇ・・・・。でも、先に進むのは止めといた方がいいかもね。この先は当分村も無いし、いつまた昨日みたいな吹雪があるかも分からないから。今朝は一晩で止んだから良かったけど、何日も吹雪く、なんてこともザラだし」
「そうなんですか?」
確かに昨日、しばらくはこの村で足止めを食うかもしれない、と咲雪から聞いたが、どうやらそれは俄然真実味を帯びてきたようだ。
幾ら宗次郎が強いといっても体は生身の人間、吹雪という自然の驚異の前では剣の腕も役に立たない。
目を丸くした宗次郎に、咲雪は忠告するように続ける。
「雪の中で生き倒れ・・・・なんてことになりたくなかったら、しばらくはこの村にいた方がいいわよ」
「う〜ん、まぁ別に急ぎの旅ってわけでもないし、僕は構いませんけど・・・・」
何せ、目安は十年の旅だ。残りはあと約半分あるし、急ぐ必要など無い。急いだところで答えが見つかるわけではないし、先程の問いに返したように目指すべき場所も今は無い。
だからしばしこの村に滞在することになったところで一向に構わないのだが、問題はその滞在する場所だ。
昨日と今朝の村人の態度からして、咲雪の言う通り誰も宗次郎を泊めてくれはしないだろう。そうなると、雪で野宿ができない以上、この村にいる間はずっと咲雪の家で寝泊りする他無い。
勿論咲雪もそれを分かった上で言ってくれているのだろうが、村人達から苛められていてしかもあまり裕福でない一人暮らしで、その上更に旅人を抱え込んで果たして大丈夫なのかと、宗次郎は一応確認を取ってみる。
「でも、咲雪さんはいいんですか? その、しばらく僕がご厄介になっても」
「ええ、別にいいわよ」
あっさりと咲雪は言葉を返す。
宗次郎の方は別に何を気にする風でもなかったから、素直にその申し出に頷く。雪国の滞在で毎日の宿が確保できたのは有り難いし、せっかくの厚意は受け取っておこう。
「じゃあお言葉に甘えてしばらくお世話になりますけど・・・・しばらくって、どのくらいでしょうね」
「そうねぇ・・・」
呟きながら、咲雪は歩みを再開した。すたすたと宗次郎の隣を通り抜けて家の方へと向かう。あれ、と思いながら宗次郎がその後をついていくと、咲雪は積雪量が少ない場所を選んで家の裏側に回り込もうとしていた。カンジキを履いた足では普段のように小回りがきかなかったが、それでも雪を踏みつけるようにして咲雪も宗次郎も歩いていく。
そうしてようやく咲雪の家の裏側に辿り着くと、そこには一本の木が立っていた。高さは宗次郎や咲雪よりも一尺ほど上、厳しい寒さにも負けず広々と枝を広げている。幹の太さは両手で輪を作ったほど、大きな木とは言えなかったが、それでも雪景色の中に黒く締まった木肌を晒している姿は凛々しく見えた。
植物にさほど詳しくは無い宗次郎は断言できなかったが、多分梅の木かな、と見当を付けた。
「何の木ですか、これ」
「梅よ。花が咲いたら、春はもうすぐってとこね」
予想通り、それは梅の木だった。よくよく見れば、伸びた枝の先にはまだ固く閉じている小さな蕾があちこちにある。赤茶けた皮の中に鮮やかな白を秘めて、春の訪れを待っているのだ。
「そしたら、ほとんど吹雪の心配はなくなるから。大体そのくらいまでかな」
「へぇ・・・」
穏やかな眼差しで蕾の開き具合を見ている咲雪に、宗次郎は短く声を漏らす。
花が咲いたら綺麗だろうなぁ、とか、とりあえずはそのくらいまではこの村にいようかな、とかそういった感想は浮かぶが、生憎と植物を深く愛でるような感概を宗次郎はあまり持ち合わせてはいなかった。とはいえ、花が咲いたら見てみたいな、くらいは思いはしたが。
「さてと。それじゃあ遅くなっちゃったけど、今度こそ朝ご飯にしましょうか」
「そうですね」
先程と同じような会話を繰り返しながら、二人はまた苦心しながら家の表側へと出ると、ようやく朝餉を取るために家の中に入ったのだった。
そうして、宗次郎が咲雪の家に厄介になるようになってから、二週間が過ぎた。
村人達の様子は相変わらずで、たまたま道で通りすがったりした時に宗次郎が声をかけても、返事もしようとはしなかった。むしろ、係わり合いになりたくないとでもいった風に足早に立ち去っていく。
(ま、いいけどね)
そっちが干渉したくないというのなら、宗次郎の方だって別に構いはしない。ずっとこの村で暮らすというのならともかく、とりあえずは春までの滞在というわけだし。
咲雪に対する村人達の態度も、相変わらずだった。
流石に宗次郎と道を歩いている時は石を投げてはこなかったが、咲雪が一人で出かけた帰りなどはやはり石をぶつけられてきたような痕跡があった。宗次郎がこの村で過ごすようになってから村人達の風当たりも強くなったのだろうか、初めて会った時よりも多くの石をぶつけられているようだった。着物の汚れや、動く時に時折痛みに耐えるような顔をしているからそれが分かる。
けれどそれを咲雪はわざわざ宗次郎には言わなかったし、痛いという素振りもほとんど見せようとはしなかった。
ただ、手足に残る赤い痣にふと宗次郎が目を止めたりすると、それでも咲雪は何てことは無いといった風に、
「気にしてないわよ、こんなの。慣れっこだし」
と言ってのけ、更には、
「どーせあの人達、私のことを疎ましく思ってる癖に、この程度のことしかできないんだから」
とまで言う始末だった。
平気そうに振る舞う咲雪は、実際全く気にしていないでいるのかもしれなかったが、それでも逆にその平然としている様子の方が、宗次郎はいつの間にか気にかかるようになっていた。
(咲雪さんはああ言ってるけど。本当に平気なのかな)
思い出すのは、己の過去のことだ。疎まれ、理不尽に虐げられたかつての自分・・・・咲雪のように石を投げつけられる程度の、生易しいものではない。毎日、殴られて蹴られて、終いには命まで脅かされた。理由の一端は宗次郎にもあるが、それでも幼い子どもにはあんまりな仕打ちだった。
その辛さに耐えかねて、自分に降りかかる被害を減らし己の身と心を守る為に、宗次郎は上辺だけの笑顔を浮かべ始めた。来る日も来る日も笑っていた。笑って痛みに耐えた。ただその術を繰り返した。どんなに痛くても、悔しくても、笑ってさえいれば平気だから。
けれど本当は、平気なんかじゃなかった。どんなに笑顔を浮かべていたって、痛いものは痛いし、抗えずに暴力を振るわれたままになっているのは悔しかった。
そんな思いは、あの雨の日以来忘れていた。意識してそうしていたわけではないが、それでも無意識のうちに忘れようとしていた。
緋村剣心との闘いの際に意に反して思い出しはしたけれど、それでも普段はわざわざ掘り返すようなことはしない記憶だった。
それなのに、咲雪を見ていると連想せずにはいられなかった。
咲雪が酷い仕打ちに対して怒ったり悲しんだりしていない分、余計に。
「・・・・何? ぼ〜っとして人のこと見て」
「え? 僕、ぼ〜っとしてました?」
けれど本人、どうやら自覚は無いらしい。ぼ〜っとしていたことにも気付かずにぼ〜っとしていた宗次郎に、咲雪はどこか呆れたように小さく息を吐く。
咲雪と過ごす一日は、朝は雪が降ったら雪かきをしたり屋根の雪下ろしをしたり、昼は畑に行って菜っ葉の様子を見たり山で柴を刈ったり、夜は家に戻って笠や草鞋を作ったりと、大体毎日そんな流れだった。そうして一日一回は、家の裏にある梅の木の様子を見に行く。蕾はまだまだ、小さいままだった。
冬は作物をほとんど期待できないし、秋に収穫した分にも限りがある。まして咲雪は生活に困っても村人達は誰も手を差し伸べてくれない状況であるらしく、ほぼ自給自足でまかなうしかないようだった。
食料は田畑を耕して得、金銭は笠や草鞋の内職で稼ぐ。それにしたってようやく一人で暮らしていける程度だというから、世話になっている宗次郎もその咲雪の手伝いをするようになった。最も宗次郎は旅の途中で、世話になった人達にお礼代わりに家の仕事の手伝いをするということが良くあったし、住み込みでどこぞの店で働いたという経験も大いにあったから、咲雪の手伝いも彼にとってはごくごく自然のことではあったが。
そういうわけで、今丁度二人は柴刈りに精を出しているところだった。咲雪は小振りの鉈で木の枝をそぎ落としていく。刃物の扱いには宗次郎も十分に慣れていたから、同じようにして要領良く刈っていく。
数刻経った後には、二人の周りには柴の大きな束が四つもできていた。
「ありがと。手伝ってくれて助かったわ」
「いいえ、助けてもらってるのはお互い様ですから」
屈託無く宗次郎は笑う。今日はこうして野良仕事に出られるほど空は晴れ渡っているが、厚い雲に覆われ朝から晩まで吹雪くといった日も少なくなかった。
咲雪の言った通り、この村で留まって正解だったかもしれない。
「陽も暮れそうですし、そろそろ帰りましょうか」
「そうね」
高くそびえ立つ木々の合間から見える空は、うっすらと茜がかっている。少しずつ日が延びてきたとはいえ、それでも冬場の日暮れは早い。
近くに置いてあった籠に二つの鉈を仕舞い、咲雪はそれを背に背負う。そうしている間に、宗次郎は柴の束をそれぞれの手に二つずつ、ひょいと持ち上げてしまう。
顔に似合わぬ仕草に、咲雪もほんの少しびっくりして。
「・・・・重くないの?」
「大丈夫ですよ、このくらい」
軽々、といった風に宗次郎は持っている。束が大きいから少し歩きにくそうではあったが、それでも重さに問題はないようだった。幼少時から鍛えられている宗次郎にとっては、実際大したことではない。
「じゃあ、お願いしようかな」
咲雪はどうしてだか複雑そうに笑いながら、そのまま宗次郎に頼ることにした。籠を背負い直し、雪の残るなだらかな山道を下っていく。宗次郎もその咲雪の後を、重い荷物を持ちながらもそれでもしっかりとした足取りで歩いている。
咲雪の家の近くまで山を降りてきた時には、夕陽の朱が空の青と混じり、淡紅色が空一面を染め上げていた。空気までもが、ほんのりとその色に染まってきているようにも思える。全てを包み込むような暖かな色だ。
「・・・・綺麗ね」
目を細めて、咲雪は空を見上げる。普段は冷静な表情も、その時ばかりは柔らかく緩む。
つられるようにして、宗次郎も笑っていた。
「薄紫色というか、桃色というか・・・・そんな色の空ってこの時間にしか、それもほんのちょっとの間しか見られないから、余計そう思うな」
「そうですねぇ」
恍惚と空を見つめる咲雪ほどの感動は宗次郎には無い。それでも、素直にその空は綺麗だと思った。今までに何度も見たことはあるのに、そのものにしっかりと意識を向けると、こうも見え方は違うのだろうか。
「もう五年も、旅してるんだっけ」
唐突に、咲雪は尋ねてきた。脈絡のない問いだと思いながらも、宗次郎は咲雪の方へと顔を向けた。
「ええ、まぁ」
「そんなに旅してるんなら、きっと色々なものが見えるよね。空はどこでも見えるけど、その土地でしか見られないもの、とかさ」
「そうだなぁ、確かに、色んなものを見てきたと思います」
話を振られて、宗次郎は頷く。町の様子一つとっても、その土地土地で違うものだ。建物の並び方、人々の様子、近くの町同士を行き来しているだけではあまりその差は無いようにも見えるが、日本という広い場所のあちこちを巡って大きな尺度でものを捉えてみると、確かに色んな物を見てきたように思える。
それに、見てきたのは目に映る事象だけではない。見ようとしなかった自分の内面、人の心、そういったものも少しずつ見え始めてきた。自分一人で歩くことで。まだきっと、何も見えていないことも多いけれど。
「ねぇ、何で宗次郎は旅をしてるの?」
「う〜ん、話せば長くなるんですけど・・・・」
宗次郎は笑いながら頭を掻いた。流浪人だと名乗り、全国を旅しているのだと告げれば、大抵すぐにこの問いが返ってきた。不思議と咲雪は今まで訊いてきたことは無かったのだが。
別に隠すようなことでもないし、とはいえ詳しく述べると込み入った話になるので、宗次郎はこの質問にはいつも簡潔に返事を返している。
「僕自身の真実を探してるんです」
「・・・・?」
そして大方の反応と同じように、咲雪も怪訝な顔をして首を傾げる。苦笑しながら、宗次郎は補足する。
「僕に色んなことを教えてくれた、二人の男の人がいたんですけど・・・」
その二人は言うまでもなく、志々雄真実と緋村剣心だ。
「その人達が自分の中の真実を見い出すまでに十年かかってるんです。だから僕もそのくらいすれば、自分の真実が分かるかも、って思って旅をしてるんです」
結局は弱肉強食の理念に戻るのか、或いは剣心のような弱い者は守るという道を進むのか、それともまったく別の答えを見い出すのか。
本当に十年で答えを出せるかどうかなんてまだ分からない。けれど、それでも自分で決めたことだから、あと五年は流浪れてみようと思う。
「ふぅん。自分の真実、ね。私はそんなの、考えたことも無かったけど・・・・」
咲雪は感心した風な笑みを浮かべた。
「旅をする前にもあったの? その、自分の真実って」
「ええ。まぁ、でも、人の受け売りでしたけどね」
「それって、どんなの?」
興味があるらしく、咲雪は次々に問いかけてくる。言っていいものかしばし迷って、けれどまぁいいかと宗次郎は素直に教える。
「所詮、この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ」
頭と心にしっかと焼き付いていても、その言葉をこうして実際に口にするのは久方振りだった。声に乗せると、思い浮かべるだけよりもなお自身に響いてくるから不思議だった。
「前は、ずっとその言葉を信じてました。弱い者は死に、強い者だけが生き残るって。それが全てだって、それだけがこの世でただ一つの真実なんだって」
確かに、以前はその言葉を心から信じていたし、身を以って学んだからそれのみが正しいと、自分は間違ってないと思っていた。それでも今はその言葉だけに頼らず、真実の答えを自分で探してみようと、それでこうして旅している。
だから宗次郎は、でも、と続けようとした。けれどその逆接の言葉が紡がれることは無かった。
いつしか不機嫌そうな表情になっていた咲雪がその前に、先に口を開いたからだ。
「・・・・何よ、それ」
その刹那。
咲雪の二重の切れ長の目が射抜くように宗次郎を見、そして冷ややかに細められた。
「所詮この世は弱肉強食? 強ければ生き、弱ければ死ぬですって?」
かつての理念をそのままそっくり、咲雪は口にした。
ただしその声色は、今までに聞いたことが無いくらい冷めたものだった。
「弱肉強食が全てだとしか考えられないなんて、可哀想な人ね」
呆れたように、吐き捨てるように咲雪は言った。或いは蔑むようにだったか。
咲雪がどうしていきなりこんな風に憤りを顕にするのか、宗次郎には分からない。
「えっと・・・・」
予期せぬ反応に宗次郎も二の句が告げない。弱肉強食なんて間違ってる、といっそ言われた方が、きっと何かを反論できただろう。それなのに、咲雪のその言葉に何と返したらいいのか、宗次郎は思い浮かばなかった。
困った風に笑っている宗次郎を、咲雪は冷たく一瞥して、にべも無く言い放つ。
「・・・ごめん。先帰る」
そのまま振り向きもせず、すたすたと坂道を降りていってしまう。
宗次郎はそれをぽかんとしたまま見送るしかなかった。どうして、咲雪はあんなに怒ってるんだろう。
無論、弱肉強食の理念を否定してきた者にも、あの闘いの中や旅の途中で何人も出会っていた。けれどそれでも、真っ向から否定されるより、咲雪のその言葉は宗次郎の胸に残った。
空の茜色はいつの間にか失せ、少しずつ夜の闇が侵食していく。
『弱肉強食が全てだとしか考えられないなんて、可哀想な人ね』
僕が可哀想? 可哀想って何?
―――可哀想って、何で?
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