雪は白く、風も白く。
―第十六章:寒梅、花をつけしや未だしや―
奥州の冬は厳しい。
まだ年も明けて間も無い、明治十六年、一月。それまでの旅路で日本の北と南とを行ったり来たりしていた宗次郎は、再び進路を北に据え、陸奥の国の山間の道をひたすらに進んでいた。空は白い雲で厚く覆われていて、雪こそ降っていないものの空気は肌を刺すように冷たく、流石に防寒の為に何枚かの着物を羽織っていた宗次郎でも、吐く息もまた真白かった。
その腰に刀は―――後に手に入れることになる天衣はまだ無かった。旅の途中でいざこざに巻き込まれたことはあれど、それでも普段の旅に刀は必要としないものだったから。
雪駄を履いた足で積もった雪を踏みしめながら宗次郎は歩く。はぁ、ともう一つ白い息を吐いて、宗次郎は空を見上げた。あどけなく、どこか幼い瞳に映るのは、厚い雲で太陽の光が遮られたぼんやりとした空。恐らくはそろそろ夕刻に差し掛かるのだろうが、この空でははっきりとした時の流れが分からない。
それでもそろそろ、どこかの村でも見つけて泊まらせてもらわないとまずいかなぁ、と宗次郎は足を速めた。今の季節、雪に塗れたこの森の中で野宿するのには流石に無理がある。
その考えに呼応するかのように、鬱蒼とした木々の向こうに村が見えてきた。褪せた茶と緑と、土の上に積もった雪の白さといった鮮やかでない色しかない冬の森を抜け、長い坂道を下ったところに存在する雪に覆われた村。茅葺き屋根で覆われた民家の数は十と少し、大きな村とは決して言えないが、それでも今の宗次郎にとっては有り難かった。
(良かったぁ、村があって。前に冬に野宿した時に凍え死にしかけたもんなぁ)
さらりと空恐ろしいことを思ってから、宗次郎はその村に向かって歩き出した。こういった小さな村では、どこか他所の者を受け入れない閉鎖感があったりするのだが、もしかしたら人が好い人もいるかもしれないし、頼み込めば小さな納屋に寝泊りくらいさせてくれるだろう。
楽観的に考えながら、宗次郎は更に村へと続く坂道を行く。人が行き来するからか雪が溶け所々砂利がむき出しになったその道を半分ほど下ったところで、宗次郎はおや、と思ってふと足を止めた。
前方に数人の村人らしき者の姿が見える。手拭いを頭に被り茶や紺といった色を基調とした農民風の着物姿で、がやがやと声を上げて歩いているものだから、てっきり皆で農作業からでも帰ってくるところなのかと思ったら、それは違っていた。
数人の男女が、一人の少女に向かって石を拾って投げつけていた。少女はおよそ十八、十九といった年頃だろうが下を向いているためにその顔は分からない。長い黒髪を背に垂らし、腰の辺りで一つに結わえている。彼女の方こそ農作業の帰りなのだろう、肩にかけた籠には鎌が入っている。
道の両脇から石をぶつけられてもその少女は怯まず、俯いたまましっかりと歩き続けていた。
「早くこの村から出ていけ!」
「そうだよ、この疫病神!」
「お前は元々この村の者じゃねーからな、さっさと出て行くんだ!」
近付くにつれ、少女に向けての罵詈雑言の言葉がはっきりと聞こえてくる。少女はそれにも何も答えず、ただひたすらに歩みを続ける。
その理不尽な仕打ちに怯まない姿に余計苛立つのか、周りの者達は更に石を拾っては少女に向かって投げ続けていた。少女の体にその石つぶてが当たるたびに鈍い音が上がる。
事情は分からないが、あまりいい光景ではない。
集団で一人を寄ってたかって虐げる様に、宗次郎は無意識に過去の自分の姿を重ね合わせ、知らず知らずのうちに足を更に速めていた。
「あの〜、何やってるんですか?」
「何だ、てめえは!?」
輪の中にひょいと乱入してきた宗次郎に、村人達は少女の石を投げるのを止め、一斉にそちらを見る。険しい表情はそのままで、邪魔が入ったことを明らかに不愉快に思っている顔だ。
少女もまた俯いていた顔をほんの少し上げ、前髪で表情が隠れてはいたが、その目線だけを宗次郎に向けていた。
疑惑と不信の目を一身に受けながらも、宗次郎は少しも動じる様子は無く、
「何って・・・・僕はただの流浪人です」
しれっとそう名乗った。飄々としたその態度が更に村人の怒りを煽ったのか、少女苛めの大将格と思われる若い農民風の男がずいと一歩前に出、宗次郎に食って掛かってきた。
「流浪人だぁ? 余所者がこの村に何の用だ?」
「とりあえずは一夜の宿をどうにかしようと思って来たんですけど・・・・その前にあなた達の姿が目に入ったので」
にっこりと宗次郎は微笑む。齢二十三には到底見えぬ、にこやかでどこか達観した風な、それでいて幼いその笑顔。
「事情は良く分からないけど、一人に対してみんなで、っていうのはあんまりなんじゃないですか?」
まるで子どものようなその笑顔に気圧されたわけではないのだろうが、それでも宗次郎のその笑みは村人達の気を削ぐのに十分なようだった。何を言ってものれんに腕押し、といった風な宗次郎のにこにこした顔を見て、村人達は皆、面白くなさそうに舌打ちする。
「余所者がこの村のことに口出しすんじゃねぇ! この女は疫病神なんだからな」
「そうだよ、あんたもこんな女なんか助けて、どうなっても知らないよ!」
威勢良く憎まれ口を叩きながらも、村人達は少女に石を投げるのを止め、ぞろぞろとそれぞれの家へと帰っていく。家に入った途端その戸が勢い良くぴしゃんと閉ざされ、この村もまた厄介者はひたすらに拒絶する、という姿勢が見て取れた。
そんなものはこの旅の中で慣れっこだったから(勿論、例外も多々あったが)、宗次郎は大して気にせずに、笑顔のまま小さく息を吐く。
そうして改めて少女へと向き直る。少女は相変わらず俯いていて、その表情は見えない。
「あの、大丈夫ですか?」
問うたものの、少女が大丈夫でないことは明白だった。
少女の歩いてきた道筋に落ちている十を超える小石の数、そしてそれを投げていた者達のことを考えれば、薄汚れてしまったその白い着物の下の肌のあちこちには、痣や打撲傷ができているに違いなかった。
それに、何故彼女がここまで村人達から忌み嫌われているのかは分からないが、それでも疫病神呼ばわりされていれば多少なりともその胸の内は傷付いているはずだった。未だ情に疎い宗次郎は、その少女の心情まで図り知ることは勿論無かったのだけれど、ただそれでも過去の己の経験もあって、あんな風に言われてるんじゃ嫌だろうな、とふと思った。周りの者から厄介者扱いされた時の気持ちならばよく知っていた。
少女はまだじっと下を向いている。もしかして泣いてるのかな、と宗次郎は思った。
もう一度、あの、と声をかけようとして、けれどその時その少女はようやく顔を上げた。
前髪で隠されていたその表情がようやく顕になる。少女は泣いてはいなかった。むしろ、強い意思を秘めた瞳をしていた。どんなに虐げられても、いわれなき暴力には決して屈することの無いような。少女の整った顔立ちの中でも、その黒目がちのきりりとした瞳が印象的だった。
石つぶてを顔にも受けたのだろうか、頬が幾らか赤くなってはいたが、その痛みをまったく気にすることなくその少女は毅然として立っていた。
その凛とした姿に、宗次郎もどこか虚をつかれた気分だった。
「えっと・・・」
咄嗟に何と言ったらいいのか思い浮かばず、宗次郎は口篭った。
そんな宗次郎を見て少女はふっと笑うと、右肩にかけてある籠の紐に手をかけ、しっかりと背負い直しながらこう言った。
「あなた、馬鹿ね。私なんか助けたって一銭にもならないのに」
礼の言葉を期待していたわけではないが、それでも少女のその一言は予想外だった。
宗次郎が呆気に取られ、ぽかんとした顔をしていると、少女はまたくすりと笑った。
「この時期に旅人なんて、珍しいわね。そうでなくたって、この村に余所の人なんて滅多に来ないのに」
「はぁ・・・・」
少女の気の強さを思わせる口調に何となく口を挟めなくて、宗次郎は生返事を返すしかなかった。
後先考えずにこの人を(結果的に)助けちゃったけど、これからどうしようかな。宗次郎がぼんやりとそんなことを思案していると、一片の白いものが目の前に降りてきた。
雪だ。
それに気付いて空を見上げると、更に厚さを増した雲からひらひらと幾つもの雪が舞い降りてくるのが見えた。後から後から雲から生み出される雪を見ていると、何だか空に飲み込まれそうな錯覚すら覚える。
同じように空を見上げていた少女が、雪から目を離さぬままぽつりと呟いた。
「今夜は吹雪くかもしれないわね」
「え、本当に? 参ったなぁ、まだ今日の宿も見つけてないのに」
笑いながら宗次郎が言うと、少女はそちらへとついと顔を向け素っ気無く言い放った。
「さっきみたいな事の後じゃ、誰もあなたを泊めてなんかくれないと思うよ」
「あはは、じゃあ野宿しかないかなぁ」
少女の返答に宗次郎は笑うしかなかった。行き当たりばったりでも一夜の宿くらいどうにかなると思って旅を続けてきたが、ちょっと甘かったのかもしれない。確かに、先程の出来事で村人達の反感を買った以上、そう易々とこの村に寝泊りなどさせて貰えないだろう。
最も、この少女を助けなければ良かった、等と宗次郎は思ってはいなかった。正義感から首を突っ込んだわけではなく、ただ単に数人で一人を取り囲んで・・・というのが宗次郎に僅かな不快感を与え、それで割って入ったに過ぎなかったのだが、結果的にその事が元で村に泊めてもらえなくなっても、仕方のないことだし、少女も無事だったのだからまぁ良しとしよう、と宗次郎は思う。大体、あのまま見て見ぬ振りをして通り過ぎていたら、それはそれで気分が悪くなったことだろう。
冗談抜きで野宿かな、これは。
もう一度空を見上げ、宗次郎は白い息を口から零しながら考える。頭に降る雪が髪に触れた側から溶け、或いは積もり、宗次郎の髪を濡らしていく。それでも宗次郎は数え切れない雪の華が空から無数に降りてくる様に魅入られるようにして、なおも空を見上げている。
そんな宗次郎の、子どもめいた無邪気さをも感じさせる様を見ていた少女は、静かに彼に問いかけた。
「まさかあなた、本気で野宿しようと思ってるんじゃないでしょうね」
「え? 思ってますけど」
宗次郎の返答に、少女はどこか脱力した風に溜息を吐いた。それすらも白い吐息となって、ふわりと宙を昇っていく。
「こんな日に野宿なんかしたら、明日の朝には凍死体よ」
さらりと告げる彼女の黒髪にもまた、雪があちこちにまるで髪飾りのように纏わりついている。
こうして改めて少女を見ると、石をぶつけられて顔のあちこちが腫れているとはいえ、それでもかなり色白の肌の持ち主であることが分かる。色素の薄いきめ細やかな肌。雪の白さには到底及ばないとしても。
少女はその冷然とした容貌をその時は緩め、柔らかく微笑った。
「私を助けてくれた恩人を、そんな目に合わせるわけにはいかないわ」
尚も雪は、その花弁の数を増していく。しんしんと静かに降り続く雪の中で、無愛想な表情から一転、優しげな笑みを浮かべる彼女はまるで雪国地方の伝説に出てくる雪女みたいだと、宗次郎に連想させた。
「狭い家だけど、あなた一人くらいなら泊まれると思うから・・・良かったらついてきて」
それだけを言うと、少女は宗次郎の返事を聞かず歩き出した。少しずつ離れていく後姿と、雪の降る空とを交互に見遣りながら宗次郎はしばしう〜んと考え、
(でも確かにこの天気で野宿は厳しいかも・・・・。あの人もいいって言ってくれてるんだし、お言葉に甘えた方がいいのかな)
素直に少女の申し出を受け入れることにし、足早にその後を追いかけた。
大して労することも無く少女に追いつく。隣を並ぶようにして歩くと、少女の背は宗次郎よりも二寸ほど低く、すらりとした華奢な体つきであることが見て取れた。
これであんなに石をぶつけられてたんじゃ、かなり痛かっただろうな、そんなことを考えながら少女にちらと目を遣ると、ほぼ同時に少女もまた宗次郎の方に振り向いた。
「何?」
「え、あ。どうしてあんなに石を投げられてたのかなぁって」
率直に浮かんだ疑問を口にする。常識的な人間ならば、同じ村の人間を罵りながら、石をあんな風に投げつけたりはしないだろう。
最も、宗次郎もある意味では常識的ではない。同じ事を問うのにしても、普通の人間ならもう少し繊細さの篭もった問いかけをするに違いない。
だからだろうか。少女は宗次郎のその真っ直ぐな問いに表情を曇らせ、俯いてこう返した。
「・・・・それって、答えなきゃいけない?」
「えっと・・・・すみません」
それでようやく宗次郎も思い当たった。きっと、少女にとっては触れて欲しくない話題なのだ。その短い返答と、沈んだ表情でそれを知り、宗次郎は淡く息を吐き出しながら謝るしかなかった。他に何が言えただろう。
何となく気まずくなり、宗次郎は以後は無言のまま、少女と帰路を共にする。宗次郎が先程降りてきた村へと続く道を再び戻るようにして歩き、上り坂に差し掛かる手前で、少女はくっと左に折れた。根雪に隠れるようにしてほとんど分からないその道を、少女は慣れた足取りですたすたと歩いていく。宗次郎がこの村に入った時は気が付かなかった道だ。
その道をしばし進み、林の際の近く、村の中心地から外れているその場所に、ぽつんと少女の家は建っていた。一応屋根には茅を葺いてはいるが、家の造りは他の家々と比べると小さく、土壁も所々崩れているという有様だった。
立地の場と寂れた家の様子に、少女だけでなくこの家も村八分を受けているようだと、宗次郎はそんな感想を抱いた。
「粗末な家だけど、雪はちゃんと防げるから安心して」
「ありがとうございます。じゃあ、お邪魔します」
少女は木戸をガタガタと揺らしながら開けると、髪や肩の雪を振り払ってから家に入った。宗次郎も同様に全身の雪を払い、少女に続いて家に入る。
戸を閉めると、びゅうと隙間風がうねり声を上げる。少女は籠を肩から下ろし土間に置くと、雪駄も脱いで板の間へと上がる。そうして囲炉裏の近くに腰を下ろすと、向かい側に宗次郎も座るように促す。
「座布団も無くて悪いけど・・・」
「あぁ、別に構いませんよ」
宗次郎も板の間へと上がると、少女の勧めてくれた通りに囲炉裏端へと座る。まだ囲炉裏の薪に火は点されていない為、すぐに暖を取れそうには無かったが、それでも屋外よりは大分マシである。冷たい雪と風とが建物で遮られる分、外よりは暖かな空気で満ちている。
少女の家は、この囲炉裏の間とその奥の一室という二部屋しかない、小さな家だった。室内の土壁も柱の際などが崩れ、土台の格子状に組んだ木が見える箇所もあった。囲炉裏の間には小さな机、箪笥、行李といった質素な調度品しか置いておらず、その様子からこの少女が貧しい暮らしをしているであろうことが窺い知れた。
それに、外は更に風の音が激しさを増し恐らくは陽も暮れ吹雪いてきたというのに家人が誰もいないのを見ると、彼女は恐らくこの家で一人で暮らしているのであろうことも。
最も、女の一人暮らしなのに素性の知れない男を家に上げるなんて無防備だなぁ、と思う心は宗次郎には無かったが。精々思ったとしても、『女の人の一人暮らしなんて大変だなぁ』、程度である。
「やっぱり、吹雪いてきちゃったね」
「そうみたいですね」
男と女で一対一であることを気にする風でもなく、というよりも深く考えず宗次郎はのんびりと相槌を打つ。少女もまた宗次郎を意識している素振りは全く見せず、本当にただ恩人を家に迎えているだけ、といった様でごくごく普通の様子でマッチを擦って薪に火をつけ、囲炉裏にかけてある鍋を温めようとしている。
「流浪人、って言ってたっけ。でもこの雪じゃ、しばらくはここで足止めを食らうことになるかもね」
「う〜ん、そうかもしれないなぁ」
格子を嵌めた窓からは、雪がその隙間から遠慮なく家に入り込んでくる。寒さを遮断するために壁に打ち付けてある筵も、激しい風に煽られてほとんどその役目を果たしていない。
空気を切り裂くような、断続的に続く高い風の音に、確かにこれは外はかなりの吹雪なのだろうと思う。
外はそんな空模様ではあったが、少女の家の中は逆に薪に火が燃え広がったこともあり、次第に暖かくなってきた。宗次郎も囲炉裏に手をかざし、冷えた指先を温めている。
にこにこと笑いながら囲炉裏で手を温めている様は、幼い子どものする仕草のようにも見える。少女はそんな宗次郎をじっと見ると、ふと何かを思い出した風に尋ねてきた。
「そういえば、名前、まだ聞いてなかったね。何ていうの?」
「瀬田宗次郎です」
言われてみればまだ名乗ってなかった。同時に、少女の名前もまだ訊いていなかった。
宗次郎はそれを問おうと口を開きかけたが、その前に少女は薄く微笑みを浮かべて、真っ直ぐに宗次郎を見据えた。
「私は、咲雪。桐原咲雪」
さゆき、と少女は名乗った。
外は嵐でもはっきりと宗次郎の耳に届いた、よく通る声だった。
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