―第十五章:冷灰―
が蘇芳の屋敷に捕らわれている、と判明して二日が経った。
彼女が蘇芳の手の内にいる以上、宗次郎も剣心達も何の動きも取れず、ただ彼の言う連絡役をひたすら待つしかなかった。もっとも、ただ手をこまねいているばかりではなく、とりあえず静岡の浅葱の下へは翁の計らいで増と白尉が向かうこととなった。
「きっと、浅葱さんもさんのこと心配してるでしょうから」
宗次郎の話によれば、彼は妹想いの青年だという。妹が突然いなくなったことに衝撃を受けているに違いないと。
もしかしたら彼も事情を知り京都へと発っているのかもしれなかったが、いずれにせよ浅葱の今現在の状況を掴むには、静岡に行ってみる他ない。それに、妹ののことを伝えるためにも。郵便を使って手紙を送るより、移動術にも長けた御庭番衆の方が早く静岡に着くとの翁の判断だった。
脅し文句に使いはしたが、遠い地にいる彼へは蘇芳が直接手出しをしないであろうことも翁は看破していた。もし宗次郎達が京都で不穏な動きをし、それが蘇芳に知れたとて、その報が静岡に届くまでには時間がかかる。ならばその時差を利用して、先に静岡へと使者を出す。
何より、という直接的な人質を手中に入れそれにより宗次郎達を己のやり方に沿わすことができたなら、後はもう間接的な人質に用は無い。だから恐らくは浅葱の方はもう大丈夫だろう、という思惑も翁にはあった。
「それにしても、ホント嫌な奴よね〜その蘇芳って!」
葵屋の一室で、不機嫌を顕にしながらぶつくさと文句を言っているのは操。そんな彼女に苦笑しながらも、薫もまた相槌を打つ。
「そうね。でも、私も人質になったことがあるから分かるけど・・・・そのって子も、今頃不安でいっぱいでしょうね」
瞼を伏せ、思い出すのは十年前の記憶だ。鵜堂刃衛と雪代縁。かつて薫はこの二人の男に人質にされ、剣心との闘いに利用されたことがある。
剣心への心配が尽きず、また迷惑をかけてしまったという申しわけなさで胸がいっぱいだったことを思い出さずにはいられない。自身が経験したから尚のこと、その少女の胸のうちを思うと、薫も何となく苦い気持ちになる。
「でもさ、あたしちょっと意外だったな〜」
「何が?」
話題を飛躍させた操に、薫が不思議そうに聞き返す。操は目の前の卓袱台に載る茶を飲んで一息ついてから話を続けた。
「瀬田にそんな存在がいるってことよ。その子の話も全然しなかったしさ。ホラ、あいつって確かに十年前とは変わったかもしれないけど、あんまり人に執着しなさそうじゃない?」
操が示唆しているのはのことだろう。しばしう〜んと考えてから薫も言葉を返した。
「そうかもね。いつもあっけらかんとしてるしね。でも・・・・」
薫は出会った頃の宗次郎を思い出す。十年前、まだ流浪の旅を始めたばかりの宗次郎と北海道でたまたま出くわし、共に事件に関わった。その中で些細な感情の動きは見られたけれど、それでも確かに他人とは距離を置いているような、そんな感じがした。
正確に言えば、距離を置いているのではない。表面上はとても友好的で誰とだって穏やかに接しているのに、それでもどこか他人行儀で、一線を引いているようで。まるで他人との関わり方をよく知らないような、そんな印象を受けた。
その後も、宗次郎は旅の中で何度か神谷道場を訪れた。表向きの彼の姿はほとんど変わっていないようだったけれど、それでも薫は宗次郎が時を重ねるにつれ少しずつ、人との接し方も変わっていったように思えた。
それはきっと、彼が心の奥底に閉じ込めてきたずっと忘れていた何かを、長い流浪の中で少しずつ取り戻していったからだったのかもしれない。あの剣心ですら、彼個人という人間の基盤は同じでも、十年の流浪の前と後とで変わった部分はあるのだ。
『人は変わっていく』と剣心は言った。それは誰にでも当てはまること。常に変化し、不変であることは無いと。それでも勿論、変わることのない思いというものも存在する。けれど人間は誰しも、生きている限り成長を続けていくものだから。人としての根幹は変わらないとしても。
「剣心にだって、巴さんがいたんだもの。宗次郎君が旅の中で大事な人ができてたとしても不思議は無いと思うな」
「ふ〜ん・・・・そういうもんかなァ」
軽く返事を返しながらも、操は宗次郎の言葉を思い出す。
『僕も旅の間に色々あって、もう人は斬らないって決めたし、それにその刀も真剣じゃないですから』
まだ彼を頭から疑ってかかっていた頃、言われた一言だ。旅の間に色々、の詳細は知る由は無いが、それでもその中に、あの無情だった彼がそんな風な考えを持つようになった出来事というのも、存在するのだろうか。
「・・・・そういえば、剣路は?」
意図的に話題を変えたわけではないが、操はふと薫の側にいない彼女の息子のことを思い出す。操の娘の翠はというと、増と白尉がいなくなって人手の減った厨房にお手伝いをしに行っている。皿を運んだり並べたりといった簡単なものだろうが。
陽も山の端から大分離れ、葵屋ももうすぐ開店時間。あたしもそろそろ行かなきゃな、と操も思う。
「剣路なら、多分、その宗次郎君のトコね」
「えっ? 何でまた」
操がきょとんとして聞き返すと、薫はどこかバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「ほら、剣路って負けず嫌いでしょ。いつかは剣心の強さを超えたいっていつも言ってるけど、宗次郎君がその剣心の刀を折ったことがあるって知って以来、いつもちょっかい出しに行くのよね・・・」
成程ね、と頷きつつ、何となくその騒ぎが想像できて操も苦笑した。
「オイ、宗次郎! 今日という今日はお前に勝ってやる。覚悟しやがれ!」
「えぇ? 剣路君、またですかぁ?」
薫の予測通り、葵屋の中庭では剣路が宗次郎に喧嘩を売っているところだった。幼い頃の剣心に瓜二つの顔に不敵な笑みを浮かべ、手にした木刀をビッと宗次郎に突きつけている。
縁側に座っている弥彦は、見慣れた光景だといった風に頬杖をつきながら。
「懲りねェな、剣路。お前そう言って昨日もまるで相手にされてなかったじゃねェか」
「うるさい! 勝負ったら勝負しろ!」
薫以外は男所帯という環境で育ったためもあるだろうが、剣路は外見こそ剣心にそっくりといえど、その口調までは受け継がなかったらしい。持ち前の負けん気さは、むしろ薫の方に似ていたかもしれない。
「しょうがないなァ、一本だけだよ」
「そうこなくっちゃな!」
宗次郎の返答に剣路は喜びを隠せない様子だった。いかにもわくわくしている、という剣路の顔つきに、宗次郎も小さく笑みを零しながらも天衣を手に向き直る。
「ったく、剣心も蒼紫もどっか行っちまうし、こんなんで蘇芳達と闘えんのかよ・・・・」
弥彦は剣路より、むしろ自分の方が宗次郎相手に稽古したい気分だった。ぶすくれた顔をしている弥彦を横目で見て、宗次郎はまた淡く笑う。
蘇芳との闘いが控えているのは確かだが、それがいつなのかがはっきりしないのが現状で。まして人質がいる以上、以前のように探索に当たるわけには行かない。
余計な真似をすれば彼女に危害を加えると明言されているから尚更、だから剣心もここは相手に従うべきだと判断を下し、蘇芳からの連絡を待つ形となった。
弥彦はそう言った蘇芳のやり方に悶々としていたが、宗次郎もまた気を紛らわせるために敢えて剣路の相手をしている節はある。
「よし、行くぜっ!」
威勢のいい掛け声と共に剣路は木刀を振りかぶる。薫や弥彦といった神谷活心流の師範の教え方も良いのだろう、その剣は剣路がまだ九歳という歳であるにもかかわらず鋭いものだった。何より、父である剣心から譲り受けた剣才も恐らくは大きい。
(う〜ん、剣路君、前より腕を上げたなァ。もっと大きくなったらすごい使い手になりそうだなぁ)
のんびりとそんなことを思いながらも、鞘に納まったままの刀で宗次郎は難なくその斬撃を捌いている。所詮は子ども、と侮っている訳ではないが、それでも宗次郎にしてみれば剣路の剣はまだまだ未完成だ。
「くそっ!」
宗次郎が全く本気を出していないことが目に見えて分かるので、剣路は更にカッとなって打ちかかる。父はおろか、まだこの飄々とした青年にも自分の強さは遠く及ばないのだという自覚が、剣路の負けず嫌いな気質を更に奮い立たせた。
まるでずっと前の自分を見ているようだと、弥彦は微妙な懐かしさを覚える。
「これでも食らえっ!」
打ち合いが続き、膠着状態に痺れを切らした剣路が上段から思いっきり木刀を振り下ろす。宗次郎はスッと剣路の横に回りこんでそれをあっさりとかわすと、こん、と天衣の鞘でごくごく軽く頭を叩いた。
「なっ・・・・」
「一本、ですね」
呆気に取られている剣路を尻目に、宗次郎はにこやかに勝敗を告げる。
「面ありだな」
勝負の行方を見守っていた弥彦もニッと笑って審判を下す。あっさりと勝負がつき、剣路は怒りと悔しさでわなわなと震える。そうして汗一つかかずニコニコと笑っている宗次郎に、もう一度木刀を向ける。
「くっそー! もう一回だ、もう一回!」
「さっき一回だって約束したじゃないですか」
「うるさい! 負けっぱなしでいられるかっ!」
宗次郎が幾ら宥めても剣路はずっとこの調子である。困っちゃったなぁ、と宗次郎が弥彦の方を見て助けを求めようとした時。
先程まで縁側に腰を下ろしていた弥彦はスッと立ち上がり、神妙な面持ちで宗次郎を見据えているのに気付いた。いや、その剣呑な表情は宗次郎に向けられているものでは無かった。それを悟るや否や、宗次郎は後ろを振り向く。
葵屋の中庭と路地裏の道路とを隔てる薄い塀、五尺程の高さのその塀の向こう側に、宗次郎を鋭く見据えている青年がいた。陽の光に照らされ、その青年の黒髪は僅かに赤い色を帯びている。
彼は丁度、目から上の顔だけが見えるような形で葵屋の中庭を覗き込んでいた。青年のその目には、宗次郎に対する明らかな殺意と憎しみが見て取れた。
その視線に、宗次郎は思い当たることがあった。二日前、散歩を終え翠と共に葵屋に戻ってきた時、自分を鋭く睨みつける視線があったのを。その時は視線の主は見つからなかったし、気のせいかもしれないと流したが、今こうしてその相手を目の前にしてようやく気のせいではなかったと実感する。
その青年の、昏く尖った、冷たい瞳に。
「ごめん、剣路君。やっぱり勝負はまた明日ね」
「え〜っ!? 何でだよ?」
顔をその青年に向けたまま、宗次郎は振り返らずに剣路の挑戦をやんわりと断る。剣路の背丈では、角度があるためその青年の存在が察知できないので、尚更不満を募らせる。
「どうやら、僕にお客さんが来たみたいだ」
「そういうこと。お前は今度は剣心でも探して稽古つけてもらって来いよ」
緊迫感で満ちた表情を保ち続けたまま、弥彦は剣路に提案を出してみる。相手の雰囲気からして、恐らくは蘇芳の手の者。剣路をここにいさせるわけには行かない。
剣路は渋々、といった顔をしていたが「じゃあ、また明日な」と言い残すと、素直にその場を去り、葵屋の中に戻って行った。それをしっかりと見届けてから、弥彦はその青年に向かって口を開く。
「あんたが、蘇芳の言ってた連絡役か?」
「・・・・ああ」
それだけを青年は答えた。問うた弥彦の方は見ず、凍てつく様な視線を宗次郎に向けたままで。
宗次郎はその青年が誰なのか、見当も付かなかった。会った覚えは無いから恐らく初対面だろう。もし会ったことがあるとするなら、剣心よりも黒髪に近いとはいえそれでも色素の薄いその髪の色が印象に残る筈だ。
それでも、その青年の自分を睨みつける視線に、彼ともまた恐らくは只ならぬ因縁があるのであろうことが理解できた。そうでなくては、あんな眼差しで自分を見たりしないだろう。
「塀越しで話するのも何ですから、ちょっとそこで待ってて頂けませんか? 今そっちに回りますから」
それでも穏やかな笑みを浮かべている宗次郎に、その青年の目は更に鋭さを増した。返答は無いが、動こうとしないことから多分宗次郎の申し出を了承したのであろうと思う。
道路へと面する裏門に宗次郎は歩を進める。弥彦もそれに続く。待ちに待った蘇芳の連絡役とあっては、弥彦もじっとしてなどいられない。
平らにならされているとはいえ、いくらか小石の粒が残るその道路を踏みしめ、二人はついにその青年と対面した。肩までの赤みを帯びた散切りの髪、真っ白な着物と鼠色の袴といった出で立ち。帯刀こそしてなかったが、どこか剣客然としていた。
そして端整なその顔には、冷たくも忌々しげに宗次郎を睨みつける、意志の強そうな双眸。
「待ってたんですよ、あなたが来るの。じゃないと、いつまで経っても蘇芳さんとは闘えませんからね」
真っ直ぐにその視線で見据えられることにほんの少しだけ気後れしながらも、宗次郎は相変わらず明るさを損なわない声でその青年に向かい合う。
憎しみをぶつけられているのは分かっても、その青年が宗次郎の何に憎しみを抱いているか分からないから。
だから宗次郎は、困ったような笑顔を返すことしかできない。
「もう案内してくれるんですか?」
「・・・・いや。決闘は明後日の正午、嵐山にある蘇芳の屋敷でだ」
素っ気無く言い放ち、その青年は宗次郎に折り畳まれた白い紙を投げて寄越す。宗次郎がそれを掴み取ると同時に、「詳しくはその地図を見て来るんだな」というおよそ連絡役とは思えない声が聞こえた。
青年のその姿勢に、弥彦が思わず声を荒げる。
「―――って、お前が案内するんじゃねーのかよ!?」
「誰も直接案内するとは言ってない」
青年はつっけんどんに言葉を返した。成程、確かに青年の言葉は正しいが、その態度に弥彦はまた頭に血が上る思いだった。が、すんでのところで堪える。
「・・・・じゃあ、その明後日の正午にその蘇芳の屋敷に行けばいいんだな」
「ああ」
ふつふつと湧き上がる怒りを抑えながら、弥彦は青年から告げられた日時を確認する。青年はそうしてまたつい、と宗次郎を見据えた。
「蘇芳も、真由も真美とお前と闘いたがっているが、瀬田宗次郎、お前との闘いの一番手は俺が貰う」
「・・・どうしてあなたは、僕と闘いたいんですか?」
青年の憎しみの理由に思い当たらない宗次郎は、率直にそう尋ねた。数え切れない程の人間をこの手で殺してきたから、そこから生まれる憎しみもまた、同じ数だけある。彼と会った覚えは無くても、彼がその宗次郎が生んだ憎しみの一つを抱えているのは確かな事実で。
確かめるような、どこか寂しい色も含んだその声に、青年は口の端を吊り上げ、初めて笑みを浮かべた。
宗次郎を見下すような、そんな笑みを。
「俺の名前は桐原雪哉。―――その名前に、聞き覚えは無いか?」
「! まさか、あなたは咲雪さんの・・・・?」
名字を聞いた途端、宗次郎の頭の中でぴたりと符号が合った。
そして思い出した。旅の途中に出会い、宗次郎にたくさんのことを教えてくれながらも、自分のせいで命を落とした彼女のことを。
彼女の名字も、確か『桐原』と言った。
「俺は咲雪の兄だ。そう言えばもう、理由は言わなくても分かるだろう?
俺以外の家族は、みんなお前のせいで死んだんだ・・・・!」
宗次郎に向けて吐き出された言葉は、まるで呪詛のような響きを持っていた。澱のように淀み、深く長く彼の内に篭められた、宗次郎への恨みと憎しみ。
彼の憎悪の対象でない弥彦ですら、その強い負の感情に立ち竦んだ程の。そしてそれは過去に対峙した、あの雪代縁の狂気めいた憎悪の念に似ていた。
「・・・・今日の用件はそれだけだ。蘇芳の屋敷で待つ。家族の仇は取らせてもらうからな」
宗次郎に対する復讐心を告げると、雪哉はこれ以上ここに用は無いといった風に背を向けた。
宗次郎は何人をも突き放すようなその背中に何か声をかけようとして、けれど、何と言ったらいいのか分からなくて。声は声にならず、伸ばしかけた手は宙で頼りなく止まった。そうしてそれをゆっくりと降ろす。
やがて雪哉の姿は路地裏の道路から広い大通りへと出、雑踏の中にその姿を消したようだった。その場に留まったのは宗次郎と弥彦だけ、遠くから聞こえる町の賑やかな声が、尚更この場に沈黙を落とす。
どう切り出そうか迷いながらも、先に声を発したのは弥彦だった。
「・・・・なぁ、本当かよ、さっきの話。お前があいつの家族をみんな殺したって・・・」
「ええ、本当ですよ」
常人なら答えるのに躊躇う問い。けれどそれを、宗次郎は何の臆面も無く言ってのけた。
何故ならそれは事実だから。多くの人間を斬ってきたのは事実だから。たとえ本心では殺したくないとは思っていても―――今誰かの命を奪うことを止めてはいても、かつての自分がしてきたそのことに違いは無いから。そして志々雄の下で、直接的にではなくても多くの人間を苦しめ、虐げてきたことも。
それなのにどうして、今更それを否定できるだろう。
「あの人の家族だけじゃないですよ、僕が殺してきたのって。何人斬ったかも覚えてないくらい、たくさん人を斬ってきたから」
その命の一つ一つを見ようとせずに。ただ、強ければ生き弱ければ死ぬと、弱ければ死んで当然だと刀を振るって。
きっと彼以外にも、まだ宗次郎を恨んでいる人間は、この国のどこかにいるだろう。
「咲雪さんだって、元はと言えば僕のせいで死んだんだ。でも、」
奪った命の重さを考えたことは無かった。
本当の自分を探しに旅に出た後も、すぐには気が付けなかった。
けれど。
「あの人は、僕にたくさんのことを教えてくれたんです」
桐原咲雪。
それは旅の途中に出会い、宗次郎に大切なことを教えてくれた人だった。
『弱肉強食が全てだとしか考えられないなんて、可哀想な人ね』
宗次郎にそう、冷たくぴしゃりと言い放った人だった。
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