「宗次郎君のお母さんは偉いね」
いつだったか、とそんな話をしたことがあった。
川べりの、気持ちの良い風が吹く土手の上で。そう、あれは確か、宗次郎が自分は父の妾の子どもだと、にまるで世間話でも話すような調子で打ち明けた時だ。
明るい声で自身の恵まれない出生を語った宗次郎に、は一瞬、悲しそうな憐れむような何とも言えない表情を浮かべたが、すぐにそれを打ち消すように、ふんわりと微笑ったのだ。
「妾の立場でも、ちゃんと宗次郎君を生んだんだもの。やっぱり宗次郎君のお母さんは凄いよ」
の言いたいことに今一つピンと来ず、宗次郎は率直に「そうですか?」と聞き返した。はそれに、「そうだよ」と頷いた。
「妾なんて、世間的にはあんまりいい目で見られないし、本妻からだって良くは思われないもの。それでも、きっと宗次郎君のお母さんは、お父さんと宗次郎君のことを大切に思っていたから、堕胎なんてしないで宗次郎君を一生懸命に生んだのね」
知ってる? 子どもを生む時ってものすごく痛いんだよ、とは続けた。もし出産の過程で取り返しのつかない事態に陥れば、母子共に命が危なくなるということも。
それは医者の立場から語る視点以上に、本人の意見が含まれていた言葉だったろう。
「それに、宗次郎君の名前だってさ、”次郎”って、お父さんが自分の二番目の子だって、ちゃんと認めてくれたからじゃない? だから宗次郎君は、宗次郎って名前なんだと思うな」
そんなこと、考えたことも無かった。顔も憶えていない両親に馳せる想いすら、宗次郎には無かったから。
ぽかんとした顔をした宗次郎に、はもう一度柔らかく笑って、こう言った。
「だから、やっぱり宗次郎君のお母さんは偉いよ」
それはきっと、自身が幸せな家庭で育ったからこそ芽生えた思いだったろう。彼女の母親が優しかったから、宗次郎の母親もきっとそうであると。
全ては推量に過ぎない彼女の言葉だったけれど、ただそれでも宗次郎は。
その言葉は自分自身を褒められるより、多分、嬉しかった気がした。
自分はこの世に生まれて来て良かったのだと、言ってもらえた気がしていた。
―第十四章:君は誰を守っている―
「・・・・どうして」
宗次郎はぽつりと声を漏らした。その顔に笑みを浮かべたままで、ほとんど反射的に。
蘇芳はそんな宗次郎を見て、口の端を更に吊り上げた。
「どうして、さんを巻き込むんですか。あの人は、今回の闘いに何も関係無いじゃないですか・・・!」
蘇芳を非難する声色だった。先程も蘇芳に言ったことを、もう一度繰り返すように。
も、浅葱も、宗次郎と蘇芳の闘いには全くの無関係だ。彼らは闘う術を何も持たぬ、ごく普通の日常に生きる者達。平穏こそが彼らに相応しい、それなのに。
どうして彼女を捕らえたのか。どうして、彼女を巻き込んだのか。
問わずにはいられなかった。
「・・・・お前のその顔」
「・・・・え?」
けれど蘇芳はその問いには答えず、スッと右手で宗次郎の顔を指差した。蘇芳の意図が分からず、宗次郎は訝しげに首を傾げた。
蘇芳はふっと鼻で笑う。
「昔のお前は、そんな顔は決してしなかったぞ」
宗次郎自身、言われて初めて気が付いた。先程までの表面上だけだった笑みが、いつしか鋭い怒りの表情に変わっていたことに。
氷のように冷たい視線、笑みを失くした口元。剣心との闘いの中で垣間見せたのと同様のその表情は、それ以前の宗次郎なら絶対に浮かべないものだった。楽以外の感情を持たなかった、あの頃は。
「俺はできれば修羅だった頃のお前と決着を着けたい。だが、今のお前を見てると、それは難しそうなんでな・・・」
一度取り戻した感情を、再び失くさせるのは容易ではなさそうだと、蘇芳は考えを改めざるを得なかった。この宗次郎の反応を見れば、尚更。
「だったら別の方法で闘いを盛り上げるまで・・・・には俺とお前の闘いに立ち会ってもらう。観客がいた方が闘いは面白いからな」
にやり、と愉悦の笑みを浮かべる。
宗次郎の目の前であの少女を殺したら、或いは心に傷をまた負うことで、感情欠落とまでは行かなくとももしかしたら彼が修羅に立ち戻るきっかけになるかもしれない、とも蘇芳は策略を巡らせてもいた。
だが口には出さない。
手の内をべらべらと話して明かすのは、小物のすることだ。
「そんなことの為にさんを・・・・」
蘇芳の言葉のみを素直に受け取り、宗次郎はどこか嘲るような力無い笑みを浮かべる。それは蘇芳に対してのものか、それとも自分自身に対してのものか。
だけではない。彼女が如何様にして静岡から連れ去られたのかは定かではないが、たった一人の肉親であるがいなくなったことに兄の浅葱は恐らく平常のままではいられまい。加えて、が京都、浅葱が静岡にいるということは、直接的と間接的に、二人を人質に取られたも同じこと。
或いは浅葱がが京都にいることを知ったなら、きっと静岡を出て探しに出るに違いないだろうが、それでもどちらにせよ、宗次郎達の動きは蘇芳によってかなり制限されることとなる。と浅葱が蘇芳の手の上にいる以上、迂闊な真似はできないのだ。
浅葱とについての詳しい事柄は知らないが、蘇芳と宗次郎の口ぶりから剣心もそのことを察し、奥歯を噛み締め悔しげに蘇芳を見据える。
「何、お前達が俺達の指示に従ってくれれば、兄妹に手を出したりはしないさ」
裏を返せば、指示に従わなければ即、兄妹に危害を加えるということ。宗次郎や剣心達の動きを完全に封じる気だ。
睨みつけてくる視線に、けれど蘇芳は少しも堪えた様子はなく、むしろ余裕の姿勢を崩さぬままで。
「今日は真由と真美とお前達の単なる顔合わせのつもりだっだ。闘う気は端から無かったからな」
「それはあなたが、でしょ? 私と真由は闘いたかったんだから・・・!」
真美が呆れたようにぼやく。そんな双子の姉を見て真由は苦笑しながら、
「確かにできれば闘いたかったな。だが、まぁいいさ。次に会う時は、今度こそ邪魔は入らねぇからな」
この場で闘うことを諦めながらも、未だその目に燃えるのは底の知れぬ闘気と殺気。それは猛る炎にも良く似ていた。その熱は今は発されること無く彼の体に宿っている。真美にも、また。
その炎が行き場を求める限り彼らの剣気は途切れず、宗次郎や剣心と剣を交えたいと強く願う。
そうしてその願いが成就されたなら、その時こそ、恐らくは宗次郎と剣心とこの双子との真の闘い。今はまだ、前哨戦にも過ぎないのだ。
「近いうちにお前のところへ連絡役を向かわせる。決闘の日時はそいつに聞くんだな」
「・・・・分かりました」
蘇芳の言葉に、宗次郎は僅かに目を細めて返事を返した。それ以外の返答はできなかった。が彼に捕らわれている以上。
かつての自分なら、もしかしたら、人質がいたとしても構わずに敵に突っ込んでいったかもしれない。弱肉強食の摂理に従い目の前の敵を殺す、それで済む話だった。人質の安否など気にせずに。
この場で闘うことは簡単だろう、今すぐに天衣を抜刀し、縮地で蘇芳のその懐に飛び込めばいい。けれど今は、そんな方法を選ぶことが宗次郎にはできなかった。が、浅葱が、彼らの命が蘇芳に握られているという懸念が頭から離れない。
他人に対し、情を持たなくなったのはいつからだったろう。
他人に対しての情を、思い出したのはいつからだったろう。
弱肉強食の世界のみに生き、志々雄の存在が絶対的なものであると信じていた。それはきっとあの雨の夜から、自分を取り巻く世界の全てに絶望し、望みが届くことなど無いと身を以って悟ってしまったあの日から。
己の感情と共に、他人への情もまた心の奥底へと封じ込めてきた。その蓋が開かれたのは、やはり。
『簡単に答えを出させてくれないなんて、志々雄さんより、ずっと厳しいや・・・・』
自分の足で歩き出そうと決めた、あの時からか。
「何、そんな先の話じゃないさ。せいぜい腕を磨いて待ってることだな」
「ええ。・・・・でも一つだけ」
少しずつ頭の中も冷えてきて、返す言葉も表情もまた穏やかなものとなる。
宗次郎は再び笑みを浮かべ、けれどそれはあどけない微笑ではなく。
「こちらもあなたの条件を呑むんですから、さんに手出ししないで下さいね」
「言っただろう、丁重に捕らえてある。危害を加える気は無いさ」
―――今は、な。
言外に含みを持たせ、蘇芳は再びニヤリと薄笑いを浮かべる。
「じゃあね、瀬田さん緋村さん♪ 次はあたしも闘うからね!」
踵を返す蘇芳に付き従うようにして、鈴もまた明るい声でそんなことを言い残し軽快に駆けていく。真由と真美は無言ながらも、どこか挑発するような笑みだけを二人に向けて、ゆっくりと神社の階段を降りていく。
石造りの階段を下る四つの足音が不規則に響き、不気味な調べとなって静かなその場を支配する。取り残された宗次郎と剣心もまた無言で彼らの去って行った階段の方角を見つめるだけで、その場から一歩も動こうとはしなかった。
木々の間を風が過ぎ去り、赤や黄色の葉をはらはらとその下に散らした。
「・・・・蒼紫。いるのでござろう? これ以上の深追いは禁物でござるよ」
ふと剣心の口から漏らされた第三者の存在に、宗次郎は振り向き目を丸くする。果たしてその言葉は事実だったようで、ややあって木立の影からスッとその長身が姿を見せた。
尾行に感づかれたことにさして驚く風でもなく、蒼紫は緩やかに剣心達へと近付いていく。
「何故分かった」
「翁殿の考えそうなことでござる。敵を探ると共に、いざとなったら拙者達の助太刀をさせるつもりだったのではござらんか?」
剣心とて、流石に蒼紫の尾行に最初から気付いていたわけではない。ただ、ほんの微かに感じる誰かの気配、そして自分達を支える者の存在、そういったことを考えれば答えはおのずと見えてきたのだ。
実際、そうであったようで、蒼紫は無言の中にも肯定の意を示す。
「本当は蘇芳の居所も探りたかったのでござろうが・・・」
「ああ。だが瀬田の知人が奴に捕らわれていると分かった以上、確かに深追いは禁物だな」
剣心は僅かに苦い顔をした。蒼紫程の技量を以ってすれば、気づかれないまま蘇芳の後を追うことは可能かもしれない。けれど、もしそれが蘇芳らに露見したらどうなるか。それは想像に難くない。
だからこそ、剣心は蒼紫がこれ以上蘇芳を追跡することをここで押し留めたのだ。
「宗次郎、そのと浅葱という御仁、」
「・・・・巻き込んじゃったなぁ」
剣心の言葉を遮るように、宗次郎の呟きがぽつりと落ちた。ほんの少し俯いて、けれど口元には小さく笑みが浮かぶ。瞳には何かを憂えるような光を湛えているのに、それでも、なお。
それを打ち消すかのように、声の調子は明るい。
「あぁ、まだ説明してませんでしたね。僕、京都に来る前は静岡にいて、そこでさんと浅葱さんにお世話になってたんです」
宗次郎は剣心と蒼紫に向き直った。その拍子に短い黒髪がさらりと靡く。
何かを誤魔化すかのように、宗次郎はにっこりと笑った。朗らかで明るい、それだけはあの頃とさして変わらぬその笑顔。
「二人ともお医者さんなんです。僕にすごく良くしてくれて、この闘いが終わった後、また戻って来てもいいとまで言ってくれました。―――でも」
穏やかな日常を宗次郎にも教えてくれた。また戻って来て欲しいと、戻って来ても良いのだと、帰る場所まで宗次郎にくれた。
闘いとは正反対の場所で真っ直ぐに生きている二人だから、自分と彼との因縁には、巻き込みたくは無かったのに。
直接的でも、間接的でも、その事実に違いは無い。この闘いに関わらざるを得ない状況に、二人とも引きずり込んでしまった。自分のせいで。
こんな思いを抱くのは久しぶりだった。旅の途中で大事なことを教えてくれた彼女を―――咲雪を失った時以来かもしれない。
それでも確かに宗次郎は、二人を巻き込んでしまったことを悔いていた。
それは、自分の今まで犯してきた罪に対してだけでなく、多分、みすみすとそれを許してしまった自分へも。
「さんにも、浅葱さんにも、迷惑かけちゃったな」
皮肉なものだ。敵の手に奪われてから。
守りたいと、思うなんて。
「・・・宗次郎」
剣心が何か言いたげに口を開く。
宗次郎は目を細めて再びにこっと笑む。今度のそれは誤魔化しではなかった。宗次郎が本来持つ、天真爛漫さ。あの時、志々雄の死を見届け本当の答えを探すために行こうとした時に浮かべたものと、同質のもの。
いつまでも落ち込まずに、前向きに生きようとする宗次郎のある種の強さ。
「大丈夫ですよ。次に会う時こそ・・・今度こそ蘇芳さんとは決着を着けます。それに・・・・」
かつては剣心の不殺の信念を理解できなかった。弱い者を守るという言葉も、ただの戯言にしか過ぎなかった。
それでも、危険に晒されて初めて守りたいと気が付いた相手が、今の宗次郎にはいる。誰かを守りたいと思う気持ちが、確かに息衝いている。
だから。
「さんも、助けてみせます」
柔らかく、温かく微笑うあの少女を、必ず日常へと戻してみせると。
宗次郎は、そう思った。
同時刻。
宗次郎とは違う場所、けれど同じ京都という地のどこかで、当のはその彼のことを思い、憂いていた。
(宗次郎君・・・・お兄ちゃん・・・・)
たった一人の兄のことも気がかりで、は深く溜息を吐く。
宗次郎達には未だ知れない蘇芳の屋敷では幽閉されていた。静岡から数人の男に突如として連れ去られ、が気が付いた時にはもうこの座敷牢の中に放り込まれていた。かどわかされている途中の記憶はには全く無かったから、恐らくは何かの薬品で意識を失わせていたのだと思われた。だからここがどこかの屋敷だということは分かっても、居場所がどこであるかまでは分からない。
まだここへ来て二、三日だった。
目が覚めた時、状況が掴めず不安げにしていたの前には一人の男がいた。漆黒の着物を纏い腰には大振りの刀を差していた。宗次郎の存在が身近であったからこそこの男は剣客だと察し、そしてその底冷えのするような酷薄な笑みにこの男こそが彼の話に出てきた蘇芳だと、は瞬時に悟った。
「蘇芳・・・・さん?」
それでも確かめるようにその名を呟いたに対し、男はその冷たい笑みを深めた。
「聡い娘だ」
その反応に、間違いなく彼が蘇芳であることを知る。無理に眠らせる薬品を使われた後遺症か、頭がくらくらする。それでもは懸命に頭を働かせた。
宗次郎は、蘇芳と決着を着けるために京都へと向かった筈だった。しばらくは彼の不在を寂しく感じたりはしたが、それでも彼がいつかまたここへ戻ってくることを思えば、それを支えに毎日を送ることができた。
その、宗次郎が相対すべき相手が、何故自分の前にいる?
「ここは京都にある俺の屋敷。お前には、俺と瀬田との闘いの中で果たしてもらいたい役割がある。だから静岡からここに連れてきたのさ」
「え・・・・!?」
が問いを投げかける前に、蘇芳の口から先に答えが返って来た。
その内容に衝撃を受けが何も言えずにいると、蘇芳は再び口の端を吊り上げた。
「お前は大事な人質だ。手荒な真似はしないさ・・・・大人しくしてればな」
冷静に、だが脅すように告げた蘇芳の言葉が恐ろしく、は思わず身を竦ませた。とて、まだ大した人生経験は積んではなくとも、それでも医者という仕事を通して様々な人間と関わってきた。仕事柄、道を踏み外した者と出会ったことも、一度や二度ではない。宗次郎が居候するようになってから、その頻度は幾らか上がったが。
それでも、その中でもこの蘇芳という男は質が違う。宗次郎から聞いていた以上に恐ろしく、そして何か深い闇をその身に抱えているようだった。彼が内在する狂気がふと垣間見えたように思え、の背をぞっとしたものが走った。
「お、お兄ちゃんと、宗次郎君は・・・・・」
震える声で、ようやくそれだけが言えた。自分がここにいるのなら、兄である浅葱もどこかに捕らわれているのだろうか。それに、宗次郎の身にも、何かあったのか。
蘇芳への恐怖と、二人の身の無事を案じる思いとで、は不安でいっぱいになっていた。今、ここでこうして一応は無事である自分のことよりも、姿の見えぬ宗次郎と浅葱との安否の方が、にはずっと気がかりだった。
「安心しろ。兄の浅葱の方に手は出しちゃいないさ。瀬田の方は、京都で知己と俺の居所を探ってるさ」
そうして蘇芳は何故かくつくつと笑う。酷く楽しそうに。その姿がまたの不安をいたずらに掻き立てる。その一方で、二人の無事に内心ほっと胸を撫で下ろしてもいた。
「決闘の日まで大人しくしていろ。そのうち話し相手に誰か寄越してやる」
蘇芳はそれっきり、の前に姿を現さなかった。
蘇芳の言う話し相手とやらも来ないまま三日が経った。三度の食事を運んでくる雑兵らしき者達が出入りするくらいで、人との接触はほとんど無い。気丈なも、流石に誰と何も話をしない日が続くと、気が滅入ってくる。
は八畳程の広さの、布団と小さな箪笥といった調度品しかない一室に幽閉されていた。部屋の四つの面はいずれも襖で鍵などは掛けられていないようだったが、それでもその各々の前に見張りはいるらしかった。宗次郎や浅葱に危害が及ぶことを思えば、脱走する気はさらさら無かったが、もしここから逃げようと試みた所でそれが徒労に終わるであろうことは簡単に予想ができた。
人質だと、蘇芳は言っていた。座敷牢に軟禁されているとはいえ、どこかに怪我をしているわけでもなく、身動きできないよう縛られているわけでも無かった。朝昼晩の食事もちゃんと出される。確かに、人質としては優遇されているのだろうとは思う。
それでも、日が経つにつれ不安は募った。それは、この先、私はどうなるんだろう、という今後が見えぬ自分自身に対してのものではなくて。
(宗次郎君の、足手纏いになっちゃったな)
もしも、蘇芳が彼と己との闘いの為にを攫って来たというのなら、自分がここで捕らわれていることが宗次郎の枷となっているに違いない。果たして、宗次郎がそこまで自分に懸想してくれているかなんてには与り知らぬことだったけれど、それでも今のこの状況は彼にとって不利に働いている筈だ。
京都へ行く、と言った宗次郎と、共に行きたい気持ちが無かったわけではなかった。それでも、ついて行けばきっと宗次郎の重荷にしかならないと分かっていた。だから静岡で彼を見送った。
またここに戻って来てもいいんですか、と自分の願いに応えるように宗次郎が言ってくれた時、は本当に嬉しかった。―――なのに。
こうして自分は、彼の負担になっているではないか。
(お兄ちゃんも・・・・・心配してるだろうな)
この世でただ一人の肉親。それはにとってだけではなく、浅葱にとっても勿論のことで。
浅葱が一体どこまでこの状況を知っているのかには図りかねたが、突然妹が姿を消したとあっては彼も慌てふためいていることだろう。が一人で往診に行った帰りにそのままこちらへと拉致されてしまったから尚更。もしかしたら事態を察し京都へと来る前に、静岡中を探し回っているかもしれない。
(お兄ちゃん・・・宗次郎君・・・)
の口から自然と溜息が零れる。自身の身の行く末より、その二人についてがひたすら心配だった。ほんの少ししか対峙していない蘇芳が、それでも恐ろしい何かを宿した男であると理解してしまったから、余計に。
正座を少し崩したような姿勢で座っていたは、思わず自分の両腕をぎゅっと握り締めた。その身を抱えるように、全身の震えが止まるように。
もし、この先、二人の身に何かあったら―――。
「。入るぞ」
自分の名を呼ぶ声が聞こえ、はハッと我に返る。今が座っている場所から見て左側の襖越しに若い男の声がした。
その声の主はの返答を待たずに静かに襖を開けた。そのままスッと部屋の中に足を踏み入れる。手に粥や漬物といった質素な食事が載った盆を持っていることからして、彼は食事を持ってきてくれたのだと分かる。
ただ、今までの雑兵とは違い、彼は初めて見た青年だった。どこか潔癖さを思わせる真っ白な着物に鼠色の袴。肩まで伸びた散切りは、色素が薄いのか僅かに赤みを帯びて見えた。長めの前髪は額の中ほどで分けてあり、実直そうなきりりとした表情がその面には浮かんでいた。
兄と、二、三歳程しか歳は変わらぬように見えた。
「あ、ありがとう」
差し出された盆をは受け取り、素直に礼を述べる。たとえ裏社会を生きる者でも、誰かに何かをしてもらったら礼を言うという姿勢を、はこの数日も崩さなかった。
そんなにその青年はほんの少し怪訝な顔をしたが、やがてふと小さく笑みを浮かべた。つられて、も笑みを浮かべる。
多分、この青年が兄と歳が近そうだったから、どこか親近感を抱いたのかもしれない。少なくとも、あの蘇芳や全身黒ずくめの忍者のような格好をした雑兵達よりは、よほど取っつき易そうな印象を持った。
「あの、あなたは・・・・? いつも食事を持ってくる人達とは、何か違うみたいだけど・・・」
人と長らくまともに話していない、という心理もあったのだろう。盆を座っている脇にそっと下ろすと、は遠慮がちに、それでもその青年に話しかけていた。
「名前か? 俺は桐原雪哉」
外見の印象に違わず、真っ直ぐ通った凛とした声だった。
「セツヤさん?」と和んだ表情で口の中で小さくその名前を繰り返すを見て、雪哉は今度は冷たい笑みを浮かべた。蘇芳のそれのような、その性格からくる冷たさが現われたものではなく、例えば敢えて誰かを突き放すような、そんな冷たさを含んだ笑顔を。
「俺と呑気に会話してる場合じゃないぞ、。俺も瀬田宗次郎の命を狙う人間の一人だからな」
「・・・・・っ!」
は思わず息を呑んだ。その言葉の内容と、この一見悪い人ではなさそうな雪哉がそう言い放ったという事実に。
けれど、一方で思い直す。ここは今回の闘いの首謀者、蘇芳の屋敷だ。ここに集うのは明治政府に不満を持ち、この国に再び動乱を起こそうとする者、かつての主である志々雄真実を信奉する者。そして、後は恐らくは。
宗次郎に深い恨みを抱き、彼を殺そうとする者―――。
「あ、あのっ!」
それだけを告げ去ろうとした雪哉を、は呼び止めた。雪哉は廊下まで出て、それでも襖は閉めないまま、目線だけをの方に向ける。
未だ瞳は鋭さを帯びている。雪哉のその視線に怯みながらも、には訊かずにはおれなかった。それだけの憎しみと恨みを、そしてその奥に秘める確かな悲しみを、どうして彼は宗次郎へと向けるのかと。
「あなたはどうして、宗次郎君を恨んでいるの・・・・?」
彼がかつて、多くの者を殺めてきたことは知っている。
だからこそ気になった。たくさんの人をその手にかけてきた宗次郎だけれど、それでも何故雪哉は彼を恨むのかと。
雪哉に彼への深い憎しみが芽生えたその理由を。
多分、今の宗次郎がどんな生き方をしているか、共に過ごしていくうちに知っていたから。
けれど、もしかしたら、触れてはいけない話題であったのかもしれない、安易には。は言った後でこの青年と宗次郎のことを思い、訊いてしまったことを少し後悔した。
戸惑いがちに返答を待つから視線を背け、雪哉はただ真っ直ぐに前を見る。何かを思い出しているのか、キッとその眉を寄せた。
「瀬田は仇だ。―――妹のな」
妹。
その単語には反射的に兄を思い出す。
声を失ったを残し、雪哉は静かに襖を閉ざした。
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