―第十三章:怨炎の双珠―



「瀬田宗次郎さんと、緋村抜刀斎さんはいますか?」
そう言ってニコニコと屈託無く笑う少女を目の前にして、増は流石は御庭番衆の一人、表情は変えなかったが内心不審感でいっぱいだった。
宗次郎と剣心がこの葵屋にいることは外部の者は知らないはず。いやむしろ剣心が抜刀斎であることを何故この少女は知っている? それに、このくの一めいた出で立ち。どう見ても普通の町人では無い。
何者か分からない以上、迂闊な事は言えない。
「あの〜お姉さん。瀬田宗次郎さんはあたしのこと知ってるから、大丈夫だよ」
「え?」
けれど増があれこれと考えを巡らせている間に、その少女はあっさりと話を進めてしまった。警戒心を相手に全く抱かせないような、限りなく明るい笑顔で。
「あたしは鈴。佐和田鈴っていうの。名前を言えば分かると思うよ」
「・・・・分かりました。少々お待ち下さい」
増はそう言って頭を下げるしかなかった。この場で取り繕っても逆効果だろうし、この鈴という少女の言う通り、宗次郎が本当に彼女と知り合いだという可能性もある。
何にしても、まずはその当人と剣心、翁達に知らせなければ。そう思い、増はパタパタと葵屋の廊下を急ぎ足で歩いていく。
剣心達が案内されている客室、それに先程宗次郎が入っていったその部屋の戸を、増は勢いよく開けた。
「宗次郎さんっ!」
「はい?」
中では丁度、息巻いていた弥彦がようやく落ち着いた頃だった。血相を変えて飛び込んできた増に、宗次郎は緩やかに振り向いて不思議そうに首を傾げる。
「それに、剣心さんも・・・今、あなた達にお客さんが来てるのよ!」
「拙者と、宗次郎にでござるか?」
話の矛先が向けられて、剣心もほんの少しだけ目を見開く。増のこの慌てようは只事では無い。
増は次に静かに鎮座している蒼紫と翁の方を見る。蒼紫はつい、と顔を上げた。
「何かあったのか」
「それが・・・・そのお客さんは女の子なんですけど、『瀬田宗次郎さんと、緋村抜刀斎さんはいますか?』って、剣心さんのこと、緋村抜刀斎だって知ってたんです・・・・!」
「!」
増のこの言葉に、一同の間に驚きが走る。剣心が抜刀斎であるということは、一般の人が知るところではない。赤毛、それに十字傷という特徴から、そのことに気付く者も中にはいるだろうが、それでも今日京都に着いたばかりの剣心が葵屋にいることを知っていて、それに名指しで指名するなどという芸当は、市井の人間には到底無理だ。
その少女に皆が疑念を抱く中、増は今度は宗次郎に確かめるように尋ねる。
「その子、佐和田鈴って名乗ってたんだけど、何か心当たりは無い?」
「!」
増の口にした名前を聞いて、真っ先に浮かんだのは京都へ来る途中の浜松付近で出会ったあの少女だった。あの時、彼女は名字は名乗らなかったが、名前は間違いなく鈴だった。
心当たりといえば心当たりだったが、先程の弥彦達同様、まずその本人かどうか確かめなければ話は進まない。
「その鈴さんって、十五、六歳くらいで、髪の毛に鈴をつけてました?」
「鈴? あぁ、つけてたわよ」
増は先程の少女の姿を脳裏に思い浮かべ、軽く頷く。その答えに、宗次郎はその少女がやはり旅の途中で出会ったあの鈴で間違いないであろうことを確信した。
「知り合いか?」
「ええ」
率直に聞いてきた弥彦に、宗次郎もまた頷く。
「・・・とは言っても、浜松の近くでゴロツキ達に囲まれてたところを助けたくらいの面識なんですけどね。僕は緋村さんのことも一言も言ってないし。・・・何の用なのかなぁ」
宗次郎はほんの少し肩を竦める。実際、鈴とはその程度の知り合いでしかない。それなのにどうして、彼女は自分と剣心を名指しで尋ねてきたのだろう。
京都に行くとも葵屋に行くとも鈴には伝えてはいない。それに宗次郎があの時自己紹介しなかったのに宗次郎の名を知っていたこと、加えて剣心が抜刀斎だということを知っているということも引っかかる。
「まぁ、何にしてもその鈴さんに会ってみましょうか」
迷うことも無く宗次郎は立ち上がる。もしかして、またゴロツキに絡まれててその助太刀の頼みだったりして・・・と、ちょっと冗談めいたことを考えてみたりする。
続いて剣心も立ち上がった。
「確かに、まずはその少女に会ってみるのが先決でござるな」
己の正体を知るその少女が一体何者かは存じないが、宗次郎の知り合いである以上、まずは一度会ってみなければ話にならない、と剣心も考えたのだ。
そうして増に連れられて宗次郎と剣心はその客間を出て行き、好奇心旺盛な弥彦や操達はその後ろからそ〜っとついていく。
対面の場に顔を出すつもりはないが、鈴という少女が何者か知れない以上、黙って見過ごすわけにもいかない。
宗次郎も何となく弥彦達のそんな真意には気付いていたから、特に何も言わなかった。言ったところで、やっぱりついてきそうな二人ではあったし。
「あはっ♪ お久しぶり、瀬田宗次郎さん!」
玄関に案内された宗次郎を見た途端、鈴はいの一番にそう言った。何だかやたらご機嫌な様子の鈴に、宗次郎も剣心も増も、肩透かしを食らったような顔になる。
「あぁ、やっぱりあの時の鈴さんだ。お久しぶりです。元気そうですね」
けれど宗次郎ものんびりと鈴に挨拶を述べる。
間違いなくあの時の少女・鈴だ。あの時とは違う忍び装束のような姿だが、幼い顔立ち、子猫のようなつり目、そして髪につけた鈴、それらに変わりはない。
鈴は宗次郎ににこっと笑みを返すと、今度は剣心に向き直る。
「初めまして、緋村抜刀斎さん♪」
「・・・・・・・」
十年前の宗次郎を思い出させるような無邪気な様子の鈴を、剣心は油断ならぬといった風な目で見る。
宗次郎が特に告げていないのに、剣心の素性を知っていた。それに、鈴はあまりにも良すぎるタイミングに―――剣心らが京都を訪れ、宗次郎と合流したその時に現われた。
おいそれと警戒は解けない。まさか、この少女は。
「・・・・流石は緋村抜刀斎。洞察力はなかなかね」
剣心の危惧を見透かしたかのように、鈴は目を細めて冷笑を浮かべた。先程までのあどけない様子とはがらりと変わって。
「あなたの推察する通り、私は蘇芳さんの手の者よ」
「・・・・やはりそうでござるか」
予想はしていたので、剣心にさほど驚きは無い。宗次郎はこの少女と浜松付近で会ったと言うが、それも恐らくは偶然では無いのだろう。
一方の宗次郎はというと、鈴が蘇芳と繋がっていたということに驚く一方、納得もしていた。蘇芳配下の者なら名乗らずとも宗次郎の名を知っていても不思議は無い。それに剣心が抜刀斎であるということも、彼が今日京都に到着したということも容易に分かること。
そうなると。
「あの町での一件は、鈴さんの仕組んだ狂言ってことですか?」
「そうね。まぁあの程度の奴らじゃ、あなたには敵にすらならないんだろうけど」
宗次郎の問いに鈴は素直に頷く。多分、目的は宗次郎の力量を測ることだったのだろう。何であの時はもっと不思議がらなかったのかなぁ、と宗次郎は思う。
それと同時に、ふと、鈴に違和感を感じてもいた。
(何か鈴さん、さっきと感じが違うなぁ?)
あの時の町、それについ先程訪ねてきたばかりの鈴は、まるで幼い子どものようで、その快活さと奔放さが印象的だった。なのに、こうして自分は敵だとはっきりと正体を明かした鈴は、先程の幼さはどこへやら、一転して冷静沈着な面を見せている。
その鈴の豹変には、剣心も懸念を抱いていたところだったが、或いはこれが彼女の本来の姿なのか。
「・・・・とまぁ、挨拶はここまでにして、本題に入りましょうか」
話題を切り換えたのは宗次郎ではない。鈴だった。今度は冷静な表情はなりを潜め、またニコニコと明るい笑顔を満面に浮かべている。その変化に宗次郎はまたも少しばかり戸惑う。
(あれ? やっぱりさっきの鈴さんだ)
コロコロと態度を変える鈴は確かに気になるものの、敵である自分達に敢えてそういった態度をとっているのかもしれない。
一応気に留めておこう、と思いながら、宗次郎もその鈴の言う本題とやらに乗ってみることにする。
「で、今日はどういったご用件なんですか?」
蘇芳の方から接触してくるとは意外だったが、手掛かりを探していた以上、願ったり叶ったりだ。この機を逃すわけにはいかない。
強気に笑う宗次郎を見て、鈴はパタパタと手を振ってみせる。
「ヤだなぁ。そんな構えないでよ。今日はただ、あなた達二人に会いたいって人がいるから、その人と会わせたいだけだよ♪」
「それは例の、蘇芳という男でござるか」
「さぁ? あたしも瀬田さんと緋村さんを連れて来いとしか言われてないし」
真摯に見据えてくる剣心に、鈴はおどけた風に言葉を返す。鈴の真意は測りかねるが、何にせよ蘇芳の貴重な手掛かりだ。宗次郎としてはこの誘いを断る気はない。ちら、と剣心の方を見る。
「どうします? 緋村さん。行ってみますか?」
「・・・・ああ」
剣心も一瞬宗次郎を見、短く返事を返す。罠である可能性もないわけではなかったが、それでも居所の分からぬという蘇芳の所在を知る糸口なら、鈴の誘いを断る理由など無い。
二人が了承の意を示したのを見て、鈴の顔もぱあっと明るくなる。
「良かったぁ、決まりだねっ! じゃあさっそく行こう・・・・と言いたいとこだけど」
鈴は一旦言葉を切り、宗次郎と剣心の背後の開け放たれたままの玄関の奥をひょこっと覗き込んだ。その視線の先には、増と一緒に控えている弥彦と操。
「今日こっちが用があるのは瀬田さんと緋村さんだけだからね。余計な手出しをしたら・・・・どうなるか分かるよね? 蘇芳さん怖いからな〜・・・何するか分からないなぁ」
鈴はにんまりと笑う。十間ほど離れていてもその表情と言葉は分かり、また意味も察して弥彦はチッと舌打ちした。
あくまでも、蘇芳側が今日用があるのは宗次郎と剣心だけで、他の者に邪魔をされたくは無いのだろう。そしてそこに横槍を入れたりしたならば、何らかの手段で報復を行うに違いない。余計な手を出した者にかもしれないし、この葵屋にかもしれないし、あるいは京都の町そのものにかもしれない。
鈴の含みのある言い方と、対象を特に言わぬ辺りがいたずらに不安を掻き立て、流石の弥彦も剣心達と一緒についていく、とは言えなかった。
手出しは無用。そういうことだ。
(〜ったく、本当に何様のつもりよ!?)
相変わらず優位に立っている蘇芳に、操も怒りが跳ね上がる。かと言って、ここでがむしゃらに突っ走るわけにはいかない。それこそ相手の思う壺だ。
操はふぅ〜と息を吐いて、キッと鈴を睨みつける。
「あんた達の用件は分かったわ。けど、緋村も瀬田も今は丸腰よ。二人とも剣客なんだから、帯刀してから行く位、いいんじゃない?」
宗次郎はここ二日は刀を腰に帯びていなかったし、剣心も客間を通された際に逆刃刀代わりに帯刀している木刀を客間に置いてきてしまっている。突然の来客を不審に思いつつも、とりあえずは客を出迎えるだけだと思ったからだ。
今日は闘うわけではない、と鈴は示唆していたが、それでも二人を帯刀させないまま送り出すわけにもいかない。丸腰でも彼らは強いとはいえ。
勿論、操が言い出さなくても、宗次郎と剣心は当然自分から刀を手にしただろう。が、操にも意地がある。蘇芳にばかり良いように言われてばかりでは堪らない。丁度鈴が話を振ってきたので、それに強気で返したまでだ。
「それは勿論構わないよ。待ってるから準備してきてね」
鈴はスッと後ずさり、両腕を腰に当て、往来の真ん中で二人を待つ姿勢をとったようだった。鈴を一瞥して、宗次郎と剣心も一度葵屋の中に引き返す。
「ハイ、あんたの刀」
「剣心、これ・・・」
操と薫が、それぞれに刀を渡す。ありがとうございます、と簡単に礼を述べて、宗次郎は天衣を腰に帯びる。
「気を付けてね」
「ああ」
気遣わしげな薫に、剣心は安心させるように穏やかな笑みを向ける。
もう飛天御剣流はほとんど撃てない。逆刃刀も弥彦へと譲った。常人より強いとは言え、それでも十年前のあの頃のような強さは無い。
それでも、剣心は闘う。剣客である限り、その人生が終わらぬ限り。体がたとえ弱ってはいても、剣と心を賭して―――それが痛い程に分かっているから、薫の心配も尽きないのだけれど。
それでも剣心がこうして微笑うから、薫もまた微笑むのだ。
「それじゃあ、行ってきます」
「油断すんなよ。相手は何仕掛けてくるか、分かったもんじゃねぇからな」
本当は自分も行きたいだろうに、弥彦は悔しさを押し殺しながら二人を見送る。蘇芳が素直に真っ向から勝負を挑んできた方がまだ、弥彦としてはすっきりとするのだが。こういった搦め手は、苛立ちが募るばかりだ。
弥彦のそんな気持ちが何となく分かるので、宗次郎も微苦笑する。
「あはは、分かってますって」
「弥彦、葵屋の留守を頼むでござるよ」
弥彦の気持ちを落ち着かせるように、剣心も託すように言う。真っ直ぐな剣心の目に弥彦の苛立ちも収まったようで、その思いに答えるように力強く頷く。
「そろそろいいかなぁ、お二人さん?」
葵屋に背を向けた宗次郎と剣心の顔を覗き込むようにして鈴は言う。悪戯っぽく笑う鈴に、宗次郎も穏やかな笑顔を向ける。
蘇芳が何を考えているのかは知らないが、ようやく表舞台に出てきそうな気配がある。闘う時が来たというのなら、ただ自分はそれに応えるだけだ。全てにケリを着ける為に。
「ええ。行きましょうか」
そうして鈴を先頭にして、宗次郎と弥彦は葵屋を離れていく。その姿が遠ざかり、彼女以外に蘇芳の手の者がいないということを確認してから、翁はごく静かに蒼紫に告げた。
「蒼紫、お前なら大丈夫じゃろう。緋村君達の後をつけるんじゃ」
「・・・・言われずともそのつもりだ」
鈴はああ言っていたが、むざむざ敵を泳がせるような真似を翁はしない。
忍ぶ技に関しては、何よりも忍びの者が長けている。まして、隠密御庭番衆最後の御頭である蒼紫なら、敵に気付かれずに尾行することなど、造作もない。
「葵屋のことは任せておけ」
「ああ」
短い返答を最後に蒼紫はスッと動き出す。先を行く鈴は勿論、宗次郎と剣心にも気付かれぬよう、ごくごく静かに。
その後を追って、宗次郎と剣心を待つ者の下へ。










一刻程、宗次郎と剣心は歩き続けただろうか。鈴が案内した先は古い、けれど神聖で厳かな雰囲気をも漂わせている神社だった。
石畳の敷き詰められた長い階段を宗次郎は見上げる。恐らくは、この上にいる。
「ここですか?」
「うん、そーだよ♪」
鈴は本当に楽しそうに笑っている。そのままトントンと軽快に階段を上っていった。宗次郎もそれに続いた、が、ふと剣心が立ち止まったままなのに気が付いて振り返った。
「どうしたんです?」
「いや・・・・ただ、十年前のことを思い出していたのでござる。ここは、逆刃刀・真打が奉納されていた神社でござったからな」
「へぇ、そうだったんですか」
それは宗次郎も初耳だった。
剣心は感慨深い気持ちを覚えながら、無言でその白山神社を見上げる。ここはかつて、逆刃刀・真打を手に入れた場所。子に恨まれても孫の世の為と、ただひたすらに刀を打ち続けた新井赤空の思いの込められた刀が眠っていた場所。
今になって再びこの場所を訪れようとは、と思わずにはいられない。
「思い出に浸るのはいいけどさ、この上でずっと待たせてるから急いでくれないかなぁ?」
揶揄するような鈴の言葉に、剣心も足を一歩踏み出す。確かに、過去の思いに浸っている場合ではない。
階段の両脇に連なるように生えている樹木は赤や黄色、橙といった秋の色にその葉を染め上げていた。どこか風流も漂わせているその長い階段を、その後は無言で鈴、宗次郎、剣心はひたすらに上っていく。
ついに、頂上に白い鳥居が見えた。先に上り切った鈴がその鳥居を走って潜り抜ける。
続いて最後の階段を上り終えた宗次郎は、その神社の前に鈴と共に立っている者の姿を見て、思わずハッとした。隣で剣心が息を呑んでいるのも分かる。
待っていたのは一人ではなかった。
二人だった。片や、紺色の着物と白い袴を身に纏う少年。片や、同じく紺色の着物を着流しのように着付けている少女。
共に髪を高い位置で一つに纏め、長く垂らしている。そうして少年は一振りの刀を腰に帯び、少女の方は薙刀を手にしていた。二人は宗次郎と剣心を静かに見据え、冷笑を湛えている。
氷のような冷徹さと、炎のような野心を奥に秘めたその瞳を、宗次郎は知っていた。彼と同じ修羅の眼差し―――何より、二人のその風貌は、彼の面影を色濃く残していた。
志々雄と由美の忘れ形見、真由と真美に違いなかった。
「久しぶりだな、瀬田宗次郎」
「そして初めまして、緋村抜刀斎」
それぞれの声もまた、どこかその二人に似ていた。慄然としながらも、剣心はその二人から視線を逸らさない。名前を問わなくとも分かる、この双生児は紛れもなくあの二人の子どもだ。姿も、声も、そして恐らくはその剣才さえも、あの志々雄真実の遺伝子を受け継いでいる。
流石の宗次郎も、咄嗟に二人に声をかけられなかった。最後に会ったのはもう十年以上も前で、その頃は背丈が四尺程もないほんの子どもだった。それが長い時を経て今、双子とはいえ真由は志々雄に、真美は由美にそっくりの顔をして、自分の目の前に姿を現している。
まるで突然十年前に立ち戻ったような、不思議な既視感を覚えた。
「・・・・真由君と、真美ちゃんだよね。本当にお久しぶりです」
息と共に、宗次郎はようやく言葉を吐き出した。自覚はしていなかったが、多分全身が緊張している。何故だか宗次郎本人にも分からない。あの志々雄そっくりの遺児を目の前にしているからか、それとも久方ぶりにあった二人に、どこか後ろめたい気持ちもあるからか。もっともそんな気持ちがあることにすら、宗次郎は気が付かなかったが。
それでも相変わらずの笑顔を浮かべる宗次郎に、真由もまたにやりと不敵に笑う。
「あぁ。でかくなっただろ? お前の方は昔と今と、外見はほとんど変わってねェのにな」
真由の口調もまた志々雄のそれに似ている。目付きの一層鋭くなった剣心を見て、真美の方もくすりと笑う。
「緋村抜刀斎の方も、話には聞いていたけど本当に優男ね。その赤毛と十字傷が無ければ、あなたがあの人斬り抜刀斎だなんて到底信じられなくてよ」
どこか高飛車な物言いが、やはり由美を彷彿とさせる。僅かに顔を強張らせた剣心を見て、真美はおよそ十六だとは思えない程に妖艶に笑んで、今度は鈴へと視線を向けた。
「鈴。案内ご苦労様」
「後はもう大丈夫だから下がってな」
「了〜解。それじゃああたしはこの辺で。またね、瀬田さん緋村さん♪」
真由と真美の言葉を素直に受け取り、鈴はにっこりと笑う。そうしてサッと、あっという間に神社の裏手側の方へ走り去ってしまう。
そうして鈴がその場からいなくなったことで、ここには志々雄真実を取り巻いて深い因縁を持つ、四人の人間だけが残された。志々雄に才能を見い出され、鍛え上げられ十本刀最強となった瀬田宗次郎。影の人斬りとして志々雄の先駆者に当たり、その彼を死闘の末打ち破った緋村剣心。そしてその志々雄の血を引く彼の実子、志々雄真由と志々雄真美。
張り詰めた緊張感がその場に満たされる。誰かの剣気に反応したのだろうか、空を舞う木の葉が一枚、何の前触れも無くピッと裂けた。
「・・・・長かったぜ、この十年。親父が死んでからのな・・・・」
ふと、真由が目線を地に落とし、遠い過去を思い出すようにしみじみと呟いた。隣に立つ真美が、真由のその思いに同調する。
「そうね。確かに長かったわね・・・・」
そうしてまた、その場は沈黙で満たされる。
宗次郎は何も言えなかった。何と言ったらいいか分からなかった。簡単な相槌すら、喉から先に出てはくれなかった。
確かにこの十年は、宗次郎にとっても長かった。けれど真由と真美は、宗次郎が感じている以上にきっと長い月日を味わってきたのだろう。
もし、蘇芳が言う真由と真美の宗次郎に対する認識が、本当だというならば。
「そう、長かった・・・・」
またひゅっと木の葉が舞う。真美は思いを馳せるかのように空を見上げ、その木の葉を目で追う。ぼんやりと中空を見ていたその目は、けれどキッと、鋭く細められた。
その目で真美は、宗次郎と剣心を射抜くように見る。
「あの滅茶苦茶に強かった父さんが、誰かに負けるだなんて考えたこともなかったからね・・・・!」
由美に良く似た切れ長の目に篭もるのは、剣心に対するはっきりとした憎悪と殺意。
同じ色を宿した目を、剣心は見たことがある。そう、この目はあの雪代縁と同じ。家族の仇だと自分を恨み、激しく憎んだあの目と同じ。
その憎しみを、剣心は目を逸らさずに受け止める。真美が恨むのは当然だ。直接にではなくても、志々雄を死に追いやったのは紛れもなくこの自分。
「不殺なんて言っておいて、父さんと母さんを死なせたんじゃ話にならないわね、この偽善者! 所詮、あんたの言う綺麗事なんてその程度なのよ。この世の中、薄甘い理想が易々と通ると思ったら大間違いよ!」
一言も発しない剣心に対し、真由は嘲笑と共に更に激しく言葉を浴びせる。そんな真美を、真由は隣で失笑しながら見ている。彼女と彼の思いは同じ、けれど、真由は他にも違うことを感じているのかもしれない。
真美が剣心への激しい感情を顕にしているのを見て、宗次郎も妙な気分になる。
以前、剣心の口から志々雄の最期については聞いていた。それは凄く彼らしい最期だと思った。剣心に負けたわけではなく、己の限界を超えて敗れ、炎と共に地獄へと還っていった志々雄真実の最期―――。
宗次郎はそれを直接目にしたわけではない。ただ比叡山の一角で、燃え上がるアジトを遠くから眺めていたのに過ぎない。
あの時、宗次郎も志々雄は誰よりも強いと思っていた。ただ、方治から志々雄の死を聞いて、やっぱり、と思ったことも事実だった。
「何で、何でこんな奴に、父さんは負けなきゃならなかったの・・・・!?」
真美のその言葉は剣心だけではなく、恐らく志々雄真実その人にも向けられていた。自分でもどうにもならない憤りを、既に死んでしまった人にぶつけずにはいられないのだろう。
「確かに、親父の死は信じられなかったな。あの親父の強さは俺の目標でもあったんだぜ、抜刀斎。ま、親父らしい死に方っちゃあ死に方だがな。死んじまったとはいえ、抜刀斎とは真っ向勝負。強ければ生き、弱ければ死ぬ・・・・その言葉通り、あんたの方が強かったってことだろ」
案外、事も無げに真由の方は言ってのけた。双子とは言えど性格は異なる。恐らくは男女での差異もあるだろうが、それでも真由は真美ほど感情的にはならずに、冷笑すら浮かべて淡々と語ってみせた。
「・・・・いや、あの闘い、拙者と志々雄のどちらが斃れてもおかしくは無かった」
ようやく、剣心は口を開いた。志々雄との死闘を思い出し僅かに目を伏せる。
今でも鮮やかに、ありありと思い浮かべられる志々雄との闘い。それはまさに、いつどちらが斃れてもおかしくは無い程の壮絶な命の競り合いだった。
互いに限界を超えて剣を交え、終いにはその志々雄が自らの炎熱で燐分を燃やし、黄泉へと旅立つその刹那まで。
「・・・・お主達は、誰から志々雄の死を?」
先程から聞いていれば、この二人はまるで剣心と志々雄のあの闘いの全てを知っているような、そんな口ぶりだったからだ。あの場にいたのは剣心、左之助、斎藤、蒼紫、そして志々雄と由美、方治だけだ。剣心側の人間が真由と真美と面識があったわけではないし、他の面々はもうこの世にはいない。蘇芳とてあの場にはいなかったのだから、志々雄の最期を克明に知る筈もない。ならば一体誰が。
剣心のその疑問に、真由は口の端を吊り上げて答えた。
「方治に聞いたのさ、牢で自害する前にな。勿論、蘇芳も一緒に」
「! あの男にか・・・!」
あの志々雄の忠実な臣下だった佐渡島方治を思い浮かべると共に、剣心は納得してもいた。
張から、方治は闘いの後、志々雄の汚名を少しでもそそぎその『弱肉強食』の政策の正当性を訴えようと、警察に出頭し裁判を待っていたということは聞いていた。そして政府にとって決して表沙汰になってはならない存在である志々雄のことを公で語る機会が方治には与えられず、明治という時代のこの国に絶望した彼が自ら命を絶ったというその事も。
彼がいつ自害したのかは定かではなかったが、出頭してから死ぬまでに時間があったというのなら、その間に拘留所に忍び込むなり何なりして方治から話を聞くことも、蘇芳らなら不可能ではなかったろう。
「・・・方治さんに?」
懐かしい名前に、宗次郎も思わず聞き返す。方治のその後についても宗次郎は以前に剣心から聞いてはいたが、まさか死ぬ前に蘇芳と接触があったとは思いも寄らなかった。
「ああ。方治は俺達が幾ら脱獄の手助けをしてやるって言っても、首を縦には振らなかった。ただ親父の為に裁判を待つってな。今にして思えば、そんなもの、明治政府が認めるはず無かったのに」
「それでも、方治は最期まで父さんの忠実な臣下だったわ。闘いを見届けて、父さんが死んだ後も父さんへの忠義を貫いて・・・・。まさに臣下の鑑よ」
それは確かに宗次郎も思う。志々雄の洗礼を受け、忠実な修羅となった方治の生き様は宗次郎も知っている。すべては志々雄の為に、と己が汚れ役になることも厭わず、煉獄での責任を一身に背負ったり完全勝利のために作戦を変更したりと、そういった方治の姿は良く覚えている。
宗次郎には、できなかった生き方だ。
「そう、方治は最期まで父さんに忠実だった。なのに・・・・!」
真美の感情が再び迫り上がってきたようだった。そうしてその感情の矛先は、今度は宗次郎へと向けられた。
剣心に向けられたものよりも尚、深い殺意と憎悪の炎をその瞳の奥に燃やして。
「宗次郎、あんたはそうじゃなかった! 一派の中で一番古くから父さんに仕えてたのに、最後の闘いを見届けようともしなかった!」
「・・・・・・」
それは事実だ。宗次郎には何も言えない。
剣心との闘いの後、志々雄の顔すら見ずに宗次郎は別れを済ませた。それはきっと、宗次郎の心の中に志々雄と袂を分かつことへの寂しさと、面と向かってさよならを言えない、言いたくないという気持ちがあったからに違いない。
あの闘いで、本当の自分は人を殺したくなかったと気付きはしたが、それでも宗次郎を強くしてくれたのは、生き長らえされてくれたのは間違いなく志々雄という存在で、けれど自分の本当の答えを探すには彼と決別せねばならなかった。
志々雄が正しいと信じていた。彼の言う弱肉強食の理念を信じていた。けれどそれは今にして思えば、志々雄が正しいというよりも、自分の選んだ道は間違ってなどいなかったと、そう思っていたかったのかもしれない。
―――あの時、誰も僕を守ってはくれなかった。守ってくれたのは志々雄さんがくれた真実と、ただ一振りの脇差だった。
僕は間違ってない。間違ってなんかいない。だから、正しいのは志々雄さんなんだ・・・・!
そんな単純で、複雑で、強くも脆い、信念だった。
「ずっと父さんの側にいた癖に、肝心な闘いで抜刀斎には負けるしその後あっさりと戦列を離れるし・・・・この役立たず! 裏切り者!!」
けれど真美は宗次郎の過去の出来事も、心の傷も、その思いも知ることは無い。ただ、宗次郎は長年父に仕えていた癖にたった一度の闘いで呆気なくその下を去ったと、その一点しか見えていない。
それはきっと、自分達は親元から引き離されているというのに、宗次郎は赤の他人の分際で自分の親に育てられている、という、彼への嫉妬と憎しみが、幼少の頃から真美の胸に刻まれているからかもしれない。
ほんの数刻前弥彦が、由太郎が雷十太に裏切られたという過去を語っていた。その当人でもないのに酷く悔しそうに。
この二人もそうなのか。無念と悔しさとを、長い間抱えていたのか。
「父さんは十年もあんたの世話をしてくれたのにあっさりと裏切るだなんて、この恩知らず!!」
真美は一層激しく宗次郎を罵った。宗次郎が浮かべている笑顔に、少し悲しいものがよぎる。
志々雄に恩を感じていないわけじゃない。むしろ、感謝している。
本来の自分が望まない方法だったとはいえ、命を助けてくれた志々雄に。強く育ててくれた志々雄に。親代わりであったと共に師、主君でもあった彼を慕う気持ちは、未だに消えはしない。
志々雄という存在を否定して決別を決意したわけじゃない。ただ、剣心との闘いの中で、彼の言う真実と心の奥で閉ざされていた本当の思いとが相反していたことに気付かされてしまった。そうして多分、自分がしてきたことを封じ込めた意識の中でずっと悔いてきたのだということにも。
人を殺したくは無かったのに、殺さなければ生きられなかったから。その真実を選び取らなければ、生きてこられなかったから。けれど、本当は、本当の自分は、誰かを殺したりなどしたくなかった。だが、それでは生きられない。
決して出口の見えない問い。だから宗次郎は自分の選んだ道は正しいと、それを教えてくれた志々雄こそが正しいのだと信じていたかった。
けれど己の本心に気付いた時、宗次郎は何が正しいのかを見失ってしまった。だから今度こそ本当の自分の生き方を見つけてみせるのだと、そう思って志々雄から離れただけなのに。
―――それを、人は裏切りと呼ぶのか。
「・・・・真美ちゃん。いや、もう真美さんって呼んだ方がいいのかな」
ぽつりと、宗次郎は彼女の名を呼んだ。確かに歳は十以上離れているけれど、年頃の少女へと成長した真美を見れば、もう子ども時代の頃のようには呼べない。由美に似ているから尚更だ。
真美がぶつけてきた本音に、自分への、志々雄への思いに、哀の感情が確かに動くのを微かに感じながら。宗次郎はどこか寂しそうな、それでも笑顔を浮かべる。傷の痛みを耐えているような、そんな微笑を。
「確かに僕はあの時、志々雄さんと袂を分かちました。でもそれは志々雄さんを裏切るとか、そういうつもりじゃなくて、」
自分ですら掴みかねるこの感情を、うまく言葉にできるかどうか宗次郎には分からない。
それでも、未だに父を慕い、だからこそ宗次郎を憎む真美に、この気持ちを伝えたかった。あの時、感じた心のままに。
「ただ、緋村さんとの闘いの中で、色々なことに気が付いちゃったから、それまで考えようとしなかったことに気付かされちゃったから・・・・」
あの闘いが無ければ、今ここでこうしていることも無かった。
剣心は宗次郎に、新しい生き方を行くきっかけをくれた。何が正しいのか、何が間違いなのか、宗次郎に簡単に答えを出させるのではなく、真実は自分の人生の中から見い出せと諭して。
強ければ生き弱ければ死ぬという弱肉強食の摂理も、目に映る弱い者を剣一本で守るという信念も、志々雄と剣心がそれぞれ自分自身で見い出した答え。ならば自分も、自分だけの答えを見つけてみたいと。あの時、そう思ったから。
「志々雄さんは僕に、弱肉強食の摂理を教えてくれました。でも、僕は僕自身の真実を自分一人で探してみたいと思って、志々雄さんとお別れしたんです」
志々雄を裏切るなんていう思いは無かった。ただ、自分一人で己の道を歩んでみたいと、それだけだった。それが志々雄の下を離れることになっても。
「・・・・ふん」
宗次郎が素直に連ねた言葉を、けれど真美は鼻で笑った。何を言っても聞く耳を持たぬ、そんな態度だった。
「自分自身の真実? そんなものの為にあんたは父さんに背いたのね。所詮この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ―――それこそがこの世で無二の真実。
・・・・それを一番信じてたのは、あんただった癖に!」
投げつけられた言葉に、宗次郎は嘆息するように小さく息を吐いた。
そう、彼女の言う通り、かつて弱肉強食の言葉を誰よりも信じていたのは宗次郎だった。その摂理に従い強くならなければ死ぬという、信じざるを得ない極限の状況下に置かれたことがあったからといえども、それでも、誰よりも強く、誰よりも深くその言葉を信じていたのは。
けれど、だからこそ宗次郎の本当の心は笑顔の裏に隠されたのだということを、真美は知る筈も無かった。心の傷が疼かないように、悔恨の思いに苛まれることが無いように、宗次郎自身が無意識のうちに感情を心の奥底に封印してきたのだということも。
今も、そうだ。苦しい思いが宗次郎には確かにあるはずなのに。
宗次郎はただ、力無く笑うのだ。
「・・・・真美殿。お主が志々雄を・・・・父を想う気持ちは良く分かった」
真美と宗次郎とのやりとりを黙って静観していた剣心が、ごく穏やかに言葉を紡いだ。真美の鋭い眼差しが、再び剣心へと向けられる。
「お主達の立場を思えば、宗次郎に憤りを覚えるのも無理は無いのかもしれぬ。だが・・・・」
血の繋がった父親である志々雄が、我が子の真由と真美を遠くに追いやり、他人の子の宗次郎を傍らに置いて育て上げた。
親の庇護を受けるのは自分なのに、親に期待され認められるのは自分なのに、親の傍にいるのは本当は自分の筈なのに・・・・!
真由と真美に、そういった感情が芽生えるのは至極当然。それに、宗次郎に敵意を持つのも、また。誰しも、己の親に自分ではなく他人の子が構われていたら、面白くないわけがない。
まして、紆余曲折の末、宗次郎はその志々雄の下を去った。真由と真美にすれば、それは志々雄への裏切り以外の何物でもない。
だから彼らは、とりわけ真美は宗次郎を憎んでいる。その感情の根底にあるものが、親から自分に向けられる愛情への渇望だと、彼女自身が気付くことが無くても。
「先程宗次郎が言ったように、志々雄の下を離れるのは宗次郎自身が決めたこと。真美殿、お主にはお主の考えがあるように、宗次郎にも宗次郎の考えがある。人は、誰もがそれぞれに心に思うことがあるのでござるよ」
諭すように。まだ年若いこの少女に。恐らくは親からへの愛に飢え、満たされぬ思いを怒りと憎しみに変え、だからこそ他人に対し攻撃的にならざるを得ないこの少女に。
己が親になったからこそ分かる。剣路は確かに普段は素っ気無いが、それでも剣心と薫の期待に応えようと、ひたむきに頑張っている姿を知っている。親の想いに子は応え、子は親の想いに応えようとする。互いに想い合い、支え合い、育て合う、それこそが次の世代を育むということ。
真美もきっと、本当は志々雄の力になりたかったのに違いない。強ければ生き、弱ければ死ぬという弱肉強食の理念を掲げる父に応えようと、懸命に腕を磨き己を鍛え上げ、強くなろうと・・・・・。
宗次郎が普段志々雄の側にいる分尚更、彼には、彼にだけは負けぬと、敵愾心と対抗意識を激しく持って。そしてその思いを糧として強くなったのは、恐らく真美だけではなく、真由もまた。
それなのに、その切望するような思いが宗次郎と剣心という他人に無残にも打ち砕かれたからこそ、憎しみの炎を燃やさずにはいられないのだろう。
その憎怨は無理も無いのかもしれない。ただ、自分の思いだけに捕らわれるのではなく、その思いを向ける宗次郎もまた、彼にしか分からぬ胸の内が存在するのだと、剣心はそう伝えたかった。
「・・・・はっ、抜刀斎お得意の甘い戯言か。そんなもので俺達は丸め込まれたりなんざしねェぜ」
それを嘲笑うような声が響く。
今度は真由だった。悠然と腕を組み、少しも臆することはない。
「親父だって、最期まで自分の信念を曲げなかっただろ?」
そう言って不敵に笑んだ真由の顔は。
恐ろしい程、志々雄に似ていた。
「所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。至極簡単な自然の摂理だ。だがな―――それこそがこの世で唯一の真実だ」
態度も、声も、言う言葉すらどこまでも志々雄と重なる。
確かに、自然界で弱いものが淘汰されるのはごく当たり前のことなのかもしれない。だが、それだけですべて割り切ることなどできない。納得したくはない。
志々雄は、弱者は強者の糧だと言い切っていた。弱者は強者の糧として生きる責務があり、糧にすらならない奴は存在そのものに価値が無い。一番の強者が一番頂上に立つ、それ以外の存在はすべてその者の為の糧にしか過ぎないと。
けれど、誰かの為に何かの為に犠牲になって当然の命などあるべきではないと剣心は思う。弱肉強食、それだけでこの世の全てを語れるほど、この世の中は単純では無いのに。
剣心は内心歯噛みした。それでもこの二人もまた、その弱肉強食の摂理に囚われてしまっているのか、と。
「俺は真美みてェにお前らに対する恨みつらみをいうつもりはねぇ。ただ―――」
真由は一度言葉を切り、口の端をニッと吊り上げた。瞳だけは見た者を凍てつかせるような冷たい色を湛え、宗次郎と剣心とをその眼差しで睨め付けている。
「親父を破った伝説の人斬り緋村抜刀斎と、親父が作り上げた最強の修羅、瀬田宗次郎。一剣客として、剣を交えてみてェ。親父の認めた強さはどれ程のものなのか・・・・この俺自身の剣でな」
真由は顔の前まで右の拳を掲げ上げ、グッと力強く握ってみせた。腕の筋肉が強張り、まだ十六歳ゆえ志々雄の体格より劣るとはいえど、それでも真由は鋼のように引き締まった体の持ち主であることが分かる。
「それから、俺がお前らを血祭りにあげて、志々雄真実こそが最強だって証明してやるぜ」
或いは、それが一番の目的なのかもしれない。自信に溢れた笑みの向こう側に、父親の影が真由にも確かに息づいていることを、何となく宗次郎は悟っていた。
真美は剣心と宗次郎を憎んでいる。
真由は憎む以上に、ただ純粋に剣の力でその二人を上回りたいと考えている。
二人の根底にあるのは、きっと父親である志々雄への想い。自分達の父親が誰よりも強いと思っていたから、その強さを越えた者を、その強さを裏切った者を許せない。
そして親を失う原因を作った者達を。
「・・・多分、言葉では何を言っても通じないんでしょうね」
どこか観念した風に宗次郎は言った。そのままスッと天衣の柄に手を添える。剣心がはっとしたように目を見開いた。
「所詮、この世は弱肉強食、強ければ生き、弱ければ死ぬ」
志々雄が幼い頃の自分の心に強く焼き付けた言葉を、宗次郎は静かに口にした。
あれから長い年月を経て、宗次郎も今は自分なりの答えを見つけかけている。けれどそれでも、その答えの基盤にあるのは、弱肉強食の理念。全てをそれで決めることは無くなっても、その言葉は確かに一つの真実だと、宗次郎は思う。
「あの頃の僕はそのことしか考えてなかった。その言葉が何よりも正しいって。今だって、僕は弱肉強食の真実を否定し切れません。強い者は生きて弱い者は死んでいく、そんな光景を旅の中で何度も見てきましたから。だけど、」
けれど、だからといって弱肉強食の言葉だけで今は生きているわけではない。それ以外に大切なものを、旅の中で、留まった地で見つけていたから。
「それだけじゃないんだなぁって、今頃になってようやく気付いたんです。でも・・・・きっと、真由君と真美さんはそうじゃない」
だが、真由と真美は違う。十年前の宗次郎のように、彼らの行動理念は弱肉強食、それしかない。
かつての自分がそうだったから分かる。強ければ生き、弱ければ死ぬ、その弱肉強食の理念に縛られている者の心を揺り動かすのは、やはり強さを示すしかない。力で、剣で、語るしか。
「強ければ生き、弱ければ死ぬ。それが真由君達の真実なら、それに正面から応えるしかないですよね」
「・・・・そうこなくっちゃな」
淡く微笑んで刀の柄を握り締める宗次郎を見て、真由も愉しそうに笑んで同じく刀の柄に手をかけた。
剣を交えて闘う。行き所を失った彼らの父への想いに応えるのはそれしかない。
それしか、宗次郎にはできない。それ以外の方法を知らない。ならばせめて、自分にできることを。
真由と真美と、何より志々雄と由美の為に。
「かかってらっしゃい。私達が闘いたいのは、宗次郎だけじゃなくてよ」
「そうでござろうな。ならば拙者も、本気で相手を致そう」
誰かの為に何かを成す、何かを成そうとすることの意味も、宗次郎にとっては十年前とはかなり異なっているということに剣心も気付いていた。
宗次郎自身は無意識のうちにかもしれなくても、自分のことだけでなく、他者のことを考えて行動することができるようになってきている。
その彼が誰かの為に剣を振るうというのなら、剣心にもまた、再び刀を抜く時が来たのだ。以前のように自在に闘える身体ではなくても、確かに父と母の命を奪った存在として、真由と真美に真っ向から向き合わねばならない。
真美は薙刀の切っ先を剣心に向け、剣心も腰に差した木刀に手を伸ばす。
宗次郎、剣心、真由、真美、四者それぞれの間に闘いの空気が満ち、何か均衡が崩れれば、今すぐにでも剣戟が始まってもおかしくは無かった。無言のまま向き合い、仕掛けるその機を窺う。ちゃき、と真由の刀の鍔が鳴った。
それをきっかけとして誰もが足を踏み出す―――その筈だった。
「気が早いな、真由、真美。今日はまだ、手は出すなと言ったのに」
突如響いた第三者の声に、皆の動きが一様にしてぴたりと止まる。
宗次郎は神社を取り囲む木立の方に振り向いた。いつの間にそこにいたのか、その低く掠れた声と高圧的な口調の持ち主を宗次郎は見間違える筈も無かった。
酷薄そうな冷たい笑みをその顔に浮かべる今回の闘いの黒幕。
琢磨蘇芳だった。
「・・・・蘇芳さん」
「久しいな、瀬田」
短い再会の挨拶。だがそれで充分だった。
宗次郎と蘇芳とは、あの静岡での辻斬りの一件以来の対面となる。宗次郎が京都に来てからはその存在を匂わせるだけで、自ら姿を現すことは無かったから。
居場所の尻尾も掴ませなかったこの蘇芳とようやく会えたことを考えると、意外さよりもついにこの人を引っ張り出すことができた、という思いの方が宗次郎には先に立った。
よくよく見れば、蘇芳の後ろにはちょこんと鈴も立っていた。成程、彼女が蘇芳を連れてきたのか。或いは、宗次郎達の監視も務めていたのか。
「そっちは初めましてだな、緋村抜刀斎。伝説の人斬り様に会えて光栄だぜ」
「・・・・宗次郎から話は聞いている。お主が琢磨蘇芳という男でござるか」
剣心は抜刀の構えを解き、けれど警戒は続けたまま鋭く蘇芳を見据えた。剣客としての長年の感が剣心に告げる。この男は強い、と。その全身から放たれる突き刺さるような剣気が肌を通して伝わってくる。『鬼刃』、その字名にも頷ける。
この男が、宗次郎と浅からぬ因縁を持つ蘇芳か。
「・・・・これからって時に水差しやがって」
興を削がれたことに舌打ちし、真由は忌々しげに蘇芳を見た。真美も納得がいかないといった風に蘇芳に抗議する。
「まったくよ。確かに今日はまだ闘わないってあなたから言われてはいたけど、仇を前にして私達が我慢できるはずもないじゃない!」
憤慨する真美に、けれど蘇芳は愉悦の笑みを浮かべながら悪びれることは無く。
「ああ、それは分かってるさ。お前達が瀬田と抜刀斎を前にして、闘わずにはいられないってな」
「・・・・だったら最初っから、今日は会わせずに決闘の日に会わせればいいじゃない」
実際に会わなければ、これ程までに感情が燃え滾ることも無かっただろう。
不満そうに口元を歪ませる真美に、蘇芳はくくっと低い笑い声を漏らして。
「お前らのことだ、志々雄の仇と裏切り者には、早めに会っておきたかったんだろう?」
「・・・・・ホント、嫌な性格ッ!」
真美は蘇芳からふんっと顔を逸らした。そんな仕草まで由美とそっくりで、宗次郎は思わず苦笑する。
真由と真美の心境としては、仇敵である宗次郎と剣心には早く会いたい。けれど会えば闘いたいという気持ちが沸き起こるのは至極当然。だから蘇芳は今日は闘わないようにと釘を指し、それ故に真由と真美には鬱憤が積もったままで、だからといって対面を最終的な闘いの時まで延ばすのを二人には我慢できる筈も無く。
蘇芳は自分に振り回される真由と真美を見るのも酷く面白く感じているようだった。宗次郎の話以上に一筋縄では行かなさそうだということを察し、食えない男だ、と剣心は思った。
「楽しみは先延ばしした方が面白いのさ。それに、その満たされない思いを糧にお前達はまた強くなる」
「こっちでなかなかあなたが姿を現さなかったのも、その『楽しみは先延ばし』の一環って訳ですか?」
どこか挑発的に宗次郎は言う。実際、闘いを待たされたのは真由と真美だけではない。宗次郎もだ。闘いの決着は京都で着けると、煽ったのは蘇芳の方なのに。
「これ以上、待ったをかけられたくは無いんです。やっとあなたが出てきたんですから」
宗次郎は柄から手を離さないままだ。速やかに相手を斃すことも仕込まれていたから、案外宗次郎には闘いっ早い一面もある。
宗次郎、という剣心の諫めるような声が聞こえたが、宗次郎はこの機を逃すまいと斬りかかるつもりでいた。
が、蘇芳が右手を広げ、バッと前に突き出した。
文字通り待ったをかけたのだ。
「・・・何の真似です?」
やや鋭さを帯びた目で宗次郎は蘇芳に問う。蘇芳はにやり、と質の悪い笑みを浮かべた。人に悪戯を仕掛けた時にするような、そんな笑みを。
「下手に手を出さない方がいいぜ。静岡の兄妹を危険に晒したくなかったらな」
「―――え?」
不意に蘇芳の口から飛び出した名に、流石の宗次郎も目を見開く。
『行ってらっしゃい、宗次郎君』
『気を付けてな』
そう言って京都へと送り出してくれたあの兄妹。宗次郎に帰る場所を与えてくれた人達。
宗次郎と、浅葱の繋がりは蘇芳は知らない筈だ。いや、それとも調べ上げたのか。いずれにせよ、あの二人は自分の闘いには巻き込むまいと、だから一人でこの地まで来たのに。
それなのに、蘇芳は無関係のあの二人まで、巻き添えにしようというのか。
「どういう意味です? さんも浅葱さんも、僕とあなた達との闘いには何の関係も無いでしょう」
無意識のうちに声に冷たい色が含まれていた。それを鋭敏に感じ取り、蘇芳は再び何かを得心したかのように笑う。
「確かに直接的には関係無いさ。だが、お前の関係者も巻き込んだ方が色々と面白いだろ?」
まるで何かの祭りを楽しんでいるかのような蘇芳の口調に、宗次郎は頭の奥が痺れたようにかあっと熱くなっていくのが分かった。多分、怒りだ。身勝手な蘇芳に対しての。
それでも表情はその熱に染まることは無く、むしろ笑顔を湛えたまま。
「まさか、もうあの二人に何か・・・・?」
強ければ生き、弱ければ死ぬ。あの二人は芯は強いが、闘う術は何も持たない、分類すれば弱い側の人間だ。蘇芳達の手にかかれば、呆気無くその命は奪われるに違いない。
その摂理に基づいた、最悪の事態を瞬時に頭に思い浮かべ、宗次郎は確かめるように蘇芳に問う。
「その反応を見ると、案の定あの二人はお前にとって大事な人間だったようだな。長いこと世話になってたみてェだから、情が戻ったお前のことを考えれば無理も無いが」
動揺の見られる宗次郎に、剣心もまた蘇芳のその言葉が正しいのであろうことを知る。宗次郎からその二人の話を聞いてはいないが、きっと、かつての自分にとって神谷道場に集った人間達が、そんな存在に当たったように。宗次郎にとっても、恐らくその者達は。
「まぁ、安心しろ。二人とも無事だ。兄の浅葱は静岡で息災にしているし、」
本当に事実かどうか定かではないが、それでも蘇芳の告げた二人の無事に、宗次郎は思わず安堵した風に息を吐いた。浮かぶ微笑も知らず知らずのうちに柔らかなものとなる。
それを見て、宗次郎のその笑顔とは正反対に、蘇芳は酷く底意地の悪い笑みを浮かべた。
やっぱり嫌な性格、と真美は心の中で呟いた。
「妹のは丁重に、京都の俺の屋敷に捕えてあるからな」
宗次郎の穏やかな笑みが、そのまま顔に張り付いた。