―第十二章:遠い過去、彼らに何があったのか―
明治八年、秋。
その時、宗次郎は十五歳で、蘇芳は二十歳だった。
志々雄は既に本拠地を京都の比叡山へと構え、アジトもまた内部はほぼ出来上がっていた。
剣の腕の確かな者、知略に秀で策を弄する者、常人にはできない戦術を用いる者、そういった個性的な面々で構成された己の手足となって働く精鋭部隊『十本刀』も揃い、志々雄は虎視眈々と国盗りの機会を窺っていた。
そう、例えば今日本の頂点にいる大久保利通、木戸孝允、西郷隆盛といった大物が互いに潰し合い、そこに自分達が最後の一押しを加えることで、国家を一気に傾かせることができるようなその時を。
けれど、まだその時は満ちてはいない。国家転覆に重要な役割を果たす十本刀も、ある者は志々雄の元にいて任務をこなし、またある者は己の強さを高めるため修行に精を出し、またある者は全国各地で国盗りの下準備をしたり、と、常にアジトに集結しているわけではなく、各々が自分のすべき事をこなしていた。
組織の中で一番古くから志々雄に付き従っている宗次郎は信頼も当然のことながら厚く、常に側近として彼の側に控えていた。志々雄が自ら才覚を認めていた少年だったから尚更だったろう。まだ若いながらも、宗次郎はもうその時には十本刀一の剣の使い手の地位を確立していた。
当時から、宗次郎はある意味、志々雄よりも恐ろしい、と、一派の雑兵の中で密かに囁かれていた。
志々雄は確かに恐ろしい、だが人を惹きつける何かを持っている。絶対的強者としての、カリスマ性とでも呼べるべきものを。だからこそあんなにも組織は大きくなった。多くの人間が志々雄の元に集った。
片や、宗次郎は確かに剣の腕は立つが、その心に楽以外の感情を持たない。だからこそ宗次郎は強かったのだが、その感情欠落によって、振るう剣に容赦は無かった。まだ幼い子どもらしい顔にニコニコとあどけない笑みを浮かべながら多くの人間を惨殺する様は、志々雄の元に集った者達と言えど、流石に震え上がらずにはいられなかった。
加えて、任務などで手酷い失敗を犯した者や一派内の裏切り者を粛清するのは、主に宗次郎の役目だった。無邪気な笑顔を浮かべたまま、確実にその相手を鋭い剣で葬り去る―――まさにそれは修羅の姿。穏やかな表情と剣の冴えの食い違いがまた恐ろしく、宗次郎の強さに信頼は置けるものの、同時に得体の知れない恐怖もそこにはあったのだ。
もっとも、宗次郎本人はそんな評価を気にも留めることなく、ただ志々雄と彼の言う弱肉強食の理念の下に剣を振るっていたのに過ぎなかった。
あの雨の日以来、強く根付いたこの世の真実。強ければ生き、弱ければ死ぬ、それを身を以って信じていたからこそ、自分を強くしようとしてくれたからこそ、宗次郎は志々雄についていくことを決めたのだから。実際、宗次郎は志々雄に鍛え上げられて、元々持っていた天性の素質が開花したのもあって、最強の修羅の名に相応しく強くなっていた。
志々雄も含め、多くの者が宗次郎のその強さを認めていた。だが、一派内にただ一人、宗次郎の強さを認めない者がいた。
蘇芳だった。
元々、蘇芳は志々雄の弱肉強食の考え方に影響を受け、己の強さに自信を持ち一派に加入した者。
その猛々しい剣はまるで鬼のような強さを誇ることから『鬼刃』の字名を持ち、総合的な強さは宗次郎・宇水・安慈の十本刀三強よりは劣るが、純粋な剣の腕だけ見てみれば十本刀中一・二を争う程とも称されていた。
己の強さを自負していた蘇芳としては、自分より年下の、それもまだほんの子どもである宗次郎が十本刀一の地位にいるのが気に入らなかった。宗次郎の強さは知っていても、それでも本気を出せば自分の方が上だと。
その反面、最強の修羅と名高い宗次郎に自分の剣がどこまで通用するのか試してみたい、という気持ちも蘇芳にはあった。己の強さに自信を持つ者ならば、強者に挑戦してみたいとは誰しもが思うこと。
だから蘇芳は、宗次郎に決闘を申し入れた。下克上を図ったのだ。
「いいんですか? 僕は強いですよ」
あっさりと、本当に無邪気に笑う十五歳の宗次郎。子どもの頃と比べると背もかなり伸び、腕や足にも筋肉がついたとはいえ、それでもまだまだ華奢な体つきである。数々の修行に耐え、全身を鍛え上げた蘇芳としては、宗次郎がこんな細っこい体で驚異的な剣を振るうのが更に気に障る。
加えて、決闘を申し込んだ相手に臆面も無く自分は強いと言ってのけるのだ。
「何度も言わせるな。俺とお前のどちらが強いのか、今日こそはっきりさせてやる」
蘇芳がどこか苛ついた口調で言葉を返すが、どうして彼がそんな風になっているのか宗次郎には分からない。それに、突然彼が闘いを挑んできた理由すら、宗次郎は思い当たらないのだ。
それでも、宗次郎は「まぁいいや」と思う。良く分からないが、蘇芳が自分と闘うことを望むなら、それに応えてやればいい話だ。弱肉強食、それがこの世のすべて。強いのか、弱いのか、ただそれをはっきりさせればいい。
「僕は構いませんよ。別にあなたと闘っても」
「・・・俺のことはどうでもいいって口振りだな。まぁいい、すぐに後悔させてやるさ」
宗次郎のあっけらかんとした様子が更に蘇芳の敵愾心を煽る。こんな、こんな子どもに負けるものかと。己の方が絶対に強いと。
同時に、宗次郎の感情欠落についても改めて思う。自分のことだけでなく、他者のことにもほとんど心を動かすことが無い。相手に一切の情も持たず闘えるというのなら、成程確かに、その剣に相手を傷つけることへの躊躇いなど微塵も無いことだろう。
柔らかな笑みの宗次郎と、殺気を全身から立ち上らせた蘇芳とが対峙する。蘇芳の剣は既に鞘から抜き放たれ、対する宗次郎は柄に手をかけることなくただ自然体で立っている。
無間乃間。宗次郎がその脚力を生かして闘えるようにと拵えられた広々とした簡素な造りのその部屋で、今、宗次郎と蘇芳の闘いは始まろうとしていた。
蘇芳が幾ら剣気を叩きつけても、宗次郎は平然としてその場に立っている。感情の欠落している宗次郎には、剣気や殺気を叩きつけ相手を萎縮させることも、剣気を当てたその反応を見て動きを先読みすることも不可能。頭では分かっていても、実際にその相手とこうして向き合ってみると、非常に闘いにくいものだと蘇芳は悟る。表情は冷静さを保ったまま、けれど内心舌打ちする。
一方、宗次郎はというと、
(闘いを仕掛けてきた割に蘇芳さんはちっとも動かないなぁ)
と、いたって落ち着いている。怒の感情、喜の感情を含んだ殺気や剣気を、宗次郎はその心に楽の感情しか持たぬのだから感じるはずも無く、自らもまた発することは無い。だから宗次郎の目には蘇芳がただじっと構えているようにしか映らず、動かないのが不思議で仕方がない。宗次郎も剣客であるから、相手の動きを見て闘い方を決めることもある。けれどこれでは決めようが無い。
宗次郎は笑って溜息を吐いた。
「まぁいいや。そっちが来ないなら、こっちから行きます」
言うや否や、宗次郎は抜刀の構えを取って前に飛び出す。縮地ではないものの、それでも常人よりは遥かに速く懐に飛び込んできた宗次郎に、蘇芳は僅かに狼狽しながら刀を振るった。
「くっ!」
横薙ぎの剣筋と、宗次郎の抜刀した菊一文字が交差する。キン、と一度ぶつかって互いの刃は離れ、宗次郎はにこっと笑う。すぐさま、今度は袈裟懸けに刀を一閃した。蘇芳は身を引いてかわす。
(成程・・・いい太刀筋だ。常人なら最初の一撃で死んでる。並大抵の剣客じゃ、このガキの足下にも及ばねェな。最強の修羅の名は伊達じゃねェってことか・・・・)
宗次郎の存在を気に入らないのは確かだが、こうして実際に闘ってみて、志々雄が見い出したというその強さに納得が行く。
(だが・・・!)
それ以上に、こうして強者と刃を交えるということは、剣客にとって最上の喜び。
この、幼いながらも最強の修羅の名に相応しい少年を、もしも自分が斃すことができたなら。
どんなにか、気分のいいことだろう。
「勝つのは俺だ、瀬田!」
蘇芳は猛然と宗次郎に斬りかかってくる。
宗次郎は内心、感心していた。蘇芳の剣は、その一つ一つが鬼刃と呼ばれるに値する重くも鋭い一撃だった。そうして今、蘇芳は刀に渾身の力を込めて宗次郎に向かってくる。上段から振り下ろされるその刃を受ければ、誰もが身体を真っ二つに切り裂かれて、無残な死体を晒すことだろう。
その刃を受ければ、だが。
「・・・・っ!」
蘇芳がありったけの力を込めたその一撃を、宗次郎はさらりとかわした。どんなに強力な攻撃も避けてしまえばそれで終わりだ。
「くっ!」
それを想定しない蘇芳ではない。すぐさま体勢を整え、再び宗次郎に斬りかかる。けれど宗次郎は相変わらず無邪気な笑みを浮かべたまま、難なく蘇芳の剣を避けていた。
避けながら、考える余裕もあった。
(蘇芳さんは強いなぁ。けど、所詮はこの程度か。志々雄さんには到底敵うほどじゃないや)
宗次郎は素直にそう思った。
確かに、蘇芳は十本刀では強い方にいるのだろう。剣の腕を自負するだけある。けれど、それでも志々雄や自分の強さには遠く及ばない。
これ以上闘っていてもそれは変わらないだろう、ならば、この辺で終わりにしよう。
宗次郎はぴたっと剣を止めた。
「あの〜そろそろ止めにしませんか?」
「・・・・何だと?」
同じく動きを止めた蘇芳が、けれど眉だけをかすかに歪めたまま呻くように問うた。宗次郎は刀を肩にトンと当てて、にっこりと笑う。
「これ以上やっても時間の無駄でしょうし。もう勝敗は明らかでしょう?」
「・・・・・・」
蘇芳はギリ、と歯噛みした。確かに宗次郎の言う通りかもしれない、だが、ここで剣を納めるのは蘇芳の自尊心が許さない。いや、むしろ宗次郎のその悪気の無い、けれど事実である一言が、蘇芳の矜持を打ち砕いた。
―――こんな子どもに、俺は負けるのか。
「じゃ、そーいうわけで」
宗次郎は刀をスッと鞘に戻した。蘇芳の無言を肯定の返事だと受け取ったのだ。元々は蘇芳が、彼と宗次郎とのどちらが強いのかの白黒をつけたいからと言い出した決闘だ。互いの強さの違いがはっきりした今、これ以上闘う必要は無いだろう。
「・・・・そうだな」
俯きながら蘇芳も頷く。思った通り、蘇芳も異論は無いらしい。宗次郎はニコニコと笑いながら蘇芳に近付く。
「いやぁ、いい勝負でしたねぇ。やっぱり僕の方が強かったけど、蘇芳さんもなかなかですよ」
率直な感想を宗次郎は述べた。蘇芳は無言で、けれど目だけを宗次郎に向けてその言葉を聞いている。刀は下に降ろしたままで。
「これではっきりしましたね、僕と蘇芳さん、どっちの方が強いのか」
そう、蘇芳はその為に宗次郎に勝負を挑んだのだ。己の強さに自信を持っていたからこそ、同じく剣の腕が立つ宗次郎との強さの優劣をはっきりとさせたくて。
確かに勝敗は明らかだ。決定打はなくても宗次郎が勝ち、蘇芳は負けた、そのことに変わりはない。だが。
宗次郎は縮地を使わなかった。その三歩手前すらも。つまり、少しも本気を出していなかったということだ。
(それなのに、俺は・・・・!!)
その宗次郎にすら勝てなかった。むしろ翻弄されていた。相手にすらならなかったのだ。
剣の腕には自信があった。弱者を踏みにじり、その頂点に強者として君臨する自信が。たとえ今は志々雄が弱肉強食の天辺にいても、いつかは自分もそこまで登り詰めようと。
それなのにその自信はあっさりと覆された。本気の片鱗すら見せない、こんな年端も行かない子どもに。
こんな、こんな悔しい気持ちのまま、引き下がることなどできはしない―――!!
「・・・・死ね!」
刀すら構えていない宗次郎に、蘇芳は本気で殺すつもりで刀を振るった。不意打ちでも何でもいい、奴に一泡吹かせることができるなら。
蘇芳はまさに鬼のような形相で、柄を握る手に力を込め刃を振り上げる。宗次郎の身体を右足から左肩にかけて、容赦なく叩き斬るつもりだった。
だが。
「嫌だなぁ。もう止めにしませんかって言ったのに」
その声は蘇芳の背後から聞こえてきた。殺気の篭もった蘇芳の一撃は虚しく空を斬るだけに終わった。
これが縮地か、と息を呑む間も無く、いつの間にか抜き放たれていた宗次郎の刀の切っ先が、蘇芳の背中に押し付けられていた。宗次郎が遠慮なくそこを突けば、確実に刃が心臓に到達するその場所に。
「所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ」
後方から響く宗次郎の無邪気な声に蘇芳は立ち尽くすしかなかった。誇張ではない。本当にそれしかできなかったのだ。再び気持ちを奮い立たせて宗次郎に反撃することはおろか、指先一つを動かすことすらも。
もし一歩でも動けば、その言葉を信条とするこの少年は、その摂理に従って何の躊躇いも無く刀を振るっていただろう。その証拠に、
「もしあなたが同じ一派の人間じゃなかったら、このまま突き殺してましたよ」
限りなく明るく、宗次郎はさらっと言ってのけた。
その無邪気さに打ちのめされて蘇芳はがくりと膝をついた。宗次郎は本気だ。本当に心から言っている。けれどそれは、恐らく蘇芳のことを考えてのことではない。幾ら宗次郎といえど、志々雄に何の断りも無く同志である十本刀を勝手に殺すわけにはいかなかったのだろう、国盗りを間近に控えた今の時期なら尚更。
だから蘇芳を殺さなかった。その理由が無ければ、宗次郎は迷うことなく蘇芳を斬り捨てていたことだろう。
―――『哀』の感情が無い為、相手を殺すことを何とも思わない。
宗次郎のその修羅としての恐ろしさと強さを、蘇芳は身を以って知った。
「今度こそ、本当に勝負あり、ですね」
畳に膝をつき、項垂れている蘇芳を見下ろしながら、宗次郎は幼子のように屈託無く笑った。蘇芳は何も答えない。答える気力すらない。
「あ、そうだ。蘇芳さんすみません、僕、この後ちょっと任務があるんですよ。だからあなたのお相手はここまでってことで」
宗次郎はまた刀を鞘に納めた。蘇芳の望む通り、闘いの決着は着いたのだ。もうこれ以上この場に留まる必要は無い。先にこの場を去ることを、少しも悪びれた様子もなく宗次郎は言う。
「それじゃあ、これで失礼します」
宗次郎は顔を上げぬままの蘇芳に、それでも一応ぺこりと会釈をして、そのまま無間乃間を去っていった。顔に浮かぶのは相変わらずの無邪気な微笑。敗者である蘇芳に、特にこれといって情が動くことは無い。
(所詮、この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ)
唯一の真実を心の中で反芻する。その言葉が無ければ生きられなかった。その言葉が無ければ強くなれなかった。この世は弱肉強食、それは宗次郎を突き動かす行動理念。
(僕より蘇芳さんの方が弱いんだ。でも勝手に殺しちゃったら、後で志々雄さんから怒られそうだからなァ・・・・)
強いか、弱いか、それだけが宗次郎の判断材料。自分より弱いとはっきりした蘇芳にそれ以上の感想は持たず、宗次郎は仕えるべき主の下へと戻っていった。
そうして宗次郎がその場から去ったその後で。
「・・・・ククク・・・・ハハハハハッ!!」
ただ一人残された蘇芳は、哂っていた。
眉を酷く歪め、自暴自棄になったかのように両の拳を何度も畳に叩きつけながら。それだけでは吐き出しきれない悔しさと憤怒が、蘇芳の全身を駆け巡っていた。これ程の屈辱的な思いを味わったのは初めてだった。
「畜生・・・・・!!」
やがて哂うのを止めた蘇芳は、最後に両手をドンと強く畳に打ちつけた。ギリ、と唇を噛み締める。血の味がした。
「瀬田。確かにお前は強い。まさに最強の修羅だ・・・・」
それは認めざるを得ない。決闘の結果からもそれは明白であるし、何より『天剣』の宗次郎を支える三つの強さを蘇芳は凌駕することができなかった。
天賦の才による『天剣』、強靭な脚力から生み出される移動術『縮地』、そして『感情欠落』。決して崩せぬ完璧な強さだ。
瀬田宗次郎、それはまさに志々雄真実が作り上げた最強の修羅。我が子である真由と真美以上に手塩にかけて育ててきただけある。
蘇芳は宗次郎が憎かった。自分をこんなにまで圧倒的に打ち負かしたという事実以上に、単にその完全無欠の強さが憎らしかった。
同時に、その強さが羨ましかった―――妬ましかった。心の底から、その強さが欲しいと思った。宗次郎のその強さは、自分には得られないと分かっているから余計に。
ならばどんな手を使ってでも、絶対に今以上に強くなってみせる。
腹の奥深くから絞り出すように、蘇芳は吼えた。
「いつか、最強の修羅であるお前を超えてやる・・・・!!」
それから数日後、蘇芳はしばらくの間、一派から離れて修行に専念したいという旨を志々雄に告げた。
基本的にこの組織に抜けることは不可だが、志々雄は存外あっさりと蘇芳のその申し出を聞き入れた。宗次郎から蘇芳との闘いの顛末を聞いていたからだ。
(蘇芳が宗次郎に敵対心を燃やせば燃やすほど奴は強くなる。一派を抜けるのはちょっと痛ェが、まぁ代えは何とかなる。蘇芳がこれ以上強くなれば何かと使えるし、それに何より・・・・面白ェことになった)
蘇芳が強さを磨けば、今以上に強力な手駒になる。それを考えれば蘇芳の離脱は一派にとって然程大きな損失ではない。
それに、己の強さに溺れ粋がっていた蘇芳が、宗次郎との敗戦を機にどう一皮剥けるかも楽しみだ。果たしてこの『鬼』は、己が見い出し、作り上げた最強の修羅を打ち破れるかどうか。
「蘇芳さん、いつかまた勝負しましょうね」
にこにこと、やっぱりあどけなく笑いながら宗次郎は蘇芳を見送る。蘇芳は宗次郎を一瞥し、フン、と鼻で笑って。
「ああ。その約束・・・・忘れるなよ」
この時の宗次郎と蘇芳は、それから三年後、志々雄一派と剣心達との間で壮絶な死闘が繰り広げられることを知らない。その闘いの後に、宗次郎が弱肉強食の考えだけを指針にするのを止め、自ら歩き出し始めたということも知る由もない。
ただ、宗次郎と蘇芳という二人の修羅が、いつかまた剣を交えることを、先の見えぬ未来に漠然と思い描いていただけだった。
―――これは、今から十三年前の話。
「・・・・とまぁ、こんな感じです」
宗次郎はズズ、と、話の途中で増から出された茶を一口飲んだ。
蘇芳との因縁の始まり。蘇芳が宗次郎の強さに固執する理由。そして今回の事件の発端とでも呼べるべきこと。
あくまでも宗次郎からの目線ではあるが、その全てを宗次郎は語った。
話に口を挟むものは無く、話が終わった後もしばらくは皆は口を閉ざしていたのだが。
「・・・・・あんた、それ、蘇芳って奴に恨まれてもしょーがないわ」
「はい?」
操のげんなりとした言葉に、宗次郎はまるで分かってない様子で首を傾げる。
操はもう一度溜息を吐いた。操はまだ蘇芳とは会ったことは無いが、弥彦や今の宗次郎の話を聞く限り、相当執念深そうな男だ。そんな奴がけっちょんけちょんに負けたらどうなるかは容易に想像がつく。
それに、(幾ら事実とはいえ)宗次郎の歯に衣着せない物言いに、蘇芳が自尊心をズタズタにされたであろうことも。
恨まれててもしょーがない、うん。と操は心の中でもう一度呟いた。
「まぁ恨む恨まないはともかく・・・・蘇芳があんなに宗次郎に拘る理由が分かった気がするぜ」
その傍らで弥彦は納得したかのように頷く。
静岡での蘇芳は、異常とも思える程に宗次郎に、それも最強の修羅としての宗次郎に拘っていた。その理由も今の話でおおよそは見えた。蘇芳は宗次郎の修羅としての強さを超えたいのと同時に、十三年前の雪辱を晴らしたいのに違いない。
「そうなんです。だから本当に、元々は僕の問題なんですよねぇ」
宗次郎はもう一度茶をすすった。
あの頃は、蘇芳のことなど何とも思わなかった。いきなり闘いを挑んできて、それに答えて剣を交えて。どちらが強いのかをはっきりとさせる、それは蘇芳が言い出したことだ。だから宗次郎は己の方が強いということを証明した。自分より弱い存在である蘇芳の気持ちなど、考えたこともなかった。弱肉強食、その考え方だけが全てだったから。
けれど、今ならば少し分かる。静岡での蘇芳があれ程までに過去の宗次郎に拘っていたのを見て、そうしてその過去の出来事を改めて自分の口で語ってみて。当時は気付きもしなかったことが、今ならば分かる気がした。
だから思う。静岡であの兄妹にも言ったが、これは宗次郎が自分自身でケリをつけるべきことだと。十年前に事件に関わったこの場にいる者達はともかく、本当にあの二人にだけは自分の闘いに巻き込むわけにはいかなかったのだと。
「かといって、お前一人にゃ任せておけねーって。蘇芳をこれ以上のさばらすわけにはいかねェからな。なぁ剣心!」
弥彦は剣心の方に振り向いて同意を求める。剣心は穏やかな表情で、けれど瞳には真剣な光を湛えていた。
「そうでござるな。蘇芳という男が宗次郎との決着を望むなら、それに応えるべきだとは拙者も思うが、同時にこの国に動乱を起こそうというのなら、それを見過ごすわけには行かぬな」
この中で唯一、剣心はかつての宗次郎と剣を交えた剣客。そう、それはつまり蘇芳が追い求めた最強の修羅であった宗次郎と。
宗次郎の強さには剣心さえも戦慄を覚えたし、確かに修羅としてなら、あの時の彼に匹敵する者はいないと思う。当然、彼を鍛え上げた志々雄を除いてだが。
蘇芳が宗次郎に拘泥する理由は分かる。人斬り抜刀斎としての自分が、蒼紫に、斎藤に、そして志々雄に拘り続けられたように、各々にしか分からない深く長い因縁があるのだ、蘇芳の心の中にも、また。
そうしてその因縁に決着を着けられるのは、他の誰でもない、宗次郎だけなのだ。
「で、蘇芳の居所は掴めてんのか?」
その蘇芳がどうしているかによって、こちらの出方も考えねばならない。弥彦のもっともな疑問に翁が答えた。
「いや、それがまだはっきりせんのじゃ。八方手を尽くして探しておるんじゃがのう」
「蘇芳さんの同志だっていう雷十太って人と闘ったきり、手がかりもさっぱりなんですよ」
宗次郎が付け足した説明に、弥彦と剣心はさっと顔色を変えた。
「雷十太!? 何でソイツが蘇芳なんかと一緒にいるんだよ!?」
「え、お知り合いですか?」
詰め寄る弥彦に、宗次郎はきょとんとして言葉を返す。今にも宗次郎に掴みかかんばかりの弥彦のこの驚きようは只事では無さそうだ。
「落ち着け弥彦。名前が同じだからといって、あの雷十太だとは限らん」
剣心は弥彦を諫めながら、けれど剣呑な目を宗次郎に向ける。静かながらも、どこか凄みのある声で剣心は問う。
「して、その雷十太という男は、どんな男だった?」
「え〜と、そうですねぇ・・・」
宗次郎は先日会った雷十太の姿を頭に思い浮かべた。
「すごく体格が良くって、顔も厳つい感じでしたね。剣の方はそこそこ強かったですよ。それから・・・・」
姿形など、説明しようと思えば幾らでも説明できるが、とりあえずパッと浮かんだのは雷十太のそんな印象だった。
そして何より、彼があの場にいた者達に大きな衝撃を与えたのは。
「飛飯綱、って技を使ってました」
「・・・・・間違いねぇ。アイツだ」
それが決定打だったらしい。どうやら宗次郎の会った雷十太と、弥彦の言う雷十太は同一人物だったようだ。弥彦の悔しそうな、歯噛みするようなその表情には、彼と雷十太との間にもかつて何かがあったように思えてならない。
「昔、何かあったんですか?」
「・・・・由太郎って知ってるだろ、神谷活心流で俺と一緒に師範代務めてる奴」
「ええ、まぁ」
トーンの低くなった弥彦の声に頷きながら、宗次郎は由太郎についてぼんやりと考える。
確か、名前は塚山由太郎。弥彦とは友達のような好敵手のような、そんな関係らしかった。さほど面識は無かったが、神谷道場を訪れた時に幾度か会話したことがある。
由太郎は昔、右腕に大怪我を負ったとかで、医学の進んだドイツに渡ったことがあるそうだ。治療の結果、腕自体は治り日常生活が普通にできるようになるまでは回復したが、剣術の方はドイツで学んできたフェンシングをうまく神谷活心流と組み合わせているようだった。フェンシングというのは西洋の剣術で、刀を片手で構え、突きを主体として闘うらしい。
「その由太郎君がどうかしたんですか?」
「あいつの右腕を斬ったのは雷十太なんだよ! その飛飯綱で! それに・・・あいつは由太郎を裏切ったんだ。由太郎は雷十太のこと、理想の男だって心底思ってたのに・・・・!」
弥彦は声を荒げた。感情の高まりをうまく御することができない。ドイツに渡る際、塞ぎこんでいた由太郎を、『雷十太に裏切られたのが辛いなら、夢に描いた理想の雷十太より強くなって吹っ切ればいい』と叱りつけたのは他ならぬ自分なのに。
左手一本でも、由太郎は強くなって日本に帰ってきた。右手だって治ったし、もう雷十太のことも引きずってはいない。
それなのに、今になって再び雷十太が現われたことで、しかも彼が剣を未だ捨てていないことで、弥彦の怒りもまた跳ね上がる。あの時の由太郎の無念が、弥彦の心の中に強く蘇ってきたのだ。
「え〜と、何となくは分かったんですけど、何があったのか、良かったら教えてくれませんか?」
「・・・雷十太の一件は、もう十年前の話よ。志々雄一派の事件が起こる前ね」
薫が目を細め、かつての雷十太の事件を話し始める。
剣術の行く末を憂い、道場破りを繰り返していた石動雷十太。ある時、雷十太は道場破り先の前川道場に偶然来ていた剣心の強さを知り、自らの流派である『真古流』に招き入れようとした。だが、剣心が同志に加わらないことを悟ると、『真古流』の邪魔になると考え、殺そうとしたのだ。
一方、由太郎はその雷十太を師と仰ぎ、心から尊敬していた。雷十太は以前、兇賊に襲われた由太郎親子をその圧倒的な強さで助けたことがあったのだ。それ以来、由太郎は雷十太を理想の男と憧れ、由太郎の父も我が子を鍛えるために、雷十太を剣術の先生として塚山邸に滞在させていたのだった。
だが、それは雷十太の狂言強盗だった。全ては出資者を得る為の。
だから剣心を狙った飛飯綱が由太郎に当たった時も、雷十太は冷たく言い放ったのだ。自分を慕っていた由太郎を、少しも気にかけることも無く、
「狂言強盗までした作った出資者をここで失くすのは惜しいが、まあいい、代わりなどどうにでもできる」
と。
雷十太は由太郎を利用していただけだった。彼の純粋な憧れを踏みにじったのだ。
結果、剣心の逆鱗に触れ、その剣の前に敗れ去ったのだが・・・・。
「成程ね。アイツ性格悪いな〜って思ってたけど、そんな昔からだったんだ。しょーがない奴ね〜ホントに」
操が怒りに眉根を寄せながら、腕組みをしてうんうんと頷く。
「剣心は、雷十太が剣客として再起できねーように、その自信を粉砕したはずだったんだ。それなのに・・・・」
弥彦は畳に置いた拳をぎゅっと握り締める。
雷十太は確かに、あの時再起不能に陥ったはずだった。子どもだった弥彦の目にもそれが分かった。それなのに、彼が今蘇芳と手を組んで動乱に加担しようとしている。目的はやはり真古流か。
何故雷十太が復活できたのかは分からない。けれどもしかしたら、宗次郎に負けた蘇芳が彼を憎み見返すために腕を磨いたのと同じように、雷十太にもまた一片の剣客としての心が残っていて、その思いに灯が点いたのだとしたら。
いずれにせよ、彼もまた放っておくわけにもいかない。
「闘う理由が一つ増えたぜ。今度こそ、俺が由太郎の無念を晴らしてやらァ!」
弥彦の顔に先程までの焦燥は見られない。剣心も薫も少しほっとして、軽く安堵の溜息を吐く。が。
「だから、とっとと蘇芳の居場所を教えろってんだ!」
「ちょっと弥彦君、落ち着いて下さいよ。さっきも言ったけど、蘇芳さんの居場所はまだ掴めてないんですってば・・・・」
息巻く弥彦に宗次郎は苦笑する。
早く蘇芳の居所を知りたいのは同じだったが、こうやって弥彦の方が気が急いていると、逆に宗次郎は冷静になってしまう。確かに翁の言う通り、焦る必要なんて無いのかなぁとも思う。何より、蘇芳らと闘うのは自分一人では無いのだ。それに気が付いたから。
勇む弥彦を皆で宥めている頃、丁度葵屋の玄関の前に一人の少女が訪れていた。
膝丈程の短めの白い着物を襷がけをして身に纏い、手甲と脚絆を着けたその姿からはまるでくの一のような印象を受ける。年の頃は恐らく十五、六。
「こんにちは〜」
明るく朗らかな声でその少女は葵屋の玄関の中に向かって呼びかけた。その声に気付いた増が、仕事を中断してその来客を出迎える。少女の出で立ちをいささか不審がったが、顔には出さない。
「いらっしゃいませ。当店葵屋にどのようなご用件でしょう?」
礼儀正しく接客してきた増に、その少女はにこっと笑った。笑った顔が仔猫のようだった。
少女が首を傾けると、二つに結われた長めの髪の、根本に付けられていた鈴がリンと鳴った。
そうして、その少女は言ったのだ。
「瀬田宗次郎さんと、緋村抜刀斎さんはいますか?」と。
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