―序章―



朝の爽やかな風を全身で感じて、宗次郎はふと箒を動かしていた手を止めた。
頬に張り付いた髪がくすぐったくて、右手で軽くかき上げる。伏せていた瞼を上げ、そのまま空を見上げれば、まだ夜明けを迎えたばかりの澄んだ高い空が目に映る。
淡い青色を認め、宗次郎はにっこりと微笑んだ。
「う〜ん、今日もいい天気だなぁ」
誰にともなく呟くと、宗次郎は箒を持つ手をまた動かし始め、庭の掃き掃除を再開した。
明治二十一年、秋。
世の中では文明開化の波が押し広まり続け、自由民権運動の気運も徐々に高まっていた。江戸時代の面影を色濃く残しながらも、それでも時代は確実に近代日本へと向かっていた。前後に起こった出来事としては、二年前の明治十九年のノルマントン号事件、一年後の明治二十二年の大日本帝国憲法発布などが挙げられる。
そんな歴史の中にあって、それでも何にも縛られることなく、宗次郎は日本全国を気の向くままに流浪れていた。
宗次郎が自分自身と本当の答えを探す旅を始めて、もう十年が経っていた。
志々雄真実と緋村剣心。宗次郎の人生に大きく影響を与えたこの二人の剣客が、それぞれの答えを見つけたのにかかった時間も十年。宗次郎もその位すれば自分の真実が分かるかもしれないと、この十年、日本各地を流浪れていた。それは、志々雄と共にいた十年とは、随分毛色が違った時間だった。
志々雄と共にいた頃は、『弱肉強食』、その考えが全てで、他のことなど考えようともしなかった。周りにいた者達も、自分と同じく、どこか血の匂いのする者達だった。それが宗次郎の世界だったから、それ以上のものを見ようとはしなかった。
けれど剣心との闘いをきっかけに、心の奥に封じ込めていた本当の自分に気が付いた宗次郎は、何が正しいのかを自分自身で見極めるべく旅を始めた。それは今まで生きていた場所からの旅立ちとも呼べるかもしれなかった。
自分で歩いて、見聞きして、考え、感じていく旅。
そうして出逢った人達は、宗次郎に様々なものをもたらした。ごく普通の市井の人々もいれば、道を踏み外した悪人もいた。優しい人もいれば、性悪な人もいた。出逢って良かったと思えた人達と巡り逢えたこともあったし、望まぬ別れも経験して哀しみを覚えたこともあった。北海道へ行った時など、たまたま来ていた剣心達と出くわし、共闘して事件に関わったことさえもあった。
志々雄と過ごした十年、それ以前の虐待の日々、そうしてその後流浪人として生きた時間。それらが今の宗次郎を形作っている。どれが欠けていても、今ここにいる『瀬田宗次郎』という人間は存在し得なかった。どんなに辛く感じた過去でも、それが今の自分の基盤になっているのだと、宗次郎は流浪れ行く中で何時しかそんな思いを抱くようになっていた。
あれから十年という月日が経ち、それでも不思議なことに宗次郎の外見はあまり変わらないままだった。歳を重ねて少し背は伸び体格も良くなったとはいえ、十年前とさほど変わっていないようにも見える。それこそ十年ぶりに会った人が見たら、全然変わってないと思える程。愛用の水色の着物もまた、痛んだらその都度繕ったり仕立て直して同じ物を新調したりして、格好も変わっていないから尚更だったろう。
ただ、外見こそあまり変わらぬものの、内面の方は様々な経験をしたり色々な人達と出逢ったりしてきた分、少しは成長したんじゃないかなぁと宗次郎は思っている。ただ、宗次郎自身は自分の心がどう変わったのか、どう成長しているのか、具体的にどうなっているのかは、イマイチぴんときていなかったけれど。もっとも、自分の心はどうなっているのかなんて、自分自身が一番知り得ぬことではあるが。
それでも宗次郎がこの十年を経て、それ以前より心が成長したのは、間違いない。
彼を最も印象付ける笑顔もまた、十年前とは違ったものを浮かべられるようにもなっていたのだが、それでも相変わらず彼の顔にはあの穏やかな笑みが浮かび続けているのだった。
「さて、次は洗濯でもするかな」
落ち葉を集め終え、それを片付けてしまうと、宗次郎は手早くたすきがけをして洗濯の用意を始めた。たらいの中に井戸から汲んだ水をたっぷりと流し入れ、そこに浸した着物を洗濯板を使って丁寧に洗っていく。
このように家事をするのはもはや宗次郎の日課となっていたが、こうしてのどかな毎日を過ごしていると、ずっと昔からここに暮らしているかのような錯覚を覚える。
今、宗次郎が住まわせてもらっている家は、静岡にある小さな診療所だった。年の頃は数えで二十一と十七の、若い兄妹で営んでいる診療所ではあったが、親も医者だったことから若年ながら腕は確かなものである。主に患者を診ているのは兄の浅葱で、妹のはまだ修行中で医者の卵とも呼べた。両親は既に他界し、そのためにずっと兄妹二人で診療所を切り盛りしている。
宗次郎がこの家に世話になっているのには訳があった。
初夏の頃、宗次郎が流浪れ着いたこの静岡の山中を歩いていた際、薬になる野草を取りに来ていて山賊に絡まれていたがいた。卓越した剣の腕を以って山賊を打ち負かし、宗次郎はを助けた。そんな出来事なら旅の中で何度かあったし、それだけだったならとの縁もこれきりだったろう。
けれどその時、宗次郎は野草だと思って昼に食べた毒草で、中毒を起こしていた。医者の卵であったはそれを鋭く見抜き、治療のために自分の家でもある診療所に連れてきたのだった。
幸い、中毒は軽く、宗次郎はすぐに回復した。そうして自分を治療してくれた浅葱とに恩を感じて、患者を診ているためなかなか二人が手が回らない家の家事をこなす役目を買って出たのだ。
診療所に強盗が押し入ってそれを退治したり、その剣の腕を見込んだ要人の警護を頼まれたりして幾度か事件に巻き込まれつつ、いつしか宗次郎がここにいるのは当たり前になっていた。
こうして宗次郎はそのまま居候としてこの診療所で暮らし続けている。
一つの場所に長く留まったことは、旅の途中で何度かあったけれども、こんなにも長くいるのはこの家が初めてだった。
浅葱との二人に恩を感じている。それはある。けれど多分、きっとそれ以上に。
何よりも、ここは、居心地がいいから。
「・・・なんて、いつまでもこんな日が続くはずないのに」
ふと、宗次郎は呟いた。
志々雄と共にいた頃は言うまでもなく、旅の間も何度かその天賦の才を以って剣の腕を振るった。血生臭い事件に巻き込まれたことも一度や二度ではない。剣心との闘いの時、本当は人を斬りたくなかったと気付いたあの時から、人を殺めることは無かったが、それでも刀という存在は自分から切り放せぬ物だった。
宗次郎は縁側に置いてある自分の愛刀をちらりと見遣った。
旅の途中、紆余曲折を経て手に入れた刀。これで人を斬ったことはないが、奪っていった命の重さをこの先も背負い続けていくという意味でも、刀は持ち続けていくべきだとも感じている。この手を血に染めて、人を斬り殺したからには。刀と共に、半生を生きてきたなら。
修羅の道を歩んできた以上、手放しで平穏に浸ることはできない―――。
そう思いながらも、出来得ることならこの穏やかな日々がずっと続いていけばいいと。
宗次郎は、心のどこかで願わずにはいられなかった。




















またまた連載ものを始めてしまいました・・・・。
設定やストーリーは、いわば私なりの「るろうに宗次郎」を描く、といった感じなのでオリジナル色が強くなるかとは思いますが、お付き合い頂けたら幸いです。

2006年5月28日