―第三章:信頼と不安との狭間で―
行動を開始することにした宗次郎と左之助の二人は、探索に向かう前に一度診療所まで戻った。
もし二人の身に万が一のことがあった場合に(相手が余程の者でない限りそれこそ可能性は万に一つだろうが)、状況を誰も何も知らされていないのでは、残された者は困惑してしまうに違いない、という判断だった。
それに、犯人側が例えば武闘派集団だった場合、闘いが起こることも考えられるので、宗次郎が愛刀・天衣を必要とした為でもある。
直情型の左之助からしてみれば、本当はすぐにでも犯人探しに向かいたいところだったのだが、丸腰のままよりも帯刀した宗次郎の方が断然強いことは良く知っていたので、ややじれったさを感じながらも素直にそれに応じた。
まぁ宗次郎も、相手はそれ程大したことは無いだろう、という楽観的な思いもあったので、簡単に帯刀だけを済ませると、すぐに診療所の表まで戻って来た。
見送りに、の姿もある。浅葱にも事情は説明したが、彼は診察の為に診療所内に残っていた。「気を付けて行ってこいよ」という言葉は既に貰っていたが。
「それじゃあ、行ってきます」
宗次郎がにっこり笑ってそう言うと、はややぎこちない笑みを浮かべて頷いた。
というのも、あの蘇芳との激しい闘いからまだ二ヶ月余り―――ようやく全身の怪我もほぼ全快したばかりだというのに、宗次郎がまた刀を帯びて闘いに赴くことに、どうしてもは不安を隠せないのだ。
それは、宗次郎のその強さは知っている、という信頼とは別の部分だ。強さはこの上なく信じていても、どうしてもその身を案じてしまう憂いは失せない。
宗次郎の剣の腕は良く分かっている、今から彼がしようとしていることは人助けだということも理解している。本当は、褒められるべき行為なのだろうが、それでも、どうしても気がかりが残る。
平穏な日々が戻ってきたからこそ、どんな小さなことでさえ争いが起こることを恐れてしまう。それは、が理性の部分では納得していても、感情の部分ではどうしても消せない、想いだった。
「心配いらねーって、嬢ちゃん」
そんなの気持ちに気付いてか、左之助は豪快に笑う。そうして、少しばかり乱暴に宗次郎の頭をかき回す。
「あの、痛いんですけど、相楽さん」
宗次郎から小さく上がった抗議の声を無視して、左之助はあくまでもの目を真っ直ぐに見据える
「そんな大事にゃならねーと思うし、それに―――こいつの強さは知ってんだろ? だったら、それを信じてどーんと待ってりゃいいんだよ」
強気に言い切る左之助に、の気持ちも解れるようだった。表情が心なしか柔らかになり、微笑を浮かべて小さく息を吐く。
「ええ。それは分かってるんです。分かってはいるんです・・・・けど・・・・」
次第に語尾の弱まったに、左之助は内心溜息を吐く。
かつて、まだ少女だった頃の神谷薫がそうであったように、こればかりはどうしようもないことだった。いつだって、恋心と我侭は切り離せないもの―――この芯の強そうな少女とて、薫ほど表現は激しくは無いが、内心は宗次郎に対する慕情で溢れている。人の心の機微を察することに敏感な左之助は、宗次郎との短い間のやりとりでも、そんなことを感じ取っていた。
(まぁ、こればっかりはな)
そうして、左之助は心の中でもう一度溜息を吐く。理屈ではどうにも納得のいかないもの、というのは、恋心に限らず、誰にでもあるものだ。
ならばせめて、二人で無事に帰ってくることが、怪我の手当てをしてくれた彼女に対するせめてもの恩返しだ。もっとも、並みの相手であれば無傷で帰還する自信が左之助にはあったのだが。
「ま、非力な子どもばっかをさらうような、頭は働くかもしんねーが心根は卑怯そうな連中だ、嬢ちゃんの心配は無用だと思うぜ。事が片付いたらすぐに帰ってくるからよ、美味しい飯でも用意して待ってな」
「そうですよ」
やっと左之助の拘束から逃れた宗次郎が、頭をかきながら賛同する。
「僕だって正直、大した相手だとは思っちゃいませんよ。一応の事に備えて刀は持って行きますけど・・・・。だから、心配しないで待ってて下さいね」
にっこり、と宗次郎が笑いかけると、はようやく、ほっとしたように全身の力を抜いた。その顔に浮かぶのは、まだ不安を拭いきれない穏やかな微笑だったけれど。
「そう、だね。自分でも分かってはいるけど・・・・私ったら、ちょっと心配し過ぎだよね」
そうして、自らその不安を拭い去るようにはわざと明るい笑い声を上げてみせる。
「心配し過ぎて、逆に気を遣わせてるようじゃ駄目だね。宗次郎君と、相楽さんを信じて、安心して待ってなくちゃ」
「そうそう、それが一番だぜ」
左之助の力強い笑みにつられるようにして、は今度こそしっかりと笑う。宗次郎の穏やかな笑みが、更にそれを後押しする。
「できるだけ早く帰ってきますから。夕飯は・・・そうだなぁ、大根の煮つけがいいなぁ。それから、焼き魚とか。多分、相楽さん相当食べると思いますから、僕の分もちゃんと残るようにたくさん作っておいて下さいね」
さりげない夕食の献立の要求に、はくすくすと笑う。
何よりも、宗次郎がこうして宗次郎らしく在ることが、一番を安心させる。それはある意味不安とは表裏一体のものだったけれど、それでも、いつも通りの宗次郎がそこにいるだけで、心の平穏は在るのだ。
だからこそ、それが無くなることが怖いのだけど―――今は、彼らを信じて、笑って見送ろう。何事も大袈裟に考えてしまうのは、心配性の自分の悪い癖だ。
「了解。腕によりをかけて作っておくね。相楽さんは、何か食べたいものあります?」
「あー・・・と、俺は日本のうまい飯なら何でもいいぜ。それよか宗次郎、オメー人に対して随分な言い草じゃねぇか、え?」
ぐりぐりと、左之助は宗次郎を肘で小突く。さりげなく避ける宗次郎はあはははと声を上げて笑う。
「じゃあ、今度こそ行ってきますから」
改めて出発の言葉を口にした宗次郎に、はしっかりと頷く。それを見届けてから、左之助は踵を返し歩き出し、宗次郎もそれに続く。
しばらく道を歩いて、診療所が見えなくなる所まで来て、左之助は宗次郎にこう話を切り出した。
「お前も案外、隅に置けねーな。あの嬢ちゃん、お前のことが心配で心配で堪らねェって面してたぜ」
やや揶揄するような言い方に、宗次郎は分かっているのかいないのかあははと笑い声を上げる。
そうしてふと、声の調子を落として。
「蘇芳さんとの闘いの時、相当心配かけちゃいましたから。元々心配性な人だったけど、だから余計に、今もちょっとしたことで心配なんじゃないかなぁ」
それこそ、あの闘いの時は生死の境を彷徨ったのだ。一度そんな思いをさせてしまえば、どうしたって不安は尽きないのではないだろうか。
一度、失うことを知った人間は、もう一度失うことを恐れる。今ならそれが良く分かる気がした。
そう、咲雪を亡くして、までもを無くしたくないと強く思った、あの時の自分自身のように。
「なら尚更、さっさと犯人をとっちめて、早く帰ってやんねぇとな」
隣の左之助は、ボキボキと拳を鳴らしている。その明るい物言いに、宗次郎も小さく笑みを漏らす。確かに、の不安を取り去るにはそれが一番かもしれない。
「そうですね。ごもっともです」
笑って頷いた宗次郎に、左之助もまた笑みを返し、そして声を低くしてこう尋ねた。
「ところで宗次郎、お前犯人に何か心当たりねェか?」
「あったら先に言ってますよ。相楽さんこそ、何か思い当たることは?」
聞き返してきた宗次郎に、左之助は自信満々に「ねェな」と言い切った。
「ここいらのことはお前の方が詳しいだろ。何か知らねェのかよ、怪しい奴とか、場所とか」
「うーん、見当もつかないなぁ。第一、そんな人や場所があったら、僕らより先に警察の方が当たってますってば」
「確かにな・・・」
左之助は顎に手を当てたまま黙り込む。とりあえず道なりに歩いてはいるが、目的地の手がかりもない以上、闇雲に動き回っても意味は無い。
「そもそも、犯人の目的は一体何なんでしょうね。子どもばっかりさらって、しかも一度に大勢を」
「俺もそこは引っかかってんだよ。だから、これは、ひょっとすると・・・」
そのまま左之助は考え込んでしまう。何かを匂わせつつも口には出してくれないので、宗次郎は率直に訊く。
「もったいぶってないで教えて下さいよ、何か思いついたことがあるなら」
「別にもったいぶってるわけじゃねェがよ。・・・・まぁ、あくまで可能性の一つだ。いいか、」
苦虫を噛み潰したような顔をして振り向いた左之助は、ふと真剣な面持ちになってこう続けた。
「子どもをさらったっていっても、その無事と引き換えに何々を寄越せ・・・とかそういった要求は無いんだろ。イかれた野郎が子どもばっか殺して回ってる、ってわけでもねェしよ。
だったら、犯人の目的は子どもらをさらうことそのもの、ってこともあるかもしれねェって思ってな。そんで、さらった奴らを売りさばく・・・とか」
「つまり、人身売買が目的、ってことですか?」
宗次郎は確かめるように問い返す。
刻々と近代化していく明治期の日本であっても、闇の部分では過去からの悪習が根強く残っていた。すなわち、人を物として扱い、売り買いをする、そういった商売もまたひっそりと、だが連綿と続いていた。元より、人々の人権など、現代より遥かに軽んじられていた時代である。
「あぁ、胸糞悪ィ話だけどよ・・・」
「でも、あんなに大勢、一度に同じ場所からさらったら、いずれ足が着きそうですけど」
「それなんだよ。だからひょっとしたら犯人は、簡単に足の着かねェ場所で商売する気なんじゃねぇかってな」
左之助は眉を歪め、どこか遠くを睨んでいる風だった。宗次郎は左之助の考えていることが想像もつかないので、ただ言葉の続きを待つしかない。
「・・・・・何年か前に行った欧州の方じゃよ、大陸の・・・・東洋の陶磁器とか美術品とか、そういった物ばっかし集めてる好事家がいてな。そういうの、シノワズリっていうんだと」
「へぇ、そうなんですか」
唐突な左之助の言葉に、宗次郎は生返事をして頷くしかない。
ここで補足しておくと、シノワズリとはヨーロッパで流行した中国趣味のことである。想像上の中国をイメージし、非対称の奇妙な縮尺や、漆など独特の素材や装飾を用いた風変わりな美術様式が特徴だという。ヨーロッパでシノワズリが流行を始めたのは、17世紀半ばから後半頃と伝えられている。
「で、それがどうかしたんですか?」
「もしも、の話だがよ。そんな奴らの中に、物を集めるのに飽き足らず、人にまで手を出しちまった危ない奴らがいたとしたら?」
あ、と宗次郎は口と目を丸くした。
左之助は険しい表情のままで、尚も話を続ける。
「まして、同じ東洋人っても、日本人は海の向こうにゃほとんど渡ってねェ。商品としての希少価値って意味じゃ、日本人の方が上ってわけだ」
「成程、やっと話が見えてきましたよ。要は、もしかしたら犯人は、さらった子ども達を海外に売りさばくつもりかもしれないってことですよね?」
「日本よりも諸外国の方が高く売れるかもしれねぇし、おまけに仲介人にでも手早く売りさばけば足はつきにくい、そんな風に考えてんのかもしれねーな。静岡には港もあるしな」
考察を述べてみせる左之助に、宗次郎は素直に感嘆の息を吐く。自分一人だったら、及びも着かなかった考えかもしれない。
「意外と頭が切れるんですね、相楽さんって。ちょっと見直しちゃいましたよ」
「あァ!? 意外とって何だよ意外とって! オメーはいつも一言多いんだよ!」
宗次郎としては褒めたつもりだったのだが、どうやら言葉の選択を誤ったらしい。左之助にぽかっと一つ頭を殴られ、宗次郎は痛たたとその場所をさすった。
そんな宗次郎を冷ややかな横目で見つつ、けれど左之助はふっと表情を引き締めた。
「ま、あくまでも可能性の一つだが、当たってみて損はねーと思うぜ。ここいらの海沿いの怪しい場所を虱潰しに探すっきゃねーな」
「そうですね。どっちにしろ、この近辺にはそれらしき場所は無いらしいですしね。さっそく行ってみましょうか」
左之助の言う通り、あくまでも可能性の一つに過ぎないが、それでも他に何も思い当たらない以上、これに賭けてみるしかない。少なくとも、当たってみて損は無い筈だ。
そしてできればこの案が正解ならばいいと宗次郎は思う。
犯人の思惑は左之助曰く「胸糞の悪い」ものかもしれないが、当たっているのなら早急に犯人を捕まえて、事件を解決することができるかもしれない、からだ。
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