―序章:風来の人―
肌に触れる風は、刺すように冷たい。
宗次郎は同じように冷え切った掌にはぁっと息を吐きかけて、そっと頬に当てた。掌と頬とで冷たさがじわじわと行ったり来たりする。
蘇芳の一件が解決して静岡に帰ってきてから早くも一か月経ち、もう年の瀬も間近に迫っていた。
比較的温暖な気候である静岡といえど、やはり冬は寒い。早く用を済ませて診療所に帰って火鉢の近くで暖まろう、と宗次郎は足を速めた。
(えーと、あと買うのはお餅と魚と・・・・ああそうだ、豆腐も買おう。今夜も冷え込みそうだし、鍋にしたらおいしいだろうなぁ)
そんなことを考えながら、宗次郎は一路町の中心の商店の並ぶ通りへと歩いて行く。垣根越しに見える近所の人々は、年の瀬と正月の準備に大忙しだ。
通りかかった一軒の家の玄関前にいた初老の女性と宗次郎は目が合った。診療所に時々訪れる顔見知りの初老の女性だ。
「こんにちは。精が出ますねぇ、ヨネさん」
と宗次郎が明るく声をかければ、
「あぁ、こんにちは、さんとこの。今日は買い物かい。寒い中ご苦労だねぇ」
ヨネ、という名のその女性は庭掃除の手を休めないままでにこやかにそんな言葉を返してくる。
診療所の近所の人々の間では、宗次郎は診療所に居候する何故か剣の腕も立つ書生、といった認識らしい。
この近辺で起きた事件に何かしら首を突っ込んでいたこともあったので、宗次郎の知名度はそれなりに高い。容貌も整っているし人当たりの良い笑顔をいつも浮かべている宗次郎だから、尚更平和なこの街では注目の的となっているのに違いない。
「今日は青柳さんのお店で大根が安かったよ」
「そうなんですか? いいことを聞いちゃったなぁ。教えて頂けて助かります」
「いやいや、さんにはいつも世話になっとるからの。浅葱先生とちゃんによろしく言っておいておくれ」
「はい。お伝えしておきます。それじゃ」
宗次郎はヨネに軽く会釈をし、歩みを再開した。その場から去っていく宗次郎の耳に、数人の子ども達の賑やかな声が届く。きっと彼女の孫達が遊んでいるのだろう。
そんな何気ない事にも何となく平穏を感じて、宗次郎の足取りは知らず知らずのうちに軽いものになっていた。
またここに戻ってきたんだなぁ、と、あの激闘の後幾度も思ったことが改めて思い浮かぶ。
と、そんな宗次郎の向こうから、大勢の男達がひぃひぃと情けない声を上げながら走ってきた。しみじみしていた思いもあっという間に消え去ってしまう。
男達はその数およそ数十人はいただろうか。ばたばたと土埃を上げながら、宗次郎とすれ違って走り去っていく。いや、むしろその様子は、何かから逃げた、といった風に表現する方が合っていたかもしれない。
「・・・何かあったのかな?」
独りごちて、宗次郎は首を傾げた。そう思ったのは、遁走する男達がいずれも体中のそこかしこに殴られたような傷を負っていたのと、彼らがいかにも一癖ありそうなゴロツキといった風体をしていたからだ。
しばし立ち止っていた宗次郎であったが、町に特に変わった様子も無いし、人だかりが少々できている以外は特に変わったところも無いから、多分喧嘩か何かでもしたんだろう、と結論付けた。まさか事件ということもあるまい。
忙しいこの時期に、わざわざ事件を起こすような酔狂な真似をする人なんてこの辺にはいないよなぁ、と、その件については特に深く考えずに、宗次郎は買い物をすべく再び歩を進めたのであった。
・・・・・・が。
宗次郎はそれっきりで終わりにしたその事態に、一方でここ診療所は大いに関わることとなってしまった。
その怪我をした男達は、手近なところにあった診療所に一斉に駆け込んだのである。
体格のいいゴロツキ風の男達が大勢で駆け込んできたことに、びっくりしたのは浅葱とである。一体何事か、と思いつつも、慌てて治療に取り掛かる。
「まったく、今年ももうすぐ終わるってのに、一体何の騒ぎだこれは・・・・・」
手早く治療を施しながら、浅葱が独り言のように呟く。
「痛いのが嫌なら堅気になって暮らせばいいのに・・・・。それに、喧嘩なんてもっての外だろ」
消毒薬をつけられた傷みに小さく呻く男に一人に、浅葱は半ば呆れた口調で言う。すると、それに反論するように、ゴロツキ風の男達は口々に喚いた。
「た、確かに先に仕掛けたのは俺達だけどよ・・・・!」
「あ、あの男! 普通の人間じゃねぇ!」
「ああ、強過ぎる・・・・!」
その反応に、浅葱とは思わず顔を見合わせた。
「まさか・・・・」
「いや、まさか、ねぇ・・・・・」
二人が脳裏にぽわんと連想したのは、もちろん宗次郎である。二人が知る限り、それだけの強さを持つ者はこの界隈では彼しかいない。
しかし、である。この男達は何者かに殴られたような怪我、を皆一様に負っている。確かに今日宗次郎は丸腰で出かけたが、彼の仕業とは思えなかった。傷の様子にそれを感じたのもあるし、直感的に宗次郎は違う、と思ったからでもある。
そんなわけで、浮かんだ考えを浅葱とは即座にひっこめた。
「一体、どんな奴なんだそいつは?」
少々個人的興味も交えて、浅葱は男の一人に聞いてみた。するとその男はぶるっと震えて、血の気の引いた表情で語り出した。
「ここいらじゃ見ねェ顔だった・・・・ちょっとみすぼらしい格好をしてたから、からかうつもりで俺達そいつに因縁つけたんだ。そしたら・・・・」
「売られた喧嘩は買うかとか何とかそいつが言って、そこからは大乱闘よ。いやあいつただもんじゃねぇな。俺達束になっても指一本も触れられやしねぇ・・・・!」
「ひえー、くわばらくわばら・・・・」
大の男達が一様にぶるぶると震えているのは、何とも滑稽なものである。
けれどそれだけ、彼らはその男にコテンパンにやられたらしい。まぁ、それはこの様を見れば一目瞭然のことではあるが。
内心溜め息を吐きながら、浅葱は頬が赤く腫れ上がった男に湿布を貼ってやった。
「これに懲りたら、もうお天道様に恥じない生き方をすることだな」
ともあれ、すべての男達に浅葱との二人は適切な治療を行った。包帯や絆創膏などで手当てをして貰った男達は、それで大分気持ちも落ち着いたのだろう。意外にも浅葱とに丁重にお礼を言って去って行った。柄は悪いが、おそらく根はそんなに悪い人間では無いのだろう。
「それにしても、みすぼらしい格好をした滅法強い男、か。さっきの奴らが先に仕掛けたんだから、そいつにやられたのはまぁ自業自得なんだろうけど・・・・この辺の人間じゃないってことは、宗次郎みたいな流れ者なのかな」
薬品を戸棚にしまいながら浅葱はぶつぶつと呟く。と、あることに気付いてあ、と声を上げた。
「買い置きの包帯が切れそうだな。さっきたくさん使ったから湿布もあと二、三枚しかない」
「あ、じゃあ私買ってくるよ」
申し出たに、けれど浅葱はきっぱりと断る。
「いい。俺が行く」
「え、何で・・・・」
「得体の知れない奴が、この辺をうろついてるんだろ。宗次郎が一緒ならまぁ心配無いけど、生憎今あいつはいないしな。お前を一人でなんて行かせられるか」
浅葱はぶっきらぼうに言うが、兄の優しさがは嬉しかった。が、よく知らない相手のことを悪し様に言うのには引っかかる。
「でも、その人もきっと自分の身を守るためにしたことじゃない? だからそんなに危なくはないとは無いんだけど」
「駄・目・だ。よく言うだろう、『君子危うきに近寄らず』ってな。少なくともここにいた方が安全だ。もうじき宗次郎も帰ってくるだろうし、俺もすぐに帰ってくるから」
「う、ん・・・・」
そこまで強く言い切られると、も嫌とは言えない。どうも蘇芳の一件からこっち、浅葱は以前にも増してに対して心配症になっている。あの時、が一人で外出中に蘇芳一味にかどわかされたものから、危険かもしれない場所に彼女だけで出かけさせることに浅葱が抵抗を感じるのもまぁ無理も無い話なのだが。
それだけの心労をあの時兄に掛けてしまったわけだから、ここは大人しく頷くしかない。
「それじゃ行ってくるから」
「うん。お兄ちゃんも気を付けてね」
簡単に支度をすると、浅葱は急ぎ足で診療所を後にする。残されたは、慌ただしさの去った診療室の中を、一人片付け始める。
治療具などを一つ一つ丁寧に消毒してから元の場所へと戻していく。金属の触れ合う音だけがその場に響き、その作業も終わるとたった一人しかいない診療室内はしんと静かになった。
浅葱が出かけて行ってからまだ十分かそこらしか経っていないだろうが、彼も宗次郎も戻る気配はまだ無い。治療に訪れる者が来る気配も無い。冬の北風だけがとんとんと窓を叩く。
何となくふう、と溜め息を吐いては窓際へと歩いて行った。窓の向こうに広がる今日の冬の空は、厚く雲が覆うばかりのひたすらの白。
「・・・・おーい!」
意識を窓の外へと向けていたは、背後から突然聞こえてきた声にびくっと飛び上がった。
やや掠れたような、それでいて力強さを感じさせるような男の声だ。どうやら戸の向こうから声を掛けているようだから、新しい患者さんだろうか。
「ここ診療所だろ。ちょっと俺の右手を見て欲しいんだけどよ」
その男は戸をとんとんと鳴らしながら、流暢な江戸っ子口調で呼びかけてきた。慌ててはそちらに振り返る。
「は、はい、ただ今・・・・」
駆け寄っては引き戸を引いた。そうしてそのまま硬直してしまった。
の視線の先にいたのは、肩まで伸びた髪を脳天の辺りはツンツンと逆立てて、額に巻いた赤い鉢巻を靡かせて、薄汚れた外套を羽織っている見るからに風来坊といった男で、そうしてその彼の印象が、先程話題に上がっていた人物に―――みすぼらしい姿で、この辺りでは見かけない強い男―――ぴったりと合っていたからだ。
立ち尽くすを見下ろすその男は、背丈は六尺はあるだろうか。気さくそうな顔をしているものの眼光はどこか鋭く、まばらに生えた無精髭がその男の無頼さをより増している。
けれどその印象とは裏腹に、彼は実に砕けた様子でに話しかけてきた。
「お、嬢ちゃんがここのお医者さんなのか。こんなとこにも女の医者ってのはいるもんだな」
「え、あ、はい。正確には見習いですけど・・・でも治療はできますから」
「ふーん・・・・じゃ、早速頼むわ」
男は診療室内に入ると、手にしていた荷物を下に置き椅子に腰かけた。がその前の椅子に腰を下ろすと、男はずいと右手を差し出してきた。
「怪我はしてねェんだがよ、さっきちぃとばかし大暴れしたら、古傷が痛み出しちまってな。湿布か何か張った後に包帯でも巻いて貰えるかい」
「はい、分かりました」
男の手は大きく、鍛えられているものであることは一目で分かった。成程確かにこの男自身が言うように、その拳には細かいたくさんの傷跡が見て取れた。体格もよく、筋肉の付いた引き締まった体であることが分かる。彼の言動をとってみても、やはりこの男こそが先程ゴロツキ達を蹴散らかした人物に間違いは無さそうだ。
「あの、差し支えなければ一つお聞きしたいんですけど」
湿布を用意しながら、は男に訪ねた。
「あなたが来る前、ここにたくさんの人達が治療に見えて・・・・すごく強い人にやられたってその人達言ってたんですけど、それってもしかして、」
「ああ、そりゃあ俺のことだろうな」
至極あっさりとその男は頷いた。それどころかむしろ嬉々としている。
「久々に喧嘩を買ってみたんだけどよ、日本に戻ってきたって懐かしさもあってついついやり過ぎちまった。ま、あの程度の奴らじゃ準備運動にもなりゃしねーけどよ」
「はぁ・・・・」
は苦笑いして相槌を打つ。彼は全く悪びれもしていないようだが、やはり単なる悪い人、ではなさそうだった。屈託なく笑う様子はどこか人懐っこい。とはいえ年の頃はおそらく、もう三十近いだろうが。
は男の右手全体の汚れを落とし、消毒を済ませると湿布を当てた。
「すみません、今家の者が包帯を買いに行ってますので、このままもうしばらくお待ち下さい」
「あぁ、そりゃ構わねーよ。これだけでも痛みが随分楽になったぜ、ありがとな。・・・っと・・・・」
「あ、と、名前ですか? です」
笑顔を浮かべて簡単には名乗った。
それを受けて、男も精悍な顔つきにニッと力強い笑みを浮かべて己の名を述べた。
「俺は左之助。相楽左之助だ」
第一章へ
というわけで『風の彼方』の続編です。
前作では出てこなかった左之助の登場となります。他にも前作には出てこなかったるろ剣キャラを出す予定。
長さ的には中編くらいになると思いますが、宜しかったらお付き合い下さい。
2008年6月18日
戻る