<第三十章:決戦前夜>


その日は旅が始まって以来、一番穏やかな日かもしれなかった。
「聖君、朝よー起きてーっ!」
「う・・・・ん?」
薫の声で叩き起こされる。眠い目を擦りながらむくりと起き上がると,遅れて脳が少しづつ覚醒し始めた。
見回すとそこは幾度か泊まったことのある部屋。
そうだ。ここは神谷道場だ。
「おはよう。珍しいわね。今日聖君、起きるの一番最後よ」
「え? あ、じゃあ急がなくちゃ」
皆を待たせては、と急に慌てだした聖に、薫はくすっと笑った。
「そんなに焦らなくても大丈夫よ。今日は休養日なんだし」
「あ、そっか」
聖はぽりぽりと頭を掻いた。
そう、下仁田の廃墟での闘いの後、聖達は横浜で一泊して、東京まで戻ってきていた。怪我の治療と、何より休息のために。
決戦が控えている。だからその前日こそ心穏やかに過ごすのも大切なのではないかと、剣心はそう言った。
「じゃあ居間で待ってるから、支度が終わったら来てね」
「うん」
薫が障子戸を閉めたのを見計らって、聖は寝巻きを脱いだ。そうしていつもの青い装束を身に着け、居間へと向かう。
長屋に帰った左之助を除く面々が、既に食卓を囲んでいた。
「おはよう」
「おはよー聖。今日は遅かったな」
弥彦の隣に聖は座った。卓袱台の上には、今日は剣心が作った朝食が載っている。ほかほかご飯と味噌汁が湯気を上げ、これが美味しくない筈が無い、といった香りを漂わせている。
実際にその朝食はかなり美味しく、聖は朝から結構な量を食べてしまった。
「あー美味しかった! 宗次郎さんも料理上手だけど、剣心もすごいね!」
「いやいや、そうでもござらぬよ」
謙遜した風に笑う剣心。
弥彦が茶碗やら箸やらを片付けながら聖に訊いた。
「ところで聖、お前、今日は何するんだ?」
「え? ああ、そうだなぁ・・・・」
「特に何もすること無いなら、稽古に付き合っちゃくれねーか?」
聖が考え込み、その答えを出す前に弥彦はそう持ちかけた。とは言っても、確かに聖には特にこれといって予定は無かったので、
「うん、いいよ」
と快く了承した。
「さて、拙者は洗い物でもするでござるかな」
剣心もそう言い、宗次郎は洗濯、薫は家と道場の掃除、とそれぞれ席を立った。
外は快晴。今日もいい天気だ。







「はっ!」
「まだまだぁっ!」
聖と弥彦の竹刀が打ち合わされる音が辺りに響く。
その傍らでは宗次郎が洗濯に精を出していた。洗い物を終えた剣心も、洗濯物を干すのを手伝っている。
至って平和な光景だ。
久方ぶりに訪れた日常に剣心は目を細める。
「てやーっ!」
「くっ!」
威勢のいい声を張り上げ、聖と弥彦はまだ打ち合っている。聖の方が上手のようだ。負けず嫌いの弥彦はムキになって更に聖に打ち込む。巧みにその攻撃を受け流す聖。
「頑張ってますねぇ」
くすくすと笑いながら、けれど手は止めずにそんな二人を見ている宗次郎。剣心もまた、洗濯物を干しながら聖と弥彦に目を遣っている。
「ああ。いよいよ明日だし・・・・・とくに弥彦は、じっとしてはおれぬのでござろう。どちらにしろ、稽古は弥彦の日課でござるからな」
竿に架かった洗濯物が風ではためく。洗濯物を終えた宗次郎と剣心は、縁側に座って一息ついた。聖達はまだ稽古を続けている。
唐突に、宗次郎が切り出した。
「・・・・緋村さん。一つ、訊いてもいいですか?」
「何でござる?」
「志々雄さんの最期は、どんな風でした?」
剣心の顔から笑みが消える。
京都で死闘を繰り広げた男。宗次郎にとっては、仕える主君でありながら、むしろ親や師に近い男。
志々雄真実の、最期。
声を失った剣心に、宗次郎は笑っていやだなぁ、と言葉を返した。
「そんなに深く考えないで下さい。ただ―――僕はあの人の最期を知らないから、知っておきたいって、思って。
さよならは言っても、やっぱり十年の間ずっと、側にいた人だから」
宗次郎の顔は微笑を湛えている。けれどその瞳には、寂しさのような悲しさのような、或いは懐かしいことを思い出しているような、そんな色が浮かんで揺れていた。
剣心は目を伏せた。
鮮やかに脳裏に蘇る志々雄との闘い。決して忘れ得ぬその壮絶な最期。
聞く機会は幾らでもあったはずだ。けれど今になってそれを尋ねるということは、決戦を明日に控え、宗次郎にもきっと何か思うところがあるのだろう。
剣心は顔を上げると、宗次郎に真摯な眼差しを向けた。
「・・・・そうでござるな。お主には、話しておくべきでござるな・・・・」
そうして剣心は語った。志々雄の最期と、そこに行き着くまでの顛末のすべてを。
宗次郎は、じっとその話に耳を傾けていた。
「そう・・・・ですか。それで由美さんも一緒に・・・・」
聞き終えた時、宗次郎はぽつりとそう言った。笑顔は相変わらずだったが、心なしか声は沈んでいた。
けれど次の言葉の時には、宗次郎は空を見上げ、どこか吹っ切れたように笑った。
「何て言うか、あの人らしい最期ですね」
その時の宗次郎が何を思っていたのかは、剣心には分からなかった。
志々雄といた頃の懐かしい日々を思い出しているのか、それとも、あの弱肉強食の理念を思い浮かべているのか、それとも―――。
「ずっと、気になってはいたんです。緋村さんは不殺を貫いてたはずだし、なのに志々雄さんは死んだって聞いて。それに何より、あの人は、僕から見たら色んな意味で本当に―――強い人だから。だけど、」
宗次郎は一息吐いて、
「これで、すっきりしました」
にっこりと、微笑った。
「・・・・宗次郎」
何か言いたそうな剣心を、宗次郎はやっぱり笑って制した。
「だから気にしないで下さいってば。ただ知っておきたいから、って言ったでしょう? それに、志々雄さんと袂を分かった時にちゃんと泣きましたから」
宗次郎はすっくと立ち上がった。微風が彼の髪を撫ぜる。
瞳は空の色を映したままで、宗次郎は半分独白のように剣心に語りかけた。
「あの闘いの後、あなたは”真実の答えは自分自身の生き方から見い出すべきだ”・・・・って言いましたよね。何年かかるか分からないし、その自分の生き方ってのも全然見当がつかない。でも、」
すぐ側では、聖と弥彦が相変わらず竹刀を交し合っている。稽古だったはずの二人の打ち合いはいつしか真剣勝負に近いものとなっていた。聖も弥彦に触発されたのか、あの澄んだ真っ直ぐな瞳に闘志を燃やし、相手を見据えている。
宗次郎は柔らかく、穏やかに微笑んだ。
「成り行きでも何でも、こうして皆さんと一緒に旅をしてきて、一緒に過ごせて。多分、それを楽しんでる自分がいて。
何て言ったらいいか・・・・本当に、得るものが大きかった」
「宗次郎」
「明日の闘い、今度こそ負けるわけには行きませんね」
その言葉に剣心も力強い笑みを浮かべ、しっかりと、深く頷いた。
「―――ああ、そうでござるな」
宗次郎はその返答ににっこりと笑うと、片付けしてきます、と言い残し洗濯道具を抱えてその場を去った。
ずっと打ち合っていて流石に疲れた聖と弥彦が、息を切らしながらその場に座り込み、剣心に尋ねた。
「ねぇ、さっき宗次郎さんと何か話してたみたいだったけど、何話してたの?」
「ああ、それは―――」
言いかけて、剣心は先程の宗次郎の言葉を思い出す。
自分自身の生き方の中から答えを見い出すということが、どれだけ難しいか分かっていながらも、剣心は宗次郎にそう諭した。それは確かにあの時、本当の答えを求めていた宗次郎に突きつけるには、厳しすぎる選択だったかも知れないけれど。
『何年かかるか分からないし、その自分の生き方ってのも全然見当がつかない。
でも、成り行きでも何でも、こうして皆さんと一緒に旅をしてきて、一緒に過ごせて。多分、それを楽しんでる自分がいて。
何て言ったらいいか・・・・本当に、得るものが大きかった』
「―――きっと、宗次郎なら大丈夫でござるよ」
目を細めて穏やかに笑む剣心。
噛み合わない会話に、聖と弥彦が揃って首を傾げる。
と、そこへ薫が廊下から顔を覗かせた。
「ねぇ、剣心。洗濯終わったんなら掃除手伝ってくれない? 流石に家と道場全部じゃ私一人じゃキツくって」
「ああ、構わぬでござるよ」
「弥彦、あんたもやるのよ。さっき宗次郎君にもお手伝いお願いしたから、四人でやっちゃえば早いでしょ」
有無を言わさぬ薫の言葉に、弥彦は半分渋々といった風に頷いた。
「しょうがねぇな。ま、稽古も丁度一段落したとこだしな」
「あの、ぼくも手伝うけど」
と聖も申し出たが、
「あ、聖君はいーの。悪いけど、聖君にはお使いお願いしたいんだ」
「うん、分かった」
というわけで剣心達は掃除へと借り出され、聖は買い物へと行く事となった。聖は薫から品物を書いた紙を受け取ると、東京の町へと出かけて行った。
さくさくと店を回って野菜やら米やらを買い終え帰路に着く。と、往来の向こうが何やら騒がしい。
(何だろう?)
そう思って人込みを掻き分けていくと、見覚えのある人物が町のゴロツキ達と大喧嘩をやらかしているところだった。
(さ、左之さん・・・・・・)
「うらあっ!」
冷や汗を浮かべる聖とは対照的に、左之助は嬉々として数人のゴロツキを殴り飛ばしていく。圧倒的な実力の差に恐れをなし、ゴロツキ達はほうほうの体で逃げていった。
唖然とする町の人々を尻目に踵を返して歩き出した左之助に、聖はささっと近付いた。
「左之さん・・・・」
「おっ、聖じゃねぇか。どうした?」
「どうしたも何も・・・・・何でまたこんな街中で大喧嘩を?」
咎めるような聖の口調に、左之助はどこか決まりの悪そうな顔をして。
「そこの女狐がゴロツキ連中に絡まれてたから、仕方なくな」
見れば、確かに左之助の後ろに彼曰く”女狐”、もとい恵が立っていた。左之助に女狐呼ばわりされたせいか、それとも他の理由か、彼女は不機嫌そうに眉間を寄せている。
「何が仕方なく、よ。あんな連中、私一人でもあしらえたわよ」
恵の言い方にカチンと来たのか、左之助もまた喧嘩腰になる。
「あぁ? 随分な物言いじゃねぇか。せっかく助けてやったのによ!」
「別に私はあんたに助けてなんて言った覚えはないわよっ!」
「何だと!?」
「何よ!」
いまや聖にはお構い無しに口論している。まぁまぁ、と諫めながらも一向に収まらず、聖は困り果てていたのだけれど。
「―――っと、こんな馬鹿と喧嘩してる場合じゃなかったわ。聖君、これ」
埒の明かない言い争いに嫌気が差したのか、恵は突然そう言って口喧嘩を打ち切った。
そうして聖に何やら飲み薬のようなものを差し出す。
「何ですか、これ?」
「私が特別に調合した薬よ。剣さんから、明日みんなが敵の本拠地に行くって聞いたから。まぁ簡単に言えば、傷の治る力を高める薬ね。みんなの分もあるから、渡しておいて貰える?」
「・・・・ありがとうございます」
恵の心遣いが嬉しくて、聖は深く頭を下げた。恵はいいえ、と笑って首を振る。
「私ができるのはこれくらいだから。頑張ってね、聖君。武運を祈ってるわ」
「うん!」
聖も力強く笑って頷いた。薬そのものではなく、彼女のその気持ちが、本当に嬉しかった。
「さて・・・・じゃあ私はもう行くわ。ああ左之助、せっかくだから診療所に寄って行きなさい。その右手、診てあげるから」
「ああ。つーことだから聖、俺は恵んトコ行ってから神谷道場に行くからよろしくな」
「あんた、また夕飯たかる気?」
「しょーがねーじゃねぇか。喧嘩屋止めて金がねェんだから」
そんなことを言い交わしながら、左之助と恵の姿は雑踏へと消えていく。
あんな感じの二人でも、案外気は合ってるのかな、と聖はふとそんなことを思った。
「ぼくも帰らなくちゃ」
そうして聖も改めて帰り道を行く。








左之助も揃っての賑やかな夕食の後、聖は風呂に入り、汗を流した。
寝巻きに着替え、縁側を歩いていると、ふと夜空が目に映った。こうして夜風に当たっていたら湯冷めしてしまうし、明日のことを考えればすぐにでも床に着くべきなのだろうが、何故か聖はそうしようとは思えなかった。
そのまま半ばぼんやりと、瞬く星を見上げて立ち尽くす。
「聖?」
そんな彼に気付き、剣心が奥から歩いてきた。
「眠れないのでござるか?」
「うん・・・・まぁ、そんなとこ」
聖は言葉を濁してその場に腰を下ろした。剣心も彼の隣に座る。
約三週間、この道場に集う人々と旅を共にしてきた。
思えば、一番最初に出逢ったのは彼だった。
「ねぇ・・・・剣心」
「ん?」
「ぼく、時々思うことがあるんだ」
「何を、でござるか?」
促す剣心に、聖はぽつりぽつりと言葉を返す。
今夜は、星が綺麗だ。
「もしもみんなと会えなかったら、みんなと旅をすることもなく、今十勇士と闘うこともなく、それから・・・・・きっと、ぼくはぼく自身を見失ったままだったんだろうな、って。
どうすればいいか、何をすべきか、そういうことが全然分からなくて、迷子みたいに、当てもなく彷徨ってたんだろうなって」
胸中を吐露する聖を、剣心は無言で見つめている。
聖は夜空から目線を逸らし、俯いた。じっと自分の手を見る。
「結局、記憶は戻らなかったけど、でも前に剣心が言ったように、それでもいいのかもしれない。もしこの先記憶が戻るようなことがあったとしても、それもそれでいいのかもしれない。
だって、ぼくはぼくの生き方をすればいいって、みんなが教えてくれたから。だから、」
聖は顔を上げて剣心を見た。いつの間にか、薫達も彼らの周りに集まっていた。
偶然でも必然でも、こうして共に過ごした仲間達。闘いばかりの毎日でも、その毎日がすごく、楽しかった。
「だから、」
聖はにっこりと笑った。
「みんなに逢えて・・・・・本当に良かった」
零れた言葉は、きっと聖の一番の本音だったろう。
言葉と共にぼろっと涙を落とした聖を、弥彦が肘でつついた。
「オイオイ、泣くのはまだ早いぜ」
「そうそう、明日真田をとっちめてからだぜ」
と左之助。
薫も、「頑張りましょうねっ!」と声をかけ、宗次郎はにこにことその様子を見守っている。
皆の輪の中にいる聖に、剣心は微笑を浮かべ、優しく穏やかに語りかけた。
「みんなに会えて良かった、とお主は言ったが・・・・・
拙者達も、聖に逢えて本当に良かったと、皆思っているでござるよ」
その言葉に、聖はもう一度笑いながら泣く羽目になった。
(本当に、みんなに逢えて、良かった・・・・・)
自分を支えてくれた、信じてくれた、みんなのために。そして何より、自分自身のために。
明日は絶対に負けないと、そう改めて決意する。
それでも、限りなく温かい空気が周囲を包み、皆の笑顔は絶えない。
―――そんな、決戦前夜。







第三十一章へ










戻る