<第十七章:えぐられる傷(後編)>
宗次郎が見ていた化け物は、彼の義理の家族達の姿をしていた。
どうして、町で噂される化け物がそんな風に見えるのか、宗次郎自身にも分からなかった。
左之助や弥彦と踏み込んだ家では、義理の家族達は、まだ普通の状態だった。憎しみを込めて、或いは嘲笑うように自分を見る彼ら。それだけなら平気だった。虐待されていた頃の自分を思い出し、軽く混乱して動けなくなったが、まだ平気だった。
けれど、今は違った。最後の化け物屋敷で見た化け物は、宗次郎が弱肉強食の理念を、真に信じるようになった、”あの時”の姿―――すなわち。
彼を殺そうと、憎悪に満ちていた、あの時の義理の家族達の姿をしていた。
(あの人達は、僕が殺したのに―――確かに、僕が殺したのに)
そう思っても、否が応でも、あの時の事が、脳裏にまざまざと蘇った。
心に巣食った恐怖は、そう簡単に消える事は無い。
あの時から、十年も経ていても、殺されかけた恐怖と、誰も助けてくれなかった絶望と、そして結局、殺したくないのに殺さなければ生きられなかった現実と。
それらを一気に思い出して、また、目の前にあの時と同じ姿をした義理の家族達がいることで、宗次郎は完全に過去へと立ち戻ってしまっていた。
もう、聖や剣心の声など聞こえない。今の宗次郎は、八歳の子どもで、誰も助けてくれる人などいなくて・・・・そう、あの時と同じ。
不意に、自分に向けて伸ばされてきた手に、宗次郎の鼓動が跳ね上がる。
聖が、宗次郎を心配して差し伸べた手。宗次郎にとっては、それは皮肉にも、縁の下にもぐりこんでいた幼い自分に向けられた、初めて殺した相手の魔手にしか見えなかったのだ。
恐怖が、弾けた。
「殺される・・・・・・・・・誰でもいい・・・・・誰か、誰か助けて!!」
悲痛な叫び声を上げて、宗次郎は思いっ切り聖の手を振り払った。すぐさま立ち上がって、その場から逃げ出す。
このまま、ここにいたら殺される!
誰でもいいから、誰かに、助けて欲しかった。
「な・・・・・・」
自分の手を振り払って、すぐに走り去ってしまった宗次郎に、聖は唖然として言葉を失っていた。
宗次郎が、どうしてあんな事を口走っていたのかは分からない。宗次郎が正気でない事は、すぐに察した。けれど、彼のあの表情。あの怯えた表情は、尋常じゃなかった。
「え、え? 何で、どうして・・・・?」
薫は困惑し、弥彦も驚きを隠せない。左之助も、何事かを考えているようだった。
「・・・分からぬ。が、あんな宗次郎を、放ってはおけぬでござるよ。化け物達を倒して、早く捜しに行こう」
剣心は、志々雄のアジトでの宗次郎との闘いを思い出していた。あの闘いの時も、宗次郎は過去を思い出し、錯乱状態に陥っていた。
彼が何の化け物を恐れているのかは分からない。それでも、多分あの闘いの時と同じように、過去に立ち戻ってしまっているのではないか。
そしてそれは、その時、宗次郎が怒りを込めて言った言葉。
『あの時あなたは、僕を守ってくれなかったじゃないですか。
あなたが正しいと言うのなら、何で守ってくれなかったんです』
―――それに、関係しているのではないかと思った。
「そうだね、剣心の言う通りだ。すぐに追いかけよう!」
言いながら、聖は剣を振るった。鋭い斬撃は、餓鬼を切り裂き、剣心達も、他の化け物を一掃していた。
「よし、行くでござるよ」
「それにしても剣心、宗次郎の奴、確かにさっきの家でも怯えてたけど、どうしてこっちの家の方が、怯え方が凄ぇんだろ?」
今にして思えば、先程の化け物屋敷での宗次郎の怯え様は、ただの化け物に対してではなかった。後悔しても、もう後の祭りではあるが、もっと彼の事を気遣ってやれば良かったと、思わずにいられない。
左之助の言葉に、剣心は刀を鞘に納めながら、
「この家の中に立ち込める瘴気が、今までの家のそれよりも強い。その事もあるかと思うが、何より、宗次郎が感じた恐怖が、少しずつ彼の心を蝕んでいった・・・・・恐らくは、彼の心の古傷にまで・・・・・・だからではないかと、拙者は思うでござるよ」
キン、と音がして、刀身が完全に鞘の中に飲み込まれた。
「行こう」
剣心は静かに、それでいて急ぎ足で歩き出した。聖達もそれに続く。
一階のあちこちの部屋を見て回り、宗次郎がどこにもいないことが分かると、二階へと上った。時折現れる化け物を倒しながら、聖達は宗次郎探索を続ける。ふと、聖が奥の座敷に目を向けると、そこは襖が僅かに開いていた。
「剣心、」
小声で名を呼ぶと、彼は頷いた。襖を、すうっと音も無く開ける。
そこには、宗次郎がいた。聖が先程の家で見た、金色の唐獅子も。その化け物は、宗次郎から離れていて、攻撃したりはしていないようだった。
宗次郎は、うずくまり、膝を抱えて震えていた。
「宗次郎」
剣心は、彼を刺激しないように、そっと名前を呼んだ。宗次郎はそれに反応し、顔を上げた。
その表情に、剣心は見覚えがあった。
京都での闘いの時見せた、凍りついた怒りの表情。
多分、その瞳は剣心を見ていない。もっと何か、別のものを見ている。
けれどその怒りは、確かに剣心に向けられていた。
「所詮この世は、弱肉強食・・・・・」
静かに言葉を紡ぎながら、宗次郎は立ち上がる。
「強ければ、生き・・・・・」
宗次郎は、腰紐に差した木刀を抜き、両手で持った。
「弱ければ・・・・」
彼の焦点の合っていない目が、剣心を捕らえた。ハッとして、剣心は鞘に納めたままの逆刃刀を構えた。
「死ぬんだァァァッ!!」
叫びながら、宗次郎は剣心に木刀を振り下ろした。剣心は、抜刀せずにその刀身を受け止める。凄い力に、剣心は押されていた。ぎぎ、と、木刀と逆刃刀が音を立てる。
「剣心! 宗次郎さん!」
聖が二人の名を呼ぶ。剣心は木刀を弾き返し、間を取った。次の瞬間、宗次郎はまたも剣心に攻撃を仕掛けてくる。
宗次郎は、完全に我を忘れている。剣心は一瞬だけ逡巡した。
(少し手荒だが、止むを得まい・・・!)
「ああああぁああっ!!」
再び振るわれた木刀を、剣心は逆刃刀で受け止めた。渾身の力でそれを押さえ込み、下の方へと刀身を押しやる。すぐさま右手を柄から離し、そして。
パン、という小気味良い音が辺りに響いた。
「あ・・・・・」
宗次郎は声を漏らして、木刀を取り落とした。そうして、平手で強く打たれ、左頬が僅かに赤くなった顔を、自分の目の前にいる人物に向ける。
「緋村、さん・・・・・?」
「拙者の事が、分かるでござるか・・・」
瞳に正気の色が戻った宗次郎に、剣心も安堵の溜息を漏らす。うまくいくかどうか、正直一か八かだったが、どうやら彼は、目を覚ましてくれたようだ。
と、宗次郎の顔に、また少し怯えの表情が浮かんだ。剣心は、自分の背後にいるものを、察して思う。そうだ、まだ終わってはいない。
「宗次郎、大丈夫でござる。お主を苦しめている”化け物”を、今、拙者が断ち切る」
剣心は、後ろを振り向いた。そこにいるのは、剣心にとっては、地獄絵巻の中などで見られる、ごくありふれた化け物だった。
けれども多分、宗次郎にとっては違う。彼にとっては、もっと恐ろしく、もっと忌まわしい姿をしているはず。
剣心は、抜刀して、その化け物を一刀の下に斬り伏せた。化け物は、呆気なく弾けて消え、漂う不穏な空気も跡形もなく去る。
宗次郎の目には、自分を恐怖に追い込んでいた者達を、剣心が倒したように見えた。
ああ、と宗次郎は溜息を吐いた。
刀を納め、戻ってくる剣心に、宗次郎はただ一言。
「今度は・・・・・守ってくれたんですね・・・・・」
そのまま、力無く剣心の胸に倒れ込んだ。咄嗟に、剣心はその体を支える。
怯えも無く、怒りも無く、笑みも無く。
ただ呆けた顔をしている宗次郎は、まるで子どもが母親にそうするように、剣心の着物をぎゅっと握り締めていた。
そんな宗次郎を気遣いながら、剣心はみんなに静かに問う。
「薫殿・・・・薫殿には、先程の化け物は、何に見えた?」
「え、私?」
状況をよく飲み込めず、いきなり話を振られて困惑した薫だったが、その問いに不思議そうに答える。
「・・・私には、天狗に見えたけど?」
え、と内心聖は思う。あの化け物は、どう見ても唐獅子だったのに?
「左之、お主には何に見えた?」
「化け狐だよ。陰険な目をした、でっかい奴」
「弥彦は?」
「河童にしか見えなかったぜ」
皆の言っている事が食い違う。誰もが疑問符を浮かべている中、剣心は今度は聖に向かって。
「聖、お主は?」
「ぼくは、炎を纏った唐獅子。・・・・でも、どうして? 何でみんな、言ってる事がバラバラなの?」
剣心は、それには答えず、最後に宗次郎に。
「宗次郎、お主には、何が見えていたでござる? いや・・・・”誰”が、と言った方が正しいかもしれぬが」
「・・・・!」
宗次郎がびくっと震え、顔は青ざめた。剣心の着物を握り締めたまま、宗次郎は俯いて答えた。
「僕は・・・・・僕には、ずっと昔、僕を殺そうとした、義理の家族達の姿が見えました・・・・」
「!!」
皆の間に驚きが走る。剣心は、宗次郎の肩を支える手に力を込めて、そうか、と呟いた。
「そんな・・・どうして?」
聖の言葉には、二つの意味が込められていた。
一つは、自分達には普通の化け物に見えたのに、どうして宗次郎にはその人達が見えたのだろうということ。
もう一つは、その人達は、どうして宗次郎を殺そうとしたのかということ。義理だとはいえ、血が繋がっていないとはいえ、それでも家族を殺そうとするなんて・・・・?
「・・・恐らく、この町の化け物屋敷では、自分の心の中で恐ろしいと考えているものの姿が見えたのであろう。だから・・・」
言いかけて、剣心は何者かの気配に気付き、そちらへさっと視線を向けた。
「コソコソ隠れず、出てくるでござるよ」
気迫のこもったその言葉に気圧されたのか、その気配の主は、あっさりと姿を現した。赤い頭巾を被り、独楽を手にした若い男。
「お前、さっきの広場にいた芸人じゃねーか!」
弥彦がビシッと指を差して睨みつける。芸人は、わざとらしく大きな溜息を付いて頭を掻いた。
「あーあ、困るんですよねぇ。せっかくのお膳立てをことごとく邪魔されちゃ。でも、ま、」
芸人は、剣心にしがみついている宗次郎を見て、口の端を吊り上げた。
「いいでしょう。今回は、面白い事例が見られましたし。どんなに強い者でも、弱みを突けば、こんなにも脆い・・・・っていう事をね」
「てめぇ!」
左之助が、怒りのあまり声を荒げる。それに竦むことなく、芸人は続けた。大袈裟に、礼をしながら。
「申し遅れましたが、私は若彦。十勇士の筧様に仕えております」
「筧・・・・」
剣心は、その名を反復する。その名は聞いたことがあった。確か、下妻町にいた、曲芸師風の男。彼は、そう呼ばれていなかったか。
「筧様も、お喜びになるでしょう。この作戦が、こんな結果をもたらすなんて、思いませんでしたものね。少し応用すれば、いくらでも人の弱みに突け込める・・・・」
「あなた達は・・・そうやって人を追い詰めて、平気なの!?」
聖はわなわなと震えた。
宗次郎の過去を、聖は知らない。
それでも、あんな様子の宗次郎を見たら、彼に何かとても辛い過去があったということは、容易に想像がつく。
彼だけではない。辛い過去を持ちながらも、懸命に生きている人達がいる。そんな人達の、弱い所を責め、更に傷つけようというのか。
聖のそんな思いを知ってか知らずか、若彦は飄々と、
「ええ、そうですよ。それに元々、私達だって、明治政府に追い詰められていた立場なのですから」
「・・・・だからと言って、人の心の傷をえぐるような真似、感心せぬな」
剣心は、鋭い眼差しを若彦に向けた。その眼光には、明らかに怒りが見える。
静かながらも、激しい怒りを込めた、相手を圧倒するその瞳。
「これ以上、あなた達の好きにはさせない!」
聖が、刀を抜いて言い放つ。彼らのやり方に対する怒りと、そして宗次郎を傷つけられた怒りが、聖の中で激しく燃えていた。
人の古傷を狙って、心を痛めつけるなんて、あまりにも酷い。許せなかった。
「それはこちらの台詞ですよ。フーディニ!」
「ハーイ、ワカヒコ」
若彦が声を上げ、それに呼応するように、長身の異人が現れた。スーツを着ている彼の長い金髪はウェーブを描き、異人独特のその顔には、聖達を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。
「フーディニ・・・・この人達は、十勇士様の計画を邪魔するつもりです。我々の手で後悔させます!」
「オー、イエース」
「チッ・・・・また妙な奴が出てきたな」
左之助が、前に進み出て、聖の隣に並んだ。
「左之、」
「人の弱ぇトコ突くなんて、胸っ糞悪いぜ。こいつの相手は俺がする。剣心、お前は宗次郎の側にいてやれ」
不安げな宗次郎を見て、また、左之助の思いを汲んで、剣心は無言で頷いた。
宗次郎は、まだ僅かに怯えの表情を浮かべ、剣心の着物を掴んだままだった。
その方が、何故だか、安心できるような気がして。
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