<序章:出逢いは始まり>



明治十一年、夏、東京。
一見平和そうに見えるこの町。
誰もがそれぞれの、当たり前の日常を続けていた。しかし・・・・。
「不穏な影って・・・どういうこと、剣心?」
町の中心地から、少し離れたところに位置する神谷道場。その家の廊下を歩く二つの影。一人は神谷薫、そしてもう一人は、緋村剣心。
旅支度を整えた剣心の後ろを、薫がついていく。その顔には、はっきりと不安の色が浮かんでいて。
「それが分からぬから、調べに行くのでござるよ」
近頃、剣心はこの町に忍び寄る不穏な影を感じ始めていた。それは幕末に最強の人斬り・緋村抜刀斎として名を馳せた彼だからこそ、なせる業だったのだろうが。
「けれど、心配は無用でござるよ」
薫を安心させるように、やんわりと笑む剣心。
「う、うん。・・・・気を付けてね」
剣心の笑顔を見て、少し安心し、薫もまた笑顔で剣心を見送る。玄関を出た剣心の姿が完全に見えなくなってから、薫は一人ごちた。
「この国に、また動乱の予感だなんて。剣心の勘は当たるけど・・・・」
その頃、剣心は道場の入り口で弥彦とばったり出くわしていた。門から出てきた剣心を見て、弥彦は彼がただ出かけるものだと思い、
「あれ? 出かけるのか? 今日のメシどうすんだよ」
「すまぬが、薫殿に作ってもらうでござるよ。拙者、しばらくの間、旅に出るでござる」
そのまま、多くを語らず去っていく剣心。弥彦は目をぱちくり。
「旅!? って、おい!」
止める間もなく行ってしまった剣心。弥彦はしばし茫然とした後、
(・・・ってことは、しばらくは薫のくそ不味い飯を食う羽目になるのか・・・?)
と愕然としていたとか。
「おう、剣心じゃねぇか。どっか行くのか?」
街中で偶然会った左之助にも、剣心は少し真剣な目をして、
「気付いているでござろう。近頃、この町を悪しき空気が覆っていることを」
まるで忠告のようにそう言い、町の出口へ向かっていった。左之助は、そんな剣心の後姿を見ながら、不敵に笑う。
「ふーん・・・何だか、面白えことになってきやがったぜ」
こうして剣心は一人、旅に出ていった。
これは、一つの始まりに過ぎなかった。









遠くの空が朱に染まっている。
夜明け前の澄んだ空気を切り裂く悲鳴。
叫んでいるのは誰・・・・・?
せき立てられる背中越しに見たのは、
すべてを失う予感。
恐ろしくも美しく、
懐かしい最後の記憶・・・・。









少年は、痛む体を引きずるようにして歩いていた。
年の頃は十四、五歳といったところか。青色を基調とした装束を身に纏い、腰には短剣を差している。散切り頭のようだが、耳元だけが長い髪、額には赤く長い鉢巻を巻いている。凛とした顔つきをしているのに、何故かそれに反した暗い瞳をしているのが印象的だった。
彼の名は、聖という。
〈ここは、どこだろう?〉
見覚えのない町並み。知らない人達。聖はきょろきょろと辺りを見回しながら歩いていた。と、
「いてえっ」
体に衝撃を受け、同時に誰かの上げた声が聞こえた。けれど聖は、構わず歩き続ける。ぼーっとしていて気付かなかったというのもあったかも知れないが。
「おいおい、待てよボウズ」
肩を掴まれ、聖ははっとして振り返る、そこには見るからに不良、といった感じの男が三人、立っていた。揃いも揃って、下卑た笑みを浮かべている。
「黙って通り過ぎようってわけじゃねえだろうな?」
「?」
聖が首を傾げていると、別の男が言った。
「慰謝料だよ、慰謝料」
「黙って払えば、痛い目には合わせないからよ」
男達は凄み、聖に詰め寄ってくる。しかし、聖は首を振り、答えた。
「ぶつかってしまったことは謝ります。でも、慰謝料を払うって、そんなに大げさなことじゃないと思うんだけど・・・」
「ンだと、コラァッ!? バックレようっていうのかよ!」
カツアゲしようとしたのが失敗して、腹が立った男は、聖の襟首を掴み、そのまま殴りつけた。う、と小さい呻き声を上げて倒れ込む聖。身を起こそうとして顔を上げると、目に映ったのは怒りの表情を浮かべた男達。
「もっとぶん殴らねぇと足りねぇか?」
「おら、さっさと立ちやがれ!」
「やめるでござる」
その時、どこからか制止の声が飛び、聖はそちらへ目をやった。野次馬の中から現れたのは、赤い髪で単身痩躯、左頬に十字傷を持った優男。聖は知る由もなかったが、それは勿論緋村剣心、その人だった。
男達も、剣心に目を向ける。
「何だ、てめーは?」
「関係ない奴は引っこんでろ!」
(そうだよ、関係ない人を巻き込むなんて・・・・)
聖は剣心に、ぼくに構わないで下さい、とでも言いたかった。剣心を自分と同じような目に合わせたくはないと思ったのだ。けれど。
剣心は、鋭い目で男達を睨みつけ、静かな声で、
「そうはいかぬ。無抵抗の者に複数でかかるなど、男の風上にも置けぬでござるよ。その子を放して、さっさと行くでござる」
「うるせえっ!」
その言い方が癪に障ったのか、男の一人が剣心に掴みかかろうとした。その瞬間、聖は確かに見た。剣心が、信じられない速さで抜刀し、一閃させた後、またすぐに刀を鞘に納めたのを。
「・・・う・・・?」
一方の男は、一体何が起こったのかも分からない様子。けれど自分の着物の右袖だけがはらりと落ちたのを見て、さっと顔色を変えた。
「う、うわぁあああっ!!」
先ほどの勢いはどこへやら。男達は、一目散に逃げて行った。
それを見て剣心はふうと安堵の溜息をつき、聖に手を貸して起こしてやった。そのまま柔らかく笑んで言う。
「大丈夫でござるか? ・・・と、怪我をしているでござるな」
聖の体のあちこちには、小さな傷がたくさんついており、血の痕もあった。これは剣心は知らないことだったが、この傷は不良たちとのイザコザでできたものではない。聖がこの町に迷い込む前から、ついていたものだった。
「お主、名は何という?」
「・・・聖・・・・」
聖は小声で名乗った。
「聖・・・でござるか。それで、どこへ行こうとしているのでござる? 怪我もしていることだし、良かったら送って行くでござるよ」
剣心の厚意の言葉。その優しさがありがたかった。だけど。
〈どこへ・・・・? ぼくは、どこへ行くつもりなんだ?〉
自分はどこへ行くつもりなのか。どこから来たのか。
そもそも何故、自分はこんな場所にいる?
分からなかった。
頭の中を赤い色がよぎり、痛みが走った。聖は頭を抱えてうずくまる。
頭が痛い。その痛みを忘れるかのように聖は何度も頭を振った。
「聖!? 大丈夫でござるか?」
心配そうに手を差し伸べる剣心。けれど聖はびくっと体を縮め、怯えたような目で剣心を見た。そのまま後ずさる。まるで、何かを恐れるかのように。
「待つでござる! 拙者は怪しい者ではない。ただの流浪人・・・・」
剣心の制止を振り切って、聖はその場から走り去った。剣心は、何故か追いかけることができなかった。聖の、その瞳を思い出す。
「あの者・・・まだ年端もゆかぬのに、あの追い詰められた目は・・・・」
もう、聖の後ろ姿は見えなくなっていた。一筋の風が吹いた。









(逃げちゃって、悪いことしたかな・・・・)
走り続けて、かなりの時間が経ってから、聖はようやく足を止めた。もう、今は違う町に足を踏み入れている。
あの時は、わけが分からなくなって思わず逃げ出してしまったが、今になって思うと、せっかく助けてもらったのに、申し訳ないことをしてしまったような気分になる。
少し後悔しながら、聖は茫漠と歩き続けた。
「やーい、このドブス!」
「何ですってぇ!?」
そんな大声を上げながら走ってくる人影に気付くこともなく。
薫と弥彦、ひょんなことからケンカを始めた二人は、鬼ごっこ(のようなもの)を展開していた。もっとも、それは弥彦の逃げ足が速くて、薫が捕まえられなかったからなのだが。とにかく、面白がってやっている弥彦と、怒り心頭の薫は、周りも目に入らない。そんなわけで、
「きゃっ!?」
「うわぁ!?」
ドン!
弥彦を捕まえようとした薫が勢い余って、聖に見事に激突してしまったのである。ぼーっとしていた聖は避けようもなかった。2人、重なるように倒れ込む。
「何やってんだよ、薫。・・・ったく、トロいなぁ」
「こンのォ―――! ・・・っといけない。ごめんなさい、大丈夫?」
ぱっと身を起こした薫が聖に話しかける。ただぶつかっただけだし、大丈夫だと答えようとした聖、けれどそれを言う前に、弥彦が、
「お前、怪我してるじゃねぇか」
と聖の全身の怪我に気付く。
「ホントだ。ねえ、うちの道場に来てくれませんか? 傷の手当てくらいならできるし」
「い、いえ、大丈夫です」
聖は慌てて首を振る。ただぶつかってしまっただけの、見知らぬ相手にそんな迷惑をかけられない。
聖のその言葉を聞いて、薫が逆に困ったような顔になる。
「そんなこと言わないで。このままじゃあ、気がすまないもの」
「いや本当に、大丈夫だから・・・」
また首を振る聖。詰め寄る薫。
「だって、怪我してるじゃない。お願い、手当てさせてください」
「大丈夫ですってば!」
聖はぶんぶんと首を振ると、その場からさっと立ち上がった。そのままここを去ろうと踵を返し、走り出した瞬間、
「わっ!?」
「わぁっ!」
ドン!
またまた聖は誰かにぶつかった。今度は仰向けに倒れてしまい、地面に頭をぶつける。くらくらした。
〈今日はやけに人とぶつかる日だな・・・・〉
そんなことを考えているうちに、聖の意識は沈んでいった。今の激突で軽い脳震盪を起こしたのだ。
「・・・あの、大丈夫ですか?」
聖とぶつかった、旅姿で、爽やかな風貌をした青年は、気を失った彼に呑気に話しかけた。
「気絶してんだぞ! 大丈夫もクソもあるか!」
弥彦は思わず脱力して、その青年に突っ込みを入れた。が、ふとあることを思いつく。
「でも、丁度いいか、このまま連れて行っちゃおうぜ」
「え、でも・・・・」
この展開にしばし茫然としていた薫。弥彦の言葉に一瞬躊躇したが、
「このままほっとくわけにもいかねぇだろ」
「それもそうね」
とあっさり納得し、聖が気絶してる隙に彼を道場まで連れて行くことにした。
一方、事態をイマイチ飲み込めない青年。
「あの、状況が掴めないんですけど。この人をどこへ連れて行くつもりなんですか?」
「うちの道場よ。この人、怪我してるから、手当てしようと思ったんだけど、大丈夫だって言って逃げようとして、」
「で、お前とぶつかったってわけだ。巻き込んじゃって悪かったな」
聖の体を担ぎ上げながら薫と弥彦は答えた。二人の肩で聖の両の腕をそれぞれ抱えて連れて行こうとする。が、薫と弥彦に身長差があってうまく運べそうにない。
「うーん、悪いんだけど、巻き込まれたついでに、こいつを運ぶの手伝ってくれねーかな?」
「ええ、いいですよ。この人が倒れちゃったの、僕のせいでもありますし」
弥彦のその頼みに青年は快く了承し、三人で聖を運び、神谷道場に向かった。








道場についてすぐ、聖は目を覚ました。
困惑していた彼を、薫達は半ば無理矢理手当てしてしまう。聖は終始困った表情をしていたが、治療が終わると、素直に感謝の言葉を述べた。
「・・・そう、聖君っていうのね。さあ、これでいいわ。しばらくは痛むかもしれないけどね」
薬箱を片付けながら薫は言う。
ここは神谷邸の一室。聖の傍には弥彦と青年が座っており、薫もそちらに戻ってくる。座布団に腰掛けて、
「少し遅れたけど、私は神谷薫。こう見えても、この神谷活心流道場の師範代を務めているの」
「へぇ・・・そうなんだ」
聖はじっと薫を見た。薫は一見、普通の町娘といった感じで、剣術をやっているようには見えない。素直に驚嘆する聖に、
「・・・といっても、他に門弟がいるわけじゃないけどな」
「弥彦、うるさいっ!」
弥彦のちゃちゃが入り、薫は真っ赤になって怒る。そんな様子を、青年はあははと笑いながら眺めている。
「聖君って、この辺の人じゃないわよねぇ・・・・」
「・・・・・・」
薫の言葉に黙って俯く聖。
「ねぇ、良かったら怪我が直るまでうちにいなさいよ。いつもうちにいる食客が、今ちょっとでかけてるし、部屋も空いてるの」
「え・・・でも、ただでさえ迷惑かけてるのに、これ以上皆さんのお世話になるわけには・・・・」
優しく微笑んで言う薫に対し、聖は静かに首を振る。気遣いはありがたいけれど・・・。
「そうしろって。でも、初めに言っとくけど、薫のメシはムチャクチャ不味いぜ。それだけは覚悟しとけ」
聖の顔を覗き込み、真剣に言い放つ弥彦。
「や・ひ・こ」
「いててててっ!!」
薫は笑みを浮かべた顔で弥彦の耳を引っ張った。
「そんなことより、あんたも自己紹介しなさい」
「お、おう。俺は、東京府士族、明神弥彦。困ったことがあったら何でも言いな」
「遠慮なんていらないんだから。ねっ、決まり! いいでしょ?」
薫の優しさ、弥彦の力強い笑み。頑なな聖の心も幾分かほぐれたのか、
「・・・はい。よろしくお願いします」
やっと、はにかみながら頷いた。
「よかった! じゃあ、ゆっくりしてってね」
「本当、良かったですね。それじゃあ、僕はこれで」
「あ、ちょっと待って!」
一件落着したのを見て、青年が腰を浮かしかけた。と、薫がそれを止める。
「はい?」
「聖くんを一緒に運んでもらったのに、まだ満足に礼も言ってなかったから。どうもありがとうございました」
薫がぺこっと頭を下げると、弥彦と聖もそれに続けた。
「ほんと、ありがとな。助かったぜ」
「通りすがりの人に迷惑かけちゃって、すみませんでした」
「いえ、いいんです、別に」
青年は笑って言葉を返す。
「急ぎじゃないなら、あなたもうちでゆっくりしていって。まだ、みんなにお茶も出してなかったし」
「ゆっくりしてかない方がいいかもしれないぜ。こいつ、お茶も不味いのしか淹れられねぇんだ」
「だから・・・あんたは何でそう余計なことばっかり!!」
「な、事実を言ったまでだろ?」
「何ですってぇー!?」
そのままケンカを始めてしまった二人に、聖は唖然、青年はあっはっはと笑うばかり。
しばらくどつき合い、やっと我に返ると、薫はこほんと咳払いを一つして。
「とにかく、今お茶淹れるわね。・・・そうそう、あなた、お名前は?」
「そういや、まだ聞いてなかったな」
弥彦の視線を受けて、青年は笑顔で答えた。
「僕は、瀬田宗次郎といいます」
「―――瀬田、宗次郎!?」
その途端、弥彦はばっと身構え、近くにあった竹刀を手に取った。薫の体にも緊張が走る。聖は、というと、状況についていけない。
(え、え? 二人とも、一体どうしたの?)
「あなたが、剣心から聞いてた十本刀最強の剣客・・・?」
「何で東京に・・・まだ剣心を狙ってやがるのか?」
弥彦を、竹刀を握る手にぎゅっと力が入る。宗次郎は、それにもあまり動じずに、むしろ穏やかに、
「ちょっと待ってください。僕はもう緋村さんを倒す気なんて全然ないですよ。ただ、今旅をしていて、近くまで来たからどうせなら緋村さんに会っていこうかと思って・・・まぁ、こんな形でここに来るなんて思いも寄らなかったし、緋村さんが不在ってことも知らなかったですけど・・・」
「そんな話、信用するとでも思ってるのか?」
弥彦はなおも鋭い眼差しを宗次郎に向けている。宗次郎は困ったなぁといった風に笑う。と、成り行きを見守っていた聖が口を挟んできた。
「あの、弥彦君、よく分からないけど、この人はそんなに悪い人じゃないと思うんだ。だって、ぼくを運ぶのや、手当てするのを手伝ってくれたし」
「・・・聖君の言う通りかもしれないわね」
「薫!? お前まで何言ってんだ?」
薫の言葉に弥彦はいきり立つ。最初こそ薫は困惑していたものの、今は、静かに。
「確かに、宗次郎・・・君は、志々雄一派の人間だった。でも、剣心によれば、宗次郎君は、志々雄真実とは決別したって話じゃない。
・・・それに、聖君や、私達を助けてくれたわ」
薫も、じっと弥彦を見る。
薫も、弥彦も、剣心や左之助の話の中でしか宗次郎の存在を知らない。こうして実際に会ってみても、正直彼が日本支配を企んだ元維新志士・志々雄真実の腹心だったとは、まして宗次郎が彼と袂を分かったなんて、俄かには信じがたいけれど。
だけど、さっき、薫達に手を貸してくれたのは紛れもない事実で。
「・・・・・・」
弥彦は3人の顔を見回し、まだ何事か考えているようだった。と、
「キャ―――――!!」
突然、道場の外から女性の悲鳴が聞こえてきた。
他にも、何やら争っているような怒鳴り声。
「何だ!?」
「行ってみましょう! 話は後よ!」
「・・・そうだな!」
薫と弥彦は勇ましく外へと飛び出していく。聖と宗次郎も、その後を追った。



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