こんな時、姉さんだったらどうするだろう、と思った。
姉さんなら、と考えた筈なのに、何故かもうおぼろげな父親の姿を思い出した。
父親は、絵に描いたようなお人好しだった。隣人が米が無いと言えば、己の家の蓄えも碌に無くても快く米を分けてやり、外出中に迷い子を見つければ、己の用事を差し置いてでもその親を探してやる、そんな風な。
俺にはまったく理解できない心境だった。何故赤の他人にそこまで力を尽くすのか、まるで分からなかった。
父親がそんなことをするたびに、姉さんは父親を褒め称えていた。「ご立派です」と、そういった親を持ったことを誇らしいとでも言うように。
俺にとってはただ優しいだけの、頼りない父親、という印象だった。文武もぱっとしないし、武士としては腑抜けであると、そんな風にさえ思っていた。姉さんの関心を引いていることを妬ましく思う気持ちも入り混じっていたからだろう、自分の父親なのに。
俺には父親のような真似はできなかった。誰かのために俺の手を煩わせるのなんて御免だと、いつも思っていた。
それを口にすると、姉さんは苦い微笑を浮かべていた。「誰かが困っていたら、手を貸すものよ」と俺を諭すように言って。
そしてそんな姉さんも、優しかった。俺にも、父親にも、誰にでも。
あの家では俺だけが異質だった。父親や姉さんが誰かに優しくするたびに面白くなくて、どうしようもない疎外感があった。だから余計につまらなくて、いつまでも拗ねていた。
今度も同じだ。
突き放したのは自分の方なのに、一人だけ除け者にされているような、既視感。
いや、そんな子どもじみた感情は気のせいだ。あんな奴ら、とっとと行ってしまえばいい。清々する。
なのに、俺の心の中に浮かぶ姉さんは、何かを言いたそうに、俺の方を見ている。静かに、そうずっと前に諭してくれたあの時のような、そんな瞳で、ただじっと俺のことを。
手を貸してあげて、とでも言っているのか。
……あぁ、そうかきっと姉さんだったらそうする筈だ。俺にはそんなもの、分からないけれど。あの頃も、今も。
仕方ない、手助けしてやる。優しい姉さんに免じて。
「…待テ」
俺の奥底にあるほんの一握りの、仏心を出したわけじゃない。
姉さんのためでも無くて、どうして俺が動ける?
だからこれは姉さんのためなんだ。多分。きっと。……あいつらのためじゃ、なくて。
そうでもないと、俺がこんなこと言い出すわけがないだろう。
この俺が。仕方ないとはいえ。
「俺も行ってやる」
見ず知らずの誰かのために、などと。







―第九章:今、生きているということ(前編)―







町外れの長屋の辺りは、騒然となっていた。
丁度、夕刻に差しかかる間際、続々と帰宅者が出てくる時間―――それも家の主が不在の部屋が立ち並ぶ辺りに、人目を盗んだ何者かにより、火をつけられたという。
風に煽られ、炎は瞬く間に長屋中に飛び火した。火災を周囲に知らせるための半鐘がけたたましく鳴らされ、それに煽られるようにして人々は逃げ惑う。着の身着のまま飛び出してくる者、間に合わずに炎に巻かれ火傷をした者、懸命に消火活動にあたる消防組や騒ぎを聞きつけて集まった警官達に、延焼を防ぐために長屋を打ち壊していく職人達……。
直接家屋が被害を受けていなくても、周囲の人間達もまた続々と郊外へ避難していく。
焼け出された者達は、風上の寺の境内へと一所に集められ、元々のこの地域の医者達や浅葱・のように後から駆け付けてきた者達により、治療を受けていた。重度の火傷をした者や煙を吸ってしまった者はそちらへと回され、宗次郎と縁は比較的軽傷の者達の手当てを行っていた。
「何で俺がこんなことを」
足に火傷を負った男性に無造作に桶の水をぶち撒けながら、縁はぶつくさ言っている。
軽い火傷はとにかく冷やすのが一番、ということで、先程から二人は、井戸で水を汲む、火傷をしている箇所に水をかけるか或いは水に浸した湿布で冷やす、その後に包帯などで手当てをするといった作業を延々と繰り返している。
寺の敷地内には髪や着物が燃えた時の独特の臭いが立ち込め、煤に塗れた人々が列をなす。南の方の空で、白と黒の入り混じった煙がまだもうもうと上がっているのが見える。
「もう十回は聞きましたよ、その台詞。まぁ僕も、人助けなんて柄じゃないんですけどね」
そんな風に言う宗次郎は、初老の女性の腕を見てやっていた。冷やし終えて赤みの薄れた火傷へと軟膏を塗り、包帯をくるくると巻いてやっている。
もう随分長く診療所で暮らしていることもあって、手当てをするのも慣れた手つきだ。浅葱や が普段しているのを見様見真似で覚えたのもあるし、それ以前、全身火傷の志々雄の身の回りの世話をしていたことがやはり大きい。
宗次郎が出会った頃の志々雄はその時点で立派な大人だったから、基本、自分の手当ても自分でしていた。他者に弱点を晒すわけにはいかないと、そんな心理も働いていたのかもしれない。けれど互いに信頼関係が築かれた後に、例えば背中に薬を塗るだとか、志々雄が自力で手当てを行うには不十分な箇所の手伝いなどを、宗次郎が頼まれることもあった。由美が志々雄の傍に侍ることになって以降、宗次郎はその役目を彼女へと譲ったが。
志々雄の、赤黒く変色し、もう肌とも呼べない引き攣った肌を間近で見ていた宗次郎にしてみれば、赤くなっただけの火傷なんて火傷とは呼べない。しかしそんな軽いものでも、甘く見ていると後々痛みが増したり、痕になって残ってしまったりする。だから、とにかくまずはよく冷やすこと。陽の光に当たらないように覆うこと。そんな浅葱の厳命を受けて、宗次郎は律儀にしっかりと治療を施してやっているのだった。
「ああでもやっぱり、一人でも手が多くて助かってますよ。見ての通り随分と怪我人が多いですし、浅葱さん達も大変そうですし」
釣瓶井戸から水を汲み上げるのも、回数を重ねるとなかなかに重労働だ。加えてそれを火傷をしている人に順々にかけていって、となると、宗次郎一人では手は足りなかったかもしれない。医師達は重症者達にかかりきりでもあるからだ。
縁はそれには何も答えずに、別の怪我人にまた荒々しく水をかけてやっていた。火傷をしていない大部分の方がむしろ濡れてしまって、負傷者である男性が冷たさにぎゃっと声を上げるが、勿論縁はそんなこと知ったこっちゃない。
治療を待つ人々の中には、縁の日本人離れした風貌、加えて目つきの悪さと刺々しい態度に及び腰になっている者も少なくなかった。が、彼の有無を言わせぬ迫力の前に、粗雑な扱いを受けることを余儀なくされる。その間を縫うようにして、外面の良い宗次郎が処置をして回るものだから、期せずして、いい塩梅に飴と鞭のようになり、どうにか事はうまく流れていた。縁の振る舞いに対し宗次郎は「乱暴だなぁ」と感想を零しつつ、また己の動作に集中する。
周囲で交わされている会話から判断するに、幸いにも今のところ死者は出ていないようだった。火付けの被害にあったのが長屋だった故に負傷者も多く出たわけだが、人目が多かったことで逆に、火事の発覚もまた早かったらしい。重傷者の多くは火の元近くに住んでいた者達で、逃げまどう混乱の中で軽傷者も多く出たのだろう、ということだった。
肌の一部が赤く腫れ上がった程度の者達のほとんどは、宗次郎と縁の治療を受けた後、礼を言って長屋の辺りを見下ろせる高台の方へと移動していった。自分達の住んでいた場所だ、長屋の今現在がどのような状況であるか気になるのだろう。それ以外の者達は、呆けたように砂利の上に座り込んで、ぼんやりと壁に寄りかかっている。住処が突然炎により破壊されたのだ、無理もない。
老若男女合わせて十数人はいた軽傷者達は、そんな風に少しずつ宗次郎達の周りから去っていった。未だ喧々諤々、といった様子で寺の内部で治療にあたっている浅葱達医師の一団を、あっちに手伝いに行った方がいいのかなぁ、と宗次郎が一息吐きつつ眺めていると、不意に背後で声がした。縁だ。
「…まったく、何だって俺がこんなことを」
宗次郎が振り向くと、縁はもうやってられるか、とでもいう風に地面に桶を投げ捨てていた。乾いた音が上がる。「何だかんだあっても結局は自分からついて来たのに、まだ言ってるんですか」と宗次郎が思ったままを言うと、それも気に入らなかったらしく縁は桶を更に蹴り飛ばした。桶は砂利の上を二、三回転し、止まる。
「あーあ。壊れちゃったらどうするんです。弁償しなきゃですよ?」
からかうように言うと、縁は宗次郎をじろりと睨んできた。
「……矛盾、しているとは思わないのか」
彼が突然、何に対してそう言っているのか宗次郎は本気で分からず、そのまま聞き返した。
「? 何がです?」
「たくさんの人間を殺めておいて、今度は誰かの命を助けるだなどと」
詳しく述べられ、宗次郎はあぁ、とやっと納得する。
縁は相変わらずの仏頂面だ。本意でない手伝いをさせられているからか、いつもより余計にそう見える。
何でこの人、いつも不満そうな顔してるんだろう。
宗次郎はそんなことをちらりと思いつつ、先程の縁の問いに答える。
「…だから、かもしれないです」
縁の言う通り、矛盾といえば確かに矛盾だった。宗次郎はこれまでに、多くの人の命を奪ってきた。それなのに今はこうして、人の命を救うことに加担している。
しかしそれは、浅葱やや他の医師達のように傷ついた者にはすべからく手を差し伸べるという、崇高な意志に基づいたものではない。傷ついた者を見過ごせないから、という積極性に満ちたものでもない。ただ、宗次郎が思うままに、気の向くままに行動した結果、それが人助けへと繋がっていることが多かったのだ。流浪れ始めて以降、とりわけ咲雪を亡くして以降、それは顕著だった。
今の宗次郎は誰かを助けることを選んでいる、それが意識的でも、無意識的なものでも。
強くても、弱くても、死んでしまったならばお終いと、その事実が分かったからこそ。
「それで僕の罪の償いがどうこうなんて言うつもりはありませんけど……だって、誰かを助けたところで、僕が殺してきた人達が生き返るわけでもないですから。それはまた別々の話ですよね。
それでも、だから、僕は浅葱さんやさんのところにいて、手を貸しているところもあるのかもしれないなぁ…」
宗次郎は正直、この心境をうまく言語化できなかった。
誰かを助けることで償いをするなどという心積もりは無い。誰かを助けても、自分が奪ってきた命は戻ってこない…。かつて、雪哉にも語ったことだった。
それでも、命の埋め合わせにはならなくても、誰かの手助けをするために動くということは、今の宗次郎は苦にならなかった。それは一体何故なのだろう? 自分自身でも、適切に表現できない。それでも、浅葱やに手を貸すことに、悪い気はしないのだ。むしろ少し、楽しい。充足感がある。
人を傷つけてばかりだったこの手で、誰かの傷を癒す。それは自己満足かもしれなくても。知らず知らずのうちに、やはり償いという行為をしているのだとしても。
「矛盾だと言われればそうなんでしょうけど、でも、これが僕なりに見つけたものだから…」
一人の命の重さだとか。いかに自分がそれを軽んじてきたかとか。
自分の思いに囚われてばかりで他者の思いなんか鑑みなかったこととか、それがやっとほんの少しだけど分かるようになってきただとか。
これまでの生き方の中で探ってきたもの。積み重ねてきたもの。それらすべてが、今の宗次郎を作り上げているのだ。それこそ間違えたことが多くても、矛盾も大いに孕んでいても。
宗次郎はにっこりと笑った顔を縁に向けた。はっきりと言い切れなくても、これが自分で手繰った生き方なんだと、どこか胸を張るような思いで。
そして縁にはまた、宗次郎のそんな様が不評らしい。ちっと吐き捨てた後に、ややあってこう言った。
「お前はそれでいいかもしれないがな、」
言いかけて、止める。そのまま沈黙。
宗次郎があれ、どうしたんだろう、と首を傾げていると、縁は噛みしめるようにしていた唇を、ややあって開いた。
先程の続きのようで、続きではない、そんな言葉を吐き出した。
「生きる目的も理由も無いのに……どうして俺は生きてるんだ。生きてなきゃいけないんだ」
前にも縁は言っていた。雪降る中で、どこまでも虚ろな瞳で。
どうして縁がまたこのことを言い出したのか、宗次郎は分からない。宗次郎には分からなかったが、縁は今の生き方を見つけた彼に対して、気後れのようなものを感じたのかもしれない。未だ行く先の見えない自分自身に対して苛立って、だからそんな彼に、ふと訊いてみたくなっただけかもしれなかった。
しかし当の宗次郎は素っ気ない。
「…そんなこと、僕に聞かれても困りますよ」
「…薄情な奴だナ」
「あははっ、良く言われます」
頭に手を当てて笑い声を上げる宗次郎に、縁は本気でこいつなんかに訊くんじゃなかった、という顔をしていた。一時の気の迷いを相っ当、後悔しているようだ。
大体、宗次郎にまともな答えを求める方がどうかしている。
「でもね、縁さん。僕も前に、ある人に言われたんですよ」
宗次郎は縁を上目遣いで覗き込んだ。どこかの誰かさんのように立派なことは、宗次郎には言えない。それでも、あの一言があったからこそ、今の自分はここにいるのだ。
「真実の答えは、自分自身の中から見出せって。
あなたの昔に何があったのかは分からないけど、今をどうやって生きていくのかは、やっぱり自分で見つけなくちゃいけないものなんじゃないかなぁ」
何故生きているのか、なんて、そんな禅問答のようなことを言われても、宗次郎にはさっぱりだ。彼が何故失くしてしまったのか、それだってよく知らないのに。
けれど、今の縁に生きる理由も目的も無いというのなら、結局は自分で見つけるしかないんじゃないかと、宗次郎はそんな風に思うのだ。きっかけは色んな人達から貰ったものでも、この生き方を掴んだのは、やっぱり自分自身だったから。
「だって、あなたが今持っている命は紛れも無く、…あなたの命なんですから」
あなたの生きる理由なんて、他人の僕がどうこう言えませんよ、と軽い調子で宗次郎は続けた。
親身になって話を聞く、などということは、宗次郎には土台無理な話で。けれど宗次郎なりに頭を捻って言ったこの一連の回答に、縁は納得したのか、していないのか。また、能面のような顔で黙りこくってしまった。
うーん、と宗次郎は軽く腕を組む。
(あぁもう、この人何を考えてるのか本当に分からないなぁ)
お前が言うなお前が、と方々から突っ込みが入りそうな感想を宗次郎は抱く。
と、寺の表門の方から、また罹災者が続々と入って来るのが見えた。渡りに船、とばかりに、宗次郎は遠くまで行ってしまった桶を拾ってきて縁に手渡す。ちょっとへこんだくらいで、穴が空いたりはしていなかった。弁償せずに済みそうだった。
「まぁとにかく、今は口よりも手を動かしましょうよ。ほら、まだまだ怪我人来てますから」
またにっこりと見上げてきた宗次郎に縁はやはり舌打ちをして、しかしひったくるようにしつつも桶を受け取ったのだった。







騒ぎから一、二時間程経った頃だろうか。ようやく事態は収拾がつきつつあった。
重症者達も医師達の懸命な治療の甲斐あって皆一命を取り留め、軽傷者達の方もまた言うまでも無い。後者の側は、警官達からの事情聴取を受けたりしている。
彼らは今日の夜のところはとりあえずこの寺に御世話になることとなり、明日以降、身の拠り所を探すとのことだった。
長屋の火事そのものは沈静化しつつあるようで、火元の一棟は全焼したとの話だったが、延焼した棟はおよそ半焼で済み、炎の広がりはそこで何とか食い止めたらしい。やはり発見が早かったのが幸いしたが、それでもここ最近の火付け騒ぎの中では最大規模の被害となってしまった。落ち着いてくると徐々に目撃証言も出てきて、怪しい男を見かけただの、きっとそいつが犯人だ早く捕まえてくれだなどと、そんな声も続々と上がり、浅葱の友人の警官・新田もその対応に追われている。
ひとまず、治療も一通り終わったということで、あとは土着の医師達に任せるということになり、浅葱達のように離れた地区から集った医師達は、解散と相成った。
負傷者達の治療もあらかた済んで手持ち無沙汰になり、更に警察も来たことで彼らをそちらに任せた宗次郎と縁は、そのまま彼らと距離を取るようにして、寺の庭の隅っこの方へと移動していた。何せお互い前科者、これ以上ややこしい事態になるのは、非常に面倒でもあったので。
そんな風に目立たないようにしていた二人の所へと、先述の通りお役御免となった浅葱とがやってきた。
の方は浅葱よりも一足早く、軽く息を切らせながら走って来て、一団に背を向けて立っていた縁の正面にわざわざ回り込んだ。それから心底申し訳なさそうな顔で、言う。
「縁さん、あの……さっきは失礼なこと言っちゃってごめんなさい!」
言うや否や、は縁に向かって頭を下げた。
「いくら緊急事態だったとはいえ、あんなこと……縁さんには縁さんの苦悩があるでしょうに、それなのに…本当にすみません……」
が詫びを述べているのは、出立する前に縁に言った一言についてだ。
あの時は激情に駆られる余りに言ってしまったものの、己の失言をずっと気にしていたのだろう。らしい。
は頭を下げたままで、体の前で握り締められている手は震えていた。多分今、泣きそうな顔してるんだろうなと、宗次郎は涙脆いのことを思い浮かべつつ、縁を見た。
縁にはその時のような激しい感情や表情の変化は見られず、ただじっと、の流れ落ちている黒髪の辺りを見下ろしている。
「……何のコトだ」
「えっ?」
意外な一言に、は弾かれるように顔を上げた。案の定、涙目のはそのまま縁を見たが、縁はその視線を避けるように、体ごとそっぽを向いてしまった。
「もういい」
その無言の背中を二人揃って目を丸くして眺め、一呼吸の後に宗次郎が笑いながらに小さく耳打ちをする。
「良かったですね。もう怒ってないみたいですよ」
「そう…かなぁ……?」
宗次郎の意見に、半信半疑といった風に首を傾げるである。謝っても済まない程に失礼なことを言ってしまったことにやはり変わりは無いわけで、残る気まずさに完全に安堵したとは言い難い。加えて、縁がこんな態度では、宗次郎の言うようにその怒りが解けているかどうかも、怪しい。
そのだけでなく、浅葱にも伝えたいというのもあって、宗次郎はこう付け足す。
「それに、縁さん色々と文句言いながらも、ちゃ〜んと働いてくれましたし。僕、大分助かりました」
「そうなのか?」
「余計なことを言うな」
宗次郎の発言を受けて、少し意外そうな浅葱と、顔だけ振り向いた縁の苛立ち混じりの一言がほぼ同時に飛び出した。
縁はまたこちらへと完全に背を向けてしまって、それでも浅葱は少し表情を緩めて、
「そうか…すまない。ありがとうな」
縁の、彼なりの尽力を労うように、穏やかに声をかける。
浅葱とも奔走していたわけで、首の後ろで結わえた浅葱の髪も所々解れ、着物だって煤だらけだ。それを整えることもせずに、半ば強引に事態に巻き込んでしまった気難しい来客のことを先に気遣う。
そんな彼らに、縁はやはり振り向かなかった。ほんの少し、彼が俯いたようも見えたが、それは宗次郎の気のせいだったかもしれない。
「…用が済んだのなら、こんなところに長居は無用だ」
こちらに背を向けたまま、さっさと歩き出そうとする縁の袖を、宗次郎はすかさずがしっと掴んだ。
当然、抗議するように声を荒げる縁。怒り顔だったが、やっと振り向いた。振り向かせたとも言う。
「何をする、放セ」
「縁さんこの辺に土地勘無いでしょう、一人じゃ迷っちゃいますよ」
少し意図的ににこっと笑みを向けてみる。早々にこの場を去りたい縁の意図は分かるが、何となく、ここは彼を引きとめた方がいいような気がした。深い理由は無い。単なる勘だ。
「子ども扱いするな!」
「まぁまぁ、どーせあんたの荷物はうちにあるんだし?」
「帰り道は、みんな一緒ですから…」
宗次郎が縁の動きを封じている間に、浅葱、が兄妹ならではの連携を見せ、両脇を陣取ってしまう。
三人に囲まれてしまっても、縁なら抜け出すことは容易に可能だったろうに。
縁はもう幾度目かも分からない舌打ちをして、腕を無造作に上げて宗次郎を振り払うと、一足先に歩き出した兄妹の後を、渋々、といった風に、それはそれはもう渋々、といった風についていった。帰る先は同じとはいえ、まんまと一緒に帰途につく羽目になったのだ。不愉快極まりないに違いない。
それでも、陽が傾いた中を、三人とは大分距離を開けてだが、縁は歩いた。
もう遠い昔、いつだったか、父親と姉と三人とで出かけた帰り道にほんの少しだけ似ているような気がしたが、縁はそれに、気付かぬようにしていた。