―第十章:今、生きているということ(後編)―




「大騒ぎした割には、大したこと無かったナ。まったく、俺まで駆り出しやがって」
まだ言っていた。
診療所までの帰り道、未だにぶつくさぶつくさ言っている縁を、時には諫めつつ時には華麗に受け流しつつ、宗次郎達は歩いている。
夕刻の往来に人通りは少なく、空に俄かに雲が張り出した影響で辺りは尚のこと薄暗い。風も一段と冷たくなり、寒さが足元から通り抜けていく。
もしかしたら、また雪がちらつくかもしれない。そんな予感を抱かせるような、独特の凍てついた空気だった。
そんなわけで自然、足の早まる一行だったが、しかしそんな静けさを打ち破るような大声が耳に飛び込んできた。
声の正体はすぐに明らかとなる。すぐ先の角を右に折れたところで、見慣れぬ二人の男が声を荒げて話し込んでいるのだ。
「喧嘩…かな?」
「う〜ん、ちょっと違うみたいですけど…」
とりあえず離れたところで立ち止まった、宗次郎共に事態を断定できないのは、その二人の男の会話内容が全く分からなかったからだ。
甲高い声での会話は確かに早口ではあったが、それにしても単語の一つも拾えない。大仰な身振り手振りやその剣幕から一見確かに言い争いをしているようではあるが、それにしては随分と困った顔をしている。加えて彼らが身につけているのは、着物のようだが若干細部が違う。更に下半身は袴では無く洋袴を履いている。
有り体に言えば、日本人ではなかったのである。
「〜〜〜! 〜〜〜〜〜〜〜!?」
「な、何て言ってるのかしら…」
「さぁな…困っているようではあるけど……」
第三者から見られていることに気付き、その二人の男は助けを求めるように一行に話しかけてきた。男達の顔立ちは日本人男性のそれと大きくは変わらないが、そんな彼らから異質の言葉が矢継ぎ早に繰り出される、とは何とも奇妙に感じるものである。
彼らの雰囲気からすると、大陸から来た人間、といった風ではあるが、医術には明るい浅葱とも異国の言葉となるとさっぱりで、いくら手助けを求められても困惑した顔を見合わせるしかない。日本全国を流浪して各地域の訛りや方言、といったものならある程度は分かる宗次郎とて、その点は同様である。
どうにも得体の知れぬその二人の男は心底困り果てている様子ではあったが、答えようにも答えようが無く、宗次郎達は首を傾げて立ち尽くすのみだった。ただ何かを訴えるような謎の言語が延々と続くばかりだったが、
ここで背後で我関せずといった態度を貫いていた縁が、ちっと舌打ちをする。
「……オイ。岩船屋とかいう旅籠はどこにある」
「えっ?」
に限らず振り向いたが、縁が早くしろと言わんばかりの態度で睨んでくるので、そのまま答えを口にする。
「えーと……この道を真っ直ぐ行って、つきあたりを左に曲がったところに。そのまま道なりにずっと歩いていけばあります。大きな旅籠だから、行ってみれば分かると思います……けど?」
不思議そうなに構わず、縁はその説明を聞き終えると口を開いた。驚いたのは、二人の男達と同じ響きの言語が、縁からすらすらと飛び出してきたことだ。
驚きに目を丸くする達と対照的に、見る見るうちに表情が輝く二人の男。縁は男達とその後二、三言交わし、彼らは両手を前に合わせて軽く頭を下げ、同じ言葉を繰り返した。シェイシェイ、シェイシェイと、それはようやく宗次郎達にも聞き取れた。
「…今の、大陸の言葉だろ。話せたのか…凄いな」
去っていく二人の男を見送った後、浅葱は縁を素直に称賛する。漢詩ならば多少嗜んだことはあるが、やはり生きた言語としての漢語となると相当に難解である。
「良かった、あの人達困ってたみたいだったから」
胸を撫で下ろしつつ、も浅葱と同じような眼差しで縁を見る。自分達にはまったく分からなかった言語をいともあっさりと解読してしまったことに対しては、尊敬する他ない。
けれど縁はそんな賛辞の言葉にも表情を変えず、むしろつまらなさそうに言うのだ。
「…大声で騒ぐあいつらが鬱陶しかったから黙らせただけダ」
「それにしても本当に凄いですね。僕、あの人達も縁さんも何言ってるのかさっぱりでしたよ。なんて言ってたんです?」
「商売で日本に来たのはいいが、通訳の人間の待つ旅籠の地図を途中で無くしたらしい。……間抜けな奴らだ」
悪態も交えつつ、それでも意外に律儀に縁は事の次第を説明してくれた。
それでようやく三人にも事情は飲み込めたが、しかしここで新たな疑問が浮かぶ。
「何でそんなに大陸の言葉に精通してるんだ?」
代表するように浅葱がそれを訊いた。思い起こせば、縁が最初に着ていた服だとか、そのとっかかりはあったのだ。訊く機会が無く、訊いても答えてくれなさそうな態度だったから今までこうして尋ねずにいただけで。
「昔、大陸に住んでいたことがあるからな。…それだけだ」
縁は多くを語らず、答えた。当初の態度を考えれば、答えてくれただけマシだったかもしれない。
成程それで、と納得しつつ、宗次郎は単純に思ったままを言う。
「へぇ。でも縁さんも大陸の言葉をそんなに話せるんだったら、通訳や翻訳の仕事なり何なり、今後に生かせそうですね。良く言うじゃないですか、昔取った杵柄、って」
「―――」
その発言に、自分自身のことを話題にされているのに今の今まで大して興味なさげだった縁が、虚をつかれたような顔になった。そんなことは思いも寄らなかった、という顔だ。
しかし縁はまたすぐにすげない表情に戻って、味気ない返事をする。
「…必要に駆られて覚えただけで、この先活用する気はない」
「何だか勿体ないなぁ。僕もまぁ、必要に駆られて覚えたことは色々ありますけど、今となっては役に立ってますよ。掃除とか、洗濯とか、お勝手仕事とか…」
宗次郎はやはり心に浮かんだままをつらつらと挙げていく。
縁の言葉をそのまま借りるが、そのどれもこれもが必要に駆られて覚えたもの、覚えざるを得なかったものだ。幼い頃、義理の家族達には容赦なく仕事を言いつけられたし、達成できなければこれまた容赦なく罰を受けた。その被害を減らすためには、一刻も早くその技術を身につける必要があった。
細かく教えてなどくれない癖に、失敗するとこれまた手酷く罵られる。だから、自己流ではあったけれどそれなりに正しいやり方や、効率のいいやり方も、自然覚えていった。当時は単に命じられるままに行っていたけれど、望んではいなくともすっかり身についてしまったことで、今となっては何かと有意義に活用できている。
そして何よりももう一つ。一番必要に駆られて覚えたもので、何だかんだあっても、今でも役に立っているもの。
「それにやっぱり、剣術も」
宗次郎は軽く天衣の柄を叩いた。剣の腕があることで、人を殺しもした。剣の腕があることで、蘇芳の一件のようなこともあったりした。
無論、これは負の事象ばかりを引き起こしている。けれど長い流浪の旅路の中で自身に振りかかる危機をはねのけられたのもその腕のお陰だし、同様に誰かを助けることもできた。ほぼ気まぐれに、だけれど。
少なくとも自分自身の身を守る程度には、十分に役に立ったのだ、やはり。万事が良かった、とは言えなくても。
「何が巡り巡って今がどうなるか、なんて、分からないものですよねぇ」
過去の出来事の一つ一つが組木細工さながらに巧妙に折り重なって、今を作っている。
宗次郎は改めてその不思議さを思う。だからこそののんびりとした呟きに、けれど縁は大いに反発するのであった。
「…いちいち偉そうに。お前がどうこう言える立場か」
「そんなつもりで言ったんじゃないんだけどなぁ。縁さんの方こそ、逐一突っかからないで下さいよ」
「お前のその、人を食ったような態度が気に食わないんだよ。いつだって無駄に落ち着き払いやがって」
「そういう縁さんだって、周りの人間みんな敵、みたいな態度やめた方がいいと思いますよ。いい歳した大人なんだし」
「何だと? 貴様言わせておけば…!」
「「まぁまぁまぁまぁ…」」
まるで今にも天下の往来で大立ち回りをやらかしそうな二人を、兄妹は懸命に宥めた。宗次郎の方はとりあえず終始穏やかだが(言葉の端々に棘のようなものはあるが)、縁の方は本当に人目も弁えず暴れ出す可能性があるから困る。
「…少しは歩み寄ったかと思ったけど、相変わらず仲悪いよな、この二人」
「相性的に、水と油なのかもね…」
溜め息をついた顔を見合わせつつ、兄妹はそんな感想を言い合う。ひとまず一触即発の状態は脱したようだが、この二人は(と言うより縁が?)未だに火種を抱えているから悩ましい。本気でやり合い出したら最後、もう自分達では止められない。
びゅう、と一際強い風が吹き抜け、それをきっかけに四人は歩みを再開する。ちっ、とわざとらしく舌打ちした縁が、また不平を述べ出した。
「…まったく。今日は余計なコトに巻き込まれるし、何かと小煩い奴らはいるし、碌なことが無い。今夜にでもこんなとこから出て行ってやる」
「…えっ?」
その内容には思わず立ち止まりかけるが、縁は構わずにどんどん歩いていってしまう。
「確かに、体の方はもう回復しているが…」
「なら問題は無いだろう? 大体、俺はこんなに長く居座る気は無かったんだ。いい機会だ。清々する」
浅葱のお墨付きも貰ったことで、それ見ろとばかりに縁はつっけんどんに言い放つ。診療所に来た当初と全く変わらないこの態度だ。
「だけど、また不摂生な暮らしをしていたらすぐにぶり返す。行く宛てはあるのか?」
「………」
浅葱の真剣な問いかけに対し縁は無言だった。
体の方は万全でも、生きる気力を失くしていた筈の彼の胸の内はどうなのか……浅葱も結も気掛かりなのはその一点で、急に出立を告げる縁に対し、その懸念が表情にありありと現れてしまっている。
無理に引き留めるのは憚られる、しかし何と声をかければいいか分からない。そういった顔をは宗次郎に向けた。助言を求めているかのようだ。
うーん。宗次郎は頬をかく。
さんと浅葱さんは心配そうだけど。でも縁さんが自分の意志で歩き出そうとしているなら、別にいいんじゃないかなぁ)
宗次郎がこう考えるのは、決して厄介払いをしたいからではない。
態度こそ軟化してはいないが、それでも出会ったばかりの頃の空っぽだという印象は今の縁には無いのだ。こちらからの投げかけに反応はするし、火事の罹災者の治療の件や先程の二人組の件にしたって、文句を言いながらではあるが彼自身で行動している。当初の、ふらふらと覚束ない歩みを目撃している宗次郎からしてみれば、縁がしゃんと背筋を伸ばして堂々と(偉そうに、とも言う)歩いているだけでも、十分な気もする。
まぁ、縁の性格には多少の難有りだけれど、今だったら彼を送り出すことに、特に異論は無いように宗次郎は思うのだ。
彼の生きる理由も目的も、この先見つけてみればいい。自分がそうだったように。
(大丈夫だと思うけどな…、多分)
それでも多分、という単語は外れなくて、そしてその宗次郎のようには簡単に楽観視ができない兄妹は、やはりこの先の彼を危惧するような思案が切り離せずにいる。
ただ一人、縁だけが冷徹な顔だ。冷たい風が幾度も頬を叩いても、眉一つ動かしもしない。
自然、無言になって、四人はそのまま帰路を進む。空の色は一段と色濃くなった。夜の空か雪雲か、その境界線も曖昧になり、夕日はもう一欠片しか見えない。
(今夜も冷えそうだなぁ)
何となく空を見上げて、宗次郎は小さく息を吐く。既に息に白い色が付きつつあった。
(それにしてもお腹空いたなぁ。早く何か食べたいところだけど、でもまずは作るところからだ。今日は簡単に煮物でいこうかな。でも縁さんがもう出て行くんだとしたら一応最後の夕餉なわけだから、ちょっとは豪華にした方がいいかな。でもこんな時間じゃあお店閉まっちゃってるよね。やっぱりある物で何とかするしかないか。
それにしても最後の最後まで縁さんと一緒に卓を囲むことは無かったな。まぁ入院患者さんなわけだから、むしろそれが当たり前なのかもしれないけど。一緒に何かを食べたのなんて、何日か前のお餅くらいだなぁ)
真面目に縁の身を心配している浅葱とが知ったら、盛大に脱力しそうな宗次郎の思考である。これでも宗次郎としては十分に考えているつもりなのだが、内容が内容であるためやはり場違いな感は否めない。
道の脇にぽつぽつと立ち並ぶ民家からは、米が炊けた匂いや、焼き魚やみそ汁といったものの匂いも立ち昇っている。
あぁいい匂い。余計にお腹が空いちゃうなぁ…と呑気に考え、宗次郎は十字路を左に折れた。この道をしばらく進めば馴染みの診療所だ。
空気の寒さも手伝って、先頭を歩いていた宗次郎の足も早まる。と、ここで宗次郎はある異変に気が付いた。
(……この臭い)
夕餉の支度によるものではない臭いが紛れている。ほぼ絶え間なく吹く風のせいで気付くのが遅れたが、この臭いは昼に嗅いだばかりだ。
何かの焦げるような。焚き埃のような。薪を燃やした時のそれにも似ているが、もっと多く不純物を含む―――
これは、火災の臭いだ。
「……まさか?」
言いながら、宗次郎は駆け出していた。「どうしたの宗次郎君!?」というの声が背後から上がった。突如走り出した宗次郎を不審に思ったのか、達も小走りで付いてきているようだった。








果たして、嫌な予感は当たってしまったようで。
せめてもっと早く気付いていれば、と珍しく後悔のようなものを宗次郎はするが、もう遅い。宗次郎は表門の所で立ち止まり、後からやってきた浅葱、も中を見て声を失う。
「そんな……」
力無く呟いたのは、浅葱の方だったか。
診療所から、煙が立ち上っていた。
正面から見た分には外壁に炎は伝ってなかったが、浅葱が慌てて玄関の鍵を開けその戸を引いた途端、中から凄い量の煙がもうもうと飛び出してきた。この時、新鮮な空気が送り込まれることで炎が一気に燃え上がるという、現在でいうバッグドラフト現象が起こらなかったのはひとえに幸運と言えた。炎が玄関先にまでは回ってないことも作用したのかもしれない。しかし、診療所内部が燃えていることは確実だ。
ともあれ、これは浅葱らしくなく冷静さを欠いた行動であったが、長年過ごした場所がこんな事態になっては無理からぬことだろう。
「……っ! 早く警察と…ご近所さんに知らせて来い!」
一旦引き戸を締め、残る煙にむせながらも浅葱は指示を飛ばした。当時、消防は警察機関の一部だった。
「う、うん!」
カラコロ、と下駄を鳴らしながらは慌てて往来へと引き返していく。火を消すのは元より、近所の人間達にも避難を促さなければならない。
「何だ、コレは……!?」
その結と入れ替わるようにして、縁も姿を現した。流石の彼も、あまりの事態に目を見開いて絶句している。
「火事みたいだな、どうやら…。くそ、何でこんなことに!」
「例の、火付け犯の仕業でしょうか?」
「そこまでは…でも出かける時は確かに、火は消して出た筈だ」
浅葱は数時間前のことを思い返す。家を出た時は慌ただしかったが、火鉢や竈といった火の元は間違いなく消してきた。ならば宗次郎の指摘する通り件の火付け犯によるものと考えられるが、それにしても診療所が狙われたのは偶然か、それでも恣意的にか。
外から見る限りでは、居住部分の側にはまだ炎は伝わってはいないようだった。しかしそれも時間の問題だろう。診療所の内部には既に炎がある、一刻も早く消し止めないと―――!
「とにかく消火だ、まずは井戸に―――って、」
浅葱が最後まで言えなかったのは、その炎が広がっていると思われる診療所に縁が向かおうとするのが分かったからだ。裏庭に向かいかけた体を反転させて縁に追い縋り、必死にその腕を掴む。
「離セ!」
今までに見たこともない形相を縁はしていた。
「中に行く!」
「駄目だ、何考えてるんだ、あんた!?」
浅葱がもがく縁をもはや羽交い絞めのようにして止めるのも無理は無かった。
火事の際、無闇に中に飛び込むことは何よりの禁忌である。燃えて失いたくない大切な物を、或いは二つとない誰かの命を助けようとして、そして助からなかった例は枚挙に暇がない。
浅葱とにとっては生まれ育った場所で、父と母との思い出の染みついた場所でもある。生活の糧を得る場所でもあり、当然、できることなら飛び込んで持ち出したい物もある。けれど自ら火の海に飛び込むのは、命を捨てるに等しいのだ。
「おい、宗次郎も手伝え!」
なりふりかまっていられないように浅葱が宗次郎にも助けを求める。事実、浅葱の力では縁を抑えきれなかった。
ハイハイ、と宗次郎が駆け寄るより、縁が動く方が先だった。縁は渾身の力で浅葱を振り払い、助勢するつもりだった宗次郎は、その飛んできた浅葱を受け止める係となった。
「あの中には、姉さんの―――…ッ!」
吠えるような声を上げながら乱暴に玄関の戸を開け放ち、縁は中に飛び込んでいく。あの目立つ白い髪が、たちまち白い煙に飲み込まれ見えなくなった。
呆然、としか言えない様子で浅葱は立ち尽くす。
「あいつ……」
このまま彼を見殺しになど浅葱はしたくなかった。しかし、同じように飛び込んで行ったところで何ができるだろう? 炎と煙の中彼を見失って、木乃伊取りが木乃伊になるのがオチだ。
「くそっ…!」
そうやって吐き捨てることしかできないままで、浅葱は遮二無二中庭へと向かう。応援が来るまでは、自分達で何とかするしかない。
中庭へと向かう途中、診療所の外壁にご丁寧に柴の束が積み上げられているのを見た。こんなものを家の中で見た覚えは浅葱も宗次郎も無かったから、犯人は漆喰の壁に燃え移りやすいようにわざわざこんな物も持ちこんだということだろう。まったく、無駄に手が込んでいる。
既に激しく燃え上がっていたそれらを宗次郎の天衣で散らして貰っている間に、浅葱は一足先に井戸のある中庭に辿り着いた。ここからでも、壁や瓦の隙間から煙が上がっているのが見える。窓の向こうに赤い色が見える。
見知らぬ誰かに住居を蹂躙されたことを心底悔しく思いながら、浅葱は歯を食い縛って井戸から水を汲み上げていく。
桶には水がたっぷりと入った。しかし建物からしてみればほんの少しだ。こんな少しの水で、炎を鎮めることなどできるだろうか…? 軽度の火傷とは訳が違うのだ。
しかしやらねばならない。こうしている間にも、中に飛び込んでいった縁がどうなっているかも分からない。
浅葱は桶を手に、出火元と思しきその柴の束の残骸の元へと近付く。刀だけでは、完全に炎は消せない。
しかし浅葱が桶を傾けようと思ったその時、宗次郎の手がさっとそれを奪い取った。何を、と思う間もなく、宗次郎がその水を頭から被る。
もう一度桶を傾けて、中に残った水を今度は肩から胸の辺りにかけている宗次郎を見て、その行動の意図を察した浅葱の顔がさっと曇る。
「お前…まさか、」
「そのまさかです。炎には慣れてますし、僕の足ならすぐに行って帰ってこれますから」
いつものことながら宗次郎はとんでもないことを笑顔で平然と言ってのけたが、それにしたって浅葱は今回のそれを安易に許容はできなかった。
「馬…鹿なこと言うな! 脚力の問題じゃない、本当に危険なんだぞ、分かってるのか!?」
「いやだなぁ、危険だなんて。そんなのも慣れっこです。
でもまぁ、浅葱さんがこのまま家の中に焼死体が一つでき上がってもいいって言うなら、僕は構いませんけど」
「さらっと怖いことを言うな! いいわけあるか! けど、お前まで……!」
それじゃあ頼む、とは見送れない。かと言って、縁を見捨てることもできない。自分には中に飛び込んで縁を救出できる程の能力は無くて、それでも宗次郎の命をみすみす危険に晒すことを良しとする筈もない。
どうすればいい、どうしたらいいか分からない、そんな風に浅葱は狼狽するしかなかった。
宗次郎はにっこりと笑って、天衣を構え直した。彼にしては珍しい、腰打めの刺突の構えだ。
そうして、焦げて脆くなっている壁を鋭く一突きし、穴を開ける。がらがらと崩れる壁の向こう側に、やはり赤い炎が這いずっていた。今から縁を追いかけるなら、玄関から向かうより、こうして近道をした方が早い。
「それじゃあ、行ってきますね」
言うや否や、宗次郎はさっとその穴を潜って行ってしまう。
またも取り残されてしまった浅葱は、拳を震わせて呻くしかない。
「くそっ……!」
三度目の単語だった。
みすみす炎の中に飛び込んで行く二人に対して、そして何より不甲斐無い自分自身に対して。
浅葱の心境をなぞるわけではないのだろうが、空を覆う暗雲が一層重く垂れこめた。