―第八章:残り雪―
相変わらず、寒い日は続いていた。
空は青く陽も射していても、時折吹く冷たく乾いた風が容赦なく体温を奪っていく。
そんな中でも今日も今日とて、宗次郎は雑用に励んでいた。鉈を片手にぱかこんぱかこんと軽快に薪を叩き割っている。
「……オイ」
「何ですか?」
丁度、宗次郎が次の薪をひょいと持ち上げたところで、これまたいつもの如く縁側に座っている縁から声をかけられた。
宗次郎は手を止めるついでに襟巻を巻き直し、屈んだままの姿勢でかじかんできた掌同士を擦り合わせる。
縁は力無く下ろした両腕をそのまま両の太腿辺りに落としたような姿勢で、じろりと睨んできた。そんなことは意に介さない宗次郎は、例によって例の如く童のような笑顔である。
「何でお前はいつもいつも、俺のいる所で何かしらしてるんだ」
「言いがかりはやめて下さいよ。だって僕の用事は庭でやることが多いんですから、仕方ないじゃないですか」
「目障りダ」
「そんなこと言われましても。洗濯は庭でするものですし、こう毎日風が凄いと、庭中すぐに葉っぱだらけになっちゃうから、まめに掃除しないとですし。ほら、ここって診療所ですから、清潔さを保つとかそういうの、大事なんですよ」
宗次郎がつらつらと語ったことの内容は、事実であり、言い訳でもあった。一応、縁を見張っておこう、そんな意識が宗次郎の中で働いているのだ。長らく闇組織に身を置いていたことの影響もあるだろうが、やはり得体を知れない相手に対して、警戒は怠れない。
このところ随分と大人しくしてるから、多分大丈夫かとは思うけど。そういったお気楽な考えもあるにはあるが。
宗次郎の言葉を素直に表面通りに受け取ってくれたかどうかは定かではないが、縁はただでさえ不機嫌そうな顔(まぁこれはいつもなのだが)を、さらに険しくしてこう続けた。
「じゃあ何故ここで薪割りなんかする。そんなのは他の場所でもできるだろう」
これはごもっとも。
宗次郎は薪だとか鉈だとか薪割り道具一式を、わざわざ縁のいる縁側の前まで持ってきて作業しているのだ。効率だけ考えれば、風呂の側だとか、台所の近くだとか、薪を使う場所の近くで作業をして、割った薪をそのまま置いてきてしまうのが一番良い。いずれの場所も、ここからでは少し歩く。薪を束ねてそこまで運ぶとなると、ちょっとした手間だ。
ごく当然の追及に、しかし宗次郎はしれっと。
「え〜? だってどうせ一仕事するなら、ちょっとでも日当たりがいい場所でしたいじゃないですかぁ」
「………」
そのままあっはっはと笑い飛ばす宗次郎に、縁はぶすくれた表情のまま呆れる、といった器用な真似をした。
「縁さんが良く日向ぼっこしてるだけあって、ここ、何となく庭の中で一番暖かい気がするんですよねぇ。今日はまぁ、こんな天気ですけど、だったらやっぱり夜は皆さんいいお湯に浸かりたいでしょ。だからたくさん薪割っとこうかなって、ついでに何日か分もやっちゃおうかなぁって…」
「……もういい」
暖簾に腕押し、といった調子の宗次郎に、縁は早々に白旗を上げた。こいつには何を言っても無駄だと思ったのか、それとも相手にするのが馬鹿馬鹿しくなったのか。
白髪頭をがしがしと掻いて、縁はわざとらしいくらいに大きな溜め息を吐いた。これ以上、生産性のない会話をする気はなさそうだった。宗次郎は悪びれもせず、にこっと微笑む。いいのか悪いのかはさておき、この笑顔の効用、“相手は呆れて終わりにする“は今でも健在なのだ。
さて縁さんも諦めてくれたようだし早速、と、宗次郎は薪割りを再開しようとした。が、そこで宗次郎の耳がある音を拾う。
「すみません、
先生ぇ!」
切羽詰まったような男性の声と、せわしない足音、勢いよく玄関の戸を開ける音。
また急患かな、と宗次郎は聞き流した。ぱかん、と薪を一つ割る。
「……何だって!?」
今度は浅葱の声だ。玄関まで出て応対しているのだろう。
しかし滅多に上げない大声を上げている辺り、相当に驚いているようだ。
「それで……分かりました……すぐに……はい」
先程よりは冷静になったらしく、浅葱の声量は落ち、それ故にぼそぼそとした会話が聞こえる。それでも、その声の響きから、何やら只事ではなさそうだと宗次郎は悟る。
事実、やはりそうらしかった。何やら診療室の方でばたばたしている気配があったかと思うと、浅葱と
が揃って慌てた様子で、中庭の方へと顔を出した。医療用の着物の上に簡素に羽織を羽織った姿で、双方共に薬箱を手にしている。
宗次郎は鉈と薪とを手放して、ゆるりと立ち上がりながら尋ねた。
「何かあったんですか?」
「火事だよ!」
浅葱が切迫した様子で返した。
「それも町の外れの、長屋で……! 相当の数の人が焼け出されてるらしい」
「成程、それで救援要請が来たんですね」
何日か前の会話を宗次郎は思い出していた。近頃、隣町で火付けが多いと。有事の際は治療に協力を頼むと。怪我人を向こうからこちらに運んでいたのでは間に合わない、だから診療所の人間の方から出向いて欲しい、恐らくはそんなところだろう。先程の男性は、それを知らせに来たわけだ。
「人手がいるんだ。お前も頼む」
「いいですよ」
宗次郎はあっさり頷いた。柄じゃないが、居候している家の家長の頼みだ、断る謂れなど無い。
浅葱は次に、ちらっと縁の方を見た。縁は無視を決め込んではいるが、この会話をしっかりと聞いていたのは確かだった。
「あんたも来てくれ」
「何で俺が」
思いっきり不満顔の縁に、浅葱はらしくなく苛ついた様子で言った。
「聞いてただろう、怪我人が大勢いて、人手がいるんだ。手は少しでも多い方がいい」
すべての理由はそこにある、しかし縁は素っ気なく言い放った。
「俺には何の関係も無い話だ」
「なっ……」
耳を疑うような台詞に浅葱は絶句した。
本当は、こんな問答をしている時間すら惜しい、しかし状況が状況だ、助太刀は一人でもいた方がいいのだ。もう縁の体は大方癒えている。十分に戦力になる。
浅葱は気を取り直すと、負けずに縁に言い募る。
「そうかもしれないけど、一大事なんだぞ!? 少しくらい手を貸してくれたっていいだろう!」
「嫌だ。何故俺がそんなことを」
「嫌だとかそういう問題じゃないだろ、緊急事態なんだ、少しは協力、」
「断る」
「あんたな……!」
浅葱からしてみれば、この期に及んでの縁のその発言は信じられなかった。すんなり手を貸してくれるとは考えてはいなくても、もっと、こう……別の反応が帰って来るものと思っていたのだ。しかし、どこまでも自己中心的で、人道に背いたこの言動―――。医術を志す者として、いや、単に個人として、浅葱は憤慨せずにはいられなかった。
「…縁さん!」
埒のあかない問答を遮ったのは
だった。
いつになく怒ったような、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「どうあっても、手を貸すつもりは無いと?」
「さっきからそう言っている。何度も言わせるな」
「……っ」
宗次郎がおや、と見ている間に、
はつかつかと縁の近くまで歩み寄った。
言う前に一瞬だけ、躊躇した素振りがあった。しかし
は構わず言った。
「こんなこと、言いたくないですけど……縁さんも、ご家族の方を亡くされてるんですよね!? 寝言だったけど、前にはっきり仰ってました」
「……お前、」
縁の表情が目に見えて変わった。逆鱗に触れた、その表現は大袈裟ではなかった。周囲の空気すら、一瞬で凍りついた感覚さえあった。
宗次郎も浅葱も初耳だったが、
が言っていることはどうやら真実であるらしい。縁の反応でそれが分かる。
その縁はゆらりと立ち上がると、、
をこの上も無い冷たい瞳で見下ろす。
肌を無数の針で突き刺されるような迫力に、
はやはり僅かに言葉に詰まったが、自分の思いを吐き出す方を優先した。
「なら、犠牲になった方を少しでも多く助けたいっていう気持ち、分かっては貰えませんか!?」
酷いことを言っているのは分かっている。それでも、誰かを喪った痛みを知っているのなら、違う誰かを助ける為に力を貸して欲しい―――。
縁の凍てついたような心へ向けての、
の精一杯の叫びだった。
人と関わるのを好まない縁にも、何事にも無関心なような縁にも、確かに家族がいて、そしてその人を亡くして悲しみ、苦しむ心は確かにあるのだ。だから、だから……。
それを受けてもなお、縁は変わらず
を睨みつけていたが、体の方は指一本も動かさないままだった。
それが却って、緊迫感を生み出していた。何かがぴんと張りつめる中、
は強張った表情で、浅葱は何事かを言いた気に、そして縁が
に何かを仕掛けるようならすぐに対処できるようにと、宗次郎の左手はごく自然にごく静かに天衣の鯉口の辺りを握り締めて。四者四様の面持ちで、縁はまだ、身じろぎもせぬまま。
「……分かった。もういい」
しばしの無言の後に、言い切ったのは浅葱だった。
「俺達だけで行ってくる。残るなら残るでちゃんと家にいろよ」
こうも梃子でも動かないとあらば、これ以上無理強いをしても仕方ない。時間も無いのだ。頑なな縁に閉口したのもあるが、そのせいか浅葱は突き放すような口調になっていた。
いち早く踵を返し表門の方へ行く浅葱に続き、複雑そうな顔で縁を見ていた
もまた去っていった。去り際に縁に頭を下げ、「ごめんなさい」と、か細い声を一つ残して。
二人を大人しく見送ったままの宗次郎は、縁を見た。
俯き、立ち尽くしている縁。真白い前髪に邪魔され、今やその表情は窺えない。宗次郎は彼に無理を言う立場でもないし、彼がこういう構えならそれはそれで、ここは何もできそうも無かった。
(……もし、昔の僕だったら)
その姿にふと思った。
もし、弱肉強食だけを信じていたあの頃の自分だったら、こんなにあっさりと浅葱や
に協力していただろうか?
答えは恐らく、否だ。
『あぁそうなんですか、大変ですね』―――そんな風にでも言って、関心すら持たなかった筈だ。縁のことをどうこう言う筋合いはない。
「じゃあ、留守の間頼みますね」
だから宗次郎はごくごく簡単にそれだけを告げて、兄妹と同じように出て行こうとしたのだけれど、
「…待テ」
不意の制止に、振り向くこととなった。
先程までの、激しい怒りはどこに行ったのか。縁は、宗次郎でも驚くくらいに静かな顔になっていて―――それは虚ろといった方が正しいかもしれない―――、そしてその、どこか心ここにあらず、といった風な顔で、言ったのだ。
一体、何がどうなってここまで気が変わったのか、宗次郎には分かる筈も無かったのだけれど、とにかく。
低く、乾いた声で、
「俺も行ってやる」
と。
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