―第七章:独白―
俺にとって、姉さんはすべてだった。
姉さんが死んだ時から、俺は姉さんを殺したあの男―――緋村抜刀斎への復讐を果たすことばかり考えて生きてきた。
上海で飢えや病に倒れ、死にそうになった時でも、抜刀斎への恨みつらみを糧にして俺は生き延びた。
あいつは姉さんから許婚を奪った。
あいつは姉さんから命を奪った。
あいつは俺から姉さんを奪った…!
許さない。絶対に許さない!!
その思いが俺を幾度となく死から引き戻した。
姉さんの仇を討ち、あいつを生き地獄へ叩き落すことこそが、俺の、そして姉さんの無念を晴らす一番の方法だとずっと信じていた。
一度は、人誅は叶った。
屍人形とはいえ、抜刀斎にとって一番大切な存在である神谷薫の死を見せつけて、大事な人を己が手で守れなかった苦しみを、あいつに篤と味合わせることができた。そのままあいつは、自分の無力さを痛感し大切な人間を喪った悲しみに押し潰されて、生き地獄のどん底でそのまま野垂れ死に、人誅は真に完成する―――筈だった。
あいつはくたばらなかった。生きて、また俺の前に姿を現しやがった。
それで分かった。生き地獄などでは生ぬるいと。俺のこの手で殺し、本物の地獄へあいつを突き落とすこと、それこそが姉さんの本当の願いだったと。
そうすれば俺の中の姉さんは、また微笑ってくれる、と。
俺はすべてを賭けてあいつに挑み……そして敗れた。あいつに死罰を下すことは、姉さんの願いを叶えることは、できなかった。
そのまま俺は警察に連行されたが、神谷薫に引き留められた。随分と古い雑記帳を渡された。
警察の船の独房で、俺はそれを読んだ。読み進めていくうちにその雑記帳の正体に気付いた。これは、姉さんの日記帳だ…!
几帳面な姉さんは、そう言えば家にいた頃も良く日記を書いていた。何冊もあった筈だったが、戊辰戦争で家ごと焼けた筈だからもう残っちゃいないだろう。
何故あの女が持っていたかは知らないが、これは恐らく姉さんの唯一の現存する日記帳だ。
一文字一文字丁寧に書きつけた姉さんの文を、俺は時折指でなぞりながら読み進めていった。この中には姉さんがいる。過去の姉さんの想いが綴られている! 俺は久方ぶりに姉さんに触れたような、そんな気持ちだったんだ。もう、十数年振りに。
始まりは元治元年、四月。江戸での俺達家族との穏やかな暮らしの様子と、京都に行った許婚を案じる文が並んでいた。姉さんの優しい人柄が、文章から伝わってくる…胸に染み入るようだった。
しかしそれから僅か数日後、事態は一転した。思えばあの日からだった、俺達の何もかもが変わってしまったのは。姉さんの許婚・清里明良が、京都で何者かに殺害されたとの報せが届いたのだ。
あの時の憔悴しきった姉さんの姿は、今でもよく覚えている……。
俺は、本当は姉さんを嫁に行かせるのなんて嫌だったけれど、姉さんは清里のことを話す時、本当に幸せそうな顔をするんだ。清里は姉さんにとって幼馴染だったから、俺も良く知っていた。清里は文武共に才がなくて、穏やか過ぎて些か頼りない印象だったが、優しい男だったのは確かだった。だから、俺も渋々折れたんだ。ちょっと憎たらしいけど、こいつだったら少なくとも姉さんを泣かせたりはしないだろう、と。
それなのに、その清里は死んでしまった。姉さんはその清里を失った悲しみと、そしてそれを引き起こしたのは引き止められなかった自分のせいではないのかということを、日記に綴っていた。涙、だろう。文字が時々滲んでいた。それまで丁寧だった筆致も、この日ばかりは乱れていた。
日記を追いながら、俺も当時のことを思い出す。清里の死の真相を知るために、姉さんがほとんど身一つで家を飛び出していったこと、京都中で事情を聞きまわったこと。そのうちにそれが幕府の人間の目に止まり、闇の武の連中の元へと連れていかれ清里を殺したのは抜刀斎という男だと知らされて、そしてその男を殺す策略に身を委ねたこと―――。
抜刀斎の弱点を探るために、姉さんはその憎い敵のところへ自ら身を寄せた。負の感情を懸命に押し殺しながら抜刀斎やその他の連中と接していたんだろう、きっと。
抜刀斎という男が想像以上に若くまだ元服前の少年であること、そうでありながら人を無残に殺めることを平然とこなすこと、そしてそれは長州藩筆頭桂小五郎の掲げる“狂”の正義の先鋒として成しているというそのこと。この辺りは、姉さんの、抜刀斎への憎しみと、抜刀斎もまた己の立場に準じた行為を行っているに過ぎないという、そのことへの葛藤が記されていた。それでも許婚を奪ったことに変わりは無いと、それでも平素はごくごく普通の少年であると、そういったことへの、迷いも。
姉さんは揺らぎ始めていたようだった。復讐のために近付いたのに、抜刀斎がその復讐に値するような、そんな極悪非道の男では決してないのだと。むしろ、関われば関わる程に、人斬りをするのにはあまりにもそぐわない優しさを持った男であると知ったのだと―――。
初めは見せかけだけの共同生活だった筈が、いつしか姉さんもそんな仮初めの暮らしの中に穏やかさや温かさを見出すようになってきていた。憎しみを心の奥底に秘めながら、けれどそんな姉さんの思いに抜刀斎は気付かぬままで、だからこそ惜しみない情を注いでくれて、そしてそれを幸せだと思う自分もまた、いるのだと。
吐き気がしそうだった。
俺の知らない姉さんがこの日記帳の中にいた。
姉さんは清里の仇を討つために敢えて仇敵のところに潜り込んだ、そんな高潔な姉さんを俺は密かに誇りに思っていたんだ。抜刀斎を油断させ、内に取り込む、そうして確実に仕留められる機会を待つ、そういった手筈だったのに、これではまるで、まるで―――。
決定的だったのは、どうやら俺の来訪のようだった。確かにあの時の姉さんは、抜刀斎への天誅をどこか渋っている風だった。悪いことに手を染めるなと俺を言い含めてはいたが、その実、憎い仇である抜刀斎を庇うかのようでもあった。
日記帳の最後の日付になってしまったその日は、一番長く書きつけてあった。雪代家にとって大切な長男である俺を悪事に巻き込んでしまったことへの後悔、一人残されてしまった父を案じる言葉、清里への確かな思いの丈と詫びの言葉、そして、あいつへの……抜刀斎への、姉さんの本心。
『この人は私の幸せを奪った人。そして、もう一つの幸せをくれた人。
これから先も人を斬り、けれどその更に先、斬った数より大勢の人を必ず守る。今ここで決して死なせてはならない―――』
実際はもっと固い言葉で書いてあるが、口語にするなら、多分そんな風だった。
『さよなら。私が愛した、二人目のあなた』
そしてそこで、日記は終わっていた。
俺は眩暈のようなものを覚えた。手がどうしようもなく震えていた。それでも最後の紙面を繰り返し読んで、姉さんの最後の一文の意図をすくい取ろうとした。
別れの言葉。それが意味するのはつまり、俺があの文を投げ込まなくても、たとえ抜刀斎が闇の武を殲滅できたのだとしても、きっと姉さんはそのまま、抜刀斎の前から姿を消すつもりだったということだ。
姉さんは清廉な人だった。仇にほだされてしまった自分自身に対して許せぬ気持ちと、清里にも申し訳なく思う気持ちはあった筈だ。
まさか、ずっと騙していた抜刀斎に対してさえ? だから静かに去ることを選ぼうとしていたとでも?
そこまで…そこまで姉さんは、あの男を……?
ここに記されているのは事実なのか? 姉さんの本当の気持ちだというのか? それ程までに姉さんはあの男を、抜刀斎のことを愛していたとでもいうのか…!?
愕然とした。
だったら、俺が今までにしてきたことは? 姉さんの恨みを晴らすために、姉さんのことを想って俺がしてきたこと、抜刀斎に己の犯した罪深さを思い起こさせじわじわと追い詰めるようにして周囲から切り崩し神谷薫の疑似的な死を突きつけ生き地獄にそのまま突き落し!! そういったことすべて!! そのために上海マフィアの頭目にまで上り詰め多くの邪魔者を蹴倒してきたことも、そういったこともすべて!!
…姉さんは、望んでいなかったとでも? むしろ抜刀斎には苦難の中でも生きて、多くの幸せを守って欲しかったと? 抜刀斎が、自分にしてくれたように?
嘘だ。そんなのは全部嘘だ。ここに書かれているのはすべて嘘偽りだ。姉さんが許婚を奪った抜刀斎への恨みが薄れ逆に思いを寄せるようになったなんてことも、みんな出鱈目だ!
けれど、いくらそう思っても、ここに記されているのは確かに姉さんの字で、生きていた姉さんに触れられる最後の物で、嘘だ嘘だと思いながらも俺は、この日記帳を破いて捨てることも、手放すこともできなかった。
『縁。あなたはどうか私と違って、真っ当な人生を送って下さい。雪代家の次期当主として相応しい生き方をし、父上のことをよく支えて下さい。それが私の願いです』
姉さんが俺に向けて遺した、最期の言葉だった。
いつかこの日記帳が俺の目に触れることを願って残したのか、そうでなくても弟である俺の身を単に案じてくれたのか、今となっては、姉さんの本心は分からない。けれどやはり、日記に遺ったこの文が意味するのは。じゃあ、俺が今までにずっとしてきたことは……!!
俺はただただ困惑した。
そして姉さんに会いたくなった。無性に姉さんに会いたかった。
無我夢中で、俺は警察の船から脱走した。姉さんの眠る墓に参った。花を供えて、ひたすらに祈りを捧げれば姉さんはまた笑ってくれるかもしれないと思ったのに、……それでもやっぱり、姉さんは笑ってはくれなかった。
手を合わせて姉さんのことを思い起こしながら、もう一つ思い出す。十一年ぶりに参った姉さんの花には、菊の花が供えてあった。抜刀斎が供えた、という事実が気に食わずその時は踏み潰してしまったが、今は思う。少なくとも墓に花を供える程度には、抜刀斎は姉さんが死んだ後もなお、姉さんのことを想っていたのだということを―――。
姉さんを喪ってから、俺は抜刀斎に復讐したい一心で生き延びた。しかしこの日記を読んでから、俺はそれすらも失ってしまった。
もう、生きる理由も目的も何も無い……。
あんなに抱いていた筈の抜刀斎への憎しみまで、以前のように猛々しく燃え上がったりはしなくなった。むしろそれこそが俺を突き動かしていたのだと、消え失せてから気付く。
姉さんが抜刀斎を愛していたのだということ、そして恐らく抜刀斎の方もまた姉さんをしかと愛していたのだということ、それ故に姉さんは俺に復讐など決して望んではいなかったのだろうということ……認めない、そんなこと本当に認めたくなどないのに、それでも俺はその証拠である姉さんの日記帳を、あれからずっと、持ち続けていた。
姉さんがあの男を愛していたというのなら、あの男が姉さんを大切に思っていたというのなら、何故あの男は姉さんを斬ったんだ? 思い出したくない、けれど嫌でも何度も思い浮かんでしまうあの一瞬、雪降る中で、姉さんが抜刀斎に斬られたあの瞬間……。ああそうだ、よくよく思い出してみれば、姉さんが抜刀斎を身を張って庇ったようにも見える、けれどそれは本当に? 姉さんはそこまでしてあの男を守りたかったのか? 己の命に代えても?
…分からない、分からないよ姉さん。俺にはもう、何が正しいのかも。俺にはもう、何も無いんだ……。
そんな気持ちを行ったり来たりしながら、俺はあの人誅以降のこの年月を生きてきた。
時には、京都で出会った気さくな老いぼれがいたような、落人群に腰を落ち着けることもあった。しかしいずれも長居はしないで、俺は当てもなくふらふらと渡り歩く放浪生活を送ってきた。姉さんの日記帳と、ほんの少しの荷物だけを手に、結局は生きる理由を見い出せぬまま、いっそいつどこで野垂れ死んでも構わないと、そういった気持ちで。
姉さんを亡くした後の苛烈な十数年とはまた違う、今度は空虚な生き地獄だった。
そしてそれは続いていた筈だ、あの日、あの二人連れに会わなければ。この家に連れてこられなければ。
ここにいるのは、変わった奴ばかりだ。
変にお人好しの兄妹に、あいつにどことなく似た流浪人。
瀬田とかいうその男は、抜刀斎とは別人だと頭では分かっている。髪の色も、顔立ちも声もまるで違う。ただ、優男だとか、柔らかい物腰だとか、何より流浪人だという共通点だとか…雰囲気がどことなく、そして人物像の輪郭がそれとなくあいつに重なる。
血の臭いがする癖にへらりと笑う。まずそれが気に食わなかった。まだいかにもな悪人然としていればいいのに、逆に泰然として穏やかな様があいつを嫌でも思い起こさせて、余計に俺の神経を逆撫でする。
抜刀斎のことなど、もう考えたくは無かった。なのに、死の臭いが染み付く程に多くの人間を殺めておいて抜け抜けと安穏とした生活を送っている、そんな様がどうしても、抜刀斎を連想せずにはいられなかった。瀬田の経歴を知っているのか知らないのか、あの兄妹も変に理解者面して周囲にいる辺りが、また抜刀斎を思い出す。
数日前のあの日は、十何年ぶりに出した高熱のせいか、頭が酷く朦朧としていた。
飄々とするそいつがとにかく癪に障った。今でこそ鎮静化しているものの、長い時の中で積もりに積もった抜刀斎への激しい怒りや恨み、憎悪がそれで爆発した。抜刀斎が瀬田に重なって見えた。姉さんを殺しておいて、俺から姉さんを奪っておいて何事も無かったかのように『次』の人生を送っているあの男、抜刀斎が。
瀬田とかいう男も同じだ、抜刀斎と。人殺しの癖に、そんな過去など無かったかのように『次』の居場所でのうのうと暮らしやがって…!!
目障りだった。久しく俺を突き動かすこの激情が、抜刀斎に対してなのか瀬田に対してなのか、どうでも良かった。ぶれて見えた抜刀斎ごと、そいつを排除してしまいたかった。ただ憎かった。
誤算だったのは、瀬田が反撃に出たことだ。初日に足払いをかけられた時も感じたが、こいつは予想以上に闘い慣れしてやがる。俺の体を蝕む高熱が、徐々に俺から攻撃する気力や体力を奪ったのも災いして……意識もまた、沈んでいった。憤怒も霧散する中で、ちらついていた抜刀斎の影がようやく離れていった。
そうだ、俺が憎んでいるのは抜刀斎だ、この男じゃない……。別人だ。分かっている。
似ている部分がある、それだけだ。そして俺は単に瀬田のその部分が不愉快なだけだ。俺に抜刀斎の幻影を見せつけるような、そんなところが。
あのふざけた刀もそうだ。逆刃刀もどきの鈍刀。あんな偽善の刀なら、持っていない方がマシだ。また抜刀斎との共通点だ。イライラが募る。
違っていたのは火付きの度合いか。涼しげな顔をしておいて、俺の敵意を察するや否や、躊躇い無く刀を抜きやがった。俺があと一歩踏み込んでいたら、奴は寸止めなどせずに振り切っていただろう、間違いなく。そう思える程の抜刀の速さだった。抜刀斎よりも余程、こちらに遠慮がない。
ただそれでも、俺がそんな風に害意を示していてもどこまでもあっけらかんとしているのは、妙と言えば妙だった。斬撃を加える意志はある割に、それに闘気や剣気といったものはまるで乗っていないのだ。火付きの悪い抜刀斎でも、最低限のそれらは伴っていたぞ。
あれだけの揉め事があったのにまた普通に話しかけてなんかきやがって、……単に鈍くて阿呆なだけか。
ヘラヘラと、まだヘラヘラと笑っていやがる。ああ癪に障る。何でそうも笑っていられる。たくさんの人を殺しておいて。俺が姉さんをあいつに奪われたように、お前もまた誰かから誰かを奪っておいて。何の悩みもなさそうな顔をして、どうしてそんなにも平然と―――!
……しかし話を聞いてみれば、呑気なあの様とは裏腹に、腕相応の修羅場を潜って来てはいるらしい。
詳しい事情を知る気はないが、人殺しの経験も相当に古くから積んでいるようだ。
八歳。
俺自身のその頃を思い起こしてみれば、姉さんがいて、姉さんの嫁ぎ先も決まっていなくて、穏やかで幸せな日々だった気もする。そんな時分に、瀬田はとっくに人を殺していたわけだ。
まぁ、幼さに驚いたのは確かだが、そいつの過去などどうでもいい。
ただ、挑発と詰問と一握りの好奇心とで、人を殺して後悔はしていないのかと、俺が投げかけた言葉に、そいつはこう返した。実にあっさりと。やはり笑ったままで。
『してなかったら、この刀は持ってませんよ』
……裏を返せば、後悔しているからこそ、あんな妙な刀を持っているというわけだ。
後悔、しているのか。こんなヘラヘラした奴が本当に。
『あなたこそ、どうなんです?』
逆にそんな風に聞いてきやがった。
自分自身のことよりも、何故か抜刀斎を思い出した。抜刀斎も、人を殺めたことに後悔していたから、あの刀を持っていたとでもいうのか?
多くの人を殺めておきながら今度は人を守るための刀だなどとほざき、偽善と自己満足を振りかざす抜刀斎を俺は許せなかった。
じゃあ、姉さんを殺したのは何だったんだ? 何で姉さんを守らなかったんだ!?
それとも姉さんを殺して後悔したから、そんな理屈を振りまくようになったのか…?
分からない。分かりたくもない。
何故ならそれが本当なら、抜刀斎が姉さんを殺して己のそれまでの生き方を変える程に酷く深く後悔したというのなら、あの男は真に姉さんのことを―――。
理解、してたまるか。
思考がまた、堂々巡りをして止まる。ようやく俺の元へと帰って来る。俺は、抜刀斎に己の罪を悔いることを強いた。己への罰を、深く深く受け止めることを強いた。
なら、俺は? 俺自身は?
上海という魔都で生き残るために、マフィアの世界でのし上がるために、俺も数多くの人間を犠牲にしてきた。そこには何の感傷も無かった。俺の目的を達成するために邪魔となる人間を消した、それだけだ。
死ぬわけにはいかなかった。姉さんの仇を討つまでは、俺の恨みを晴らすまでは。俺の障壁となるものを取り除いて、何が悪い?
十一年前の、孤島での決闘の時もそうだった。いつまでも俺の周りをうろうろと纏わりつく目障りな黒星、ただでさえ気に食わなかったのに、そいつが神谷薫を殺そうとしたのを見て何故だかとてつもなく不快になった。俺は黒星を消し去ってしまいたかった、いつも邪魔者にそうしてきたように。
だが、それを止めたのは、よりにもよって抜刀斎だった。もう人が殺すのも殺されるのも御免だ、と、そう言っていた。多くの人間を、姉さんを殺めておきながら、そんなことを……。
―――立場は違っても、俺と抜刀斎は、人殺しであるという一点は同じだった。
放浪していた長い月日の中で、次第にその事実にも、俺は気付き始めていた。だが、今更そんなことに気付いても、どうしようもない。俺が生き残るためには必要だったことだ。抜刀斎に自ら天誅を加えるためには、必須だったことだ。だから俺は邪魔者を単に消したことに、悔いなど微塵も無い!
……ただ。
姉さんの日記の中の想いが本当なら、そんなことは姉さんは望んでいなかったということになる。俺が、今までに姉さんのためにしてきたこと、姉さんのためと言って人が罪と呼ぶことを俺のこの手で重ねてきたこと、抜刀斎に罰を下すこと、そういったこともすべて何もかもが、実は意味の無い、ことだったのだと……。
まただ。結局はそこに行きついてしまう。この十一年幾度も茫漠と考えて、答えの出ぬまま、問いかけだけをひたすらに繰り返した思考。姉さんが望んでいないと知ったから、そしてそこまでの気力ももはや湧いてこなかったから、人を殺すことだけはやめていた。……抜刀斎に止められたからではない。断じて。
それでも何度も同じ考えが巡るばかりで、だから積極的に考えることももう長らくなかったというのに、―――ここに来てから、何かとまた考えなくてはいけないことが多過ぎる。
姉さん。
俺は一体、どうしたらいい?
「あれぇ、
さんどうしたんです、お餅なんて持って」
……間の抜けた声に頭痛がした。
人が姉さんに思いを馳せている時に水を差しやがって、こいつは……!
一睨みしてやったが馬耳東風だ。瀬田は難なく流して、この家の娘との会話を続行する。
この娘は、あの時の姉さんと同じく十八だと聞いたが、姉さんよりも随分と幼く見える。顔立ちもまだまだ小娘のそれ、といった印象だ。仕草や立ち居振る舞いといったものはそこそこ見栄えはするが、やはり姉さんとは比べるまでも無い。
娘は俺の視線に気付いたのか、困ったような笑い顔で小さく会釈をしてきたので、俺は顔を背けてやった。兄共々、何かとお節介を焼いてくるが、慣れ合うつもりはない。
昨日は随分と、人のことを無防備に信用してくれたものだ。こっちの思惑も知らずに……俺を馬鹿親切に保護してくれていた、あの家族を思い出す。
「ある患者さんがね、いつものお礼にってくれたの。今日も寒いし、焼いて食べたら体が温まるんじゃないかなあって」
「へぇ、いいですねぇ。じゃあ早速七輪用意しましょうか」
瀬田はいそいそと台所の方角へ向かったようだった。それは実にご機嫌といった風で、……こいつ本当に、自分の罪を重く感じていやがるのか? どう見ても平穏に慣れ親しんでいて心底楽しそうな様子にしか思えない。
「縁さんも、食べます?」
一人残された娘の方は、俺のいる縁側までわざわざ近付いてきてまた余計な世話を焼いてきた。
俺の口から、自然と溜め息が漏れる。
冬の、柔らかな陽の光と乾いた空気にさらされるのは、冷静に思考を巡らせるのにも逆に何も考えずに漠然と時を過ごすのにも都合が良かったからそうしているのに、それすらも満足にできやしない。
庭掃除やら洗濯やらで、気付けば瀬田がうろちょろしているし、兄妹の方もまた診察の合間を見ては何かとこっちにやって来る。
兄の方は、
「どうだ? 調子は」
「……」
「ま、起き上がれるんならいいんだろうな。体が冷えてきたら部屋に戻れよ」
こんな調子で、俺が無言を貫いても一声かけるだけで満足なのか、たったそれだけで去っていく。
……そういえば、いつ以来だろう。こんな風に誰かと会話するのは。人と接するのは。人に関わるのは。
きちんとした寝床で眠ったり、ちゃんとした食事を取ったり、風呂に浸かったり、そういったごく普通の、有り体にいえば人間らしい暮らしをするのも、随分と久し振りだった。もう何もかもどうでもいいような……そんな気持ちで放浪していたというのに、それなのに何故、俺は今更こうした時間を甘んじて受け入れているのだろう? この家を出ていくことは至極簡単なことなのに、俺はそれをしないでただ何となく流されるままに居ついてしまっているのだ。まるで仮宿を見つけた野良猫のようじゃないか。
「あの…」
娘は俺の返事を待ってか、先程と同じような顔をして立っている。
返事が無いなら、さっさと諦めればいいものを。
「……多めにあるならな」
「! 大丈夫です、ちょうど四つありますから!」
娘の表情がぱっと華やぎ、「良かった〜」などと口にしながら身を翻し瀬田の元に向かう。纏めていない黒髪がふわりと靡く。俺の思い出の中の、決して歳を取ることのない姉さんと同じような、若い娘であることの証。もっとも、姉さんの髪の方が、ずっとずっと長かった。
それにしても、また、だ。自分自身でも予想外の態度を取ってしまった。別にこれといって腹は減ってないし、餅を食べたいわけでもない。
…まぁ、いつまでもあの面でこっちを見られるよりはマシだろう。
「じゃあ、早速焼きましょうか」
「うん、気を付けてね」
瀬田と娘はそんな会話をしながら、七輪で餅を焼き始めたようだった。笑顔を突き合わせて話をしている様子に、俺はふとあの二人を思い出す。
抜刀斎と、神谷薫。
……あの二人も、まだ神谷道場でこんな風に、仲睦まじく暮らしているんだろうか……?
あんなにも憎んでいた筈なのに、孤島での決闘以降、俺はこの十一年神谷道場を一度も訪れることは無かった。あんなにも猛々しい怒りを抱えていた筈なのに、何故か俺はそれを奴に再びぶつける気にはなれなかった。
おおよその居場所は分かっている。あいつがまだのうのうと生きていることは分かっている。それなのにこの足は、そちらへとは向かおうとはしない。まだここで立ち止まることを、選んでいる。……それがどうしてなのかは、俺自身にも分からない。
俺がぼんやりとしている間にも、餅は焼き上がったようだった。瀬田が呼んだのか、兄の方もやってきた。娘が餅を箸で取って小皿に乗せて、醤油をかけた上で俺に寄越そうとしているのが、横目で見える。俺は多分、何だかんだと悪態をつきつつも、それを受け取ってしまうんだろう。
この家に満ちた空気は、姉さんがいた頃の俺の家にあったものに少しだけ似ていて、俺が初めて殺した人間達の家の、それにも似ていた。
構われるのが鬱陶しい。
だが差し出される厚意はどこか懐かしく、……だから完全に振り払えなかった。認めたくはないが、少なからず居心地の良さはあった。
そして、それを遥かに超えた苛立ちも。
それは俺自身に対してなのか、抜刀斎に対してなのか、抜刀斎にどこか似たあいつに対してなのか、分からなかった。
ただ。
今の、俺の中の姉さんは不思議と、穏やかそうな顔をしているんだ。
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