―第六章:咎人の同志へ―



名残り雪すらもとうに消え去った中庭。
夕暮れの茜色が空から降りしきる冷たい空気の中、いつもの書生姿で首に襟巻を巻き付けた宗次郎は、竹箒を手にいつもの如く庭の掃き掃除をしていた。枯れ葉を集めながら時々ちら、と見遣るのは、縁側にぼんやりと腰かけている縁だ。
彼がこの診療所に入院してから、既に一週間が経過していた。体はもう大分本来の調子を取り戻しているようだったが、気力の方は回復していないらしい。とりあえず、外の空気に少しは当たらないと身体に毒だから、と浅葱や が昼間の比較的暖かい時間帯に日光浴を薦め、縁はそれに大人しく従ったかと思えば、このように日がな一日縁側に座って過ごしているのだった。俯く表情からは、縁が何を考えているのかは伺えない。もしかしたら、何も考えていないのかもしれなかったが、とりあえず宗次郎は、
(…一日中ぼーっとしてて、退屈じゃないのかなぁ、この人)
などと、そんな感想を抱いていたりする。もっとも、攻撃を仕掛けられるのよりはずっとましだったが。
ちなみに浅葱は今、近所の寄合に出ていて留守、 は縁側のすぐ横の和室で繕いものをしている最中だ。 が綻びを直していたのは、縁の風変わりな服である。
「…できた!」
集中力を要する針仕事を長いことしていたからだろう、仕上がったことに は素直に明るい表情を覗かせる。 は藍と橙の色が特徴的な上衣を両手で持ち、広げて出来栄えを満足そうに見やると、丁寧に畳んでいく。それから針や糸といった裁縫道具を針箱にしまい、縁のところまで上衣と洋袴とを合わせて持っていった。
にこにこと笑っていた だったが、縁がじろりと見返してきたことで、それはやや気遅れの混じったものへと変わる。
「…何だ」
「あの、これ、縁さんの服です。やっと直せたので…遅くなっちゃってすみません」
縁は が差し出した服を、黙って無造作に受け取った。
「作りが着物とは違うから、難しくって。もし着た時に不都合があったら言って下さい。また直しますから」
仏頂面で手の中の服を眺めている縁に、 は焦った風に言い募る。縁の反応が薄いのが、 の気まずさを助長させているらしい。
宗次郎はそんな縁と に目を向けたまま、掃き掃除の手を休めずにいた。
先日の互いの一撃の寸止め以降、縁は宗次郎に攻撃を仕掛けてこようとはしなかった。今のように宗次郎がすぐ近くにいても、むしろ見向きもしない。縁は無気力に座ったままだ。
敵意を向けられ続けていた宗次郎だったので、縁のそんな態度の変化を単に不思議に思う。しかしまぁ、何もしてこないならそれはそれで、この家は平和だった。
「…さい、御免下さーい!」
玄関の方からふと誰か男の声がする。客かそれとも、もう休診時間だが急病人でも出たのかもしれない、と は腰を浮かす。
「ごめんなさい、ちょっと行って来ます」
今の今まで応対していた縁に詫びを入れて、 は玄関の方へ足早に向かって行った。縁はまだ服に視線を落としたままで、 を気にも留めていないかのようだった。
そうして彼女が行ってしまったことで、中庭には二人の男のみが取り残される。宗次郎が掃き掃除を終えて、葉っぱの山を取って道具を納屋に仕舞ってきてもなお、縁は俯いたままの姿勢を変えない。
うーん、と頬を指でかいた宗次郎は、妙案、とばかりにこんなことを言い放った。
「縁さん、将棋でも指しません?」
「……は?」
目の前までやってきた宗次郎が予想の範疇を遥かに超えた言葉を口にしたからだろう、何を馬鹿なことを言ってるんだこいつは、といった表情をして、縁は顔を上げた。
「あぁ、将棋じゃなくて囲碁でもいいんですけど、浅葱さん両方持ってますから」
「…どうしていきなりそんな話になる。大体、何で俺がお前と」
気の抜けた能面のようだった縁の顔に、たちまち宗次郎への嫌悪感が浮かぶ。あぁ、いつもの縁さんらしいや、と宗次郎は何だか却ってちょっと安心して、そんな縁には一向に構わずにそのまま彼と間を開けて縁側に腰を下ろした。帯刀していた天衣は、腰紐から外して傍らに置く。久し振りに座った縁側の床板はひやりとしている。
「いやぁ、だって一日中ぼーっとしてて、退屈じゃないのかなぁって」
先程の感想を、宗次郎は臆面もなく言ってのけた。
ずっと何もしないときっと退屈だよね、じゃあ僕も一仕事終わったし、暇つぶしに将棋にでも誘おうかな。ごくごく単純な思考回路である。
どこまでも屈託のない宗次郎に縁は呆けたような表情になって、しかしすぐに難しい顔に戻る。
「…俺に殺されかけた人間は、次に俺と会うと、みっともないくらいに怯えているのが殆どだった。逆にどこまでも卑屈に媚びへつらってきた奴も多い。…俺の強さを知っても、毅然と立ち向かってきた奴らもいる」
こんなにも長々と、縁が宗次郎に話しかけてくるとは何とも珍しい。宗次郎はいつもの笑顔のままで、それに耳を傾けている。
淡々と述べていた縁は、やはり淡々と続けた。
「だが、お前みたいに何事も無かったかのようにヘラヘラしてる奴は初めてダ」
「えー、そうなんですかぁ?」
それは縁にとっては純粋な驚きで、同時に嫌味を込めてもいた。しかし肝心の宗次郎がこうなので、効果は無く空振りに終わった。
宗次郎はそれでもにこにこと笑っている。しかし見る人間が違えば、それは酷く中身のない、薄っぺらい笑顔だ。
そして縁の目にはそんな風な軽薄な笑みとしか映らないらしく、舌を鳴らすと吐き捨てるように言った。
「…何でそんなに、ヘラヘラしていられるんだ」
先程とは似て非なる疑問。義憤よりもずっと、私怨の籠った言葉だった。
またも頭を垂れてしまった縁に対し、宗次郎はやはり笑みを唇に乗せていた。
前に縁が暴走した時にも言われたことだ。その言葉の裏に隠されたのは、『何故人を殺めておいて、そう笑っていられるのか』と、そういった糾弾。
何故いつも笑っているのか。今までに幾度も訊かれた問いでもあった。あの義理の家族達といた頃は、特に。暴力を受けても二コリと微笑み、何を笑っている!とまた殴られて虐げられた。幼い宗次郎は、だから笑っていた。
もう自分が何で笑っているのかすらずっと見失っていて、他人の心にも自分の心にも酷く鈍くなってしまっていた。いつも笑うことや、何事に対しても深く考えないようにすることもとっくに当たり前になっていて、今ですら以前と変わらない、そんな部分も大きいのだけれど。
だから縁のその問いは、宗次郎の一つの起点というものを久しく、ことさら揺さぶる羽目になった。
「…もうずっと前に、嫌な時や辛い時、悔しい時は笑うようにしてたんです」
何故、いつも笑っているのか。
始まりはそれだけだった。笑っていれば、義理の家族達からの暴虐が少なくて済む。笑ってさえいれば、どんなに痛くても悔しくても平気だった。笑うということは楽しいということでもあるから、体の痛みも心の疼きもずっと軽く済んだ。
だから笑っていれば。
何があっても、笑ってさえいれば。
「ずっとそうしていたら、いつの間にか、いつでも笑うのが当たり前になっちゃいました」
悲愴感など微塵も漂わせず、逆に本当に明るい調子で宗次郎は言う。
どこまでも朗らかな宗次郎は、過酷な過去があったことも匂わせないくらい不自然な程に完璧な笑顔。だから縁は、どこか不審に思うと共にふと興味を引かれでもしたのか。
相変わらずの気難しい顔に、疑念のようなものが霞んで。いつになく、縁は宗次郎との会話を続行する。
「…お前、初めて人を殺したのはいつだ」
これまた、真っ直ぐな訊き方だった。
宗次郎はやや間をおいて返事をした。
「八歳の時、って言ったら信じます?」
やはり、ふわりと笑う。本当に常に笑うようになったのは、その時からだった。
宗次郎の声音には、重さは含まれていなかった。薄気味悪い程にあっさりしている。
まさかそんな幼い時分に、とは思わなかったのだろうか、縁の目が意外そうに、ほんの少しだけ見開かれた。
「…誰をだ」
「…僕の義理の家族達。僕を殺そうとしたので、それで」
「…つまり、保身か」
「まぁ、そんなところですね。あの時、誰も僕を守ってはくれなかったから。…守ってくれたのは、刀だった」
未だ浅葱や はおろか、剣心にも言ったことのない追憶の欠片だった。昔殺されかけて、生き延びるためには殺すしかなかったと、由美や咲雪にはそんな話をしたことはあったが、それでも『いつ』『誰を』という部分には触れなかった。すべてを知っているのは宗次郎自身と、今はいない志々雄だけだ。
それは奇妙な感覚を宗次郎にもたらした。今までに誰も話したことの無い、話そうと思ったことの無い過去なのに、何故にこうもあっさりと話す気になったのか。
―――多分、それは、縁がある種の共犯者だったからだ。お互いに素性も過去も何も知らない同士、しかし、己の手で殺した人の血で穢れている者同士。だからこそこんなに簡単に世間話のような調子で、けれど本当は物騒で、悲惨な事実を。
「そう言う縁さんは、どうなんですか?」
まったくもって物騒だった。人殺しの経験を軽々しく尋ねる。
そんな真似をした宗次郎に縁は何事かを考え込むような顔をし、それから間もなく、口を開いた。
「俺は…十三か十四の頃だ。行き倒れていた俺を助けてくれた親切な家族を、…強盗まがいの真似をして殺した」
「…それは、また」
なかなかあくどい真似をしたものだ。率直に宗次郎は思った。
助けた者に殺されるとは、その家族もまさか考えもしなかっただろう。
縁も随分と若い身空で人を殺めたようだが、ただ宗次郎と違うのは、彼は積極的に殺しを行ったらしいという、その点だった。
「俺がそんな風にこの家の奴らを皆殺しにすると言ったら、どうする」
試すように、もしくは本気のようにか、縁が言った。それ自体が刃のような問いかけだった。
「勿論そんな真似、僕が許しませんよ」
宗次郎はにっこりと笑う。いつものことながら、台詞と表情が合っていない。
「守る、なんて、僕の専門外なんですけど。浅葱さんと さんに手を出すようなら、僕も容赦はしません」
守るために闘うというのを、今の宗次郎は知っている。しかしあくまでも宗次郎の得意分野は相手を『倒す』ことであり、それが結果的に誰かを助けることになった、という経験の方が多かった。
けれど、縁があの二人に危害を加えようとするならば、宗次郎は躊躇いなく刀を抜くのだろう。その時点で縁を完全な敵と見なして、単に排除するために。或いはそれ以上に、やはりあの二人を守るために。
修羅の面影を滲ませた笑顔に変わった宗次郎を、縁は冷たい色をした目のままで黙って見ている。
水面下の睨み合いの後に、ふと眼光を緩ませると、溜め息交じりに縁は言った。
「…フン、安心しろ。そんなつもりは無い。俺は十一年前から、人を殺すようなことはもう、自分ではしていないからナ」
「あれぇ、奇遇ですねぇ。僕もそうなんですよ」
軽い調子で宗次郎が相槌を打つ。
それは二人に関わったある一人の同じ剣客の、良くも悪くもその影響なのだと、まだこの時の二人は知らない。
けろりと邪気のない笑顔に戻った宗次郎に、縁は奇妙な顔つきになった。こんなにも思考や心理の読めない奴は初めてだ、そんな眼差しを宗次郎に向けていた。
宗次郎の子どもめいた微笑み。満たされているからではなく欠けているからこそ笑っているということを、縁は薄々感じ取ったのか、どうか。
次に宗次郎に投げかけられたのは、こんな言葉だった。
「…お前は、人を殺したことを後悔はしていないのか」
「してなかったら、この刀は持ってませんよ」
即答、とも呼べる速さで返したその声は、凛として響いた。
宗次郎は左手で天衣の鞘に触れる。刃の存在しない刀。逆刃刀以上に矛盾した刀。しかし今の宗次郎の生き方を、写し取ったかのような一振り。
以前、蘇芳に言われた。その刀を持つことは、たとえ刀を手にしていてももう誰も斬ることは無いという意思表示でもあるのか、と。一言で纏めてしまえば、そうだった。
武器としての側面もある、しかし何より、奪ってきた命の重みを忘れぬように。
きっとうんと昔の自分だったら、こんな刀に見向きもしなかっただろう。できそこないの剣だ、と、蔑むこともあったかもしれない。
けれど、人を殺めてきたことへの確かな悔いと、自身にとっての刀というもの。十年かけて探り当てたそれが、宗次郎がこの刀を持つことに帰結している。
「あなたこそ、どうなんです?」
「……」
訊き返した宗次郎に、縁は沈黙を寄越した。宗次郎から顔を背け、真っ直ぐに前を向いた縁の横顔は夕日に照らされ、白い髪は金色の輝きを帯びている。その瞳には迷いや深怨、若しくは悲哀、そういったものがちらついているかのようでもあった。
黙りこくってしまった縁に、宗次郎は小さく笑みを漏らす。ほんの少しだけ自分のことを語ってくれたけど、これじゃあとても さんや浅葱さんには話せないな。そんな風に思っていた。先程の会話からも理解する、互いに血溜まりの中で歩んで来過ぎだと。
宗次郎が何も言わずとも縁がそれに気付いたように、『普通』とはかけ離れた世界で生きて来たと。
ならば無理に知らせて、血溜まりに引きずり込むことも無い、普通の人間を。血みどろの過去を語り合うのは、同じく血塗れの人間だけでいい。
「…あれ、」
しかし はまさにその頃合いに帰ってきた。
不意に降ってきた の声に、宗次郎は、あっちゃあ、と自分達の失敗を悟った(そもそも や浅葱がいつ帰ってくるかも分からない場所でする話じゃなかった)。
が、二人の方へ歩み寄る は、ただただきょとんとした顔をするばかりだ。
「二人とも、もしかして…仲直りしたの?」
「喧嘩してたわけじゃないんですけどね」
「何で俺がこんな奴と」
宗次郎と縁の返答は同時に に届いた。にこやかな宗次郎と忌々しげな顔をした縁の対比に、 はますます首を傾げる。
「でも何でそう思ったんです?」
宗次郎がそう問い返したのは、単に のその感想の理由が気になったからでもあるし、当然、先程の会話の内容が内容であるからである。もしも聞かれていたのだとしたら。
「話の中身までは分からなかったけど、何だかとても…穏やかに話してたみたいだったから」
宗次郎は声には出さずに良かった、と呟く。
に話を聞かれてなかったのは幸運だった。耳にしていたらきっと、腰を抜かすどころじゃない。
まさに知らぬが仏だった。
内容はさておき、争うことなく言葉を交わしていた二人に、 はただただ安心しているようだ。宗次郎も顔負けの臆面も無い笑みを浮かべ、 は二人から少し間をあけて、廊下にちょこんと座りこむ。縁は不機嫌そうにそっぽを向くが、こんな風でも一応、当初に比べれば大分友好的になったように には感じられるらしい。
そうしてこれまた続けて、今度は浅葱が帰宅した。
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま」
早々に縁側へやってきた浅葱と との間で、そんなごく普通の挨拶が行き来する。
しかし不貞腐れている縁と基本笑顔の宗次郎はともかく、 が実に機嫌の良さそうな様子で二人のすぐ近くにいる、というのは一体どうしたわけか。
浅葱はしばし考えて、ふと浮かんだことをそのまま口にしてみる。
「もしかしてそこの二人、和解したのか?」
「してない!」
「う〜ん、それもちょっと違うような」
流石は兄妹。発想が似通っていた。
即刻、縁と宗次郎の両方に否定された浅葱だったが、それでも何となく感じていた。この二人の間に流れているものは、以前のような刺々しい空気とは少し違うような気がする、と。
「あ、そうだお兄ちゃん、寄り合いでは何の話してたの?」
「ああ、それがな」
言いながら浅葱は の隣に胡坐をかいて座った。
「近頃、隣町で火付けが多いらしいんだ。だからこの界隈でも気を付けるように、って。それから、万が一怪我人が出た場合はうちの診療所でよろしく頼む、って」
火付け。要は放火のことだ。
文明開化の世とはいえ木と紙と土でできた家屋が主流のこの時代、火事は人々にとって現代よりもずっと大いなる脅威だった。消防設備も碌に整っておらず、一度建物が火に包まれてしまえば消火は困難であった上に、周囲に延焼を引き起こし惨事は広がった。 それ故に、放火に対する罪は重罪であった。江戸の頃には失火や放火を行った人間に対し、打ち首や火刑といった重い罰が課せられていたことは有名である。
まして今は、空気の乾燥する季節。一度何かに火が付けば、炎は瞬く間に広がってしまうことだろう。
「…物騒ね」
は正直な心境を物憂げな声で漏らした。つい先程負けず劣らずの物騒な話をしていた筈の宗次郎達は、しれっと何食わぬ顔である。
むしろ、京都中を炎で焼き尽くす、というという暴挙に手を貸していた宗次郎としては、ほんのちょっと耳が痛い話でもあったが、その僅かな気まずさは顔には出なかった。
「とにかく気を付けるようにするしかないな。あと、怪しい奴がいたら知らせるように、って、……」
寄り合いでの会話の続きを口にした浅葱は、そこまで言ったところで唇の動きが止まった。思わず見てしまっていたのは縁だった。
宗次郎と も浅葱の視線の先に気付き、彼がふと思ったことの予想が付いた。
そして見られているのが自分だと分かった縁は、振り向いて何事かを言いかけた。
「…あんたは、違うだろ」
縁の発言の前に浅葱は言い切った。かけられた疑いを縁が払う前に、その浅葱が結論を下した。縁の弓なりの眉が訝しげに歪む。怒りを浮かべる暇すらなく、その前に叩き折られた。疑惑の目をした筈のその当人に。
「…身なりとか、挙動とか。確かにあんたは怪しい奴だけど、」
その点は正論だった。異人じみた身なりと髪、剣の達人である宗次郎と互角にやり合える強さ。傍若無人な振る舞い。難儀な性格。この辺りに現れたのもごく最近。怪しい要素満載だった。
それでも浅葱が違うと言い切ったのは、縁はこの診療所で養生し始めてから外には出かけていない、という事実と、ほとんど主観による、直感だった。
「でもその犯人とは違う、だろ?」
それでも何となくその確信があった浅葱に、縁は一度見開いた目をすぐに冷淡に細めた。
馬鹿なことを言う、とどこか蔑みの色を浮かべているようなのに、噛みしめた唇は泣くのを堪えている幼子のようでもあった。
「縁さんに失礼よ、お兄ちゃん」
ほんの一瞬でもそういった発想をしてしまった兄に対し、 は思いっきり非難の目を向ける。
「縁さんずっと家にいるんだし、まだ療養中なのよ。それに、そんなことをする人じゃないわ」
少なくとも親しい家族を失った経験のある人間が、児戯の延長のような真似で軽々しく命を奪うことにも繋がる行為をするとは、 には思えなかった。目くじらを立てて怒る に、浅葱は少し苦笑して降参、のように両手を上げる。
「俺だってただ怪しい奴、ってところに当てはまるなって思っただけで、端から犯人だとは思ってないさ」
「それでも、あんな態度取ったら…縁さん気を悪くするに決まってるでしょう?」
「仕方ないだろ、思い当たっちゃったんだからさ…」
弁解する浅葱と、縁の擁護をする が兄妹喧嘩をしている真っ最中に、宗次郎はその二人には聞こえぬよう、ごくごく小声で縁に耳打ちする。宗次郎の口元に浮かぶのは、悪戯っ子と同質の笑みだ。
「…お二人とも、えらくあなたを信用しちゃってるみたいですね」
「…ちっ」
当然、罪人のこの二人には、そんな援護が逆に皮肉になってしまうこともある。これはまた随分と手厳しかった。至極閉口した、という顔を縁がしているのは、だからこそであった。
「でも僕も、あなたじゃないと思います」
「……?」
破顔一笑。そんな宗次郎に、縁は気取らせないくらいに首を傾げる。
縁の動向、それもある。しかしそのこと以上に、宗次郎は察していた、例えば何かが燃えた時の焦げ臭さだとか、火を広げるには必須な油の臭いだとか、何よりも火の気配、そういったものが無い。
縁の内にあるのはむしろ、白雪に縛られた何か。大きな氷塊が砕け散った時に生まれるような、鋭利な氷の剱。
「あなたからは、火の臭いがしませんから」
蛇の道は蛇。地獄の炎の化身のような人と、宗次郎は長年行動を共にしたのだ。
初日のおかえし、とばかりに宗次郎はこれは意図的に深く笑む。
してやったりといった風な宗次郎に縁は二の句が告げず、代わりに憎々しく毒舌を振るう。
「…どいつもこいつも。この家にいるのはふざけた奴らだ…!」
両の膝にそれぞれの肘を置くような姿勢でやさぐれた縁に、宗次郎はまた小さく笑った。
それから、まだ言い合っている浅葱と の声を背景にして、宗次郎は遠くを見据える。思えば宗次郎にもこんな風に、二人の厚意が逆に息苦しく押し迫ってきた時期があった。宗次郎がまだこの地に流れ着いて間もない頃、 に「あなたはいい人なのね」と思いっきり誤解されて、それはもう大いに笑うしかなかった。「いえ、僕は極悪人です」と誰かさんの真似をして返したら、 にとてつもなく仰天された。今となっては懐かしい話だった。
くすくすと忍び笑いをする。今現在、この家には極悪人が二人もいるのだ。
夜が訪れる前の玉響、輝きを凝縮したような夕日の光が、辺り一帯に注いでいた。それは偶然の邂逅を果たした咎人二人をも、血ではない紅い色で染め上げている。