―第五章:虚空の歌―



噂をすればなんとやら。
宗次郎とがそんな話をしていると、廊下の奥から浅葱がこちらにやって来るのが見えた。ただし、何故か難しい顔をしている。
「おーい、、宗次郎」
「あ、お兄ちゃん、どうしたの?」
のごく普通の問いかけに対し、浅葱はますます眉根を寄せた。縁側に座る宗次郎とを見下ろすようにして、こんなことを言う。
「あいつ、こっちに来てないか?」
「縁さんですか? 見てないですけど」
これまた簡潔に宗次郎が返すと、浅葱は額に手を当てて、はあっと重い溜め息を吐いた。
「こっちが別の患者さん診察してるうちに…あいつ、病室からいなくなっててさ」
「えぇ? またですか?」
浅葱の説明に、宗次郎はどこか素っ頓狂な声を上げた。思い出されるのは、先日の雪の日の出来事だ。あの時も縁は知らぬ間に病室から抜け出し、雪の降りしきる中庭に裸足で立ち尽くしていたのだった。
「今度こそ出ていったんじゃないといいんだが、」
「すみませーん、先生ぇー!」
危惧するような浅葱の言葉を遮る声があった。見れば中庭と往来とを隔てる板塀の向こう、手拭いを頬被りした中年の男性が、慌てた様子で声を張り上げている。確か割と近所に住んでいる人だ、と宗次郎は思い出していた。
「うちの子倅が、転んで頭打っちまってよ。さっきから痛ぇ痛ぇって大泣きしてんだ。悪いけど、ちっとばかし見て貰えねぇか?」
困り果てたという風な男性に、浅葱はすぐさま思考を切り替えて医者としての答えを返す。
「頭か…大泣きしてるんだったら多分大丈夫かとは思うけど、動かさない方がいいな…。分かりました、今そちらに伺います」
「はぁ、すんません」
男性は板塀越しにぺこぺこと頭を下げる。浅葱も愛想よく一礼して、それから宗次郎とに向き直った。
「こんな時に何だけど、急患だからちょっと行ってくる。…悪いけど、後は任せるな」
その表情には縁についても気掛かりだという焦りが混じっていたが、職務を投げ出すわけにもいかない、そんな矜持も含まれていた。
はそういった兄の両方の気持ちが分かる気がした。なので、
「うん、こっちは任せて」
少し自信が無いながらも、笑って頷いて見せた。
それで浅葱も安心したように笑んで、そして医療道具を取りに行くべく診療室へと一旦引き返そうとして…その前に、ささっと宗次郎の側に近付いた。
「何ですか?」
「…くれぐれも、気を付けろよ」
声を潜めそれだけを言い残すと、浅葱は今度こそ診療室に引っ込んだ。ややあって、玄関の戸が開かれる音と、急いで駆けていく足音が響く。
「とりあえず…縁さんの部屋、行ってみる?」
「そうですね」
浅葱が出かけていったのとほぼ時を同じくして、こちらの二人も動き出す。まず向かうのは、縁の病室だ。薬草干しの作業はひとまず中断し、宗次郎は天衣を腰紐に通し、しっかと帯刀する。
やや急ぎ足で廊下を進み、縁の病室の戸を宗次郎はゆっくりと引いた。実は厠に行っていて入れ違いで戻ってきてたりして、という楽観的希望はあっさりと崩れた。浅葱が言っていた通り、やはり縁の姿はそこには無かったのだ。
宗次郎とは部屋に足を踏み入れ、見回すようにして検分する。窓はしっかりと閉められたまま。寝台の上の掛布は、やはり乱雑にめくられたまま。宗次郎はその下の敷布に触れてみた。ほんのりとした熱が伝わってくる。どうやら抜け出してから、そう長い時間は経っていないらしい。
「…また中庭、ってわけじゃなかったし、どこに行ったのかな」
「う〜ん…」
心配そうなの言葉に、宗次郎は小さく唸りながら考える。
二人がつい先程までいた縁側は、中庭も見渡せる。もし縁がそこに来ていたのなら気が付いた筈だ。たとえ彼が気配を消していたとしても、そのくらいならきっと長年の間で見抜ける、筈。
「それとも、やっぱり…出て行っちゃったのかしら」
「いえ、それはないと思いますよ」
の懸念に、宗次郎は即答だった。根拠はある。部屋の隅に置かれたままのボロボロの袋…縁の私物だ。
何日か前に、この部屋の掃除の際にそれを退かそうとしたところ、宗次郎は縁に「勝手に触るな!」とすごい剣幕で怒鳴られた。他者に自分の物を触れられたくないのか、彼にとって何か大事な物が入っているのか、もしくは単に宗次郎が癪に障るからなのか、多分そのいずれか(または全部)だろうと宗次郎は見当をつけていた。
それなのに、以前もそうだったがこうして縁が部屋から忽然と姿を消す時には、その荷物は手つかずのままなのだ。まるで暗に、自分はまだ完全にここを去ったわけじゃないと、示すかのように。
(これじゃあ、捜して下さいって言ってるみたいだと思うんだけど)
そんな感想を抱く宗次郎だったが、実際縁の本意は分からない。
戻ってくる気配も無いし、宗次郎とは他の場所を探すことにした。不便だったが例の禁止令があるので、手分けはせずに二人で同じ場所を。本来ならば別々に探した方が効率はいいのだろうが仕方ない。
それに、自分はともかくが一人でいて縁に何かされたら手も足も出ないから、という理由もまた、宗次郎にはあった。戦力分析的な意味でもそうであるし、それ以外の意味も、その理由には含まれているかもしれなかった。
そんなわけで宗次郎との二人は捜索を続ける。縁が使っている場所以外の病室、診療室、廊下に厠。診療所区域を探し回ったが、縁の姿は影も形も無かった。
「…となると、家の方かな…」
が言う家とは、家の居住区域を指す。それは茶の間であったり、それぞれの部屋の和室であったり(ちなみに宗次郎は和室の一つを自室にさせて貰っている)、台所や風呂といった生活に密着している部分だ。
もしそうだとしたらどうしてかな、と首を傾げるだったが、宗次郎はいつもの如く笑顔である。
「ひとまず、捜してみましょうか」
二人並んで歩ける程の幅の板張りの廊下を進み、まずは茶の間を見てみる。卓袱台や座布団が置かれ、普段食事を取るためのその部屋に縁はいなかった。ついでに台所の方も覗き込むが、やはり無人。
「じゃあ、こっちかな」
は自分や兄の部屋のある方へ踵を返しかけ、あ、と目と口を丸くする。
ちょうどその方向から、白い影が現れた。つんと撥ねた髪や患者用の白い着物の作用か、が久し振りに見るその影の主の立ち姿は尚更長身に見えた。勿論、縁だった。
縁はと宗次郎に気付くなり、ぴたと立ち止まった。は縁と一間ほど間を開けたところまで歩み寄った。
「縁さん! 良かった、こちらにいたんですね」
縁が無事に見つかったことに、は表情を綻ばせ素直な感想を口にする。と、縁は怪訝そうな顔をして首を傾げた。何故そんな反応をするのか分からない、もしかしたらそんな心持かもしれなかった。
「縁さんがいきなりいなくなっちゃって、お兄ちゃんも慌ててました」
「…ずっと部屋にこもってるのが退屈になっただけだ。いちいち大袈裟に騒ぐナ」
時折、縁の言葉にはこのように発音に妙な抑揚が付く。まるで異人が日本語を覚えて間もない時のよう、そんな風にでも表わせた。
言い捨てるような縁の双眸は冷ややかだった。その視線はから、今度はそのやや後方に控えていた宗次郎の方へとつい、と動いた。昨日程ではないが、十分に相手を威嚇する、射掛けるような目つきだった。
「あ、こんにちは縁さん。一日ぶりですね」
けれど宗次郎は、のらりくらりとこんな挨拶をした。言いながら、さりげなくの前に出る。
何だか変な日本語だったが、宗次郎の言うことは事実だった。昨日の一件以来、宗次郎は縁と顔を合わせてはいなかったからだ。あの立ち回りの後、縁はまた熱で寝込んでいた筈だったが、こうして出歩いているところを見ると体調はそんなに悪くはないようだ。心なしか、顔色も随分といい気がする。廊下をしっかと踏みしめて立つ両足にも、ふらつきは全く見られない。
「今日は調子良さそうで何よりです。でも、いくら調子がいいからって、昨日みたいのは勘弁して下さいね」
にこにこと屈託のない様子で宗次郎は続ける。あからさまな敵意を物ともしない宗次郎に、縁の怪訝そうな顔つきがますます色濃くなった。眉を思いっきり顰めている。
「…お前、」
「はい?」
「…変わった奴だナ」
感心、ではなく心底呆れ果てた、というように縁は宗次郎を評した。むしろ侮蔑するような言い草なのに、それでも宗次郎の笑顔は変わらない。
「自分を殺しかけた相手に、何でそんなに無警戒なんだ」
「え〜? 警戒してますよ、ホラ」
宗次郎は天衣の鞘を左手で少し引き上げて、縁に見せる。成程、確かに刀持ちだったが、しかし当の宗次郎がニコニコ飄々ではまったく説得力が無い。
却って二人のやり取りに、傍らのの方がハラハラしてしまう。
「……」
縁が押し黙り、今度は値踏みするような目でその刀を見下ろした。三人分の重さに廊下が軋む音が、ごくごく小さく上がる。
その次の瞬間、縁の掌底が宗次郎に向けて放たれた。掌で空気を切り裂くような鋭い一撃に、宗次郎は即座に天衣を抜刀する。
それは互いに神業のような速さで、けれどその攻撃は互いに相手の体に接触することも無く、まさに触れるその寸前でぴたりと動きを止めていた。縁の掌は宗次郎の額のすぐ前で、宗次郎のその刀身は縁の喉元のすぐ前で。それすらも並々ならぬ実力の持ち主達だけが、成せる技かもしれなかった。
終わってみればまるであらかじめ示し合わせていたかのような、殺陣のような動きだった。しかしそれにしてはあまりにも鋭利で重く、一瞬のうちに弾けて消えた緊張感に、すぐそばで見ていたは思わず二、三歩後ずさる。
「…フン、飾りではないようだな」
先に仕掛けて来た癖に、先に手を引いたのも縁の方だった。大人しく掌底を引っ込めると、喉元の天衣の切っ先を何の躊躇いも無く指で摘んでみせる。
宗次郎もまた、踏み込んでいた右足を後ろに下げた。
「えらく乱暴な試し方するんですね。おかげでさん、すっかり怖がっちゃったじゃないですか」
からかうような口振りで笑って応対しながら、さんに言ったことが早くも前言撤回になっちゃったな、と宗次郎は心の中で舌を出す。
宗次郎の反応を試すだけにしては、随分と威力を備えた一撃だった。それを察知したからこそ、宗次郎も対抗して刀を抜かざるを得なくなった。喉元で寸止めしたのは縁も攻撃を途中で止めたからだが、それが無かったらそのまま刀を振り切っていたかもしれない。
「……」
縁はやはり無言で、自分が摘み上げた天衣の刀身を見続けている。緩く曲線を描いた日本刀の形状。室内の廊下という薄暗い場所においても、鈍く輝く銀色の。
しかし、刀には必須な刃がどこにも見当たらない、天衣とはそういう不思議な刀だった。
「…あの〜、そろそろ納刀したいんですけど」
縁が切っ先を手放さないことに、困ったように笑って宗次郎は言った。とうに抜刀術の姿勢から立ち直ってはいるが、いつまでも縁に刀を捕らえられたままだと、いささか不便である。後ろのがおろおろしている様子も分かったから、尚更だった。
こちらも相当に速くキレのある抜刀術だった割に、闘気も殺気も霞ませなかった宗次郎ののんびりした態度に、縁はますますもって表情を険しくする。
そうして、縁はようやく突き返すように、天衣の切っ先から手を離した。そして小さく舌打ちをする。
「…偽善の刀だな」
それを言った縁の顔には、心底つまらなさそうな何かに苛立つような、簡単に言い表せないそんな複雑な感情が浮かんでいた。
それから、やはり気に入らなさそうに宗次郎を一瞥し、縁はの横を通り抜けてすたすたと廊下を歩いて行ってしまう。向かった方角からするに、また自分の寝泊まりしている病室に戻ったらしかった。
その場にはぽかんとする宗次郎と、呆然とするだけが残された。
「……」
天衣を振り払われるような形となった宗次郎は、珍しく無言のまま刀身を鞘に戻す。鍔鳴りの音が、静かな廊下でやけに大きく響いた。
それでもはっとして、遠慮がちに宗次郎に話しかける。
「あの、宗次郎君、さっきの…」
「あぁ、心配はいりませんよ。お互いに寸止めでしたから」
にこやかに振り向いた宗次郎に、は我慢できずに深く息を吐く。安堵を隠せない、といった顔のに、宗次郎は頭をかいた。
「あはは、早速やり合っちゃってすみません。びっくりしたでしょう?」
「う、うん…」
自信なさげに頷くだが、二人の一撃が互いに決まらなかったことに、正直すごくほっとしていた。
宗次郎と縁との先程のやり取りは、まるですぐ目の前に雷が落ちたかのような、にはそんな感覚だった。
何が起こったのかはその時にはは理解できなくて、彼らが動きを止めてからやっと、二人が互いに一撃を繰り出していたのだと気が付いた。あまりにも速過ぎて何が何だか分からなくて、だからこそ二人が揃って無事と知り、一息吐かずにはいられなかった。
宗次郎と縁がいきなり臨戦態勢を取ったことに驚いたのは確かだが、が茫漠としてしまったのはただ、すぐ近くで交わされた二人のやり取りの凄まじい速さと鋭さと、そんな刹那の攻防に思考と認識がついていかなかったからだ。だからこそ宗次郎の口から先程の経緯が淡白に語られ、はようやく事を受け入れられて安心した。
宗次郎には、の心の中での細やかな経緯は分かりはしなかったが、ただ本当に何の前触れもなく縁と衝突してしまったことで、彼女を相当に動揺させてしまったであろうことは予測がついた。もっとも、仕掛けてきたのはまた縁の方が先ではあったが。
そのように思っていたから、が笑みを取り戻した時は宗次郎もほっと一息、といった気分になったものだったが。
「…何で」
「?」
眉根を寄せて、ぽつりと零れたの声に、宗次郎は首を捻る。はつい先程縁が去っていった廊下の先を見て続けた。もうその方角には誰もいない。
「何で縁さんはあんなに、宗次郎君を目の敵にするんだろうね…」
瞳を不安で揺らすのその疑問は道理だった。
出逢って間もなく、関わりもまだそんなに深くない相手をどうしてこうも毛嫌いするのか…何となく感じ取っていたそのことを、はっきりと眼前で見せつけられてしまった。
宗次郎はこの通りだから、縁の態度にさして動じていないようにも見える。だが、それでもにしてみれば、宗次郎に対する縁の接し方は、冷たくそして敵意に満ちたもの。昨日は縁が暴れてそれで宗次郎が止めたと聞いたが、何だか先程の応酬からすると、先の出来事もそんな単純なものではないような、そんな気がにはしていた。ほとんど勘、といっても良かったが。
「さぁ…、どうしてでしょうね」
の呟きに、宗次郎は肩を竦めてそう返した。
の疑問に関して言えば、宗次郎は本当は昨日のうちにしっかりきっぱりと『貴様の存在が気に食わない!』と縁本人から太鼓判を押されていた。気に入らないと明言されては敵意を向けられるのもさもありなん、といったところだったが、縁が『何故』宗次郎を気に入らないのか、その理由についてはまだはっきりとはしていなかった。
だから誤魔化すような宗次郎の一言も、ある意味本音ではあった。宗次郎自身、縁のあの態度の訳をそれなりに気になっているし、分からないのもまた、確かだったからである。
「……」
は沈黙を保ったまま、ただもう一つだけ溜め息を吐いた。
縁に嫌われているということを、その宗次郎よりもよっぽど気にしているような顔つきだった。
「ま、嫌いなら嫌いでしょうがないんじゃないですかね、あはは」
「……。」
先程とは違った意味での沈黙をはした。当の本人があっけらかんとし過ぎである。
昨日、兄の浅葱も宗次郎にこんな反応をしていたのだったが、はそれを知らなかった。
実際、宗次郎は縁に目の敵にされていること自体はそんなには気にしていなかったし、仕方ないものは仕方ない、と変に納得していたりもした。楽の感情に多く彩られている彼らしい。人に嫌われるのは慣れっこだ、という経験もある意味この時は影響していた。
それから間もなく浅葱も帰ってきて(幸い怪我は大したことなかったそうだ)、事の成り行きを説明した後に、その場はお開きとなったのだが―――。







その日の夜中、はふと目を覚ました。
はっきりとしない視界を支配するのは、見慣れた天井よりも闇だった。何度か瞬きをし、掛布を纏うようにして寝がえりを打つ。
また瞼を閉じて眠ろうとするが、眠気はあるものの、何だか寝付けなかった。
(…水でも飲んでこようかな)
そう考えて、は緩やかに上半身を起こす。掛布を肌蹴ると、途端に夜の寒さが身に染みた。まだ目に映るものは一面の黒だが、しばらくぼんやりと部屋の中を見まわしているうちに、少しずつ夜目に慣れてきた。
ゆっくりと立ち上がり、廊下側に繋がる障子戸を開ける。そのまま壁を手で伝うようにして、はゆるゆると廊下を進んだ。場所そのものが暗いということもあるし、近くの部屋の浅葱や宗次郎を物音で起こさないためでもあった。月夜なのだろう、その形までは分からなかったが、ところどころにある窓から差し込む仄かな明かりが有難かった。
そうしているうちに何とか台所に辿り着き土間に降りると、は水瓶の水を柄杓ですくって一口飲んだ。ひやりとした水が喉を滑り落ち、渇きが満たされる感覚よりも身が冷えるような思いの方が強かった。もう一口飲んでその冷たさに慣れてやっと、乾燥していた口内や喉に潤いを覚えた。
台所の壁の上部、格子のはまった窓をは見上げた。まだまだ夜空だが、そこから見える色は月のためにほんのりと明るい。
は柄杓を軽くゆすいで、定位置に戻す。それから先程そうしてきたように、また壁伝いで自室へ戻ろうとして―――
あることに、気がついた。
(……?)
微かな、しかし確かに誰かの呻き声が聞こえる。誰のものかは判別できなかったが、男の声であることは確かだった。浅葱か、宗次郎か、或いは縁か。余所者が入り込んででもいない限り。
正直、不気味に感じないわけではなかったが、は意を決してその声の方に足を向けた。
相変わらず視界は薄ぼんやりしていたが、長年過ごした家の中だ、間取りは頭に入っている。呻き声を頼りに進んでいるうちに、はある確信を得る。この先は病室の並ぶ場所。ならば声の主は縁だ。
「うう…ッ」
何とか辿り着いたその部屋の戸越し、やはり苦しげな声は続いている。うなされているのか、それとも体調に変化でも生じたのか…は浅葱や宗次郎を呼んでくるかほんの僅か逡巡したが、縁のひっきりなしの唸り声を前にして、決心はすぐについた。浅葱との約束事と、昼間見た縁と宗次郎との衝突が脳裏をよぎったが、苦しそうな彼を見過ごせはしなかった。
はそっと引き戸を開き、部屋の中に踏み込んだ。窓からの月明かりと、開けた場所であるおかげで、廊下よりこちらの方が余程明るかった。暗がりに、寝台の上で苦しそうに声を上げている縁の姿が見えた。
「あの、縁さん、どうしました?」
静かに、だがなるべく素早く近付いて、は縁にそう声をかけた。仄かな月光に浮かぶ縁は、寝台に身を横たえたままだった。四肢も掛布の中にきちんと収まっていたが、ただ頭だけが、苦しげに左右に揺れていた。堅く閉じられた瞼と眉間には深い皺が寄り、例の呻き声が絶え間なく彼の口から漏れる。歯も強く、噛みしめられているようだった。
の問いかけに対し反応は無い。
(うなされてる、みたい…)
は縁の唸り声の訳をそう思った。それは悪夢によるものか、それともまた発熱によるものかは判断がつかなかった。
そこではひとまず縁の額の熱を推し測ろうとして手を伸ばし、
「…姉、さん…!」
縁の口からはっきりと飛びだした単語に、その動きを止めた。
「何で…何で死んじゃったんだよ、姉さん…!」
悲痛というには哀し過ぎた。詰問というには切な過ぎた。
そんな響きの、明確な寝言を縁は口にした。それからまた、言葉としては意味をなさない呻き声。
は手を止めたまま、動けなかった。苦悶の表情で頭を緩やかに振る縁に、喉の奥が詰まるような感覚を覚えた。
(ああ、そうか、この人も…)
沈痛な面持ちになったが思い出すのは、両親が亡くなった時のことだ。父と母が相次いで身罷った時の、一言では言い表せない喪失感。何もできなかった、何もしてあげられなかった無力感。兄の押し殺すような慟哭と、大声を上げて泣いた自分。ただひたすらに悲しくて苦しかった、あの時の感情が不意に蘇った。
状況は知らない、家族構成も知らない、姉がいたことですらこの時知った事実。ただ、確かだったのは、今、の目の前にいるこの人も。
(家族を亡くした痛みを、知っている人なのね…)
は伸ばしたままだった手を、拳の形にぎゅっと握りこんだ。
彼にとって姉の死が、どれだけのものかはには分かる筈もない。しかしこうして夢にうなされるくらい、縁には忌まわしい出来事であるのに相違なかった。そして未だ、苛まされ続けている。
色々と思うところはあったが、はひとまず彼を悪夢からは解放しよう、と意志を固めた。縁の肩を軽く叩き、耳元でそっと声をかける。
「縁さん起きて下さい、縁さん!」
彼の意識が眠りから呼び戻されるように、は声をかけ続けた。功を奏したのか、縁の瞼が戦慄いた。
気遣わしげな声と呻き声が重なるようにあたりに木霊する中、そして不意に、縁は目を覚ました。
「姉さんッ!!」
それは飛び起きた、と表現する方が正しかった。勢い良く上半身を起こし、目を大きく見開いている。うなされていた反動か、呼吸は浅い。縁の覚醒を察知したが咄嗟に飛び退いていたから平気だったものの、反応が一歩遅れていたらぶつかっていたに違いない。
ただそれでも、目を覚ました縁はごくごく近くにいたの顔を驚くように目を見張って凝視して、ややあってその影が誰であるのか気付いたのだろう、途端に真顔に戻ると、そっぽを向くように顔を逸らした。
「…何の用ダ」
悪夢から救って貰ったにしては、随分な発言である。
しかしは縁のそんな態度は意に介さずに、むしろ少しほっとしてこう返した。
「勝手に起こしちゃってすみません。縁さん、あんまりうなされていたから」
「…それでも眠ってはいたんだ。放っておけばいいだろう」
やはりあんまりな態度だった。けれど意識のはっきりし、受け答えもしっかりできる縁に、やはりうなされていただけで具合が急変したのでなくて良かった、とは安堵を覚える。むしろこんな不愛想な彼の方が、らしいと言えばらしかった。
だからそんな風な言葉を返されても、は困ったように笑っていた。
「……」
そのまま、二人の間には沈黙が落ちた。縁はわざとらしく大袈裟に溜め息を吐くと、また掛布を被って横になった。には背を向けるようにして、もう取り付く島も無いように。
それでは、縁の姉のことについて内心気にはなっていたが、何も言わなかった。今の彼に聞き難かったのもあるし、悪夢にうなされたすぐ後に尋ねるなど、抉るような真似もしたくなかった。
ただ今度の眠りは彼がうなされなければいいと、そんな願望をほんの少し込めて、
「…おやすみなさい」
とだけ言った。縁もこれからまた眠るだろうが、もまた、自室に戻ったら眠るつもりだった。
縁は依然無反応だったが、はそのままそっと退室した。色々と考えたいことがあった筈なのに、急に睡魔が襲ってきた。縁の部屋の戸を閉めて小さく欠伸を零すと、は廊下の壁に手をついて歩く動作に再び戻った。
そして、まだ夜明けの遠い闇の中で。
がいなくなったその後に、もう一度縁は呟いていた。
「…姉さん」
ただし寝言のような無意識下のそれではなく、己の確かな意識を持って。
絞り出すような切ない声は、けれど縁以外には誰にも、届くことは無かった。