「今日は曇り空ですねぇ」
どんよりとした空を見上げながら、宗次郎が同意を求めるように隣のに言う。
今、二人は縁側に間をあけて座り、薬草の陰干しをしているところだった。薄めの蓆の上に、野山にひっそりと芽吹いていた蓬やドクダミなどの新芽を、丁寧に広げて乾かしていく。
昼時の太陽は厚い雲の中に隠され、そのせいで相変わらずの寒さだったが、身震いするほどではない。も宗次郎の発言に同意し、返事を返す。
「本当、ぱっとしない天気だよね。それにしても宗次郎君、実は昨日から気になってたんだけど…」
は気遣わしげに、宗次郎の傍らに置かれた彼の刀、天衣を見た。今でこそ、腰紐から外してあるが。
「何で、家の中なのに帯刀してるの?」
「え、まぁちょっと色々ありまして、あはは」
宗次郎は得意の笑顔ではぐらかした。
素直に、縁にまた襲われた時のための護身用です、とは言えない。






―第四章:虎落笛―




熱に浮かされた縁に宗次郎が強襲されたのは、つい昨日のこと。
殺されかけるわ浅葱に見当違いのお説教を受けるわと散々な目に合った宗次郎だったが、今ではこの通りけろりとしている。
あの後、熱をぶり返した縁を寝台に押し戻して、ようやく宗次郎から詳しい事情を聞くにあたって、浅葱は顔色を変えた。縁が熱で錯乱したためとはいえ、宗次郎を殺しかけたということ。
それを知って、浅葱は今度は宗次郎を誤解したことに対して謝罪を繰り返していたが、宗次郎はさほど気にしていなかった。浅葱の立場で昨日の場面を見ては、彼が思い違いをしてしまったのも無理も無かった。
そうして、縁についての見解を、浅葱はまた改めた。
高熱で取り乱してしまったのは、脳を己で制御できなかったせいでもあるから仕方がないが、問題はそれで起こした行動にある。やはり、危険な要素を大いに孕んだ存在、と。このまま縁の小康状態が続いて、彼が落ち着いているのならばいざ知らず、またも同じようなことがあったら。
隣の病室でようやく寝付いた縁を気にかけながら、浅葱と宗次郎は診療室で密談を交わす。まだは帰ってきていないので、好都合だった。
浅葱は診療室の壁に背を預けながら、難しい顔をして腕組みをしている。宗次郎はその斜め前に立っていた。あれだけの騒ぎがあったというのに何事も無かったかの如く、やはり笑顔だった。
「宗次郎、お前…あいつに迂闊に近付かない方がいいかもな」
宗次郎の身を案じて、浅葱は厳しい目で忠告をする。しかし宗次郎はそれもどこ吹く風で、こんなことをのたまった。
「あぁ、それなら大丈夫ですよ。しばらくは刀を持ち歩くようにしますから」
「…いや、そうじゃなくてな…」
ズレた返答に浅葱は頭を抱える。確かに帯刀していれば、錯乱した縁相手にも引けは取らないだろうが、そういう問題じゃない。
「そうじゃなくて、あいつを刺激しないように、だよ。そうじゃなくたって、今までだってあいつは、お前に対して何て言うか敵視してたっていうか…そんな気がしたからな」
自分やに対しては、縁は譲歩の姿勢を見せることもあった。しかし、宗次郎に対してはそれが無い。
浅葱はそれに勘付いていたが、まさか縁が宗次郎を殺しかける程に敵意を向けているとまでは思ってはいなかった。あの時は成り行き上、縁を宗次郎に任せるしかなく、それ故に起こってしまった出来事だったが、もしも自分が戻らなかったら。宗次郎が反撃に転じられなかったら。それを思うと浅葱はぞっとした。
「でもまさか、そんなにまでとは思わなかった。あいつをお前に任せたのは、俺の失敗だ。まだまだ患者を見る目がなってないってことだな。…面目ない」
誤解していたことを、ではなく、宗次郎と縁を二人にしてしまったことを浅葱は詫びた。
宗次郎が弁解しようとした際に言っていた通り、非は実は縁の方にあったわけだが、それにしても高熱に浮かされたためであり、要は不可抗力だ。しかし、見過ごせない事態でもある。
自分やがいたら、状況は少し変わっていただろうか。それとも、何も変わらなかっただろうか。
恐らく後者の方だったろうが、それでも心情的に、浅葱は謝らずにはいられなかった。
「嫌だなぁ、浅葱さんが謝ることじゃないじゃないですか。僕も油断してましたし」
けれど宗次郎は朗らかに笑ってそんな風に言う。事実、宗次郎は浅葱が悪いとは思ってはいなかった。
「縁さんだって、元々の気性の荒っぽさはこの際ともかく、暴れたのは熱のせいなわけでしょう? まぁ、暴れたのは事実ですけど」
自分を殺そうとした人間を責めるでもなく、からりと言ってのける宗次郎に、浅葱は良くも悪くも脱力する。
何でこうもこいつは…平然としているんだ、と。それはいつも通りの宗次郎には違いなかったが、普通の人間だったら、まずはこんな態度は取れない。
実は昨年の蘇芳一派とのいざこざの際、死の淵にいた宗次郎が眠り続けていた間に、浅葱はから聞いていた。何でも宗次郎はその昔、感情欠落、という状態にあったという。
蘇芳の言を借りれば、喜怒哀楽の楽以外の感情が存在していなかった、と。
ただ、宗次郎の生き方を少し変えるきっかけになった剣客、緋村剣心が言うには、何か原因があって楽以外の感情を心の奥底に封じ込めていただけだ、と。
それをから聞いた際、浅葱もまた、少なからず驚いた。
蘇芳と剣心の言うことがどこまで正しいのかは、浅葱とには分からない。それを宗次郎に自分達から聞こうとは思わなかったし、聞いたところで、宗次郎自身が一番良く分かっていないかもしれなかった。
ただそれでも、浅葱との一致する意見としては、今現在の宗次郎には、分かりにくいけれど確かに感情の動きが存在する、ということだ。
普段は目に見えて怒ったり悲しんだりはしない、いつもニコニコと明るい笑顔の宗次郎。しかしその笑みの中に、感情の揺れが含まれることは、何度もあった。笑顔以外の表情を見せることも、時折あった。
きっとそれが宗次郎なりの感情表現なのだろうし、それについてどうこう言うつもりもまた、兄妹には無かった。宗次郎はこういう人間なのだ、と、とうに納得してしまっている。また、それに救われているところも、二人にはあった。
何より、そんな不安定ながらも、不思議で、掴み所が無く、それでもそういった瀬田宗次郎という存在そのものに、浅葱とは惹きつけられているのだ。当然、浅葱ととでは意味合いが違ってくるが。
『あいつがいつもニコニコ笑ってるのなんて、今更だろ』
の話を聞き終えた後に、浅葱はそんな風にあっさりと言い切った。
『…宗次郎は、宗次郎だよ』
色んな事を一言に集約した、その言葉を聞いた傍らのが、泣き笑いの顔で頷いていたのも浅葱は良く覚えている。
『どーせしばらくしたら、何事も無かったように起きてきて、いつもみたいに笑ってるさ』
それは付き纏う不安を振り払うようにした、希望の混じった軽口だったが、宗次郎の意識が戻らないことをずっと案じていたは、兄のこの励ましにどれだけ、元気づけられたことか。
実際には、皆の尽力の甲斐あってそれから間もなく、宗次郎は無事に意識を取り戻したのであったが―――…。
瀬田宗次郎という人そのままを、浅葱とは受け入れている。
率直に言えばそれだけの話だ。
ただ、この場においては、浅葱はこんな呑気な宗次郎に対して「おいおい、ここはもっと怒ってていい場面だろ。お前が一番迷惑被ったんじゃないのかよ」と半ば呆れている。ここまでのあっけらかんとした様は、もはや楽以外の感情がどうの、という次元ではない気がする。まぁ、長年で培われてきたこの性格だ、今更変わる筈もないだろう。
「…お前、本っ当に大物だな」
「? どうも」
肩にぽん、と手を当て、むしろ呆れた方面での賞賛を送ってきた浅葱に対し、宗次郎は首を傾げつつ素直に受け取った。
何故に突然浅葱に褒められたのか、宗次郎にはまったく分かっていなかった。
「それより、今日のこと、さんには何て言います?」
「…それなんだよな」
話題を変えられ、浅葱は顎に手を当て考え込むようにして小さく唸る。
事をそのままそっくり伝えれば、きっとは酷く動揺することだろう。宗次郎に対しても縁に対しても、盛大に気を揉むに違いない。その姿が、兄である浅葱には容易に想像が付く。
「ま、全部を言うわけにはいかないけど、俺の方からぼかして伝えとく。ただ、流石にお前が殺されかけた―――ってとこだけは言わないでおくけどな」
宗次郎は肯定の意味で頷く。それが正解な気が、宗次郎はしていた。
「お前も何か訊かれたら適当に答えとけよ。まぁ、ボロはなるべく出さないようにな」
こうして、には先の一件は歪曲して伝えられ、『縁に一人で接すること極力禁止令』は彼女にだけではなく、宗次郎へも出されることとなった。






そんなやり取りを経た後から、宗次郎はこうして自室に長らく置いたままだった天衣を持ち出し、身につけるようにしていた。当然、縁が宗次郎に危害を加えようとした際、または万が一、兄妹に手を出そうとした際に使うつもりで。
正直、素手では分が悪かった。しかし刀があれば心強いし、縁の対策として帯刀することを、浅葱も納得してくれた。
しかし事情をすべて知るわけではないにしてみれば、縁がいる以外は何の変哲もないこの日常において宗次郎が刀を手元に置いているのが、不思議で仕方無かったのだろう。
内心では昨日からずっと気になっていたのだろうに、今になって聞いてきたのは、の気遣いの表れか。
「…昨日、縁さんが熱のせいで暴れたとは聞いたけど、やっぱりそれで?」
が宗次郎の顔色を窺うように、控え目に聞いてきた。
否定するのは簡単だったが、そうすると今度は何故にそうじゃないのに帯刀しているんだとそういう話になり、この場面では逆に怪しい。疑いを深めてしまうのは避けられない。
宗次郎はそう判断して、その点についてはあっさりと認めた。
「あぁ、やっぱり分かっちゃいました? そんなところです」
そんなところも何も、それ以外に理由はない。
その点にが勘付いていたからこそ、宗次郎は簡単に頷いたのだ。その上で先手を打つ。
「ほら、さんも知ってると思いますけど、縁さん痩せ細ってるけどいい筋肉付いてるじゃないですか。僕も力じゃ敵わなくて。だからちょっと不本意なんですけど、もしまた昨日みたいなことになった場合、うまく立ち回るには刀は必要かなって」
宗次郎が言っていることは本当だったが、本音とは少し違っていた。想像以上に力があり実戦し慣れた動きを見せ、強かった縁に対抗するためには、刀は必須だった。
昨日の縁は、忘我状態での暴走、と言っても過言ではなかったが、それにしても宗次郎は危うかった。縁が荒れた思考のままに仕掛けてきた単純な攻め手だったから、宗次郎も何とかできたのだ。もしあれが、縁が正常な思考を持ったままのれっきとした“闘い”だったとしたら、宗次郎は大分不利だった。
彼はそれだけの実力を持つんじゃないだろうか、と宗次郎は踏んでいた。剣客としての本能が、それを嗅ぎ取っている。
となれば宗次郎が真価を発揮するにはやはり、刀は必定である。
(…まぁ、縮地を使えば何とかできなくもないかもしれないけど)
それでも、決め手には欠ける。その上室内で使ったら、間違いなく診療所は壊れる。
破壊しつくされた室内を見て顔を強張らせる浅葱の姿が、宗次郎は容易に想像できた。
「…そう。そんなに、縁さん、強いんだ…」
宗次郎の答えに、は俯く。そのまま膝の上でゆるくにぎりしめた拳に、彼女は視線を落とした。小さな肩から滑り落ちた彼女の黒髪が、その表情を見えなくしている。
あれ、と宗次郎がそんなの様子を不思議に思っていると、その顔はややあってゆるりと上げられた。その両目に浮かんでいたのは、はっきりとした不安だった。
「…蘇芳さん、みたいに?」
のその言葉に、宗次郎は虚を衝かれた思いだった。まさかここでその名前が出てくるとは予想していなかった。
宗次郎はきょとんと目を見開いて、一つ瞬いた。そしてがそう言ったその理由を考えて、少しして、ああ、と気付く。
宗次郎が刀を持ち出してきたことで、また縁のその強さを語ったことで、にはある不安がよぎったのだろう。それは、宗次郎と蘇芳との死闘の時のような―――闘いの再来の予感。
宗次郎と蘇芳の死闘を目前で見ていたからしてみれば、あんな互いに命を削り合う闘いが繰り広げられることは、二度と御免だったろう。
何より、短い間だが親身に接しようとした相手である縁と、宗次郎との間で争いが起こること自体を、は多分、恐れている。
宗次郎は果たしてそこまで察知したかどうか。けれど宗次郎はの杞憂を笑い飛ばすように、いや、実際笑い飛ばした。
「あはははははっ、嫌だなぁ、さんの考えてるようなことにはなりませんよ」
「…!」
心中を見透かされたことにか、の頬がかあっと赤く染まった。
しばらく笑い声を上げて手をひらひらさせた後で、宗次郎は今度ばかりはやや真面目な笑顔を、に向けた。
「別に僕は、闘うためにこの刀を持ってきたんじゃありませんよ。まぁ、万が一に備えてって言うか…それに縁さんだって、いつでも見境なく暴れるような人じゃないってこと、さんには分かってるでしょう?」
縁についてはいささか怪しい見立てだったが、ならそう考えていそうだ。
そして、最初の一言は本当だ。宗次郎とて、何も縁との闘いを望んでいるわけではない。実際に勝負をしたらどうなるかな、という興味が無いわけではないが(純粋に闘ってみたいという気持ちがまったく無いと言ったら嘘になる、何だかんだで宗次郎も剣客なのだ)、それを行動に移すつもりはなかった。浅葱やに言ったように、そして自分でも思っているように、この刀は単に縁への対抗手段だ。
諭すような、言い聞かせるような宗次郎の穏やかな口調に、も表情を緩ませた。そうして、申し訳なさそうに眉根を下げている。
「ご、ごめんね、自分でも考え過ぎだなって思うんだけど、一度思っちゃったら、不安が止まらなくて…」
困ったような笑顔でそう答えたに、けれど宗次郎は心の中でこっそりと、
(まぁ、縁さんの方から仕掛けてきたら、どうなるかは分かりませんけどね)
と呟いてみる。何しろ、宗次郎に敵意を剥き出しなのは縁の方なのだ。彼がやはり宗次郎を敵と見なした上で闘いを挑んでくるのだったら、応じるしかないのだろう。
なるべくなら大事になって欲しくないし、昨日のアレはやっぱり熱に浮かされていたからだった、と結論付けてしまう方が、宗次郎にとっても気楽だった。が、縁の真意が分からない以上、油断は禁物だ。
ともあれ、をいたずらに不安にさせても仕方がない。宗次郎にとっても杞憂なら、その方が良かった。
「あぁもう、十八にもなったのに、心配性過ぎだよね。いつも悪いことばっかり考えちゃって…」
軽く自嘲の笑みを浮かべて、は片手で頬を抱える。
はこう言うが、実は宗次郎は彼女にこうやって自分の身を心配されるのは、申し訳なく思う反面、どこかでほっとしている。
宗次郎は恐らく、自分では気付いていないだろう。そんな心の揺らぎがある時、彼が浮かべている笑みが、ほんの少しだけ優しい色を帯びるのを。
自分を反省するのに忙しかったもまた、今この時は生憎と気付いていなかった。そして話をこう続ける。
「縁さんにもこの前言われちゃったし。幼い、って」
「そうかなぁ、さんしっかりしてるじゃないですか」
は縁に外見について言われたことであったが、それを知らない宗次郎はこう切り返す。実際、部分的には自分よりこの年下の少女の方が、ずっとしっかりしているように思える。
とはいえ、心配性なのも確かであるので、こう付け足した。
「まぁ、何事も気にし過ぎるのは良くないですしね。そうそう悪いことは起きないと思いますから、大丈夫ですよ」
当の宗次郎がこの調子なので、もやっと毒気を抜かれたように、小さく笑みを漏らす。
宗次郎は相も変わらずにこにこ笑顔だが、もしこの場に浅葱がいたらこう突っ込みを入れていただろう。
「お前はもっと、色々と気にしろよ」と。