「何で勝手な真似したんだ! たった一人で行って、何かあったらどうするつもりだったんだ!!」
浅葱の怒号が茶の間に響いた。
その対象であるはただひたすらに身を縮め、宗次郎は湯呑みを片手に、まぁまぁと浅葱を諫めていた。
―第二章:六花の空―
普段は静かな家の朝食風景だが、この日ばかりは違っていた。先程から浅葱はずっとこの調子である。
事は簡単。が独断で、単身で縁の元に乗り込んでいったことに、浅葱は怒り心頭なのである。それは妹の身可愛さにより出る発言ではあるが、しばらく声を荒げっぱなしなので、浅葱さん後で喉痛くなりそうだなぁ、と宗次郎はどこか呑気にそんなことを考えていた。
「心配かけてごめん、お兄ちゃん…。でも、」
「でもじゃない! お前の気持ちは分かる、俺も医者だしな。でも、昨日のあいつの態度見ただろう? 今日もまた同じ感じで、いやそれより酷くなってたらどうする気だったんだ!? 俺や宗次郎が一緒ならまだともかく…一人で行くなんて無茶過ぎる! 大体はいつも…!!」
「まぁまぁ、もうその辺でいいんじゃないですか? 落ち着いて下さいよ浅葱さん」
「これが落ち着いていられるか! 宗次郎も宗次郎だ! が一人で行くとこ見えたんなら止めろよ! じゃなかったら一緒について行けよ!」
宗次郎の一言は、浅葱を落ち着かせるどころか、火に油を注ぐことになってしまったようだ。まいったなぁ、と思いつつ、宗次郎は肩を竦める。
「ごめんなさい…」
勝手なことをしたのは本当で、心配をかけてしまったことも確かだから、は浅葱に向かって素直に謝る。一人で行く前に一言相談する、それがあったなら浅葱もここまでは怒らなかっただろう。
「勝手なことをしたのは謝る…。でも、お兄ちゃんあの人のことを悪く言い過ぎよ。昨日は、そりゃ、気が立ってたみたいだったし、正直取っ付きにくいし、怖いところはあるけど…でも、あの人、」
一方で、弁解しながらは思い起こす。雪が嫌いだと言いならが、一心にそれを見つめていた姿。人を寄せ付けない雰囲気を発しながら、それでもが出した朝食を残さず食べてくれた彼。名を聞いたら、きちんと答えてくれた。
(そんなに、悪い人じゃないような気がするんだけどな…)
勿論、それはの直感でしかない。
だから言葉にはしなかった。まだそこまで、彼の人となりを分かったわけじゃない。最初に抱いた印象の通り、彼は剣呑な存在かもしれなかったからだ。そしてそれを危惧しているからこそ、蘇芳の一件を思い出して、浅葱は神経質になっているのだということも、は良く理解していた。
しゅんと項垂れるを見て、浅葱もようやく落ち着いてきたのだろう。視線をさ迷わせながら、ぽつりと本音を吐き出した。
「…我ながら独善的だとは思うよ。医者なのに、患者の一時的な態度だけで悪しざまに捉えて、…妹の身を第一に心配してな」
その言葉に、も複雑そうに眉根を寄せる。けれどそれでも、宗次郎だけはあっけらかんと。
「それは…そればっかりは仕方無いんじゃないですか? どうしたって、よく知らない人より見知った人を優先しちゃうのは、誰だって当たり前だと思いますよ」
「…ったく、お前って奴は相変わらず、サラッと正論吐きやがって…。そんなん分かってるさ。分かってるから自己嫌悪してるってのに、あーもう!」
浅葱は苦笑しながら額を押さえて、そのまま前髪をぐしゃぐしゃと掻き毟る。しまいにはやけになったような笑みさえ浮かべていた。
飾らない宗次郎の言葉は、時にすとんと心の底まで落ちてくる。それがもどかしくもあり、安堵するものでもあり、悩んでいたのが何だか馬鹿馬鹿しいと、そんな風に思ってしまったりもして。
だから浅葱も、いつまでもうだうだと考えるのはやめにした。はー、と長い溜息を吐いた後に、に向き直って。
「まぁ、とにかく今朝の事は済んだことだからいいさ。ただ、あの患者―――その、縁って奴のことがまだ良く分からないうちは、なるべく一人で接するな。俺か宗次郎を同席させろ。いいな。
…俺も、あの患者の命を預かる者として、あいつ自身をもっと知る必要がありそうだからな」
ようやくいつもらしさを取り戻した兄の姿に、は今度は喜んで素直に頷く。もとはと言えば一人で突っ走ってしまったことが原因なので、今度はもっと話をしてからにしよう、と反省するのも無論忘れずに。
一件落着、良かった良かった、とばかりに宗次郎は茶碗の中のご飯を箸でぱくついている。外が雪なのと、浅葱との喧嘩が長かったこともあり、すっかり冷めてしまっていたが。
(…雪、か)
それで宗次郎もふと、珍しく思考に沈む。雪というと、どうしても、あの咲雪を思い出さずにはいられない。
この腕の中で命が失われていく、そんな体験を宗次郎にしっかと味合わせてくれた人。その名がまるで示すかのように、雪のように儚くも、最期の最後の瞬間まで、命という華を咲かせていた人。
あの人と逢ってからもう、六年も経っちゃったんだなぁ、と宗次郎は思う。同時に、あの人が死んでもう六年、とも。
それでも、今でもありありと思い出せる、自身が本当に感じた『人の死』の記憶。力無くも確かに微笑んで、血に塗れながら逝った彼女。
宗次郎が火を見ればどうしても志々雄を連想してしまうのと同様に、雪となれば咲雪に思いを馳せてしまうのは、致し方の無いことだった。彼女と過ごした時は、景色がいつも雪で覆われていたから。
「…宗次郎君?」
ぼんやりしていた宗次郎を不思議に思ったのだろう、が気遣わしげに話しかけてきた。それで宗次郎も我に返って、何でもないです、といった風ににっこりと笑ってみせた。
「どうかしたの?」
「いえ、ただ、今日は雪だなぁって、そう思って」
多くを語らずに、宗次郎は何気なく言葉を返した。するとは、ほんの少し奇妙な顔つきになった。
「そういえば…縁さんも雪を気にしてたなぁ」
「雪を?」
浅葱が聞き返すと、は頷き、こう続けた。
「うん、窓の外の雪をじーっと見てて…あんまり無心で見つめてたから、雪は好きなんですかって聞いたの。そしたら、雪は嫌いだって。嫌なことを思い出すからって…。
でも私、そこが気になるんだよね。だって嫌いなら、目にも入れたくないって思ってもおかしくないのに、でもあの人、それでも雪に目を奪われていたから…」
「へぇ…?」
宗次郎もほんの少し首をかしげた。それは確かに少し気になる話だ。事情は知らないが、縁には雪にまつわる嫌な出来事があったらしい。にもかかわらず、雪をひたすらに見つめていた、と。
それで宗次郎は思った。案外あの男も、自分と同じように雪に覆われた世界で、誰か大切な人を亡くしたのかもしれない、と。
だからといって宗次郎は、雪を嫌いになったりなどしなかったが。
(…なんてね。いくらなんでも考え過ぎかなぁ。そんな偶然、でき過ぎてるよね?)
けれど、そこはやっぱり宗次郎、深く縁のことを考察することなく片付けてしまった。大体、自分がそうだったから彼も…なんて、短絡的にも程がある。
それでも、もしもその勘が当たってるのだとしたら。
「御馳走様です。浅葱さん、あの人の診察、行くんでしょう? 僕もついていってもいいですか?」
「あぁ、構わないぞ」
食べ終わった器を手早く片付けながら宗次郎が言うと、浅葱はあっさり了承した。宗次郎にあるのはただ単に好奇心の類だったが、浅葱としてはもし万が一縁が暴れでもしたら宗次郎がいてくれると心強い、という些かの打算もあり。
そんなわけで、朝食の片付けを終えた三人は、連れ立って縁のいる部屋に向かう。廊下さえも底冷えするような寒さで、皆自然と二の腕を抱え込むようにして身を震わせる。
「いやぁ、寒いですねぇ」
のんびりとした感想が宗次郎の口から漏れた。先程までいた茶の間や、診察室・縁のいる部屋といった火鉢の置いてある部屋ならともかく、そうでない場所は相変わらず屋内でさえ息が白くなるような寒さだ。
「そうだね。縁さんの部屋の火鉢の炭も、様子見て足しておかないとね」
そう言うの唇からも、白い息が立ち上る。そうして件の縁の部屋の前まで来て、浅葱が一言「診察の時間だ、失礼するぞ」と声をかける。そのまま入口の戸に手をかけて、縁の気に障らないようにか、浅葱はゆっくりと開けていく。
途端、三人の頬をすり抜ける冷たい空気。異変にいち早く気付いた宗次郎が、遠慮がちな浅葱に代わって勢いよく引き戸を開け放った。
薄明るい部屋の中、縁の姿はどこにもなく、窓が開いていた。掛布が無造作に払われた寝台の上に、窓から吹き込む雪が舞い降り、積もることなく溶け去っていた。
三人はまず呆気に取られ、次に浅葱が溜め息交じりに呟く。
「…出て行ったのか」
「う〜ん、でもその割には、あの人の荷物、置いたままなんですよね」
否定した宗次郎が指差したのは、部屋の隅においてある縁のなけなしの私物だ。これまた異国然とした縦横一尺ずつ程の年季の入った袋に、大きさとは釣り合わないほんの少しだけの中身。
当然ながらその中身までは見てはいないが、昨日運んだ際に、例えば財布とか本当に最低限の物しか持たずに旅をしていたんだなぁ、と宗次郎は感想を抱いていた。
それに思い当って、宗次郎は苦笑する。自分が長らく旅をしていたから、彼も旅をしていたんだろう、とは、また随分と早合点だ。長年着倒したような衣服、いわくありげな風貌、とそう判断する材料は多分にあったけれど、そもそも宗次郎達は本当に彼のことを、名前以外に何も知らないのだ。彼が語らなかったためでもあるけれど、素性も、歳も、本当に旅をしていたのかも、何も。
「…もしかして、外に行ったんじゃ」
の思いついたような一言に宗次郎と浅葱は顔を見合わせて、けれどその可能性も否めないと寝台に近付く。それからその向こうの窓の外を覗き込んで、降り積もった雪の中に確かに足跡があるのを認めた。そうしてそれは、中庭の方角へと続いていく。
三人はそのまま部屋を出ると玄関を経由して履物を履き、そのまま中庭へと急いだ。
果たして―――縁は、中庭にいた。
白い髪、白い着物と彼もまた白に覆われた姿で、ぼんやりと空を見上げ立ちつくしていた。空から降りてくる雪たちが、そのまま彼の髪や頬に張り付き、そして姿を消していく。
その表情からは縁が何を考えているかは読み取れず、ただ何か空虚なものがそこにあった。
それを目にするや否や、浅葱は縁にずかずかと駆け寄った。
「…っ! 何やってるんだ、体調悪い時にそんな薄着で…!」
縁の頭や肩に積もった雪に、彼がここに来たのは今さっきではないことを察し、浅葱は思わず怒鳴りつける。
「風邪引くぞ! いや、体力も落ちてるからもっと重い病にかかる可能性だってあるんだぞ…!」
縁の体についた雪を手で払い落しながら、浅葱は続ける。も同様に縁の側まで行き、心配そうに見上げている。宗次郎は何となく手持ち無沙汰で、ただ成り行きを見守るばかりだ。とりあえずこの後はお風呂を沸かすようかな、とそんな風に考える。
浅葱には自分の体に降る雪にはまったく構わずに、縁から雪を払うのに必死だ。手に触れる縁の着物は冷たく湿っていて、彼の頬や唇からは血の気が引いていた。肌も間違いなく冷気に浸食されているに違いない。
自分の体を省みない縁に、浅葱は眉を吊り上げる。
「もっと自分の体のことを考えろ、死にたいのか!? とにかく、中に戻って暖まっ…」
「…別に俺は、死んでも構わない」
縁から発せられたのは、酷く抑揚の無い声だった。
浅葱との動きが止まり、宗次郎もほんの少し目を見開く。
「生きる理由も目的ももう無いのに…何故俺は生きてるんだ。生きる理由も目的も無いなら、生きていたって仕方がない。…そうじゃないのか」
こちら側に振り向いた縁の瞳は、虚ろだった。長い前髪の下から窺い知れるその表情はまるで氷のように凍てつき、昨日彼と遭遇した時とはまた違った危うさがあった。
立ちつくす浅葱や達にも容赦なく雪は降りしきり、それがもたらす寒さよりももっと冷たく感じる彼の姿。昨日のこと、今朝のこと、そのたびに縁は何を考えているのか分からないとまったく掴みかねていただったが、今この時も、それはそうであると思う。
本当に、彼の心理が読めない―――ただ、つい今しがた彼が吐き出した言葉が真実だというのなら、それはとても悲しいことだとは思った。生きる理由や目的が無いことが悲しいのではなくて、そうだと言い切ってしまう、彼自身に。
それはどこか、昔の宗次郎の生き様に感じるもどかしさに似ていた。
「…甘えるなよ」
押し殺したような声を発したのは、浅葱だった。もはっとそちらを見る。浅葱は縁の胸倉を掴み、厳しい目つきで見据えていた。
「理由や目的が無いからって、命を無下にするな。世の中にはな、生きたくても生きられなかった人間が、たくさんいるんだ…!」
宗次郎には、その言葉に縁が僅かに反応したように見えた。浅葱は怒りとおそらく悲しみとで険しい顔のまま、畳みかけるように続けた。
「あんたが今までどんな生き方をしてきたのかは知らない、でもな、命があるうちは、自分の命をないがしろにするな…!」
浅葱の胸の内にあったのは、ただただ歯痒さだ。医者として、一人の人間として、これまでに数多くの人の命を浅葱は見送ってきた。その中には彼との両親も含まれている。
逝く側も残された側も、死の淵で思うのは等しく『もっと生きたい』『生きて欲しい』、それだけだった。まだ死にたくない、生きたいと生に縋るも助からなかった助けられなかったたくさんの人を見てきたからこそ、縁の先の発言を浅葱は捨て置けなかった。
本来ならば、もっと言葉を選んで声をかけるべきだったかもしれない、けれどそれができない程に浅葱は怒り、同時に悔しく、苛立たしかった。
(何でこいつは…こんな、)
うまく言い表せないが、先程縁が浮かべていた表情と同様に、何だかとても空虚な気がした。
常人離れした体躯、外見年齢に釣り合わない白い髪、そして生きていても仕方ないと言い切ったその凍りついた心。
もしかしたら、いやおそらく、縁は宗次郎とはまた異なった激動の人生を送ってきたのに違いない。それがどういったものであったのかは計り知れないが、とにかくそれは、一人の人間から生きる気力をすっかり奪ってしまうのには十分であったらしい。
昨日は単に気難しい人間だ、と感じていたが、事はそう単純ではないらしい。彼が抱えるものは、もっと深く、底が見えない、何かしらの闇だ。
医者として、いやそれを知った一人の人間として、このまま彼を投げ出すことなど、浅葱にはできなかった。放っておけば、それこそ死にかねない。
何ができるかは分からない、けれど何も手を打たないままではいられない。
(とにかく、身体的な面だけでなく、精神的にも診ていく必要があるな…。一筋縄じゃいかなさそうだが、まぁまずは)
何かを言い返すわけでもなく、ただ黙って浅葱の叱咤を受け続けていた縁の心中は、依然測りかねる。ひとまず浅葱は縁の着物の襟から手を離し、呼吸を落ち着けてからこう告げる。
「…とりあえず部屋に戻ろう。雪に濡れたままじゃ、本当に体に悪い」
縁は黙したままで、何の反応も見せない。浅葱はそれにも臆せずに、続いて鋭く言い放った。
「言っておくが拒否権は無いぞ。こっちには宗次郎もいるからな、いざとなったら力ずくだ」
有無を言わさぬ口調、しかし表情を幾らか和らげた浅葱に、宗次郎は「あはは、浅葱さんてばひどい言い様」と笑って言葉を漏らす。
しかし浅葱がこうもあっさりと切り札を出すということは、それだけ彼が縁に対し懸命に向き合おうとしているということの裏返しでもある。
縁はそれを受けて浅葱を一瞥した後、宗次郎をぎろりと睨んだ。先程までの生気の無さはどこに、と思える程の変わり身の早さで。
「…その男の手を借りるくらいなら、自分から戻る方がマシだ」
そうして、すたすたと歩き出し、浅葱とが慌ててその後を追う始末だ。
宗次郎はぽかんとしてしまって、ややあって遠くから聞こえてきた「宗次郎、悪いが風呂の用意を頼む!」の浅葱の依頼に返事を返して、その後ぽつりと呟いた。
「…何だか僕、あの人に嫌われてるみたいだなぁ」
何となく、そんな気がする。やたら自分にだけ、敵意が向けられているような。
(僕、何か嫌われるようなことしたかなぁ、そりゃあ確かに昨日足払いはかけちゃったけど、まぁあれは不可抗力だし)
自分を正当化する宗次郎だった。
そうして小さく笑んで、それにしても、と呟く。
「それにしても浅葱さん、何だかんだで面倒見いいんだよね」
先程は縁よりを優先したことに落ち込んでいたが、宗次郎からすれば先程の一連の流れに、浅葱さんはやっぱりあの人のこともしっかり気にかけてるんだよなぁ、と思う。
医者であることを差し引いても、と同じく、十分にやはりお人好しだ。
正直、縁は接するのが面倒くさい類の人間だと思われるのに、そして突き放されてもいるのに、それでも手をひたすらに伸ばそうとしている。浅葱ももそんな人達だから、宗次郎もきっと、この場所がやはり心地いい。
ともあれ、ずっと雪の中にいて宗次郎も流石に体が冷えてきた。そうして先程頼まれた風呂の用意をすべく、宗次郎もひとまずその場を後にしたのだった。
次
戻