―第十一章:It’s gonna rain―




意外にも、内部はそれ程までは燃えてはいなかった。
視界と呼吸を遮る煙は厄介だったが、後者はなるべく息を止めることで、前者は感覚を研ぎ澄ますことで縁は補った。
抜刀斎への激しい怨恨が薄れたからか闘う機会が段違いに減ったからか、或いはその両方か、この十一年の中でいつしか狂経脈はほとんど失われていた。
それでも長い生き地獄の中で培われた感覚の鋭さは健在である。それを駆使して、縁は白煙の中をひたすら進む。間取りを頭に叩き込んでいたことも功を奏した。長いこと闇社会の中に身を置いていた影響もあり、滞在する場所はすべからくその造りを覚える。この診療所もそうだった。
敵襲があった場合、どの場所に手下を配置して対処するか。いざという時にはどこをどう逃げれば生き延びられるか、その脱出経路。あらゆる事態を想定して動く、そうした、頭目として欠かせない能力。まさかそれがこんなところで役に立つとは。
『何が巡り巡って今がどうなるか、なんて、分からないものですよねぇ』
(ちっ…! 何故今それを思い出す…!)
能天気な声が蘇ってきて、縁は歯噛みした。今はそんな余計なことを考えている暇は無い、一刻も早くアレを取り戻さないと…!
縁は足を早める。奥に進むにつれて、やはり炎の勢いは増していた。炎を掻い潜るようにして縁は廊下を行く。
そうして白い毛先を火の粉に所々焦がされながら、縁はようやく目的地に辿り着いた。この所ずっと寝泊まりしていた、入院患者用の部屋。
しかしその場所は、もう四方を炎に囲まれつつあった。愕然として、今にも叫びたい衝動を必死に押さえ付けながら、縁は這いつくばるようにしてある物を探す。
「あっ…た」
それがまだ無事だったことに、縁はあられもなく頬を緩ませる。長い旅路を共にした荷袋。正確にはその中身。縁にとって誰よりも何よりも大切な女性、雪代巴の形見の日記帳。
この診療所の人間に(とりわけ宗次郎に)勝手に触られたくないからと、数日前に寝台の下の奥に押し込んでいたのだった。寝台に隠れていたおかげで、炎の被害はそれ程受けずに済んだらしい。
熱い床板に伏せて、縁は奥に手を伸ばす。荷袋の持ち紐を掴んで一気に手元に引き寄せた。
よくよく見れば底が燃え始めていたそれから、縁は慌てて日記帳を引っ張り出す。出した所で周囲は火の気だらけなのだが、袋と共に燃え尽きるよりはいい。
夏の太陽より身を焦がすような熱気の中、縁は日記帳を改めてまじまじと見る。燃えてはいない。一瞬、ほっ、と幼子のような顔つきになる。炎から庇うようにして、左手で強く胸元に押しつける。
これが無事と分かれば長居は無用、とばかりに縁は膝立ちの姿勢から立ち上がろうとした。足に力を入れた途端、その足の裏が沈んだ。炎の為に弱っていた床板が抜けたのだ。
「くっ…!」
縁の右足は膝の下辺りまで床板に埋まってしまった。何とか抜け出そうともがく縁だったが、割れた板の先が脛の肉に食い込む。その上、煙で息苦しく力が入らない。何度も激しく咳をする。
(く……こんなことで)
空気が足りないせいか、酷く頭が朦朧とする。
右足を床の下に残したまま力無く座り込んで、縁はぼんやりと目の前の火の海を見る。
「―――…」
俺は、ここで死ぬのか。
縁はそう思った。
床のほとんどに火が走っている。壁を登る火は天井にまで届きそうな勢いだ。まだ室内の調度品や寝台は燃え残っているが、この分なら間もなく炎に呑まれる。
そこから上がる煙は室内を白く満たし、目への刺激に縁は瞼を下ろさずにはいられない。
俺はここで死ぬのか。
もう一度思った。それでもいいか、と、縁は納得してしまってもいた。
(死んだら、きっと姉さんに逢える)
日記帳を抱く手に力が籠った。こんな状況でもそれでも炎からは庇おうと、縁は日記帳を両腕で抱き締めるようにして背中を丸める。
床の炎がじわじわと縁の着物を伝う。遠くないうちに、この体も日記帳ごと炎に包まれるだろう。それでも、
(死んだら、姉さんに逢える)
そう思えば、熱くも怖くも何ともなかった。むしろ、願っても無いことだった。
姉さん、早く迎えに来てくれ。あの世でまた、一緒に暮らそう。
(姉さん―――…)
閉じた縁の目の淵から、一筋の涙が流れ落ちた。瞼の裏に浮かぶのは勿論、最愛の姉だ。
白梅のような気高さと、すらりとした美しさを持った女性。今までに幾度、幾度思い浮かべたことか。幾度語りかけたことか。
その都度何も言わず、こちらを見ているだけだった姉。
今この時もそうだった。それでも巴の姿を思い浮かべているだけで、縁は幸せだった。もう間もなく会えるのだから。
『…縁…』
しかし、この時は違っていた。
姉が口を開いてくれたのだ。縁の幻想の中で初めて。
縁はハッと目を見開いた。幻の筈なのに、その時の巴の輪郭は今までにないくらいにはっきりとしていた。黒目がちの瞳。長いしなやかな黒髪。巴が好んで身に着けていた白を基調とした着物。何もかもがはっきりと。
『駄目よ、縁。まだあなたは、こちらに来ては駄目―――』
「姉、さんッ!」
堪らず、縁は叫んだ。
今まではどんなに思い浮かべても、語りかけても、姉の幻は何も言ってはくれなかった。
それが今、瞼の裏に浮かんだ姉は、見たことも無い必死の形相で、己に語りかけてくる。
声の凛とした響きは思い出に残るそれのままで、それでもやはり初めて聞くような声色だった。
『あなたはまだ死んではいけない。生きなさい、縁』
「嫌だ! 姉さんは、俺を迎えに来てくれたんじゃないのか!?
俺は姉さんのところに…姉さんと一緒にいたいんだ…!!」
この上も無い懇願だった。
もうずっとずっと前に死に別れたきりの姉が目の前に、すぐに手の届くところにいる。もう自分達を邪魔する者は、誰もいない―――。抜刀斎への憎悪や、この世への未練など、この時ばかりは滓程もよぎらなかった。
やっと会えた姉の幻に縁は手を伸ばし、しかし巴はその手を、すっと振り払った。そのことに縁は愕然とする。
「どうして、姉さん…」
『あなたにはまだ、そちらの世界ですることがたくさんある。あなた自身が犯した罪も、まだ何も償ってはいない。それを終えるまでは、こちらに来ることは許しません』
それはいつか、幼い頃の縁が悪戯やいけないことした際に、姉が浮かべていた表情と同じだった。眉を吊り上げはしないものの、見咎めるような目。静かながらも、有無を言わせぬ厳しい口調。けれどそれは縁を思っての苦言で、心の中はどこまでも温もりに満ちた叱責だった。
その顔を巴はしていた。
「何で、だよ…俺は…!」
縋るように、縁は巴を見上げた。何故姉がそんなことを言っているのか、縁には分からなかった。姉さんは自分と一緒にはいたくないのか。どうしてそんな風に突き放すんだ。
それで、困った風な笑みを巴は浮かべた。失くして久しい、姉の笑顔だった。
『…あなたが、大切だから。どんなに苦しくても、どんなに痛みを覚えても、それでもあなたには、生きていて欲しいの。…私や、明良様の分も』
それは慈愛と悲哀に満ちていた。
苦悩するような笑みを口元に浮かべる巴は、続けて縁にこう諭す。
『あなたには、まだ知らないこともたくさんある。私のことも、私が二番目に愛したあの人のことも。だから…』
「何でそんなことを言うんだ、姉さん! 知りたくも無い、抜刀斎のことなんか…!」
『…困った子ね』
まったくの子ども扱いだった。巴はまた困ったように微笑むと、縁の真白い髪を撫でた。触れられる筈も無いのに、その手は何故か柔らかく、温かかった。
『本当はあなた、分かっている筈よ。ただ、認めたくないだけ…』
巴の両手が、縁の両の頬を包み込むように降ろされた。
間近で見る姉の顔は、どこまでも優しかった。窘めるような口調も、艶めく黒髪も、長い睫毛も通った鼻筋も、薄く笑みを乗せる小さな唇も何もかもが懐かしくて、ただ縁は泣いていた。
まさしく子どもの時のように、姉に叱られて悔しくて悲しくて、自分の非をなかなか認められなくて、それでも真剣に接してくれたのがどこか嬉しかった、あの頃のように。
「姉…さん…」
涙で歪む視界の中で、巴は目を細めて笑った。白梅の蕾が綻んだように、可憐でひたすらに美しい。
それは縁がずっとずっと欲しかった、本当の姉の笑顔だった。
『生きなさい、縁―――』
どこまでも優しくその言葉が紡がれ、そして縁の視界は白く染まった。









「…もしもーし、縁さん、大丈夫ですか?」
「……」
次に縁が気が付いた時には、屈むように膝を曲げた宗次郎の姿がすぐ前にあった。
夢か? それとも幻か?
それとも本当に……本物だったのか。
いずれにしても、長年の悲願を果たしたとも言える姉との至福の再会のひと時の邪魔をした宗次郎を、縁は虎狼の目を向けて威嚇した。
「浅葱さんがね、凄く心配してるんです。ね、だから戻りましょう」
家出した子どもをあやすような口振りだった。煙で喉を痛めたのか、宗次郎の声は僅かに枯れている。
縁は慌てて自分自身を見遣った。着物の裾は燃え始めているが、かろうじて日記帳は無事だった。またそれを抱え直す。存外、自分はそう長く気絶していたわけではないのかもしれない。
その時ふと、縁の耳に蘇った言葉があった。
『縁、江戸に帰りなさい』
姉の言葉だ。自分と姉とが最期に交わした会話の中にあったもの。
姉の手助けをする為とはいえ、まんまと悪事に手を染めようとしていた自分を、姉は帰そうとしたのではなかったか。当時はどうして手を貸させてくれないのか、抜刀斎を庇うのかと憤慨したが、今思えば、何より自分を復讐に巻き込むまいと思う姉の優しさではなかったのか―――。
煙が充満し、視界を遮る。猛々しく燃え上がる炎が酸素を食らいつくし、人が呼吸する術を奪う。
縁も宗次郎もごほごほと咳き込む。本当に時間がない。
一転、気の抜けたような顔をしている縁を捕らえている床板を、宗次郎は天衣でザクザクと突き刺して壊してやった。
こんな奴に、と縁は不本意だったが、足が自由になったのを見て取ってずるりと這い出る。そのまま宗次郎が手招きをするままに、外に面している側の壁のすぐ近くへと向かう。
「僕が壁を壊すと同時に外に飛び出して下さいね、いいですか?」
「…貴様に指図されなくても」
思いっきり凄みを利かせた筈が、最後に咳き込んでしまい今ひとつ締まらなかった。
それでも宗次郎はにこりと笑って、実に鮮やかな刺突を繰り出す。大きな穴を開が空くや否や、二人は転げ出るようにして診療所の外へと飛び出した。
案の定、新たな空気が入り込んだことで室内の炎は一気に勢いを増し、その余波を避けるように二人は慌てて壁から離れた。
そのままぼんやり燃えている診療所の方を見ていると、炎の燃え上がる音の他に聞こえるものがあった。二人が今いる場所からは生憎と見えないが、恐らくは浅葱達や、鎮火のために来た消防隊の喧騒。
縁は目を瞬いた。煙と熱のせいで眼球は痛むが、視力は失われたわけじゃない。四肢も火傷や擦過傷はあるが、五体そのものは無事だ。髪ばかりは焦げたようで全体的に短くなったようだが、どうせしばらくすればまた生えてくる。
霞がかったような頭で縁は思う。
助かった、いや、助かってしまった。
……自分は、死ぬつもりだったのに。
「…なぁんだ。あなたにもちゃんとあるじゃないですか」
「…何がだ」
相変わらず、人の気持ちを微塵も考えることもしない宗次郎の発言に、縁の目尻がつり上がる。
こちらは唇の端がやんわりと上がった顔で、宗次郎は続ける。
「あなたが後生大事に抱えているそれ。自分の身を省みもせずに取りに行った物。
それって、十分あなたの生きる理由になってるんじゃないですか?」
「生きる……理由……?」
言われて、縁は恐る恐る両腕を開いた。
巴の日記帳は無事だった。汚れは増し、強く抱き締めたことで破けてしまった部位はあったけれど、炎によって完全に失われることは無かった。
紙、という最も燃えやすい媒体がこうして無事に残ったことは、奇跡さながらだった。縁は震える指先で表紙を捲ってみる。擦り切れた墨の字は、それでもきちんと残っていた。何度となく見た姉の字だ。何度となくこの手でなぞった姉の字だ。
そのままぱらぱらと日記を捲り、縁にとっては最も忌まわしいあの日付けが現れる。
『さよなら。私が愛した、二人目のあなた』
初めて読んだ時、雷に打たれたような衝撃が走ったあの一文が目に映った。この日記を破り捨てようと、何度も思った原因がそこにあった。けれども……。
―――ああ…そうか………―――
不意に、縁は悟っていた。
ここに書いてある内容がどんなに信じ難くても、どんなに認めたくないものであっても、俺は結局、これを捨てられなかった。
だってここには姉さんがいる。姉さんがいるんだ。俺の知っている姉さんも、俺の知らない姉さんも。
それを受け入れられないまま、それでも決して手放せなかった物。……俺の、生きる理由。それが、ここにあると?
『あなたには、まだ知らないこともたくさんある。私のことも、私が二番目に愛したあの人のことも』
臨死の自分へと語りかけてくれた、姉のその言葉が頭の中で残響した。
知っている、だが気付かなかった。
いや、気付かぬようにしていたのかもしれない。
『生きなさい、縁』
本当はずっと、手の内にあったのに。
「……姉…さん……!」
縁は再び日記帳を抱き締めて、大粒の涙を零して泣き出した。
それを黙って見下ろしている宗次郎の頬にも、冷たいものが落ちた。勿論、宗次郎の涙などではない。
雨だ。
宗次郎は空を仰いだ。暗い雲から、たくさんの雫が降ってくる。ふわり舞い降りるような雪ではない。霙でもない、正真正銘の雨。
全身が火照った所に急に当たったから、却って肌がひりひりと痛む。
「雨、ですか」
濡れて錆びないように、宗次郎は天衣を納刀する。今日は色々なものをばったばった薙ぎ払ってしまったから、どの道手入れをしなければいけないが。刃こぼれとかしてないといいなぁ、と宗次郎は呟く。刃がないのに刃こぼれ、というのも変な話だが。
宗次郎は何となく空をそのまま見つめてみる。こんな風に全身を雨に打たれていると、どうしても昔のあの日を思い出してしまう。
ついこの間までは雪が降ったのに。
冷たい雨に打たれながら宗次郎は呟く。
「もうすぐ、冬も終わりですね……」
そう、つまりは春が近いのだ。
時が巡る限り、凍てつく冬はやがて終わり、草木芽吹く季節が訪れる。