―終章―
雨はやがて季節外れの大雨となり、次の日の朝まで降り続いた。
雨により家屋が濡れ炎の広がる速さが衰えたことで、診療所そのものは全焼したものの、母屋の方は小火程度でとどまった。無論これは、消防活動をした人間達の尽力によるところも大いに影響している。
診療所が焼けてしまったことで、中にある貴重な書物や診療器具といったものもほとんど失われてしまったわけだが、火事の前に二人分の薬箱を持って出かけていたことで、僅かばかりではあるが残った物もある。しばらく診療所そのものは休業することにはなりそうだが、それでも無事な母屋の方で人の具合を見ることはできる、と兄妹は語っている。むしろ、あれだけの規模の火事で被害が母屋にまで及ばなかった方がよっぽどの僥倖なのだ。
これは後で警察から聞いた話だが、例の火付け犯の男は、炎そのものよりも、火事を起こすことで逃げ惑う人々を見るのが楽しいと抜かすとんでもなく傍迷惑な人物だったそうだ。町外れの長屋に、
診療所、更にその日は他数件の放火まで行っていたというのだから、本当に迷惑極まりない。何でも、風のある日を狙って火を付けていたのに、突然雨が降って手間取ったことで、あちこちの火事に出払っていた警官隊の一団に見つかり、御用となったらしい。
幸い死者は出なかったからいいけど、やってたことは本当に悪質だよな、とは浅葱の弁。裁判はまだ先だろうが、牢にいる時間も相当長くなりそうだ、とは火事見舞いに来た新田談。
早々に警察に掴まって幸運だったなもし目の前に姿を現していたらひねり潰してやるところだと縁、僕にとっても馴染み深い場所だったし縁さん程とはいかないけどやっぱり僕も少し痛い目に合わせるくらいはしたかもあははとは宗次郎。物騒な発言だが、この二人が言うと本当に洒落にならない。
ともあれ、命あっての物種だ、と早々すぐに思考を切り替えられる筈もなく、慣れ親しんだ場所が呆気なく失われてしまった
兄妹はそれはそれは気落ちしていた。が、建物が駄目になってしまっても、そんな場所から縁・宗次郎共に生還したことだけでも救いだと、思い直している。
自己退院する筈だった縁は、この火事によって全身や喉に軽度の火傷、右足に打ち身・切り傷その他諸々全治二、三週間……というわけで、入院生活に逆戻りとなった。
宗次郎の方も縁よりは軽いとはいえ、同じような火傷は避けられず、しばらくは安静を言い遣っている。
そしてそんな二人は診療所が無くなったことで手狭になった
家の母屋の一室で、(仕方なく、といった風だが)並んで治療を受けている。
「いや〜、でも良かったですよねぇ、二人とも無事で」
「良くない!」
顔のあちこちに絆創膏を貼りながらでもにこにこにこと笑う宗次郎に、浅葱は容赦なく雷を落とす。その話題になるたびに、浅葱は御冠なのだ。
「こんな軽い傷で済んだのが信じられないくらいだ。一歩間違えたら本当に死んでたんだぞ」
その怒りは心配の裏返しでもあるが、実際に浅葱が怒っているのもまた、事実である。
「お前らが中に飛び込んだってこと知った時の
の顔……! もう、凄いってもんじゃなかったぞ」
「お、お兄ちゃん、その話は……」
「あはは、何か想像つきます」
「……あんまり
に心配かけさせるなよ。そのうちこいつ、胃に穴が開くんじゃないか?」
本気とからかいを交えつつ、先日の逸話を語る浅葱達。
ボロボロの風体ながらも無事に中から出てきた縁と宗次郎を発見した時、浅葱も
も愕然としつつ放心して、それからやっと安堵していたことは記憶に新しい。
そんな彼らを冷めた目つきで眺めながら、これまた侮蔑するような言い方を縁はする。
「…どこまでもお人好しな奴らだナ。お前らの家が焼けて無くなったんだぞ? 人の心配ばかりしている場合じゃないだろう」
元はと言えば、この縁が燃え盛る診療所にむざむざ飛び込んだことで余計に騒動に拍車がかかったわけである。
だというのにもかかわらずこの言い方―――しかし縁がこういった性格であることはもう十分に分かっていることなので、浅葱も別段腹を立てた様子は無い。
「確かにそれは……思うところ色々あるけどな。診療所はまるっきりなくなっちまったわけだし、俺だってすごく悔しいし悲しいに決まってるだろ。犯人を憎いって思う気持ちもあるさ。けどな、」
浅葱はここで一呼吸おいて、縁と宗次郎の顔を交互に見遣る。
「二人が無事に助かったってのは結果論だろ。どんなに剣の腕が立とうが強かろうが、人間死ぬときゃ死ぬんだよ! だから犯人が捕まった今は、そんな危険な場所にむざむざ飛び込んでいった奴らに対する文句の方がでかいかもな!」
叱かりつけるような口調である。
宗次郎はきょとんとした後へらりと笑い、縁はお馴染みの仏頂面だ。
大袈裟な反応を望んでいたわけではないが、こうも揃って糠に釘だと浅葱は頭を抱えたくなった。
「本っ当に心配掛けさせやがって、こいつらは…!」
「嫌だなぁ、浅葱さんてばそんなに怒らないで下さいよ」
「おまっ…! 誰のせいで人がこんなに怒ってると…!」
「まぁまぁ、お兄ちゃん落ち着いて…宗次郎君も縁さんも怪我人なんだし…」
言い争うかのようでも、漂う空気はどこか和気藹藹としている。
疎外感を覚えながら、しかし縁は思っていた。
(こいつ『ら』か…。俺も数のうちに入れてるとはな。…お目出度い奴らだ)
どれだけ能天気な奴らなんだと、呆れるような気持ちはある。しかし同時に、何故かこみ上げる衝動があった。
長いことずっと人と碌に関わらず生きてきた、だからかどうだかも知らないが、自分の身を案じて貰えた、たったそれだけのことにどうしてこんなに心が揺り動かされているのかも分からない。
しかし、それでも。
知らず知らずの内に頬が緩んだ。隣の男と違って、こんな表情になるのも長らくないことだった。開いた掌で、思わず顔を覆う。
「…クックック…」
掌で顔を覆って、その表情は見せないながらも、嬉しいわけではなく可笑しいからこんな風になったのだとしても、
縁は確かに、小さく声を上げて笑っていた。
「え、縁さんが笑った…!」
「これは…明日は雪だな……いや、雹かも知れない…」
あまりの出来事に、驚きを通り越して真剣に戦慄する
兄妹だった。何しろ、縁が笑ったのを初めて見たのだ。表情ははっきり見ていないし絶っっっ対に“微笑んだ”とかでは無いにしても、確かに笑ったのだ。仰天したというよりもぎょっとした、といった感覚に近い。
そして唐突に度肝を抜かれたからとはいえの兄妹の反応に「…お前らナ」と縁も思わず呟き、そのやり取りの面白さに宗次郎は声を上げて笑っている。
「あっはっはっはっはっは!」
「宗次郎君、笑い過ぎ…」
まぁ宗次郎は普段から笑っているが、と話を混ぜ返すのはやめておこう。
「でも、本当に宗次郎君と縁さんが無事で良かった。診療所が燃えちゃったことは凄く残念だけど……お父さん達の位牌は無事だったし、母屋も残っただけでも幸いだったね」
「そうだな…少なくとも寝泊まりする場所の心配はしなくていいしな。この先、何とか立て直すさ」
も浅葱も、この時ばかりは前向きな笑顔を浮かべる。一番落胆しているのはこの二人の筈だが、様々な出来事に巻き込まれてきたおかげで、いい加減騒動に慣れてしまったのかもしれない。
しかし本当に、命があるだけでも恵まれているのだ。
「さて、と。この一件のことで警察と話があるんだ。俺達ちょっと出かけてくる」
浅葱はやおら立ち上がり、傍らの羽織を羽織った。
も同様である。当日の現場の状況についてだったり、被害についてだったり、色々と説明しなければならないのだ。加えて、帰りには大工の所に出向いて診療所の残骸の撤去についてだとかどう再建するだとかを話し合ったり、近所には騒ぎになってしまった詫びに回ったりと、今日は兄妹は何かと忙しい。「喧嘩すんなよ」と浅葱は一応言い残し、二人は出かけて行った。宗次郎と縁は部屋にぽつん、と取り残される。
体中のあちらこちらに包帯を巻き、基本は布団で安静の縁に対し、宗次郎はまだ軽傷だ。横になって療養、という程度ではない。あちこちに火傷はあるが動くのに支障はないので、いつものように雑用を片付けたいところだが、浅葱と
からは休んでいるよう言い遣っているしどうしようかな…と宗次郎がぼんやりと思っていると「オイ」とおもむろに声がかかった。
座布団の上の足を崩しつつ、宗次郎は縁の方を見る。声をかけたくせに余所を向いている縁は、今回の件、と前置きした上で言った。
「俺はお前に助けられたんじゃない。……この命は、姉さんがくれたんだ」
「はぁ、そうですか」
「あの雨だって姉さんが降らせてくれたんだ。きっとそうだ……」
「……」
流石の宗次郎もこの時ばかりは、素で“こんな時どんな顔をしたらいいか分からない状態”だった。
一体何がどうなってそんな理屈になるのか、宗次郎にはさっぱりわけが分からない。
布団の上で半身を起こした縁は、いつの間にかボロボロの雑記帳を手にしていた。いつになく望郷の念の浮かんだ目を、縁はそれに落としている。
あの火事の中から、縁が命懸けで取り戻した物。そういえばその正体はまだ聞いていなかったな、と、宗次郎は話を向けてみる。
「それ、何ですか?」
「……死んだ姉さんの日記帳だ」
「へぇ」
意外にあっさり答えてくれた縁に物珍しさもあって、宗次郎はその雑記帳を何となくじいっと見てしまった。
即座に、縁は因縁を付けるような目つきで告げる。
「見せんぞ」
「見ませんよ」
いくら僕でも、と宗次郎は付け足すように言った。中身に興味がないわけではないが、だからといってわざわざ読む程ではない。人の物であるし。
縁曰く亡き姉の日記帳は、元々年季の入った物なのだろうが、今回の件でより一層痛んでしまったようだ。無事なのが不思議に思えるくらいだ。
細心の注意を払って頁を捲らないと、簡単に破けてしまいそうな程に……しかし縁は本当に本当に大切そうに、その日記帳を開いて、並ぶ文字列を追っているのだ。まるで一文字一文字、確かめるように。
「姉さんは優しかった。姉さんは俺を大切にしてくれたし、俺も姉さんを大切に思っていた。
……大切にしていると思っていた、のに、俺はどこかでそんな姉さんを蔑ろにしていたのかもしれない……」
もう一度、掬い取るように、縁は日記帳を読み込んでいく。
あんまり縁が熱心にそれを読んでいるものだから、宗次郎はふと、こんなことを言いたくなった。
「自分のことを大切にしてくれる家族……か。僕は、そんな人いなかったから」
正確には母親がいたが、宗次郎の思い出はおぼろげだ。いたということを何となく覚えているくらいで、大切にして貰った記憶は無い。確かに守って貰っていた筈なのに、宗次郎にはその覚えが無いのだ。だから彼にとっては、いないも同義だった。
「だから、縁さんがちょっと羨ましいや」
結が言うには、縁は家族を亡くしているらしい。それがその姉のことなのか、他の家族のことなのかは分からない。それでも少なくとも、縁には自身を温もりで包み込んでくれる存在がいたのだ。
内容に反して、宗次郎はにこにこにこと屈託のない笑みを浮かべている。いつものように皮肉の一つでも言ってやろうとして、しかし縁はやめる。
巴の柔らかな笑顔を思い浮かべた。幻ではなく、記憶の底から引っ張り上げた思い出の中のものだ。
姉さんはこんな風にガキみたいな笑い方はしない。いつも清楚で品があって、柔らかく微笑っていたんだ。
いつも見守るように傍にいてくれて……けれど今は、もういない。
「……何を言っている。お前にもいるだろう。家族でなくても、お前を大切にしている奴らが」
だから、随分と贅沢を言っているように思えた。こいつはそれに気付いているのかいないのか。
たとえ家族じゃなくても、
「…それも、すぐそばに」
そう、ごくごく近くにいるというのに。
「俺はその方が羨ましい」
極々小声で縁は呟いた。自分自身でも聞き取れるかどうかくらいの声量だった。
だから宗次郎も何と言われたのか分からなくて、「縁さん、今何て言ったんです?」と聞き返すも、縁はもう貝のように口を閉じてしまってだんまりを貫いた。
あんまりしつこく聞いてまた怒らせるのも何だから、まぁいいや、と宗次郎は追及するのはやめにした。
(家族でなくても、大切にしてくれる……か)
しかしまさか縁に、そんな言葉を貰うとは思っていなかった。改めて言われると何だか不思議で、しかし胸の辺りが仄かに温かい。
とりあえず、今日の夕飯は何にしようかなぁ。
縁がまた日記帳に没頭してしまったので、一人暇な宗次郎は外の空気に凍えて帰って来るであろう浅葱と
の姿を想像して、夕餉の算段を立て始めるのだった。
いざ作り出そうとしたら、止められるかもしれないけれど。
了
縁の出てくるシリーズ『銀影編』、これにて終了でございます。
連載期間が長くなってしまいましたが、ひとまず、無事にラストまで漕ぎ着けて良かった、というのが正直な心境です。
思っていた以上に浅葱の出張ったシリーズになってしまいました。設定というかメタ的な話をすると、浅葱は兄属性だからですね、きっと…。
今まで浅葱は今一つ影が薄かったので、ここに来て急に存在感増したことに「おっとオリキャラ出張らせ過ぎか?」とも思ったのですが、「まぁオリキャラ出張ってるのは今更だから…」と開き直って書いていました。『風の彼方』の物語的に、既存るろ剣キャラだけじゃ話を動かせるわけもなく、どーしてもオリキャラ・オリ設定が跋扈してしまうのですが、大目に見て頂けると嬉しいです…。
あとがきという名の解説になりますが。
そもそもこの話を書いた理由は、原作最後のあの縁が立ち直っている図が、私の中に無かったからです。
剣心に敗北した上に、日記帳によって自分の(第三者から見ると独りよがりにも見える)信じていたものが覆されて、その結果があの呆然自失状態なわけですが。
個人的解釈で申し訳ないですが、自分では正当化していても傍から見れば歪んでしまっている、凝り固まった怒り・憎しみが薄れるのにやはり時間がかかると思うのです。しかし抜刀斎に対する以前のような復讐心を失ってしまったことは、縁には生きる気力を無くしてしまうのに等しいのではないのかと…。外見イメージとしては、再筆縁、あんな感じです。
その縁に、「自分自身を見つめ直すきっかけを与える」ってのがこのシリーズのコンセプトの一つでした。
宗次郎に言われたからどうの、とかではなく。しかし、宗次郎の存在は縁にとってはどこか剣心を連想させるものでもあり、宗次郎もまた剣心の存在あったからこそ『風の彼方』物語において流浪人後の生活があるわけです。
そんなニアミス的な二人が出会ったらどうなるか? その辺りも書いてみたくはありました。
要は、縁が長いこと目を背けていた自分自身に、自分で目を向けてくれればと。
それから、縁には、自分の中の(自分にとって都合のいい)巴さんではなく、実際の巴さん(日記の中の巴さん)を自分自身で選んで欲しかったというかなんというか。
うまく言い表せませんがそんな感じです。しかしあとがきが長くてすみません…。
最後、縁は診療所に残る羽目になってしまいました。実は、それは序章を書き始めた時は予定していなかったことなのですが…このことが今後の『風の彼方』シリーズに繋がっていきます。
正直、こんなに長く書くとは思わなかったこの『風の彼方』シリーズ…。自己満足もいい所なのは重々承知しています。
でも、私の中で最終章の構想ができあがっていて、書き始めた以上、最後まで書いてみたいと思うわけです。いつになるかは分かりませんが、宗次郎と兄妹の出会いを描く『黎明編』、そして剣心組も登場して今度こそ物語の幕が閉じる『最終章編』、その二つのシリーズを予定しています。果たしてそこまでお付き合い下さる有り難〜い方々がどのぐらいいらっしゃるかは分かりませんが(笑)、二次とはいえ物書きのはしくれとして、きっちり物語は締めたいと思っています。
長くなってしまいましたが、ここまでお付き合い下さりありがとうございました!
よろしかったら、拍手やBBSで『銀影編』の感想を下さると嬉しいです。
2013,5,4
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