―第一章:夜明け方―
その日の夜中、宗次郎の予想通り雪が降り出した。
もっとも彼らがそれに気が付いたのは明け方になってからで、も今、廊下の窓からぼんやりと、外の景色を眺めているところだった。淡い藍色の空気の中、後から後から舞い降りる無数の白。空にある時にはまだ小さな一片なのに、地や庭木の上、屋根の上に到達すると、少しずつ降り積りそれらを真っ白に染め上げていく。
まだ一寸も積もってはいないが、それでも雪自体一冬に数える程しか降らないこの静岡の地では、十分に辺りは雪景色だった。
が無意識に溜め息を吐くと、それもほんのりと白く色付いた。そうして、後ろの療養用の一部屋に振り向く。
例の、気難しい男が休んでいる部屋だった。
一時間程前、はそうっと彼の部屋に入り、様子を窺ってみた。入り口側に背を向けて寝ていたからその表情までは分からなかったが、規則的に動く彼の背中の掛布が、意外にも彼が寝付いていることを示していた。そのことに少しほっとして、は消えてしまっていた火鉢の火を起こし直す。外は雪の上に早朝だ、いくら寝台で掛布にくるまっていたとしても、この部屋そのものが寒いことに変わりは無い。
彼を刺激して目覚めさせることのないように、は慎重に作業をし、そしてそれを終えると、彼の分の朝食を、寝台脇の棚の上に置いてきた。献立は昨日と同じだ。ただし今朝はみそ汁もつけた。
昨日、あの出来事の後、男は結達を拒絶したままで眠ってしまい、ついに食事を取ることは無かった。浅葱は「構って欲しくないみたいだし、しばらくはそっとしとこう」と呆れ交じりに憤っていた。
用意した食事を男に振り払われた時は酷く驚き、落胆も隠せなかったが―――かといってそのまま放っておくことは、にはできなかった。ただでさえ衰弱しているのに、何も摂取しないのでは、彼の体調は一向に良くならない。本当なら、浅葱と一緒に診察して、その時また食事を勧めるのが筋なのだろうが、は何となく、それではまた男が昨日と同じことを繰り返すような気がした。その勘に根拠は無いが。
それでも、『手負いの獣』のようだという彼の印象、あれを頼りにするなら、彼は独りでいた方が、食事をしやすいのではないか、と思ったのだ。それはある種、一種の賭けかもしれなかった。
とにかくそんな経緯では廊下でじっと待ち続けているところなのだ。幾度か所用でこの場を離れたものの、基本的にはずっとここにいたから、着込んでいるといっても流石に体も冷えてきた。いつもより早起きしているから尚更だ。浅葱と宗次郎はまだ起きてくる気配は無い。
もう一度窓の外をちらりと見て、はそろそろ男の様子を見てみよう、と決意した。もしも起きていたら―――内心、彼に対する恐怖心は抱いていたが、それでも退くわけにはいかなかった。
はそっと手を伸ばすと、音を立てないように静かに戸を引いた。まだ薄暗いが、それでも火鉢の火と雪明かりでほのかに明るいその部屋の中、男は寝台の上に上半身を起こした姿でそこにいた。ほんの少しだけぎくりとしたが、声を上げるような真似ははしなかった。そのまま男をそっと見つめる。
男は昨日そうしていたように窓の外を眺めているようで、やはり彼の銀色に近い白の頭髪しか見えない。そうして視線を移してみて、棚の上に置いたお盆、その上にあった器の中身がすべて空になっているのを認めて、の顔に思わず喜色が浮かんだ。
「…!」
床に打ち捨てられているということもなく、匙を見るにどう見ても食べた形跡があった。後ろ手でそっと戸を閉めながら、は嬉しさでいっぱいの気持ちで男に近付いた。ただし、やはり男の気に障らないように、少し距離は開けたままで。
「…起きてらしたんですね。気分は、どうですか?」
「……」
男は無言で何も答えない。本当は顔色も見たかったところだが、彼の目はひたすら雪に向いているようだった。
それで、やや間を置いて、は男に尋ねてみた。
「雪、お好きなんですか?」
「嫌いだ。嫌なことを思い出すからな」
驚く程、即座に返事があった。が目を丸くしていると、男はゆっくりとこちらに顔を向けた。痩せて頬が削げているものの、宗次郎とはまた種類の違う整った顔立ち。一晩深く眠ったせいか、昨日より顔色はいいようだった。瞳は変わらず危うさを湛えたままで、それでも昨日のような刺々しさは、少し和らいでいるようだった。その双眸が結を捉え、じっと見た。目が合ったことに、は幾らかの気まずさを覚える。
「…昨日の今日で、よくのこのこ来られたもんだナ」
「それは、だって、やっぱり何か口にしないと、治るものも治りませんから。もしあなたが今日も拒否してたら、宗次郎君に無理やり押さえつけて貰ってでも、何か食べさせるつもりでした」
半分は冗談だったが、半分本気だった。何か食べれば良くなるのにあくまでも何も食べようとしないのなら、強硬手段に出てでも滋養を取らせようと。もっともそれは最後の一手ではあったが。
医者としても、個人としても、弱っていく人が何の対策も取らずそのまま更に弱っていくことを見過ごせはしなかった。
「…宗次郎。昨日の、アイツ、か」
呟いた男は、ほんの少し目を細めた。そこには得体の知れない怒りのようなものが滲んでいるようにには思えた。
「……」
「…? あの…」
そうして男はまた口を噤んでしまった。窓の外はまだ雪が降り続けている。
男が嫌いだと言った雪。ならばどうして、彼はずっと雪を見つめ続けていたのだろう。
「…歳は、いくつだ」
また唐突な質問である。男が何を考えているのか、にはさっぱり読めなかったが、彼の目線が自分を見ていることから自分に訊いているのだろうと判断し、
「先月で十八になりました」
と答えた。が生まれたのは本当は春だが、この時代の人間は、一月一日に皆、歳を数える。
「その容姿でか。随分と幼いな」
「なっ…!?」
男か溜め息交じりにそう言ったのを聞いて、も思わず声を上げてしまった。確かに、自分でも十八にしてはまだまだ子どもらしさの残る顔立ちだし、もっと大人の女性らしくなりたいと密かに考えてもいるが、まさか昨日会ったばかりの人からいきなりそれを指摘されるとは思ってもみなかった。
が目を白黒させていると、男は不意に棚の上の盆を差し出してきて。
「もう済んだから早く片付けろ。しばらく入って来るな」
何故こうも、脈絡がないのだろう。昨日よりは会話が膨らんだが、これではまだ、お互いに言いたいことだけを喋っているだけの状態だ。
は釈然としなかったが、それでも食べてくれただけいいか、と無理やり自分を納得させて盆を受け取った。じゃあまた後ほど、といって踵を返しかけ、ふとその足を止めた。
「…あの、お名前、教えて頂いてもいいですか?」
そっと問うも、男の顔は再び窓の方を向いてしまっていた。
「あなたのお名前、まだ聞いてなかったから…。私はといいます。昨日あなたを診たのは兄で、名を浅葱。もう一人は…」
どうやらこの男は、宗次郎の名は認識しているようだったが、一応簡単に紹介しておくことにした。
「うちに居候をしている人で、名前は瀬田宗次郎。以前は流浪人だったんです」
「…流浪人…」
掠れたような声で男が呟いた。ただ、それはの耳までは届かなかった。
火鉢の炭の爆ぜる音だけが時々響き、しばし待っても男の返答は無かった。は苦笑を零して諦めて、今度こそ退室しようとした。
その刹那。
「…縁だ」
目線は窓の外の雪に向けたままで、男ははっきりとそう答えた。えにし、という響きを心の中で反芻し、人と人との縁、巡り会い、それを連想し思わずは感想を口にしていた。
「素敵な、お名前ですね」
「…早く行け」
男は、いや縁はやはりそっけなく言い、それで本当にはその部屋を後にした。廊下に出て戸を閉めたところで、はほっと肩の力を抜く。
どうやら、思った以上に自分は緊張していたらしい。それを自覚すると同時に、寒さがの体を通り抜けた。火鉢のある部屋と廊下では、やはりこちらが格段と寒い。
私もお茶でも飲んでこようか、はそう考えて台所のある右手側に進もうとして―――
ぎょっとした。
自分のすぐ前に、宗次郎が立っていた。
「え、な、宗次郎君…! いつのまに」
いきなりの登場に、はうまく言葉が出てこない。口をぱくぱくさせていると、宗次郎がふわりと笑った。
「いつの間にって、僕、さっきからここにいましたよ。さん全然気付いてなかったみたいですけど」
確かに、全然気が付かなかった。病室を出た時は、縁と無事にやり取りを終えた、という安堵がいっぱいで。
その様子を、宗次郎はすぐ横から、恐らくいつもの笑みで見ていてくれたというのに。
はまだ些か動揺したまま、気恥ずかしそうなばつの悪い笑顔を浮かべて宗次郎に向き直る。
「さっきって、いつから?」
「ええと、さんがこの部屋に入って行くのが見えて、その時からかな。もしも何かがあったら、飛び込んでいくつもりだったんで」
「え…」
自分と縁が中で会話をしている間、宗次郎は邪魔をしないように部屋の外で、それでも室内の様子を窺っていてくれたのだ。
宗次郎が自覚してか無自覚なのかは分からないが、それでも自分の身を案じていてくれたことに、はほんのり嬉しくなる。
「それは、…ありがとう、って言っていいのかな。でも、今朝はあの人、大丈夫だったよ。一晩休んだからかな、何て言うか、剥き出しの敵意は消えてたように感じた」
それは、の率直な感想だった。少なくとも今は、表面上だけでも穏やかに思えた。昨日と比べれば、だが。
「名前も教えて貰ったよ。縁さん、だって」
「へぇ…」
宗次郎が小さく相槌を打つ。
それが名なのか姓なのかはともかく、呼べる名前を得た。名前を教えて貰う、それだけでも、ほんのわずか、距離は縮まったような気がはするのだ。
たとえ縮まる前の距離が、とてつもなく長かったとしても。
「そういえばそれ、今日は食べて貰えたんですね。良かったじゃないですか」
「うん、とりあえずは、一安心ってとこかな」
宗次郎が示すのは、の手の中にある盆だ。器が空になっていることを、しっかり見逃さないあたり宗次郎である。鷹揚そうに見えて、存外彼は鋭いのだ。
「僕達も朝ご飯食べましょうか。浅葱さんもさっき起きてきてましたし」
「そうだね、そうしようか」
は一度手の中に視線を落とし、そうして廊下の窓の外を見た。雪が絶え間なく降ってくる光景はまだ変わらない。
宗次郎も同じように雪を見やって、ほんの少し目を細めた。それから二人は、連れだって台所へと向かったのだった。
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