喉の渇きが癒されないんだ。









いつになっても。





いつまで、経っても。











―序章―



その日はもう昼間だというのに、空気が肌を突き刺すように冷え冷えとしていた。
見上げた空は厚い鈍色の雲に覆われ、あぁ、これはもうすぐ雪が降るかもなぁ、と宗次郎は思った。
明治二十二年、二月。様々な出来事が起こった昨年に別れを告げてから、もう二ヶ月余り。こう寒さが厳しい時は、その時に負った傷痕が疼く。
の往診に付き合ったその帰り道で、宗次郎は身を縮こませていた。今日は普段の書生姿に羽織を着ただけ、という出で立ちだった。寒さ対策をしていないにも程がある。まぁそれでも、何といっても宗次郎のことだから、こんなもんでも何とかなるだろう、という楽観的思考に基づいてのことだった。隣の は、きっちりと厚手の着物を身に纏い、防寒着を羽織っていたものだったが。
自分の二の腕を軽く抱く、といった風な格好をしていた宗次郎に程なく気付き、 は心配そうに言う。
「大丈夫? 宗次郎君。やっぱりそんな恰好じゃ寒いんじゃ…私の上着、貸そうか?」
「嫌だなぁ、それじゃあ さんが寒くなっちゃうじゃないですか」
文字通り、宗次郎は の心配を笑い飛ばす。でも、と言いかける に、宗次郎はやんわりと笑んで。
「寒いは寒いんですけど。どちらかっていうと、去年の傷が痛むなぁって感じだから」
「! そっか、そうだよね…」
その答えに の顔が曇る。
宗次郎の体の傷の中には、彼が を助け出そうとした、その過程でついたものも少なくないのだ。もっともその大半は、宗次郎に執着していたあの男、蘇芳によるものだったが。
未だ、蘇芳は宗次郎の前に再び姿を現す気配は無いが―――それでも、去年のあの一連の出来事を思うと、 の心中は沈む。あの時、どれだけ迷惑をかけてしまったかと。そうして を庇って、彼が生死の淵をさ迷ったその時のことも。
今でこそ、ここでこうして隣でいつもの微笑みを浮かべているけれど、それでもどうしてもその時のことを思うと、 は胸が苦しくて仕方がない。
そうして、一人落ち込みかけていた に、宗次郎はもう一度、嫌だなぁ、と笑うのだった。
「僕は今、この通りこうして元気なんですから。 さんてば、またそんな顔しないで下さいよ」
「うん、でも…」
それでも、勝手に沈む心は止められない。塞ぎ込んだ表情の の顔を覗き込むようにして、宗次郎はやはりにっこりと笑う。
「さ、早く帰りましょう。僕、お腹空いちゃったなぁ。昨日浅葱さんがお饅頭買ってたじゃないですか、あれ食べましょうよ、あれ」
何を言うのかと思えば。
まるで幼子のようなそれだ。 は思わず噴き出してしまった。宗次郎なりに気を遣って(?)くれたのだろうが、慰めにもなっていないその台詞が、それでも彼らしいな、と思う。
宗次郎は宗次郎で、いつもの柔らかな表情を取り戻してくれた にどこかほっとしていた。ちょっとしたことですぐに落ち込んでしまう彼女に―――思えば去年の蘇芳との一件以来それは顕著だったが、けれどできればいつも穏やかであって欲しいと、心のどこかで宗次郎は思っている。それは当人も気付いていないかもしれないが、とにかく、 が沈んだ顔を見るのは、とりわけ自分のせいでそうなっている彼女を見るのは、何だが落ち着かないのだ。
ともあれ、 も気を取り直してくれたようなので、宗次郎も満足して歩みを再開する。家の連なる街並みの中、しかしこの寒さのせいなのか、人の姿は少ない。
だから、遠く前方から歩いてくる影に、宗次郎も も、目を留めずにはいられなかったのだ。
「…あの人、」
近づくにつれ、先にその人物の異様さに気が付いたのは だった。身に纏ったのは異国風の、けれどボロボロの服。所々破けていて、そこから露出する肌もまた、汚れているようだった。頭髪は真っ白で老人のようだったが、それにしては背が高く、体格がすこぶる良い。俯いているから、その顔立ちこそ分からないが、その人物は体形から察するに男のようだった。足取りはおぼつかず、ふらふらと頼りない。
「具合が悪いのかしら」
呟くや否や、 はその男に向かって駆け寄っていた。「相変わらずお人好しだなぁ」といい意味で感心しつつ、宗次郎もその後を追う。 が感じたのはその男の不調についてだったのだろうが、宗次郎もまた、違うものをその男から嗅ぎ取っていた。いわば、剣客としての勘とでもいうのか、何かが引っ掛かったのだ。それの正体こそ宗次郎は分からないものの、とにかく―――宗次郎もその男のすぐ側まで近付いた。
「大丈夫ですか? どこか具合でも?」
が恐る恐る男に尋ねた。それまで俯いていたその男が、それでゆっくり顔を上げた。頬こそ痩せこけていたものの、頭髪の色に反し存外若い。自分よりは年上だろうが、大して年は変わらないんじゃないか、と宗次郎は思う。
その男の顔は生気を失っていたものの、長く伸ばしっ放しになっている前髪の下から覗いた瞳は、瞳だけはぎらっとした光を帯びていて、まるで手負いの獣のようだ、という印象を は受けた。どこか気圧されながらも、 は医者としての矜持もあり、なおもその男に言い募る。
「よろしかったら、体を診せて下さい。あの、私と兄は医者をしてまして、この近くに診療所があるんです。それで―――」
「…失せろ」
ようやく男が発したのはただ一言。しかしたった一言でも、それは重く鋭い響きを放っていた。変わらずぎらついた眼差しで、 を射抜くように見る。何人たりとも近付くな―――そんな、無言の圧力がそこにあった。
は思わず息を呑んだ。常人の眼光ではない、咄嗟に、そう思った。そう、以前蘇芳の狂気に触れたことがあるからこそ、質こそ違うものの同系統の眼差しと。
その威圧感に はたじろぐ。この人、実は危険な人なんじゃ―――と、本能が警鐘を鳴らす。
しかしそんな男の様子に構うことなく、宗次郎は穏やかに言ってのける。
「まぁまぁ、せっかくこう言ってるんですから、そう邪険にしないで下さいよ」
「煩い。俺に構うな」
男が今度は宗次郎を睨みつける。まるで虎が獲物を見つけた時のようなその鋭さは、並みの神経なら一目散に逃げ出したくなる程だろう。しかしそこは宗次郎、彼の泰然とした心もさることながら、長年の修羅場をくぐってきた経験もあって、そんな程度ではまったくもって動じない。
にこにこと笑い続ける宗次郎に苛立ちを増したのか、男はついに腕を伸ばしてその胸元を掴もうとした。しかしやはり男は体調が良くないのだろう、本来ならシャツを掴み上げられてもおかしくは無かったが、その一撃に精密さは欠けていた。宗次郎はその隙をついて、男に足払いをかける。
「―――っ」
男は盛大にその場に崩れ落ちた。そのまま動かない。どうやら地に倒れ伏したことで、悲鳴を上げていた彼の体がようやく限界を悟ったようだった。男も思うままに動かない自分の体に驚いているらしく、目を見開いて歯を食い縛っている。
「ほらほら、無理は良くないですよ。ま、ちょうどいいや、このまま連れて行っちゃいましょう」
ちょっと宗次郎君、とやや青くなっている を半ば尻目にして、宗次郎は彼の側に屈みこむと、その腕を取った。そうして触れてみて、おや、と気付く。この筋肉の付き具合、やっぱり普通の人なんかじゃない。例えば自分のように、剣術か、何かしらの武術の心得がある人間だと。
(そもそも目つきからして普通じゃないか)
あんな、目だけで人を射殺すような芸当、並みの人間にできっこない。
診療を申し出たのは だが、宗次郎もこの男に若干興味を抱いた。そんなわけで、宗次郎は男の腕を肩に担ぎ上げると、体格差もありずるずると引きずるようにして歩き出す も男の反対側を支えるようにして歩を進める。
男は歯噛みするような顔をしていたが、観念したのか、不思議と大人しく従っていた。






「…極度の疲労と栄養失調。それと水分不足ってとこだな。よっぽど飲まず食わずでここまで来たんだろ」
男の体を診た後、浅葱はそう診断を下した。宗次郎もその様子をずっと傍から見ていたのだったが、診察のために上半身の服を脱ぎ捨てたその男の体は、痩せ衰えてはいたものの、やはり腕や胸には鍛え上げられた筋肉があった。刀傷らしき古傷も、多々見受けられた。
そんな男が何故、生き倒れ寸前で歩いていたのか。宗次郎には考えも及ばなかったが、とにかくその男は今、患者用の白い着物を身に纏い、寝台の上に上半身を起こして座り、呆然と窓の外を眺めているのだった。
顔や肌を清めると、その男は整った顔立ちをしていることが分かった。そうしてみると彼の白髪も存外違和感がなくなるから不思議だった。あちこちがはねた癖のある髪型も、どこか異国然としている。
「ま、これも何かの縁だ。本調子に戻るまでしっかり養生していくことだな。じゃないと、またどこかでぶっ倒れるぞ」
浅葱の口調はぞんざいだが、男の身を案じる響きがあった。男が無反応なことに小さく溜め息をつき、ああそうだ、と追加する。
「診療代のことなら、気にしなくていい。もし今手持ちがなくても、無理しなくていいから…まずは、ちゃんと体を治さないとな」
男はなおも振り向かない。この男と宗次郎や結が出会った経緯は聞いていた。取っ付きにくい感じがするし、慣れ合いを好まない性質なのかもな―――そんなことを考えていると、廊下側の戸が開き が顔を出した。
「お待たせ。お茶とお粥の用意ができたよ」
「ああ、悪いな」
はお椀や匙、湯呑みといったものが載った盆を手にし、部屋に入ってきた。お椀に盛られた粥は卵入りで、ふんわりとした黄色が目につく。湯呑みのお茶からも湯気が立ち上っていて、口にしたら体も良く温まるだろう。火鉢を焚いてはいるものの、やはり空気はどこか冷たい。
「どうぞ」
は笑みを浮かべながら、男に盆を差し出した。ややあって、男がようやく振り向いたので も浅葱も内心胸を撫で下ろす。
ところが次の瞬間、男は の盆の上の物を思いっきり振り払った。湯呑みの割れた音、お椀の転がる音に続き、床に粥やお茶が無残にもぶち撒かれた。それでもまだ湯気は立ち上っていた。
が盆を差し出したままの姿勢で固まり、宗次郎も浅葱も目を丸くする。が、即座に声を荒げたのは、浅葱だった。
「何するんだ! 食べ物を粗末にして!」
「…誰も、助けてくれとは頼んでいない」
つっけんどんな男の口調に、浅葱はさらに怒りが跳ね上がりそうだった。 も困ったような、泣きそうな顔をしながら立ちつくしている。
宗次郎は二人を見比べて、ぽりぽりと頬をかいた。そうして、男に一歩近づいた。男の目は、今度は茫漠と床を見つめていた。
「まぁ、確かに勝手に助けたのはこっちなんですけど。それにしたって、ちょっとあんまりなんじゃないですか?」
宗次郎はあくまでも柔和に笑い、口調も穏やかだ。男を刺激しないようにかどうかはさておき、宗次郎なりに助け船を出したつもりだった。
男の目が、それで宗次郎の方を向いた。
また、あの、飢えた虎のような色をしていた。
「…お前、」
「はい?」
ようやく会話が成立しそうだった。思ったのもつかの間、次に男が発したのはこんな一言。
「血の臭いがする」
宗次郎の笑みが一瞬、消え失せて真顔になる。
しばし男は鋭く宗次郎を見据え、やがてその視線を外すと寝台に横になった。そのまま掛布を肩口まで被ってしまう。浅葱が驚いたような声を上げる。
「おい、あんた、」
「寝る。構うな」
それだけを言い残し、男はそのまま微動だにしない。どうやらもう干渉して欲しくは無いようだった。
浅葱は憮然として、 は眉根を寄せて顔をつき合わせる。宗次郎は今度は頭をかいて、う〜んと天井を見上げた。
もしかして、とんでもない人を招き入れちゃったんじゃ。
そんな、予感がしていた。
















寒月編の後書きにもちらっと書いた、ずっと温めていた縁編です。
正直手探り状態で書き始めましたが、最後までお付き合い頂けたら幸いです。

初稿:2011,10,16