―第三章:月夜の邂逅、再び―




夜が来た。
案の定、この子どもの体では米俵を運びきるのは無理で、その報告をすると義父は過去と同じく酷く不愉快そうな顔をした。
あ、この後は蹴りが来るだろうな、と予測していたらやっぱり蹴りが飛んできたので、その勢いに合わせて宗次郎はうまく体を引き衝撃を和らげつつ、吹っ飛ばされながらも受け身を取って地面に着地した。痛いは痛いが、前と同じ場面の時よりは痛くない筈だ。多分。
「今日中に米俵百俵、西の倉に移しとけって言っただろうが! 出来ねェじゃねェだろ、やれっつーたらやりゃいいんだよ!」
酒を煽りながら義父が吐いた怒号はあの日とまるで同じような気がして、宗次郎はもう笑うしかなかった。
(参ったなぁ…この分じゃ次は酒の瓶かな)
「何ニタニタ笑ってんだァ!」
想像通り、酒瓶が投げ付けられた。
こちらは流石にまともに食らうと痛いし怪我をすることは分かり切っていたので、宗次郎は頭を傾けてひょいとその攻撃を避ける。宗次郎の顔の横を通り過ぎて地面に落ちて割れる酒瓶。
宗次郎が避けたことに義父は一瞬面喰らった顔をしたが、見る見るうちに更に不機嫌になるのが分かった。
「てめ…」
「続き、してきます」
義父が何事か言おうとする前に宗次郎は立ち上がり、さらりと告げて背中を向ける。
彼らの行動を何なく受け流せるだけの技術と経験がある、それは過去と今の違いであり、宗次郎にとっては有利な状況でもある。
昔は義父や義兄達が顔色を変えるだけでびくびくしていたが、今の宗次郎はそれを見ても「あ、また怒ってる」と軽く思えるし、飛んでくる拳だの足だのを避けたり、その勢いを殺したりする技量もまた持ち合わせている。“天剣の宗次郎”として数々の修羅場を潜って来た身にしてみれば、乱暴だが所詮は素人である彼らの攻撃を見切るのはいとも簡単だった。
子どもの体での間合いを測り損ねて食らってしまったこともあるし、この夢を見始めた最初の頃こそ再び目にした義理の家族達に無意識のうちに緊張してしまっていた部分は勿論あるけれど。
とにかく、ここまで来たら後はもう、この後志々雄に出逢うかどうかを確かめるしかない。
「いいかッ、ちゃんと仕事こなすまで屋敷には入れねェからな!! 今夜は外で寝やがれ!!」
「まぁまぁ父さん」
背後の雑音をほとんど聞き流して、宗次郎は屋敷の裏手の井戸の方へと向かう。ひやりと冷たい砂利道を歩いて足の裏は痛い筈なのに、足取りは何となく軽かった。
(…もうすぐ、きっと志々雄さんに会える)
井戸の所まで付くと、宗次郎はその淵に手をかけて空を見上げた。煌々と輝く月は、あの日と同じ真円だった。
(ここまで来て会えなかったら、どうしようかなぁ)
ふとそんなことを考えながら宗次郎はへらりと笑う。
正直、それは困る。
元にいた時代に戻る方法も分からないし、志々雄にも出会えなかったらずっとこのままここでの少年時代を送るしかない。答え探しができない、それは非常に困る。
どうやったらまた青年の姿に戻れるのか…もし志々雄に会えないままだったら、そのまま時の流れと共に成長して大人になるのか? それすらも謎だ。
志々雄にまた会えるかどうか。それはこの夢なのか何なのか、いきなり訳の分からない状況に放り込まれた宗次郎にとっては、よすがのようなものだった。送っていた毎日ががらりと変わった昔のように、志々雄にまた会えればこの夢も何か変わるんじゃないだろうか、と。
暴言と暴力だけが降り注ぎ、明日に希望なんて見えず、むしろまた明日も同じような日が来るのか、と、憂鬱な気分で眠りについた過去の自分。
あの頃は弱かったから、何もできなかったから。
明日もそんな日が来るのだと分かり切っていながらも、この場所に居続けるしかなかった。暴力を耐えれば、自分さえ我慢すれば、それなら何とか、それでも何とか生きていける。幼い宗次郎はそう諦めきっていた。
(…でも、今にして思えば)
自分の生きていく場所は、どれだけ嫌でもここにしかないと思い込んでいた。
けれど、義理の家族達に追い込まれた、あの窮地で彼らを斬り殺してまで難を逃れたその底力が自分にもあったというのなら、その力を別の方向に使って何とかここを逃げ出すこともできたのかもしれない。彼らは逃げた自分を探そうとするだろう、それでも、必死に逃げて逃げて身を隠して、ここからもっともっと遠く行けば。その先には、もっと開けた世の中が広がっているのだ。
手段さえ選ばなければ、何もここでなくても生きていけた。
今の宗次郎には、それが分かる。けれど過去の宗次郎は何も知らなかった。義理の家族達に押さえ付けられながら、それでもここだけが宗次郎の世界のすべてだった。そこから連れ出してくれたのはやはり志々雄であり、そしてこんな考え方が頭をもたげるようになったのも、きっと弱肉強食の理念を教えてくれて、宗次郎を強くしてくれた志々雄のお陰でもあって。
今の宗次郎は強いから、この家だけでない世の中を知っているからこそこう思うのであって、過去の自分はたとえこの家の外に幾らでも逃げ場所があることを示唆した所で、きっとこの場所に留まり続けることを選んだだろう。
弱かったから。この家を飛び出して生きていく度胸もなかったから。そうしてまで生きていこうとする強さが、何よりもなかった。
けれどその強さがあの頃にもあったなら、もしかしたら、誰も殺さなくても生きてこられたのだろうか…。ぼんやりと、そんな詮無いことを思う。
「ぎゃあっ!」
遠く、聞こえてきた叫び声に宗次郎は意識を引き戻される。
まさか、今のは。
察すると同時に、その方向へと駆け出す。立ち並ぶ米倉の更にその先、刀の交わされる音、肉を切り裂く音、すっかり耳に馴染んだそれらの音が導く方へと、宗次郎は足を速める。
果たして、そこには―――在りし日の志々雄がいた。
月明かりに浮かぶその影。全身に包帯を巻き付け、剣を振りかざす後ろ姿は、酷く懐かしく思えた。顔はまだ見えないが、その佇まい、雰囲気からしてやはり志々雄に間違いない。
志々雄は上段からの一撃で、対峙していた警官を頭から真っ二つに切り裂く。子どもの頃の宗次郎の心に畏怖と強さを一瞬のうちに刻み込んだ、あの時の一撃とまるで同じ鮮やかさだった。
警官が倒れ、辺りに真新しい血の臭いが漂う。荒い呼吸を繰り返す志々雄は、肩を上下させていた。乱れた包帯の隙間から覗く肌は、月明かりの下でも分かる程赤黒く焼け爛れ、血と膿とでぬらぬらしていた。
この頃の志々雄はまだ長く続く逃亡生活で碌に体も癒えていなかっただろうに、この状態で良く動けたなぁ、流石志々雄さんだなぁ、と、その全身火傷の詳細を知った今となっては、そういった感想すら浮かぶ。
そしてそんな呑気な宗次郎は、倉の陰に隠れることもせず気配を剥き出しにしていたから、志々雄もそれで気付いたのだろう。志々雄はゆらり、とこちらを振り向いた。
「…見たな、小僧……」
異形の男のその掠れ声は呪詛のような響きをはらんでさえいて、過去の宗次郎はそれだけで腰を抜かしたものだけれど、今は違う。共に過ごした十年という時間の中で、志々雄真実という男の真の姿を知っているからだ。どこまでも強くて、器が大きくて、残酷で、それでいて粋っぷりの良い彼の人間像。
彼は緋村剣心との闘いの際に死んだ。宗次郎は己の戦闘前に出立を告げて以来、彼とは会っていない。会うこともないまま別れを決めてしまった。死に目にも会えなかった。
だからこうして生きている彼と再び会えたことは懐かしく、過去と同じ情景であることも懐かしく、またどこか可笑しくて。
「見られたからには仕方ねぇ。殺す!!」
そんな最上級の脅し文句を志々雄から吐かれているのに、宗次郎は不思議と笑えてきて仕方なかった。
(志々雄さんだ。やっぱり、志々雄さんに会えた……)
確かに袂を分かった筈なのに、もう自分の足で歩いてみようと決めたのに、彼を見るとどうにも心が弾んでいた。自分の想像通りに、過去と同じく事が運んだから? それも勿論あるだろう。けれど何よりも、多分、志々雄真実その人にこうしてまた会えたから。
恐らくはその事実が、宗次郎を無闇に高揚させていたのかもしれなかった。
「ふふっ…あははははっ……」
だから過去のこの場面とは違うけれど、宗次郎はやっぱり笑い声を上げてしまって、それで志々雄は刀を振り上げたまま僅かに怪訝そうな顔つきをした。
「…死ぬのがそんなに嬉しいか、小僧」
かけられた言葉もそっくり同じで、また笑うしかなかった。
やはりやり直しか。やり直しなのか、これは。
「そういうわけじゃないんですけど…ははっ…」
笑いながら言い訳をする宗次郎は、どこまでも悠々としている。昔の自分は得体の知れないこの男がどこまでも大きく見えて、恐ろしかったけれど、今の宗次郎にしてみればどこまでも馴染んだ“志々雄さん”だ。恐怖に震える理由はどこにもない。
あまりにも堂々と自分に接している宗次郎に、志々雄は何を思ったのか。手にしていた刀を、呆気なく鞘に納めた。
「小僧。包帯と喰い物を持ってこい。それで命は勘弁してやる」
「はーい」
命令を言いつけられたことも懐かしく思えて、宗次郎は一も二もなく頷いた。終始ニコニコしていた。
「じゃあ、とりあえずそこの倉にでも隠れていて下さい。多分、そうそう人は来ないと思うんで」
近くの倉を指差しながらいつもの調子でそう告げると、志々雄がまたまた怪訝そうな顔をしたのが分かったが、宗次郎は構わず背を向けた。そして命じられた物を手に入れるべく、屋敷の方へ引き返す。
(志々雄さんだ。志々雄さんだ)
今の体に釣り合った子どもの思考のように、宗次郎は心の中で何度も反芻する。一応、屋敷の者に気付かれないよう足音を殺して小走りで駆けながら、宗次郎の心はやたらに弾んでいた。
最初は、これは単なる夢なのだと思っていた。けれど夢にしてはやたら自分の感覚があるし、いつまで経っても終わらなかった。過去を繰り返して繰り返して、とうとう志々雄と出逢うまでに至ってしまった。
(もうこれが夢でも何でもいい。だってまた、志々雄さんに会えた。それに―――)
疲れたわけではないが、宗次郎は足を止めた。見上げるのは例の満月だ。太陽とまるで光量は違うが、漆黒の闇にあるそれはどこまでも眩い。すっかり子どもになってしまった宗次郎の体を、淡く照らし出している。
こうして子どもに戻った。志々雄に会った。ここまでの流れは過去と同じ。
けれどこれからは、流れを変えることができるかもしれない。宗次郎の行動次第で。
過去は流れに身を任せるだけでしかなかった。この頃の宗次郎は弱かったから。しかし今は、その流れに抗うだけの強さがある。だから過去と違う道を作り出せる、きっとその筈だ。
そしてそれこそが、不可能と思えたやり直しではないのか。
(こうして、本当に、やり直しができるなら)
この不可解な現象が夢か幻か。未だ判断が付かない。けれどもう何でも良かった。そのことについてももう深く考えずに、ただ今回は、前とは違う流れを引き寄せてみよう、宗次郎はそう思った。それができるのか試してみたい、そういった単純な意欲も湧きつつあった。
宗次郎は志々雄に出会った地点に戻った。過去ではそこからは二つの道しかなかった。殺すか、殺されるか、その二択。
けれど今回は、そこからはまた違う道を選べるのだ。
殺すか、殺されるか、殺されずに済むか、殺さずに済むか。
そういったやり直しが、できる。
宗次郎は思わず自分の掌を見た。まだ刀を握ることを知らなかった、小さな手。選択次第で今度は、この手を血で染めぬまま、生きていける。
「………」
宗次郎はぎゅっと手を握り締めた。過去を繰り返した夢。この先も同じ過去を繰り返すかどうかは、全てこの先は宗次郎の行動に左右される。
改めてそのことを思うと、うきうきと楽しいだけではいられない。顔は未だ笑いながら、それでも心のどこかがぴんと張り詰める。
あれ、もしかしてこれって簡単なようでいて、ものすごーく難しいことなんじゃ?
「…まぁいいか。とりあえず志々雄さんを待たせちゃうのもなんだし、包帯とか持ってこようっと」
その重さをまぁいいかで済ませた宗次郎は、ひとまず志々雄のお使いを果たすべく、いそいそと屋敷へと向かうのだった。







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