シーツに散らばった赤い髪が、まるで、まるで、血のようだった。






トリカブトの誘惑






とある秋の日のいつものような放課後、本校舎の校門前でたまたまでカルマと出くわした学秀は、いつものように言葉での交戦をした。
程度の低い口喧嘩などではない。片や学秀は丁寧な口ぶりで、片やカルマは軽口を叩いて、しかし口調こそそうしたものだが両者の間には確かに高度なやりとりがあった。
名門私立椚ヶ丘中学校の中で成績の振るわない者が落とされる3年E組―――落ちこぼれとはいえ個性派揃いのクラスだが、この赤羽カルマも異質な存在だった。
特に優良な成績を修めた者達で構成されるA組の人間と遜色のない頭脳を持ちながら、他人への暴力沙汰、授業中の態度の悪さやサボりといった素行不良のためにE組に落とされた少年。
勉強の成績だけなら自分に勝るとも劣らないのに、何故カルマがそうした行動を繰り返すのか、学秀には理解しがたかった。もっとも、最近では鳴りを潜めているようだが。
カルマはそうした性質と癖のある性格だから、学秀と他の五英傑のような関係にはなり得なかった。二人は顔を合わせるたびに水面下で火花を散らす。
学秀とカルマの間柄はライバル、と言い表すには相応しくなくて、何より学秀の方がE組の、しかもこんなドロップアウトしかかっている者をライバルなどと、決して認めたりはしないだろう(恐らくはカルマの方もそう称されるのは願い下げだ)。
強いて言うなら互いにいけ好かない、天敵だ。
ともあれそんな相手と例によって丁々発止な会話を交わしていたところ、ふとしたきっかけでカルマがこんなことを言ったのだ。
「ところで、浅野クン。浅野クンは夜の経験、ある?」
「…………は?」
思いも寄らぬ一言に学秀の目が見開かれる。
カルマは愉快犯の眼差しで赤い髪をかき上げた。
「あぁゴメン、優等生の生徒会長サマには難し過ぎる質問だったかな?」
上からの物言いに苛立ちを覚え、学秀は憤然と言い返した。
「別に、質問の意図が分からなかったわけじゃない。ただあんまり唐突で驚いただけだ」
「へぇ?  じゃあ俺が何を知りたいのかは分かってるんだ」
カルマの口調はあくまでも人をからかう時のそれであり、学秀の苛立ちは募る。
その問いの意味は分かる。しかし、何故カルマは突然こんなことを訊いてきたのか。何の為に。その解は分からなかった。
夜の経験―――大分婉曲的だが、それはすなわち性体験を指す。こんな下世話なことは学校の授業では教えて貰えないが、様々なメディアに触れていれば、自ずと察せられることだ。教科書や参考書を読んでいるだけでは、国語の成績は伸びない。
単純な性体験の有無をいうなら、学秀にはある。
見目麗しく物腰も穏やかな学秀は、学校内外問わず女子に人気が高い。告白されたのは一度や二度ではない。学秀自身は女子に好意を抱いたことはなかったが、相手の押しに負けてそのうちの何人かと、付き合った。男女交際とはどういったものか、単純な興味と、社会勉強の為だ。その流れの中でいつしか、体も合わせた。
だが学秀の方から迫ったことはない。皆、少女の方から誘ってきた。しかしそれは彼女らが好色なのではなく、学秀を独り占めにしたい、自分だけを見ていて欲しいという、若気の恋にありがちな独占欲や焦りが彼女らをそうした行為に駆り立てたのだろう。
しかし学秀の心がいつになっても自分の方に向かないと気付いてしまった彼女達は、或いは静かに去っていき、或いは逆に学秀に執着した。後者は学秀は疎ましさに似たものを次第に感じたので、後腐れなく別れられるよううまく誘導した。
ともかく、カルマは学秀のそれを知ってどうしようというのだろう。
「君にそんなことを答える義理も義務も必要もない。第一、そんな簡単に訊くことではないんじゃないか? 人のプライベートに踏み込み過ぎだろう」
学秀は正門周辺を行き交う生徒達を見、声を潜めつつ答える。夕方とはいえ駅近くのこの立地は人の通りも多い。全くもって、こういった所でする話ではない。
幸いなのは生徒達は学秀とカルマの剣呑な雰囲気を感じ取ってか、みな遠巻きに帰っていくことだ。
テストで言えば白紙で出した学秀に、カルマは悪戯っぽく笑った。
「ふーん、天下の浅野クンも流石に童貞なんだ」
「っ、誰が!」
声を荒げた後で学秀はしまったと思う。
はっと口を噤むと、カルマはおちょくるような顔でニヤニヤしている。こんな煽り、もっとさらりと流せば良かったが、今更遅い。
これでは何を言っても揶揄される、そう悟った学秀は今更ながら答案を提出した。
「僕の名誉の為に言うが、僕は君が言うような経験は確かにある。そう多くはないけどね。
……どうだ赤羽、これで満足したか」
事実ではないことで散々からかわれるより、自分から認めてしまった方が幾ばくかはマシだった。それでも屈辱には違いなく、学秀は唇を噛み締める。
「へぇ〜、そうなんだ。ふ〜ん…」
カルマは曖昧な感嘆詞を漏らしながら目を細めている。
一体どういうつもりだ。また学秀は怒りを覚える。人にこんなことを訊いておいてこの態度。
意趣返しに学秀は同じ問いをカルマにしようとして、
「じゃあさ、俺と寝てみない?」
……そのセンテンスに動きを止めた。
「…………は?」
本日二度目。普段の学秀はこうした品のない物言いはしない。
しかし思わず一文字だけで聞き返してしまう程、これまた意味不明だった。何がじゃあ、なのか。
「だからさ、俺としよ。……ってこと」
「! 赤羽っ…!」
明け透け過ぎるカルマの腕をぐいと掴んで、学秀は学校の敷地内に引き返した。入ってすぐに左に曲がって足元の落ち葉を踏みしめながら塀沿いを歩き、周囲を植木に囲まれた辺りまで来てから学秀は乱暴にカルマの腕を離した。
「痛〜……浅野クンちょっと雑じゃない?」
「赤羽! 君は一体何を考えている!」
学秀が遂に大声を出してもカルマの飄々とした態度は崩れない。それが更に学秀を苛立たせた。
先程カルマが持ち出したのは、いわゆる体のお誘い、というやつだろう。ファーストフード店にでも誘う調子でごくごくさらっと。
しかし何故にそうなる。第一、学秀とカルマでは男同士だ。そうした趣味は学秀にはない。
どうせ、これも嫌がらせの一種なのだろう。そうでなくては、カルマが不意にそんな世迷い事を言い出したことへの説明が付かない。
「ただ人をからかいたいだけにしてはタチが悪いな。それに、そもそもあんなところでする話じゃない」
「それでこんな人気のないところに? 積極的ぃ〜」
「ふざけるのもいい加減にしろ、赤羽!」
頭の後ろで手を組むカルマを怒鳴りつけながら、一方で学秀は不思議だった。
何故自分は真面目に相手をしている。始めから相手にしないで早々に帰ってしまえば、こんな下らない問答はなかった。それなのに。
…そうだ、これは挑発だ。自分が怒るよう無視できぬよう、カルマが仕掛けている。目的が何であれ。
体育祭の棒倒しの時のように、E組の妙なペースにはまってはいけない。
思い直した学秀は、息を一つ吐き出して心を静める。
「……とにかく、さっきのような話は学校ではしないように。我が校の風紀に関わる」
品行方正な生徒会長の顔に戻った学秀は、そう言って襟を正す。
これでいい。これでこの話は終わる。
そのまま踵を返し、学秀は帰路に着く……筈だった。
「待ってよ」
柔らかく手首を掴まれる。攻撃的なカルマらしからぬ、穏やかな手つきだった。
「人のせっかくの申し出にさ、冷た過ぎるんじゃない?」
普段の粗暴なカルマとは違った掌の柔らかさに、学秀は振り向いた。振り向いてしまった。
そのまま振りほどいて、帰ってしまえば良かったのに。
学秀が振り向いた先にいたカルマは、相変わらずの悪戯っぽい目をしていて、本心がまるで読めなかった。
「あんたはさ、いずれは人の上に立って生きていくんだろうね」
「いきなり何だ。大体、それは今現在もだ。僕のような優秀な人間は、他者をまとめ誰かの模範となって生きていく責務がある」
会話の流れもこれまた読めなかった。学秀が意図を探っている間にカルマは畳みかけてきた。
「ふぅん、ご立派だよね。それなのにさ、浅野クンはさぁ……
小生意気なこと言う一人の人間すら支配できない弱虫なんだ……?」
するりと手を離され、次に首元に伸ばされた。まるで扼殺でもするかのような動きなのに殺気はなく、ただ何故か、学秀には酷くカルマが艶めいて見えた。
「俺のこと好きにしていいって言ってるのに。こんな滅多にないチャンス、逃しちゃうわけ?」
カルマの色素の薄い瞳がすぐ前にある。じっと学秀を見つめている。
どこかに引きずりこもうとしている。学秀を。
(……どうあってもそう持っていきたいわけか)
殺伐とした誘惑はどこまで本気なのか。
学秀には皆目分からなかった。
今まで学秀に迫ってきた少女達は、もっと可愛らしさがあった。こんな風な余裕はなくて、どこか必死さすら、垣間見えた。
今のカルマはその時の彼女達よりもある意味では必死に、学秀に喰らいついてくる。何が彼をそうさせるのか。
カルマはぺろりと己の唇の端を舐める。獲物を見定めた肉食獣の如く。狙われたのは、狩られるのは自分なのか。
(……馬鹿馬鹿しい)
心中で吐き捨てた。
優位なのは常にこちらであるべきだ。たとえどんな状況でも、上に存在するのはこの僕だ。
そう考えた学秀は、敢えてカルマの誘いに乗ることにした。カルマの本意がどうであろうと、いつまでも向こうに振り回されるのは我慢ならなかった。それに、彼は男にでもモーションをかけるような淫売だと、弱みを一つ得たものと思えばいい。
義はこちらにある。
「いいだろう、赤羽。君がそんなにお望みなら」
学秀はやや乱暴にカルマの顎に人差し指と中指をかけ、持ち上げた。
一瞬カルマは驚いたが、また悠然と笑った。
すぐにその表情を崩してやる。学秀は思った。深い沼のようなところに引きずり込むつもりなら、もう呑まれないように容赦なく埋め立ててやる。
「僕に抱かれて、精々善がるがいいさ」
薄く開かれた唇に、学秀は挑戦的なキスをした。








カルマとのそれはイレギュラーな事態としか言いようがなかったが、なかなかに学秀の支配欲を満たした。
こうしたことに慣れているらしいカルマにはかなり余裕もあり、それを組み敷くことで奇妙な満足感もあったのは確かだ。
二人は退廃的な快楽を分かち合い、睦み合った。そして。
「そろそろ聞かせて貰えないか。君が僕を誘った理由を」
「ん〜〜〜?」
情事を終えた後の問いに、カルマはのらりくらりした笑顔を返した。
カルマは浅野邸のシャワーを貸してやったのでさっぱりしている。制服が多少皺になっているが、家に帰るまでならまぁ何とか大丈夫だろう。
自分がバスルームに入っている間にカルマに逃げられては困るので、学秀はまだ簡単に身なりを整えただけだ。
玄関に続く廊下を歩きながら二人は会話を交わす。
「僕は君の問いに答えた。君も僕の問いに答えないと、フェアじゃないだろう」
問いながら学秀は思い起こす。
今日は学園理事長である父は教育委員会との会合で留守だ。帰りは夜遅くなると聞いている。今はもう七時を回っているが、やはり帰ってくる気配はない。母もここ数日は用事で実家に帰っている。
つまり、家には学秀一人。カルマのことだ、それを分かった上での犯行だろう。
カルマが立ち止まり、学秀もやや間を置いて足を止めた。向き合うような形になる。
にかり、と犬歯を見せてカルマが笑った。
「気になる?」
「気になる。あれだけのことをしておいて理由は無いなどと言わせない。何か理由、或いは目的がある筈だ。知らないままなのは気分が悪い。答えの出ない問い程、不毛なものはないからね」
「道徳の苦手なあんたらしいね」
カルマは小馬鹿にしたような呆れたような感想を漏らした。
その態度にも、焦らし続けるカルマにも、学秀はまた怒りが沸き上がりそうだった。が、
「いい加減に……」
「じゃあ言うよ。遊びだよ、遊び」
「……遊び?」
あまりにあっさりと言われたことに学秀は毒気を抜かれる。
「あんたと遊んでみたかったんだよ。ただそれだけ」
「それだけ? 君はあれを遊びだと? いつもあんなことをして遊んでいるのか!?」
カルマに狼藉を働いておいて何だが、学秀は貞操観念自体はごく一般のそれである。
性交渉は好意を持つ者同士がお互いの合意の上で行うべきであり、不特定多数の者とみだりに関係を持つものではない。
また、本来は生殖活動であるのだから、遊びなどと軽々しく称するのはもっての外だ。学秀がかつて少女達と行為に及んだ時も、避妊はしっかりしていた。
学秀は憤るが、カルマはけろりとしている。
「最近はしてないよ。E組も色々忙しくてさ。……ほら、勉強で誰かさん達を見返さなくちゃいけないしね」
カルマは肩を竦めた。そこに反省の色は無い。
「ご無沙汰だと、やっぱり溜まるじゃん? 誰かいい遊び相手はいないかなぁってさ、 どーせするなら刺激的なのがいいし、そこで浮かんだのが会長サマってわけ。何にでも優秀なあんたはどんな風にすんだろうなって……だからまぁ、そーいうこと」
「……僕は、君の性欲処理に利用されたということか?」
「まぁね。でもさっき言ったじゃん。遊びだって。あんたは遊びであんなことするなって言いたいんだろうけど、男同士ならほら、妊娠の心配無いから病気にだけ気を付ければいいし。その辺、あんたしっかりしてるでしょ?」
とんでもない話をすらすらと言ってのけるカルマに学秀は目眩がした。やはりE組、自分とは感覚が違い過ぎる。
「男同士ならさ、別にいいじゃん。子どもできないしまさに遊びで。そんなに目くじら立てなくてもさ。お互い楽しいし気持ちいいしで、浅野クンも良かったでしょ?」
「見下げ果てたな。何が遊びだ。そうした考えの浅い人間が多いから、性犯罪も減らないんだ」
「きっちり楽しんどいてよく言うよ」
カルマは興ざめだといった風に舌を出す。
確かに、愉悦のひと時でなかったといえば嘘になるが、かといって性行為を遊びの一種だと断じることは学秀にはできない。
まして、カルマの言い分が本当なら、自分はまんまと彼の思惑にはまってしまったということになる。
遊びだと? ふざけるな。この僕を利用するなどと。
やはりとんだ淫売だった。こんな奴に勉学の二番手を許してしまっていることが腹立たしい。
「ほら、言うでしょ? “時は金なり”って。青春って案外短いんだから、楽しまなくちゃ損だって。浅野クンの学生時代も、あっという間に終わっちゃうかもよ?」
「もういい。君の理屈を聞いていると頭痛がする」
「自分で訊いた癖に……」
カルマはブツブツと言いながら再び廊下を歩き出した。そして玄関に到達すると、無造作に脱いだままだった靴を履いた。
学秀は自分より一段低い位置の玄関にいる、カルマを見据える。
「んじゃ、お邪魔しました」
「挨拶をするのは感心だが、君がこの家に上がることはもう二度とないと思え。君の下らない遊びに付き合う程、僕は暇じゃない」
「ちっ、そっけないね〜。俺、結構楽しかったけど」
「僕も君を跪かせたことだけは満足だったよ。分かったら早々に帰るといい」
情事の後にも関わらず、学秀とカルマは普段と変わらない口を叩き合う。
馴れ合いなどいらない。学業のレベルは近くても、自分達はきっと相容れない。
自分達の関係性はこれでいい。
先程までのことは予期せぬ化学反応のようなものだ。
多分。きっと。
「…あ、そうそう浅野クン」
ドアノブに手をかけたカルマは、ドアを開きながら振り向いた。ドアの隙間から、冷たい風がびゅうと入りこんでくる。背後の空はすっかり暗い。
「最後に一つ。俺、遊びだって言っても、誰でもいいわけじゃないからね」
「何……?」
「ちゃんと相手は選ぶから。そんじゃね」
カルマはするりとドアの間を抜けて、ごく呆気なく去っていった。最後の最後で新たな爆弾を投げつけたまま。
学秀はしばし立ち尽くす。
今の言葉の真意は何だ。
「………いや、深く考えるだけ無駄、か」
奴が遊びだと言い切ったんだ。答えはそれでいいだろう。
ふ、と笑んだ学秀は、玄関のドアに背を向けた。












END











妄想だけでは飽き足らず、ついに書いてしまった初学カル。
カルマのあの性格からして誘い受け似合うよね…なんて思ってたらあれよあれよという間にこうなった。
カルマ→浅野への呼び方は、サイト掲載にあたってクン付けに直しました。書いた時は呼び方不明だったので。
ピクシブの方は今更だから直さないけど、やっぱこういう呼称って重要よねっと思うので(呼び方萌え)。

タイトル由来:なかなか決まらなくて、参考にネーミング辞典パラパラしていたらトリカブトの文字が目に入ったから(割と本当)
綺麗だけど毒含んでて、毒含んでるけど綺麗、みたいな。二人のどっちにもかかってるという感じ。



サイト用:2015,3,20

初稿:2015,2,23









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