―第三十五章:ラ・トラヴィアータ その5―
牧歌的な、小さな村だった。先日の激しい戦いのことなど、微塵も感じられない。
遠くに見える村人達は、農耕や酪農に勤しんでいる。豊かな自然に囲まれたこの村には、まさに長閑という言葉がぴたりと当てはまる。
鼻孔に届くのは土と干し草の香り。村外れの野原に腰を下ろしたエルは、ふう、と息を吐く。
(流石に疲れた、な)
怪我が治りきっておらず、また疲労の蓄積した体で長話をするのはやはり疲れた。無論、話の内容が内容だっただけに尚更だ。
現在の勇者である彼らに、先代の英雄の話をずっとしたいと思っていたことは確かだった。けれどいざ思い出し思い出ししながら話してみると、やはりきついものがあった。
リュートのことは好きだ。あの頃からずっと、今でも。過去のまだ幸せだった頃を思うと、胸の中がじんわりと温かくなる。淡い優しい気持ちでいっぱいになる。
けれどどうしてもセットで思い出されるのは、そのリュートが冥法王になってしまったという現実だ。だからリュートのことを思い出すのは、幸せで、半面この上なく辛い。楽しかったひと時を良く知っているから、その後の悲劇がどうしても重くのしかかる。
もっと冷静に、事実を分かりやすく勇者一行に伝えるつもりだったのに、どうしても語りの中に己の感情が入ってしまった。泣くのだけはぎりぎりで思い止まったが、あれではリュートの話を彼らに押し付けただけではないのか。……そんな自己嫌悪に似た思いもエルの中に満ちる。
ただでさえ、リュートのことを知って欲しいというのは自分の我儘なのだ。ホルンも差し置いて…本当は彼女からも、話したいことはあったろうに。それとも彼女は辛過ぎて話せなかっただろうか、特にフルートには。その辺りは推測で、何とも言えない。
エルは手にしたままのリュートの十字架のネックレスを、ゆるゆるとした動きで首元につけた。
「…ふぅ」
エルはもう一度溜め息を吐いた。どの道、自分やホルンが語らなくても、フルートは回復魔法を施したことでエルの中にある想いの片鱗に気付いたことだろう。回復魔法には相手を理解しその心に寄り添い、助けたいと思う心、それが必要であり、相手を癒すその時に、相手の心を垣間見る。フルートが自分の内の何を感じ取ったのかは分からないが、それでも、先程の話と合わせて、今は複雑な気持ちであることは間違いない。
今まで仲間を傷つけ、己の魂を奪いもした相手が、実の兄であったこと。
その兄は妹である自分を守るために壮絶な戦いを繰り広げ、その末に落命したこと。
すぐに受け止めろ、というのも無理な話だ。無論、それはフルートだけに限らない。
青々とした空を見上げてみても、エルの心は塞いだままだ。事実を語らないままでいるのがいいわけがない、この先北の都へと攻めるとなれば、再びベースと勇者一行とは相まみえるのだから。けれどそれでも…。
鬱々とした気持ちで空をぼんやりと眺め続けるエルは、その時己の方へとやってくる足音があるのに気が付いた。
振り向くと、ハーメルがいた。ハーメルはエルの隣まで来ると、そのまま立ち止まった。
黒い帽子を目深にかぶっていて、その表情は分からない。
「…君が最初にやってきたか。ちょっと意外」
ハーメルを見上げるように顔を横に向けて、エルは明るい声を作って言った。声色は偽物だが、口にしたのは本音だった。ハーメルがまさか一番初めにやってくるとは。流石は現在の勇者ということか。それとも…。
エルはハーメルの方へ向いていた顔を正面へと戻すと、今度は心のままに沈んだ声で言う。
「まぁ、無理もないわよね。みんな、あんな話、いきなりされたって…特にフルートは、混乱するだろうしね…」
そのまま、膝を抱えるようにしてエルは黙り込んだ。今、それ以上何を言えばいいのか分からないのもあったし、ハーメルが何を思ってエルの下を訪れたのか、その言葉を待つ為でもあった。
しばらくの沈黙の後に、ハーメルは淡々と口を開いた。
「…オレとライエルの故郷は、魔法で吹き飛ばされた。母さんも水晶漬けにされて、連れて行かれた。……そのせいでオレは魔族化して……ライエルの両親やその他の生き残りの村人達を殺した。
オレだけじゃない、サイザーも…騙されて、人を殺すことを強要されて、傷付けられて…。
全部、ベースがしたことだ」
「………」
「あんたにとってはリュートって奴でも、オレにとってはあいつはベースだ」
「……うん」
エルは小さく頷いた。立ったままのハーメルを再び見上げてみると、彼は固く拳を握りしめているのが分かった。肩までの金髪が隠すようなその表情は、明らかに怒り。それも、先日ヴォーカルに見せたような荒々しい怒りではない。激しい怒りでありながらも表面上は落ち着いた…必死に怒りを押し殺しているようにも見えた。
ハーメルもまた、ベースとは因縁を持つ者。彼の妹であるサイザーも。
リュートがベースとして多くの罪を犯してきたであろうことは分かっていた、それでも改めてその悪行を聞くと、苦しかった。操られているから、などと言い訳にはならない、紛れもなくリュートの魔法が、彼や、ライエルやサイザーや、多くの者を傷つけ、悲しみと絶望の底に叩き落してきたのだ。
エルはハーメルから視線を外し、口を開いた。
「そう、よね。酷いこと言ってる、っていうのは、自分でもよく分かっているわ。単に私のエゴ……世界中には、あなた達の他にも、ベースに酷い目に合わされた人はたくさんいるのに…」
そう、よく分かっている。エルは、自分がどれほど自分勝手で、我儘なことを言っているのかを。
ベースに、リュートに苦しめられてきた者は大勢いる。分かっている、彼らにとってリュートはベースだ。
それでも、その当のリュートがどれだけ苦しんでいるか、エルはどうしてもそう思わずにはいられないから。あんな風になってしまっても、大切な人だから。いや、あんな風になってしまったからこそ。
「それでも、私はあの人を助けたい。私にとっては、あの人はリュートなの……」
エルの心からの呟きに、ハーメルは先程までと同じような表情で耳を傾けている。
エルはハーメルを見ないままで、独白めいたように言葉を口にしていく。
「とんでもない我儘よね。あの人を助けたくて、でも助けられなくて。あの人のことを知りもしないあなた達に、あの人の理解を強いる…。ホント、我ながら嫌になるくらい。
仮に、リュートを元に戻せたとしても…あの人はきっと、己の行為をとても後悔するわ。ベースに操られて、利用されていただけなんだとしても、あの人はきっと、そんな理由を良しとしない。あの人は自分の手で多くの人を屠ってきたことに、絶対に、凄く苦しむ。あの人は、誰よりも何よりも優しいから、……リュートは、そういう人だから……」
そして、それが分かっていて。
彼がきっと苦しむことも、分かっていて。
「…それでも、助けたい、だなんて。本当に、どうしようもない、我儘よね…」
膝を抱えたまま、エルは俯いた。助け出せた後も、リュートが苦しむであろうことは予想が付いていた。それでも助けたいと思うのは我儘だ、本当に。
リュート自身の気持ちも、勇者一行の気持ちも蔑ろにして自分の意思を通そうだなんて、何と浅ましい。
再び自己嫌悪に陥ってしまったエルは、その時美しい旋律を耳にした。これは、バイオリンの音。
見れば、ハーメルが徐にバイオリンを肩に乗せ、何かの曲を奏でていた。
「何だか悲しげな…でも、綺麗な音色…。この曲は?」
エルの質問に答えないままで、ハーメルはバイオリンを奏で続けている。物悲しくも美しい、どこかに許しを乞うような旋律…。初めて耳にする曲だったが、不思議とその音色はエルの胸に染み込んできた。
何だか、胸が締め付けられて、それでいてどうしようもなく泣きたくなるような…。
「……100億円でいいぞ」
「はっ?」
ぼそっとしたハーメルの呟きが、曲に聞き入っていたエルの心を引き戻した。
彼の言っている意味が分からなくて、エルは目をまん丸くして聞き返す。
するとハーメルは演奏をピタリと止め、弓を持ったままの左手の人差し指を立ててそれを横に振った。
「だーかーらー、慰謝料だよ、いっ・しゃ・りょ・うっ!
オレもサイザーもベースの奴に酷い目に合わされたんだし? そのくらいの誠意は見せて欲しーわけよ。あんたもスフォルツェンドの王女なら、そのくらいポーンと出せるだろ!?」
「えっ…あの、……はい??」
どうしていきなり話がそんな風になるのか、エルにはまるでわけが分からない。
ハーメルは高いテンションのままで更に続ける。
「しょーがない、あんたの事情も汲んで、特別に99億9999万9999円でどーだっ!? いやーこれは破格のお値段で…」
「アホかあんたはーっ!!」
どこからともなく巨大な十字架を取り出したフルートが、思いっきり振り被ってハーメルに叩きつける。いきなりのフルートの出現+猛烈な突っ込みに呆気に取られるエルの前で、ハーメルの体はめこめこと地面にめり込んでいく。
「慰謝料請求してどーすんのよーっ!! 大体っ、慰謝料言うなら、こっちが貰いたいくらいだわ! 人のこと散々こき使って、着ぐるみなんかも着せてぇ…!」
「ちっ」
ぜぇぜぇと息をするフルートの前で、ハーメルは泥だらけになりながら地面から這い出してきた。黒マントの裾をパンパンと払って、そのまま何事も無かったかのように演奏を再開する。
先程と同じ曲だ。
「ハーちゃんなりの照れ隠しなんだと思います、さっきの」
「えっ?」
振り向くと、ライエルがいた。ライエルの肩に止まるようにしてオーボウ、更にその後ろには、コルネットやトロン、オカリナの姿も見える。
オーボウがライエルの言葉に頷き、しんみりとした顔で言う。
「そうじゃろうな。そうでもなければ、この曲をこんな風に演奏しないじゃろ」
「…この曲は」
「ヴェルディの傑作オペラ『椿姫』の第三幕、ヒロインのヴィオレッタが死の床で歌うアリア『さようなら過ぎ去った美しく楽しい夢よ』じゃ」
バイオリンの音が辺りに深く沁み渡る。その音色を背景に、オーボウが曲の説明を続けた。
「パリの高級娼婦だったヴィオレッタは、純朴な青年アルフレードと恋に落ちる。しかし、家柄の差、アルフレードの家族との確執…様々な事情が絡み合い、ヴィオレッタはアルフレードを思って身を引くのじゃ。
しかしアルフレードはそんなヴィオレッタの行為を裏切りと取り、彼女を罵倒する。失意のうちにヴィオレッタは、元々患っていた結核が悪化し、死の床につく。
そしてアリアを歌うのじゃ。アルフレードとの幸せな日々を思い出しながら、死にゆく己を思い神に救いを求めるように…『道を誤った女の希望に、どうか微笑みかけて下さい』と」
「道を誤った女の、希望……」
ぼんやりとエルが繰り返す。
ハーメルが弾いているこの曲。そしてその言葉。それらが暗喩しているのはまるで、―――まるで。
緩やかに立ち上がり、ハーメルの持つ弓の動きを茫漠と眺めるエルに、オーボウは更に、こう続けた。
「…娼婦として、ヴィオレッタは人としては誇れない生き方をしてきたのかもしれぬ。しかしアルフレードに捧げたのは、純粋な愛だったのじゃ…」
いつしか、エルの頬を熱いものが伝っていた。涙だった。話している間はずっと我慢していたもの、それがこの美しい旋律に引き出されるようにして、素直に表に出た。
悲しくて泣いているのか、嬉しくて泣いているのか、今のエルには良く分からなかった。ただ、ハーメルの演奏に心揺さぶられたのは確かだった。脳裏に浮かんでは消えるリュートとの思い出。あの人の優しい笑顔。まだリュートがリュートであった頃の幸せな記憶。
「…でも、ヴィオレッタは最後の最後に、アルフレードと再会することができたんだ。事情を知り、誤解の解けたアルフレードが駆け付けて…アルフレードの腕の中で、ヴィオレッタは息を引き取ったんだよ」
ライエルが、愛の勇者らしい補足を加える。
そうか、ヴィオレッタは最期に逢えたのか。この上なく愛しい人に、人生の最後に。それで彼女は、少なからず救われたのだろうか。
「……オレは、正直、分っかんねー」
ハーメルが演奏の手を休めないままで、ぶっきらぼうに言った。
「今までずっと憎み続けてた奴が、いきなり実はフルートの兄貴だったって聞かされても、どうすりゃいーかなんて分かりゃしねぇ」
荒っぽい言い方とは裏腹に、演奏は相変わらず穏やかで、美しかった。そしてその顔は、先程までの怒りは消え、戸惑いに似たものが浮かんでいるように、エルには思えた。
「そいつが実はどんな奴かなんてのも、全然知らねーしな。けど、そいつがいなきゃ、フルートは十五年前に死んでた。それは確かだろ。んで、フルートがいなかったら、その、オレは…その……」
ハーメルは一瞬フルートに目を向け、今度は照れ臭そうに言った。それから次にエルに、勇者らしい真剣な眼差しで、告げた。
「だから、どーするかはそいつ自身に会ってから決める。ベースは確かに憎くて仕方ねーけどよ、あんたが言うには、フルートの兄貴は本当は悪くないんだろ。だったら、そいつがあんたが言う通りの奴なのか、オレ自身で見極めてやる。
それに…あんたには借りもあるし。サイザーがフルートの兄貴の二の舞にならなかったこと、それは、その、ありがてーって、思ってるんだぜ」
「…ハーメル君」
素直じゃない、と良く仲間に評される彼の、彼なりに考えて出してくれたのであろう答えに、エルは僅かに目を見開く。ハーメルはベースに強い怒りを感じていた筈なのに、それでも、リュートに対してはそんな風に言ってくれるのか。
「そーだぜ! リュート王子には、オレの父上と母上も救って貰ってるんだ! リュート王子がいなかったら、オレもここにいなかったんだぜ!」
トロンが胸を張って言う。トロンが言っているのは、十五年前のスフォルツェンド大戦より更に前、ダル・セーニョ王国が幻竜軍の侵攻を受けた時のことだろう。その時、リュートはたった一人で幻竜軍を壊滅させ、戦いの総指揮をとっていたドラムの副官・スティックスを撃破し、シュリンクス王・ショーム王妃を助けたという。
シュリンクス王はリュートに深く心酔していた。稀代の英雄であるリュートの話を、折に触れて息子であるトロンにしていたのかもしれない。
「私……」
おずおずとフルートが口を開いた。エルを始め、皆の視線が彼女の方へと向く。
「私……まだ、気持ちがうまく纏まらないの。死んだって聞いていた私のお兄さんが、実はただ死んだだけじゃなくって、ベースに操られてて……そしてそれが、この間の人なんだってことも、いっぺんに色々なことがあり過ぎて、心の中がうまく整理できない……でも」
フルートは一度言葉を切り、エルの方を見た。悲しげな優しい微笑み、そういったものが浮かんでいるように見えた。
「エルに回復魔法をかけた時、伝わって来たの……。エルの思い。エルがどれだけお兄ちゃんを助けたいと思ってるのか、お兄ちゃんのことを想っているか……今までの苦しみも、悲しみも、……楽しかった頃のことも。お兄ちゃんがどれほど、私の誕生を心待ちにしていたのか……。エルの中で見た私のお兄ちゃんは、とても優しそうだったわ……」
フルートは胸に手を当てた。まるで大切な思い出を噛みしめるかのように。
あの頃のフルートはまだ赤ん坊で、リュートのことは記憶の欠片にも残っていないだろう、それでも、フルートはエルに回復魔法をかけたことで、それを僅かでも垣間見たのだ。
それだけでも有り難い、とその僥倖を噛みしめるエルに、フルートは今度は、明るく笑った。
「エル、私のせいで、お兄ちゃんがベースに操られることになったんでしょう? だったら、助けたい! 今度は、私が…! それに……、
会ってみたいな…私の、お兄ちゃんに」
フルートはふわりと微笑んだ。
他の皆は誰も何も言わなかったが、皆フルートと同じような表情をしていた。
あぁ、とエルは思った。
受け入れてくれたのだ、彼らは、自分の思いを。それぞれに心の奥に渦巻く様々なものがあるだろうに、それでも、リュートを助けたいと思うエルを肯定しようとしてくれている。手を貸そうとしてくれている。
「……ありがとう……」
心から、エルは彼らに礼を述べた。
流れゆく時の中で自然に歳を重ねていくという、人として当然の道を踏み外しても、それでもリュートを助けるべく、この十五年、ずっと生きてきた。
今もこうして、我儘に現代の勇者達を巻き込んでいる…それでも彼らは、エルの想いに、同調してくれた。限りないエゴなのに、―――認めてくれた。
エルの目尻からまた一筋の涙が零れた。
ハーメルの弾くアリアが繰り返されていた。切なくも、優しい。悲しい、されど心を穿つ。
様々な誤解と事情のもつれにアルフレードとヴィオレッタは翻弄されたが、それでも、愛はそこにあったのだ。
『道を誤った女の希望に、どうか微笑みかけて下さい』
人としてあるべき道を踏み外した女、と、エルはベースに称された。それでもいい。それでも、エルはリュートを救うためなら、どんな過酷なことが待ち受けていても、きっと進んでいける。希望が、彼女にも寄り添ってくれたから、そしてその先にあの人がいるのなら、また彼を目指して駆けていける。
エルは胸元の十字架を握り締めた。まだ、バイオリンの音は続いていた。
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やっと第三部が書き終わりました。リアルで何年かかっているんだ…。
道を踏み外してんのは私でございます…。こんな原作を大幅に捻じ曲げ…げふっ(吐血)
でも、それこそエゴ丸出しのこの作品ですが、やっぱりリュートをどーしても助けたくて。原作がああなのだから、二次でくらい、少しは報われたって、と…。
まったくもって我儘大爆発ですが、こんなんでも楽しんで読んで下さってくれている方々には本当に頭が下がります。ありがとうございます。
でもここまで書いてきた以上、頑張って完結させたいです。有り難くお付き合い下さる方々のために、エルやリュートのためにも!
あとは最終決戦に向けていくばかりなのですが、また時間かかりそう(汗)
この章もだいぶ前に書き上がってたのですが、UPまで時間が空いてしまいました;
補足:この辺りの一連のタイトル『ラ・トラヴィアータ』はオペラ『椿姫』の原題でして、作中でも出てきた“道を踏み外した女”の意です。
歌詞とかアリアのタイトルは、和訳によっては少々ニュアンス異なるようです。
2014,12,26
初稿:2014,8,4
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