朱を奪う紫



数多くの妖魔が住まうリージョン・ファシナトゥールに屹立する針の城。
燭台の炎が揺らめき、室内を淡く紫の色に浮かび上がらせている王の間にて、この城の新しき主は傍らの姫と、笑い声を交えながら他愛無いお喋りを楽しんでいた。
滅多に客など来ないこの城に、今日は珍しく客人が訪れていた。歓迎する言葉と共に、城主は王座から立ち上がる。
「随分と久し振りじゃないか、ルージュ! もう二年振り…か?」
「三年だよ、アセルス。もっと早く君に会いに来たかったんだけど、生憎こっちも何かと忙しくてね」
城主はアセルスといい、客人はルージュといった。かつて、共に幾多もの死線を乗り越えた仲間同士だった。
「ジーナ、私の昔馴染みなんだ。積もる話もあるから、席を外してくれないか」
「承知しました、アセルス様。ルージュ様もごゆっくり…」
長い髪を高く結い上げ、裾の長いドレスを着た少女は、恭しく礼をすると退出していった。その後ろ姿を眺めた姿勢のまま、ルージュはアセルスに問う。
「…彼女は、君の寵姫かい?」
「ああそうさ。可愛い子だろう? 素直で、従順で、いい子さ」
自慢げなアセルスにルージュは振り向いた。案の定、アセルスは笑っていた。
ただし彼女がかつて浮かべていたようなそれではない、口の端だけを吊り上げた笑み。
ルージュは淡々と口を開いた。
「…君は変わったね、アセルス」
「変わった? 私がか? 私は何も変わってはいない。ただ、半妖という中途半端な存在から、純粋な妖魔になっただけさ。
今は凄く開放感に溢れた気分だよルージュ。もう自分が何者かなんて悩む必要はない。迷う必要などない。ただ自分の思うままに生きればいいんだからね」
長いようで短かった旅の終わりに、魅惑の君オルロワージュと対面した時。
アセルスは、妖魔になることを選択した。もう人間として生きられはしないと、ならば妖魔として生きていくと。
その為には、オルロワージュを倒し血の支配を断ち切る必要がある、だからアセルスは彼に戦いを挑んだ。オルロワージュの方もどこか、それを望んでいる風でもあった。
幾度も悩んだ末、迷った末にアセルスが出した結論だったから、そして何より彼女自身を好きだったから、仲間達も彼女に手を貸したのだ。
ルージュも、例外ではない。
「白薔薇さんはどうしたんだい? 魅惑の君を倒したんだから、解放されていてもいい筈だろうに」
周囲を見回して、それでもその存在も気配も感じられないことを訝しんだルージュが問うた。
白薔薇姫。オルロワージュの四十六番目の寵姫で、アセルスの教育係でもあった妖魔。
優しく、たおやかで可憐な女性だった。妖魔には男女の性差など無いというが、それでもルージュ達の目には白薔薇はそんな風に見えた。
彼女はアセルスと強い絆で結ばれていた筈だった。友情とか、親愛とか、そんな言葉では簡単に括れないような。だからこそ彼女らは魅惑の君の怒りを買い、その代償に白薔薇は闇で彩られた迷宮に取り残された。あれはオルロワージュが作り出した空間だというから、彼を打ち倒した今、白薔薇がまたこちらの世界に戻って来ていても不思議ではない。
それ故の、質問だった。それなのに。
「白薔薇? ああもういいんだ」
アセルスは拍子抜けするくらいにあっさりと、彼女を切り捨てる発言をした。
「だって彼女は望んで闇の迷宮に残ったんだからね。棺の中に戻ってきているかもしれないけど、もう別段興味は無いよ。
大体、彼女も所詮はあの人の寵姫。お下がりを手に入れたところで、満足感など湧きはしないさ」
「君は、本当に変わったねアセルス。前の君は、そんなことを言う子じゃなかった。白薔薇さんを失った時、あんなにも泣き叫んでいたじゃないか」
「あの時は私も、まだ人間としての情が残っていたからね。でも今はもう、そんなものは忘れた。今の私は妖魔の君だ。余計な感情に振り回されるなど、煩わしい」
とうとう耐え切れなくなって、ルージュは声を荒げた。
「アセルス! どうして白薔薇さんが闇の迷宮に残ったのか、そのことも忘れたわけじゃないだろう!?
彼女は君のことが好きだったんだ、妖魔の君とか、寵姫とか、そういったことは関係なく、君を一人の存在として。僕達もそうだった、君がどんな選択をしようと、受け入れるつもりだった。だから手を貸した! 君がそんな風になってしまう為なんかじゃない! それなのに、どうして…」
「兄殺しを為してまで生き残った君に、そんなことを言われる筋合いはない!」
「―――っ…」
ぴしゃりと叩きつけられて、ルージュの声はただの息と化した。
「君だって、血を分けた人を殺したじゃないか。私とどう違う? 誰かを犠牲にして生きているのは、同じだろう」
アセルスはどこまでも居丈高にせせら笑う。
その冷たい瞳の色に、ルージュの胸は無性に締め付けられた。覚悟を決めて、双子の片割れとは対峙した筈だった。その時はそれが正しいのだとひたすらに信じていたのだったにしても、その罪悪を背負って行くこともまた、良しとしていた筈だった。
『どうして…? 何で兄弟同士で殺し合いなんてするの? それも双子同士でなんて……。そんなの、そんなのあんまりじゃないか……!!』
ただ、己の宿命を打ち明けた時に目尻にうっすらとした涙すら浮かべて憤ってくれた少女は、もういない。
その事実に、ルージュは打ちのめされていた。
「…そうだね。確かにそうかもしれない…。でも、少なくとも僕は後悔しているよ。ブルーを殺してしまったこと…。今はもう、互いの人格とか意識といったものは僕の中で綯い交ぜになってしまって、既にブルーの残骸しか感じられない。たとえ一人の人間になってしまっているのだとしても、僕がブルーを殺してしまったことには、変わりないけどね」
ほんの少しだけ何かが違っていれば、お互いに唯一の、そして最大の理解者となりえた筈だった。そしてその可能性に心のどこかで気付いていながら、それでも生存の座を巡って殺し合うことを互いに選んでしまったこともまた、本当だった。
だからこその、ルージュの胸に染み入るような悔い。或いはそれこそが、最大の罰かもしれなかった。
いつしか強く握り締めてしまっていた掌を緩めながら、ルージュはついと顔を上げた。
自虐めいた苦笑はなりを潜め、ただアセルスを穏やかに糾弾するような視線のみがそこにある。
「…他のリージョンにも進出しようとしているんだって? ファシナトゥール勢は」
「私のところに来た本題はそれだろう? 随分と回りくどい確かめ方をする…君らしいけどね。事実だよ」
「何故そんなことを?」
簡単に認められてしまったことにやはり些かの衝撃を受けつつも、ルージュは疑問を続けた。
ファシナトゥールの新たな妖魔の君が、妖魔狩りに精を出している―――。
その噂を初めて聞いた時は、耳を疑った程だ。しかし、あちこちから漏れ聞こえてくる話、人脈を用いて集めた情報、それらすべてがその事実をしっかりと裏付けてしまっていた。
それでも、自分の目や耳で確かめたい、事実だと言い切るのはそれからでもいい、そう思っていたルージュを、アセルスはいとも簡単に、残酷に裏切った。
アセルスはくっと笑う。
「決まっている、あの人を越える為だ」
「…もう君は、魅惑の君を倒しただろう」
「それだけじゃ駄目だ。私はあらゆる面であの人を越えたいんだ。姫の数も、リージョン自体の権威も、妖魔の君としても!
私の力を存分に全リージョンへと見せてやる。すべての妖魔を私の前にひれ伏させ、人間もメカもモンスターも、何もかもを従えてみせる。私にはそれだけの力があるんだ」
「そんなの…単なる独裁者じゃないか。君が反発していた魅惑の君と大差ない、いや、それよりももっと酷い。そんな無茶な言い草に、他の妖魔達はついてくるのかい?」
「ふふっ…。面白い。実に面白いよルージュ。今の私に正面切って説教をしようなんていうのは、最強の術士である君くらいだ」
アセルスはわざと大仰に笑い声を上げて手を叩いた。ルージュはそんな彼女に気付かれない程度に眉を潜める。
「他の妖魔は私に逆らいすらしない、逆らおうものなら即消滅だからね。ラスタバンも最初はごちゃごちゃ言ってたけど、今は静かなものさ。
どこかに雲隠れしているイルドゥンとゾズマも、そう遠くないうちに捕らえる。誰が妖魔の支配者であるか、よく分からせねばな」
「……」
ルージュの唇は閉じられたままだったが、紅の瞳は雄弁に語っていたのだろう。
アセルスはすっかり青色になってしまった髪をかき上げながら、言う。
「まだ何か言いたげだね? いいよ、好きなだけ言えばいい。仲間だったよしみだし、それに君みたいな反応をされるのも久方振りに新鮮で愉快だ」
「本当にこれが……君が望んだ未来なのか」
歯噛みするように、ルージュは問うた。
妖魔になる道を選んだ時のアセルスは、少なくともこんな未来は思い描いてはいなかった筈だ。
ルージュ達も同様だ。たとえ妖魔になってしまっても、アセルスはアセルスらしく生き抜くと、そう予想していた。
そのアセルス自身が自ら掴み取った未来が、これだ。
「ああそうだ。言っただろう? 好きなことを好きなだけできて実に快適だよ。妖魔は人間のような様々なルールに縛られることも無いしね。もっとも、妖魔の掟というものは存在するけれど、妖魔の君である私には何ら関係のないことだからな」
「…過度の思い上がりは、いずれ身を滅ぼすよ」
「かつての君の国のようにかい?」
「……」
皮肉に肯定も否定もせぬまま、ルージュは踵を返そうとした。
「……。また、来るよ」
「何だ、もう帰るのかい? ちょっと興醒めだな。君となら色々と刺激的な話ができそうなのに。
あぁそうか、君は今、故郷の復興で忙しいんだったね。大変だろうね、それまですべて信じていた何もかもが覆されて、また一からそれを作らなくてはいけないなんて」
「…アセルス」
心の琴線をいちいち刺激するような言い草に、ルージュは非難するような響きを彼女のその名に乗せて振り向いた。
「ふふ、いいな、その瞳」
アセルスは目を細めて笑うと、ゆっくりとルージュに近付いていく。己が傍に来ても身じろぎ一つしないルージュに更に気を良くしたアセルスは、彼の顎に手をかけた。
彼女がかつて持っていた筈の血の色と同じ、深い赤の瞳を覗き込まれる。見上げられているのに、まるで見下ろされているかのような威圧感だ。しかしルージュはそれに怯むことなく、しんしんとアセルスを見据えたままだ。
「仲間だった時には滅多に見せなかった、反抗的な目だ。穏やかなだけの眼差しよりずっと惹かれるよ。今すぐにでも、自分の物にしたくなる…」
「…本当にそう思うなら、僕を魅了してみればいい。君にはその力もあるんだろう」
「ふん、大人しく靡くつもりも無いのに良く言う」
たとえアセルスが魅了しようとしたところで、ルージュは必死にあがなおうとするに違いない。また、己の半身を取り込んで術士としては史上最強とも言える彼を籠絡するのも、アセルスといえどそれなりに骨が折れそうだ。それも分かっている上での彼の挑発に、アセルスは楽しげに口の端を吊り上げる。
そんな彼を力でねじ伏せて、徐々に自分に従わせていく……それもたまらなく魅力的だとアセルスは思えた。しかしそれだけでは、きっと自分は満足できない。もっと、もっと刺激的に! もっと蠱惑的に!
もっとこの、喉の奥の飢えが満たされるように!
爛々と妖しく輝く瞳に、アセルスのそんな欲望を感じ取り、ルージュは唇を引き結んだ。
何故にアセルスは、こうもオルロワージュへの妄執に捕らわれてしまっているのだろう?
オルロワージュを倒せば、彼女は彼との軛を断ち切れる筈だった。しかしこれではまるで、倒してしまったからこそ、逆に彼に捕らわれているかのようだ。
「ルージュ、君に免じて、マジックキングダムに手を出すのは最後にしてあげるよ。それまでに、私の気が惹かれるような、魅力的な国を創り上げておいてくれよ?」
「…僕は君の為に、あの国を立て直すつもりは無い。最後の…最強の術士として、僕がしなければいけないことだ」
本心だ。
自分達を裏切った国に殉じる。そんな崇高な志に基づくものではないけれど、ルージュはあの国を立て直すことに力を尽くすのは、自分にも一端の責任はあると思っている。
もう、自分達のように、血の分けた者同士で殺し合うことなど無いように……。一つの償いであり、或いは大きな自己満足だった。
冷静に語ったルージュに、アセルスは愉悦を含んだ笑みを向ける。
「つれないな。だがそれがいい。何もかも順調なだけではつまらないからな。逃げるからこそ、捕まえてみたいものもある」
「……アセルス、」
言いかけて、ルージュはやめた。
本当なら、彼女を思い止まらせたかった。以前の彼女自身に戻って欲しかった。
けれど何を言ってもこの調子なら、言うだけ無駄だ、と頭のどこかが判断を下す。また日を改めて、何か手立てを考えてから改めて出向いた方が得策か、と。
しかしここで逃げの一手を打つのは、正直なところルージュ自身の都合によるところが大きかった。あまりにも変わってしまった彼女を直に見て、予想していた以上に、精神力が摩耗してしまっている。
このまま彼女が増長し続けて、様々なリージョンへと仇なす存在となり……最悪の結果、彼女を討伐する必要性が生じた場合、戦うことだってあり得るのに!
―――それを分かっているのに退く自分は臆病だと、ルージュは自嘲する。当然その事態は避けたい。その為には説得や交渉は不可欠だ。しかしそれをするには、甚だ力不足のようだ。悔しいけれど。
『情けないな、ルージュ』
ブルーだったら、そんな評価を下しそうだ。
自分に都合のいい想像にルージュはやはり苦笑し、最後に、もう一度アセルスを見据える。
「率直に言う。僕は君を止めたい。以前の君に戻って欲しい。帰る前にそれだけは言っておく」
結局は何もできなかったが、意思表示だけでも、彼女に知らしめておく。
アセルスはそれを受けて何も言わなかったが、ルージュも黙って彼女に背を向けた。
数歩歩いたところで、ようやくアセルスの声がかかった。
「…ルージュ」
振り向かないままで、ルージュはそれを聞いた。
「もう、仲間だった頃の私達には戻れないんだよ。私も、君も」
まだ、半妖だった頃の。まだ半身だった頃の。
あの頃とは何もかもが変わってしまった。アセルスはアセルス、ルージュはルージュであることに変わりは無いのに。
抑揚のないその声を受け止めてから、ルージュは今度こそ王の間を後にした。出た広間の陰鬱な雰囲気も初めてこの城に足を踏み入れた時と同じで、ルージュは訳もなく溜め息が零れた。
……さっきの言葉を言った時のアセルスは、どんな顔をしていたのだろう。
もう見ることは叶わないのに、今更、そんなことを思った。






END








妖魔の君なアセルスと、最強術士になったルージュの丁々発止の応酬を書いてみたかった、という話。(うまく書けてるかどーかは疑問ですが…)
妖魔エンドのアセルスは何がどーしてあーなっちゃったんでしょうね…。


タイトルは故事成語より。紫とか赤に関連する語句を探していたら見つかりました。

2013,4,23



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