曼珠沙華の季節
部屋に立ち込めるのは、甘い白粉と香油の匂い。
艶町にはおよそ縁のない宗次郎が、何故そんなところにいるのかというと。
この遊女屋の主人が追い剥ぎに絡まれているところを、偶然通りかかった宗次郎が半分気まぐれで助けたからに他ならない。主人は遠慮する宗次郎を半ば無理矢理店に呼び、宴を開いた後はこうしてその店の最上級の遊女の部屋に案内したのだ。
とは言っても、感情や色欲に疎い彼のこと、勿論そんな気はなく、ただその遊女と他愛のない話を楽しんでいるだけに過ぎなかった。
その遊女の名は澄乃といった。恐らく本名ではないだろうが、涼しげな顔立ちをした彼女によく合っている。最上級の遊女に相応しい立ち居振る舞いと美貌の持ち主で、年の頃は二十三、四といったところだろうか。姿形はまったく似ていないが、その雰囲気は宗次郎に、今は亡き由美を思い出させた。
そうして会話がふと止まると、澄乃は宗次郎の顔を覗き込んだ。
「どうしたの? 黙っちゃって」
「いえ、別に・・・・」
淡い微笑みを浮かべると、澄乃の顔もふ、と緩んだ。
「本当に、宗君は可愛らしい顔をしてるわね。まるで女子みたい」
出会って間もないのに親しげに名を呼ぶ彼女に、不思議と嫌悪感は抱かなかった。澄乃の方も、多分歳の離れた宗次郎に、客に、ではなく、弟に接しているような気分でいるからだろう。
「あはは、よく言われます」
謙遜しない辺りが宗次郎らしいが、事実なのだから仕方がない。もう十年も前、あの義理の家族達といた頃は、その中でただ一人、小綺麗な顔をしていたものだから、よく彼らに妬まれたが。それでも、おぼろげな記憶にしかない死んだ母によく似ている、とも言われた顔は、自覚はしていなくても、宗次郎にとっては誇りだった。
その顔を、澄乃は今度はじいっと見つめてくる。
「あなたを見てると、昔ここにいた女性を思い出すなぁ・・・・」
独白めいた呟きだった。にこっと笑って、澄乃は続けた。
「もうずうっと前の話だけど、今でもあの人のことは覚えてるわ。本当に、あなたによく似てた。宗君、ちょっと笑ってみてくれる?」
「こうですか?」
宗次郎はいつものように笑って見せる。澄乃は、嬉しそうに手を叩いた。
「そう、その顔! やっぱりそっくりだわ。笑顔が素敵な人でね、この店で一、二を争う程の姐さんだったの。私、当時はその人の禿をしてたんだ」
「かむろ?」
聞き慣れない言葉に、宗次郎は首を傾げた。澄乃が補足する。
「禿っていうのはね、上級の遊女に仕える、見習い少女のことよ」
どこか懐かしそうな目で、澄乃は続ける。
「下っ端だったのに、あの人にはよくしてもらったっけ・・・・・。綺麗なだけじゃなくて、優しくて、あの人は私の憧れだったなぁ。
初瀬さん、っていうんだけどね」
その名を聞いた時、宗次郎の顔から一瞬表情が失せた。けれど、胸の奥で温かい何かが疼いたような気がして、宗次郎は微笑んだ。
何故なら、その名は、確か。
「って、ごめんなさいね。私ばかりペラペラと喋ってしまって」
申し訳なさそうな笑みを浮かべた澄乃に、宗次郎はいいんです、と首を振った。
「それより、もっと聞きたいな。その、初瀬さんの話。聞かせてもらえます?」
首を傾げて上目遣いで澄乃を見た宗次郎のその顔は、まるで幼子のように彼女には思えた。
あどけなく笑う彼の頼みを断れるはずもなく、元よりその気もなく、澄乃は乞われるままに初瀬の話をした。宗次郎はその話に、ずっと真摯に耳を傾けていた。
「―――で、それから初瀬姐さんは、どこかの米問屋の主人に身請けされてね。姐さんもその人を好いていたから、それはそれは嬉しそうだったわ。その後どうなったのかは、私には分からないけど、今も元気でいて欲しいわね・・・・」
時が経つのも忘れ、聞き入っているうちにいつしか夜も更け、眠気を感じた二人はそのまま寝入り、そして、夜が明けた。
旅支度を整え、店の前に立つ宗次郎に、主人は改めて深々と頭を下げた。宗次郎も、昨晩世話になった礼を言い、主人と同じく見送りに出ていた澄乃は、「いつかまたおいでなさいね」と、遊女の顔でそう言った。
宗次郎はペコリとお辞儀をし、そのまま去っていく。その後姿を見て、澄乃は思っていた。
(どうして宗君は、あんなにも初瀬姐さんの話を聞きたがったのかしら?)
その理由は、昨夜は訊いてもはぐらかされてしまったが。理由はともかく、宗次郎は、とても興味深そうに彼女の話を聞いていたのだ。彼女によく似たその顔に、笑みを浮かべて。
と、澄乃は唐突にあることを思い出した。
(そういえば・・・初瀬姐さんは身請けされた時、既に身篭ってたわね。あれから十七、八年・・・・。
・・・・・・まさか!)
澄乃はダッと駆け出してその後姿を追った。けれど、もうその姿はどこにも見えなかった。
そこにあるのは、静かな朝の艶町の町並みだけ。
「宗君・・・・もしかして、あなたは初瀬姐さんの・・・・・」
答えの出ないその呟きは、風にかき消されて音を失った。
町を出て、また野道へと足を進めている宗次郎は、さざめく木々を見上げながらぽつりと。
「お母さん、かぁ・・・・」
遠い昔に亡くした母のことを、今頃になってこんな形で知ることになろうとは思わなかった。
『今も元気でいて欲しいわね・・・・』
澄乃はそう言っていた。
彼女は、母が死んだことを知らない。知らないのなら、そのままでもいいと思う。初瀬は、身請けされた後も元気で、彼女の子と幸せでいると。彼女がそう思っているのなら。
初瀬は死んで、その子は人殺しだと、そんな現実を突きつけるよりはずっといい。
「お母さん、か・・・・」
その存在を亡くした時は、宗次郎はまだ幼すぎて、その顔も、姿も、温もりも、ほとんど記憶にはない。ただ、たった一つの心の拠り所が失くなってしまったということだけは、覚えている。
自分をこの世に産み落としてくれた女性。そして宗次郎と一緒にいた間、きっとずっと守っていてくれたのであろう女性。
もしその人が、今でも生きていて、それで自分もずっと彼女の側にいたのなら、今とはまったく違う生き方をしていたのかもしれない。この手を、血に染めることもなく。
けれど、それは叶わなかった平穏な日々。現実の自分は、人を殺した挙句に、答えを探して彷徨っていて―――。
こんな自分を見て、黄泉の国にいる母はどう思っているのだろうか。
・・・・もしもまた会えるのなら、変わらず抱きしめてくれるだろうか。あの頃のように。
ふとそう思って、もう決して会えない人に実は会いたがっていた自分に気付き、宗次郎は苦笑する。
でも、今はまだ、到底顔向けできない。だから。
「答えが出たら、お母さんのお墓参りをするってのもいいかもなぁ」
木漏れ日が宗次郎を照らし、その眩しさに彼は目を細めた。
歩を進める道の脇には、真っ赤な曼珠沙華。火花を散らしているようなその花は、風に吹かれて揺れていた。
<了>
結構前から話の草案はできていたのですが、ようやく書けました。微妙に季節外れですが。
妾という言葉から、宗次郎のお母さんはベタですが元は遊女、だったのではないのかなぁと思います。宗ちゃんの顔立ちがあれで、義理の家族たちがアレなので(笑)、さぞかし宗ちゃんのお母さんは美人さんだったんだろうなぁ・・・。良かった母親似で・・・・。
初瀬、って名前は、言うまでもなく宗次郎の名字の瀬田から。彼があの米問屋の名字を名乗るわけはないし(まぁどっちにしろ米問屋の名字は不明なのですが)、母親の姓とか志々雄がつけたとか色々と想像の余地はあるのですが・・・・ま、とにかく宗次郎と何らかの形で繋がっていて欲しいなぁと思いまして。ちなみに澄乃さんの名前(源氏名)は初瀬さんにちなんでつけられたのだということで(↑の小説じゃ説明できませんでしたが)。
宗次郎の過去編を見る限り、やっぱり彼のお母さんは結構前に亡くなってるんだろうなぁ。妾だ、っていう心労もあったんだろうか(だって、本家がアレじゃねぇ)。もし、宗次郎がお母さんとずっと一緒にいられたら、周りからやっぱり虐げられてたかもしれないけど、それでも心優しいまま成長してたのかな・・・。
彼の過去を思うと本っ当切ないですね。どうか彼には幸せになって欲しいです。
って、本文に対して後書き長っ(汗)
2004年10月11日
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