名残の花
風鈴の音が聞こえる。
洗濯物を干していた剣心は一度その手を止め、軒先に下げられている風鈴を見た。
秋風が揺らしたのだろう、ちりちりと涼やかな音を奏でている。模様の竜胆の紫が艶やかだ。剣心は目を細めて微笑む。
静かだ。静かだからこそ、風鈴の小さな音が際立つ。
ここ、神谷道場は普段はもっと賑やかだ。薫や弥彦が稽古に精を出す声、出入りする門下生達の若々しい声。毎日のように遊びに来る左之助に、何かと心配してちょくちょく訪れる恵。彼らが様々な音を生み出し、剣心は退屈する暇もない。そしてそれが心地良い。
長らく孤独を共に旅をしてきた自分には、信じられない変化だ。だがそれも、存外悪くないと思い始めている。
このところしばらく平和だ。世の中はともかく、少なくともこの道場の周りは。
志々雄一派との激闘を繰り広げたのももう一年以上前の話。つい昨日のことのように思える半面、もうずっと昔の出来事のようにも思う。
静かだとやはり、ふと過去のことに思いを馳せてしまう。今日は薫と弥彦は出稽古で留守で、それ故に門下生達は来ていない。左之助は賭博場に行っていて(家事があるから、と剣心が丁重に断ったら軽く小突かれた)、恵も診療所が忙しいのかまだ顔を見せない。いつもが騒がしい分、こうも珍しく静かだとどこか調子が狂う。
まぁ、夕方にでもなればまた賑やかになるだろう、普段通りに。ならば今のうちに家事をさくさくと済ませてしまおうか。
そう思い、盥の中の洗濯物に向き合いかけた剣心は、ふと誰かの視線を感じ動きを止めた。
敵意は無さそうだ。しかし恐ろしい程に気配も感じられない。
何者、と剣呑な目をそちらに向けると、庭先でぺこりと頭を下げる人物がいた。
体格は剣心とは大きく変わらず小柄で、薄汚れた千草色の着物と銀鼠色の袴を身につけている。長い前髪がその者の双眸を隠し、誰なのかは分からない。肩にはつかない程度までに伸びた後ろ髪はばさばさで、手甲、脚絆に肩にかけた荷物、といった出で立ちから恐らくは長く旅をしているのだろうということが伺える。
少なくとも、普段からこの道場に出入りする類いの者ではない。
「…何用か」
身構えるように問いかけると、来客はああ、と笑い声のようなものを口にした。
「僕ですよ僕。もう忘れちゃいました? まぁこんな身なりじゃ無理もないかな」
緊迫感を一瞬で解くような、明るい声だった。
確かに聞き覚えのあった声に剣心が警戒心と驚愕とを共にした心持ちで来客と向き合っていると、彼は左目辺りの前髪をかき上げながら顔を見せ、にっこりと笑った。
「お久し振りです緋村さん。瀬田宗次郎です」
あどけなさを残す青年の顔は、見紛う筈もなかった。
志々雄の片腕的存在として暗躍し、己の逆刃刀を折る程の腕を持った剣客。
彼と最後に相見えたのは、あの戦艦・煉獄での死闘の時だ。それ以来会ったことはなく、煉獄も明治政府の攻撃で沈没してしまい、彼の生死は不明のままだった。
生きていたのか、という安心と驚きが剣心の心中に入り混じる。
「今日は別に闘いに来たわけじゃないですよ。近くまで来たから、ちょっと緋村さんに会っておこうかなぁ、って」
相変わらずの子どものような口調はかつては得体の知れぬものと思っていたが、この場においては不思議とそうではなかった。にこにこと笑う姿は単純に久方振りに知人を訪ねてきた者のそれだ。
剣心はこの宗次郎という青年については二度剣を交えたのみで人物像については大まかに捉えただけに過ぎなかったが、彼の態度は大抵いつでもこうしたものであるらしい。
以前もその胸の内や闘いの手を読めず閉口したが、今この時は本人も言う通り闘いが目的ではないようだ。それで剣心も幾ばくか警戒を緩めた。
「確かに、久し振りでござるな。立ち話も何だし、良かったらそこの縁側にでも座るでござる」
「ありがとうございます」
促すと宗次郎はにこにこ顔のまま縁側に歩を進めた。
その時剣心は気付いた。宗次郎の歩き方がぎこちない。特に左足の動きがおぼつかない。
歩くことは歩けるようだが明らかに以前とは違う。思わず凝視すると、宗次郎は大したことないといった風に、
「あ、この足ですか? 緋村さんとの闘い以来ずっとこうなんですよ。骨は大丈夫らしいんですけど、筋か何か痛めちゃったみたいで」
そのままあははと笑って縁側に腰を下ろすが剣心の顔はこわばったままだ。
あの時、煉獄での闘いにて、剣心は宗次郎の足を集中的に攻撃した。素早い彼の動きを封じるにはそれしかないと判断したからだったが、こうして彼の身に後遺症として残っているのを目の当たりにしてみると、まるで鉛を飲み込んだような感覚に陥る。
「ああ、でも足だけじゃないんです。ほら」
宗次郎は傍らに荷物を下ろすと、手の甲を見せるようにして右手を上げた。そのまま殊更長い右側の前髪をかき上げる。
顎の辺りまで覆われた髪の下、頬から首元まで赤い火傷の痕があった。手甲に隠れた右の手の甲にも同様に。
元が整った顔立ちをしているだけに変質した一部の肌が酷く痛々しく、異様に見える。剣心は息を呑むが、宗次郎自身は至っておおらかだ。
「顔と首の右側と、右腕から肩にかけて。僕も逃げるの遅れちゃったし、砲撃で船が燃えちゃったからある程度は仕方なかったかな、とは思うんですよ。
でも、何で右側だったかなぁ。せめて左側だったら良かったのに。僕右利きだから何かと不便で。まぁ、もう大分慣れましたけど」
笑みを含む声色は、諸々の原因となった剣心を責めるものではない。宗次郎はあっけらかんとただ事実のみを受け入れている。
だからこそ剣心は余計に息苦しい。赤い肌から目が離せない。
必然的に志々雄を連想する。
「あの時は無我夢中で…どうやって逃げたのかも、正直あまり覚えていないんです。我ながらよく生きてたなぁって思います」
「…それだけお主が、心から生きたいと思ったということでござろう。『生きようとする意志は何よりも強い』…」
ようやく、剣心は絞り出すように声を発せた。
砲弾の雨の中、傷付いた体で傾き沈みゆく船から脱出するのは容易ではなかっただろう。最後に志々雄と相対した剣心らも、生き残った警官達と共に煉獄を後にした時はまさに間一髪だった。
志々雄一派の他の乗組員達を連れて脱出する程の余裕もなかった。恐らく煉獄に残されたほとんどの者は、船と共に海の藻屑と化した筈。
不殺を掲げておきながらそれでも多くの犠牲を出してしまったことを苦々しく思う。たとえ実際に船を沈めたのが明治政府であったとしても。
宗次郎が助かったのは元の身体能力の高さもさることながら、大いに運も関係しているであろう。それでも宗次郎がこうして生きているということは、少なからず彼の中にそうした意志があったのだと、剣心にはそう思えた。当の宗次郎は不思議そうに目を瞬いているが。
「生きようとする意志、ですか。そうだったのかな、僕。まぁ、こんな体にはなっちゃいましたけどね」
そうしてまた笑って火傷の残る側の手をひらひらさせている。しかしやはり、そこに憎しみはない。まだ率直に恨みつらみを言われていた方が、剣心は気が楽だったかもしれなかった。
互いに命をかけた真剣勝負、その結果己の身がどうなろうとも、それは剣を持つ者にとっては既に納得ずくのことだ。
だが自分がこの青年に一生涯残る怪我を負わせたのだというその事実、その重さをしかと受け入れて、剣心は宗次郎に向き直る。
「…すまぬ」
そのまま頭を下げた。目は伏せたが、瞼を閉じはしなかった。そうしたら、まるで事実から目を背けるようで。
脳裏に過ぎるのは、新月村と煉獄での闘い。新月村での闘いは短かったが、剣を交えるうちに宗次郎は相当の腕だと悟った。そもそも、剣心と剣戟が続く相手が稀なのだ。大抵は剣を数太刀も交わさぬうちに、倒せている。
だが、あれだけの身のこなし、剣の鋭さ、動きの読めなさ、そして逆刃刀を折ったという結末。若いが一筋縄ではいかない相手だと痛感した。実際に、再戦に当たる煉獄での戦いも熾烈を極めた。あれだけ狭い場所、揺れる船内で縦横無尽に駆け回る脚力。天衣無縫の剣。
素晴らしい才能だった。惜しむらくは、それを人を殺める為に使っていたこと。抜刀斎の頃の己さながらに。
だから、もしかしたらそれをどうにか止めたかったのかもしれない。たとえ卑劣とも思える手段を用いようとも。
「あの時は志々雄も後に控えていた故、早急にお主との闘いを終える必要があった。何よりお主は、手加減して闘える相手ではなかった。だからお主の足ばかりを敢えて痛めつけた。勝つ為には、そうするしかなかった」
淡々と剣心は告げる。動きの素早い相手は、どうにかしてその動きを封じる、または鈍らせる、それは闘いにおいての定石だ。そうであるからこそ、剣心は執拗に宗次郎の足を狙った。目論見通り宗次郎の動きは精彩を欠き、それ故に彼の心に混乱も生じた。
そして剣心は勝った。だがそれには犠牲を伴った。恐らく宗次郎はもう、以前と同じようには軽やかに動けない。
「…すまぬな。いくら謝ったところで、お主の足や体は元には戻らぬが…」
顔を上げた剣心の目に飛び込んできたのは、宗次郎の心底不思議そうなぽかんとした顔だ。剣心の謝罪も何も、その内面に響いていないように見える。
「おかしな人だなぁ、緋村さんは。死闘を演じた相手に謝るなんて。大体、僕はあなたを殺すつもりで刀を振るっていたんですよ。
それに、僕の足に攻撃を当てられた相手は緋村さんだけです。僕の速さについてこられたのはあなただけだった…要はあなたの方が、僕より強かったってことです。それなら、当然の結果じゃないですか」
謝る必要などない、いや、謝ること自体おかしいのだと宗次郎は言っているようだ。何故剣心がそうした言葉を口にしたのかも理解していないようにも思える。
そして何よりも剣心が引っ掛かったのは、
「…まだ、強いことが正しいと、強い方が正しいと拘っているのでござるか」
煉獄での闘いの時、宗次郎はしきりに口にしていた。強ければ生き、弱ければ死ぬ、と。強い方が正しい、強いことこそが正しいと。まるでどこか自分に言い聞かせているようでもあった。
彼の背景にあるものが一体何であるのかは、剣心には分からない。ただ、彼にとっては強さが正義だった。だから己の強さが崩れた時、その真実も、自己の存在そのものすらも揺らいだのだろう。
志々雄の理屈のみで測るのではなく真実は自分自身で見つけるべき、と諭したはいいが、それで混乱し絶叫する宗次郎には何も言えず、何もできなかった。
剣心がその時と同じように見ていると、宗次郎は薄笑みのまま小さく首を振った。
「…分かりません」
それはごく穏やかに。
そして虚空を見上げるような表情で宗次郎はこう続けた。
「この体になって、前と同じようには動けなくなった。闘えなくなった。刀を振るうのにも不便です。もっとも、今となってはなかなか振るう機会もないですが。
この火傷の痕もねぇ、結構厄介なんです。寒い日は疼くし、乾燥し過ぎるとひきつれて痛いし、痒いし。こんな一部分だけなのにですよ。志々雄さん、よく動けてましたよねぇあの体で。自分が大きな火傷を負って初めて分かりました、志々雄さんの気分。
変ですよね、一緒にいた頃よりずっと、僕は志々雄さんのこと考えてる。同志だと思っていた人達に裏切られて、殺されかけて火もつけられて。全身に大火傷を負ってそれでも明治政府の転覆を狙って。あれだけの野心を持っていたあの人はなんて凄かっただろう、あんな厄介な体でそれでもとてつもなく強くて、そんな凄まじい人と僕は一緒にいたんだなぁ、って。
でも、もう、いないんだな、って。それも何だかよく分からない」
剣心には、瀬田宗次郎という人間は志々雄の事を信奉し、慕って付き従っているように見えていた。志々雄の方もまた、宗次郎のその実力に大きな信頼を寄せていると。
内情はよく知らねど、しかとした主従関係があることが伺えた。だからこそ志々雄の死の場面を直接見ていない宗次郎には彼の死の実感がなく、また、そうして去来した喪失感に戸惑っているようにも、持て余しているようにも思えた。
己の両膝の辺りに目を落とした宗次郎は、右手の火傷の痕を左手の人差し指でなぞっている。もしかしたら、宗次郎は志々雄の死という現実をまだ受け入れられていないのかもしれない。
「…志々雄を死においやった拙者を、お主は恨んでいるか」
尋ねると、宗次郎はまた剣心を見上げて小さく笑った。
「分かりません。分かるのは、志々雄さんや由美さんは死んで、十本刀の皆さんも死んだり捕まったりしてばらばらになって、僕の居場所がまたなくなっちゃったっていうこと…」
内容に悲壮感は漂うが宗次郎の声にはそれでも明るさがある。相変わらずのちぐはぐさだ。
「でも、それであなたが悪いんだとは思えないんです。変ですよねぇ」
ほら、案の定宗次郎はにっこりと笑っている。普通の人間ならばもっとこう寂しそうだとか悲しげな顔をするものを。
無理して笑っているという風でもない。宗次郎は何の疑問も無く、ごくごく平素通りに笑っているのだ。だからこそ性質が悪い。
一切の感情が麻痺しているが如く。それでもまだ煉獄の闘いでは苛立ちや困惑といった反応があった。だがこの期に及んでも、宗次郎は微笑む。
けれど表情こそ笑みのままだが、その心の中は少しずつでも動き始めたように、剣心には感じられた。自身の事、志々雄の事、少しずつ考え始めている。考えようとしている。
あの絶叫と共に崩壊し、見失った心を、緩やかに見つめ直そうとしているのだと。
「志々雄は強かった。本当に強かった。最期は炎を纏って、逝った。先に地獄で待っている、と」
剣心がそっと志々雄の最期を告げると、宗次郎はこれは納得したように笑った。
「炎と共に、ですか。…志々雄さんらしいや」
そうしてふと、思いつきを口にする。
「僕もきっと地獄行きだろうから、死んだらまた志々雄さん達に会えるかな」
「宗次郎」
どこか死に急ぐような言い方を咎めるように、剣心が初めて宗次郎を名で呼ぶ。
宗次郎はからからと笑って「いやだなぁ、そんなおっかない顔しないで下さいよ」とおどけた風に言う。
ややあって、しかし真剣さが宗次郎の瞳に宿る。
「まだ当分は死にたくないです、僕。分からないことが多過ぎるから。少なくとも、それが分かるまでは……。あなたが言っていた答えとやらも、探してみたいし」
それは確かに意思表明だった。事実、宗次郎にはまだ分からないことだらけなのだろう、しかし、分からないからこそ探ろうとしている。
強ければ生き弱ければ死ぬ、ただそれだけだと凝り固まっていた思考が解れ出した。現状に何の疑いも持たぬままいるよりもずっといい。たとえその考え方が頭から離れぬままだったとしても、一つの考え方だけに囚われているのと、他の様々な価値観も知ってその中から選び取ったのとでは、大きく意味合いは異なる。
生きようとする意志の中で生き長らえた命……前向きに歩んでいこうとする宗次郎の姿勢に、剣心はやっと微笑んだ。
「…そうでござるな。その命…大切にするでござるよ。きっとそれはお主だけの命ではない…お主の生にはまるで志々雄達の命も込められているように、拙者には思えてならぬのでござるよ」
剣心が心に浮かんだままを言うと、宗次郎は今まで見た中で一番きょとんとした顔になった。
「……? 仰っている意味が全く分からないんですけど……」
宗次郎があまりに不思議そうにしているものだから、剣心は思わず噴き出しそうになった。
宗次郎には志々雄達と共に過ごした時間があり、それが今の宗次郎を形作っている。ならば志々雄達の命が失われても宗次郎という存在の中から彼らが消えるわけではない…むしろ今となっては宗次郎の中にしか残されていない志々雄という人間がいる。そういった彼らの分もこの先は生きていくこと、そうしたことを伝えたかったのだが、どうやら宗次郎には抽象的過ぎたらしい。
さてどう言ったものかと剣心が思いあぐねていると、宗次郎が突然「あぁそうだ」と何かを思い出したような声を上げた。
「そういえば、緋村さんこそ怒ってないんですか」
「何をでござる」
「逆刃刀折っちゃいましたし、それにほら、京都での闘いの時に僕、神谷薫さんのことも拐ったし」
「ああ…」
言われて剣心は思い出す。志々雄の配下として宗次郎は様々な悪事を働いていたが、直接剣心に悪さをしたのはそれらだ。
新月村での抜刀術勝負の末に逆刃刀を折り、剣心の本気を引き出す為に薫を人質として連れ去った。前者はともかく、後者は志々雄の指示によるものだろうが。
「薫殿が連れ去られたあの時は…無論怒りで震えたでござる。お主に対しても、むざむざと薫殿を危険な目に合わせてしまった自分自身に対しても」
剣心が実行犯である宗次郎に怒りを感じなかったといえば嘘になる。だがそれ以上にまんまと薫を拐われてしまったこと、刃衛の時も一度あったのに全くその考えに至らなかった己に酷く腹が立ったものだ。
慣れぬ乗馬をし宗次郎を追いかけ、その先の煉獄で薫を志々雄の手の者に海に突き落とされた時には、怒りと絶望で頭が真っ白になった。あの嵐の中で薫の命があったのは、ひとえに幸運だったという他ない。
「けれど今はこうして同じ場所で過ごせているでござるからな…もうお主に対しての怒りはないでござるよ。逆刃刀のことも…あれは拙者の力不足が招いたこと。それに、誓いを新たにこの真打を手に入れられたでござるからな。もうどちらも不問でござるよ」
逆刃刀を折られた時は怒りよりもただただ衝撃の方が大きかった。そして宗次郎と、ひいては志々雄との力の差を痛感した。
しかしこの出来事があったからこそ、逆刃刀に込められた刀匠・新井赤空の思いを知り、剣の師である比古清十郎から奥義の教えを受けること、生きるという意志の重要さを思い知るにも至った。
その時はどうであれ、今更剣心にそれを責めるつもりはない。そう思っての回答だったのだか、やはり宗次郎は首を傾げていた。
「緋村さんてつくづく掴めない人。でも伝説になるくらいなんだから、やっぱりその辺の人とは一味も二味も違うってことなんだろうなぁ」
何やら変に感心されているが、どの口がそれを言うか、というのが正直な感想である。
「お主からそう評されるとは心外でござる。お主こそ十分に風変わりでござろう」
「あはは。そうかなぁ」
剣心が揶揄するように言うと、宗次郎は笑い声を上げて左手を頭に当てた。その時に見えた手甲は、よくよく眺めてみれば相当に使い込まれた物だというのが分かる。袴の裾も擦り切れていて、草鞋も随分とくたびれていた。
髪が伸びて印象が変わっているのもあるが、今の宗次郎は去年相対した時の小奇麗な書生風の出で立ちとはかけ離れている。
「ところでお主、今は何を」
興味と確認とで剣心が訊いてみると、宗次郎は少し言葉に詰まった後に。
「何って…う〜ん、とりあえずあちこちを歩きながら、色んなことを探っている…というか。
流浪人、ってことになるのかな。人里に寄ったり、反対に誰も足を踏み入れないような山に籠もってみたり」
世間的には警察から逃亡中、という立場であるが、彼にとっては流浪の旅路の途中であるという。剣心がその選択に些かの感慨を覚えつつ「警察には行かぬのか」と一応水を向けてみると、
「いずれは行くかもしれませんが、今はまだいいです。だって一度捕まったら僕もう出られないだろうし。探し物ができなくなっちゃうのは困ります」
そうしれっと返ってきた。
「髪も伸びたし、前とは大分風貌が違うせいか、案外気付かれないんですよね、警察にも。もし見つかったとしても、易々と捕まるつもりはありませんけど。
こんな姿だから普通の人達には初めは怖がられますけど、中には気の毒がって親切にしてくれる人もいて、一夜の宿をお借りする代わりにその家の手伝いをしたりとか、お店とかで少しの間だけ住み込みで働いたりして路銀を稼ぎつつ、まぁ何とかやってます」
宗次郎が案外逞しくやっている様子に、剣心は少し安堵する。無論、ここまで彼が立ち直るにはそれなりの時間はかかったに相違ないだろうが、それでも今がそういった風であることは幸いだ。宗次郎は本来ならば警察のお世話になるべき人間ではあるが、ここは彼の意志を尊重して敢えて目をつぶることにする。
剣心は穏やかに頷いた。
「そうか。旅の途中なら疲れも溜まっているでござろう。茶も出さずにすまなかったでござるな」
「あ、お水でいいですよ、暑いから」
宗次郎はにこやかに注文を付けた。剣心がこれから茶を用意すると言ったわけでもないのに実にちゃっかりしている。
苦笑を洩らしつつ、剣心は草鞋を脱いで縁側に上がる。
「承知したでござるよ。しばし待っていてくれ」
成程、あの要領の良さなら大抵の場所でやっていけるだろう。そう思いつつ剣心は台所に向かい、瓶から柄杓で水を掬って二人分の水を湯呑みに用意した。丁度頂き物の饅頭があったので、小皿に載せ茶請けにする。
それらを載せた盆を持って剣心が縁側に戻ると、宗次郎は行儀よく座ったまま待っていた。饅頭に気が付き、目を輝かせる。
「わぁ、ありがとうございます緋村さん。僕、大好物なんです甘味」
声を弾ませる様は本当に子どものようだ。剣心もそんな宗次郎の隣に腰を下ろすと、水と饅頭とを彼に振る舞った。
頂きますと言うが早いか水を飲み干し、宗次郎は饅頭に手を伸ばした。空気は涼やかだが秋の午前中はまだまだ気温が高い。やはり喉は乾いていたようだ。
「うん、美味しいですね、これ。皮と餡子の塩梅がちょうどよくて。
あ、そうだそうだ緋村さん、どうでした? 志々雄さんの強さ。僕の言った通り、怪物だったでしょう?」
宗次郎は饅頭を頬張りつつ、ごくごく軽く投げかけてくる。故人の話題なのに、この調子ではまるで単なる世間話だ。少なくとも縁側で饅頭を齧りつつする話ではない。
剣心はもう幾度目かも分からない苦笑を零しつつ、その問いに答える。
「そうでござるな…確かに、志々雄は強かった。四人がかりでも圧倒される程の凄まじさだった」
「四人? 緋村さんと、多分斎藤さんと、え〜と後は…」
「拙者の友人と、元・江戸城隠密御庭番衆の頭でござるよ」
「え、江戸……? ……何でしたっけ」
「元・江戸城隠密御庭番衆の頭、でござる」
「ええと、要は忍びの方ですよね。凄いなぁ、志々雄さん、四対一で闘ったんだ」
宗次郎は素直に感嘆している。宗次郎は志々雄の強さを心底尊敬していて、信じていたに違いなかった。そして彼が述べていた通りに、志々雄は尋常ではない相手だった。
「志々雄は剣の腕も体術も、勝利への執念も、どれも皆底知れなかった。幕末の頃から多くの相手と闘ってきたが…あのような男は、初めてだった」
そう語る剣心の方にもまた、確かな賞賛があった。
志々雄とは思想や信念の違いからぶつかり合いはしたが、私怨で闘ったわけではない。容赦なく弱者を切り捨てる、踏み台とする、その遣り口は到底許せるものではなかったが、志々雄真実という一人の人間の力量については剣心は十二分に認めていた。
かつては同じ人斬り同士でありながら、表と裏を為す存在だった。だからこそ、雌雄を決した。
それでも、どこか深い所で奇妙に共鳴するような部分もあったような気もして、彼の存在はより色濃く剣心の脳裏に焼き付いている。
剣心が話す志々雄についてを、宗次郎は屈託の無い笑顔を浮かべながら聞いている。
彼は大抵微笑んでいるが、今のそれはどことなく嬉しそうでもあるように剣心には見えた。
「…お主は、志々雄を慕っているのだな」
「ええ。きっと、ずっと好きです」
はっきりと答えた宗次郎は、懐郷の思いが灯る眼差しで右頬の火傷の痕を撫でる。
「この火傷も、さっきは厄介だの不便だの文句言いましたけど、実は結構嫌いじゃないんです。だって、志々雄さんとお揃いみたいで」
宗次郎は朗らかに笑う。
強ければ生き弱ければ死ぬ、という宗次郎の思考は志々雄の影響を受けている。
強さのみでは生きていけない、と剣心は以前に否定したが、宗次郎が志々雄を慕うこの思いまでは否定できない。彼には、きっと彼らにしか分からない絆がある。たとえそれが傍からは歪んで見えようとも、それでも長い年月の中で紡ぎ上がったもの。
或いはそうであるから、宗次郎が志々雄達の分まで生きるということにも、繋がっている。
「……そうか」
零された本音を、剣心は静かに肯定した。
宗次郎が神谷道場に立ち寄ったのは、顔を見せに来たというのもあるだろうが、ただ誰かと志々雄の話をしたかったのかもしれない、そんな風にも剣心は思った。
「さて、と。そろそろお暇します」
しばし志々雄や彼の一派の話をして、幾許か世間話を交わした頃に宗次郎はそう言って立ち上がった。「お饅頭、御馳走様でした」と会釈して丁寧に礼を述べる。太陽は空の真上にほとんど近付きつつあった。
「簡単なもので良ければ昼餉も用意するが」
「せっかくですけど、遠慮しておきます。今日はいきなりお邪魔しちゃったし、また何かの機会にってことで」
剣心の申し出をこれまた丁重に断ると、宗次郎は縁側に置いてあった荷物を肩に担いだ。
彼はまたしばらくは流浪の旅を続けるのだろう。行くあてもなく、帰る場所もなく、ただそれでも己の欲するものを求めて。
「宗次郎」
殆ど背を向けかけていた宗次郎を、剣心は呼び止めた。左足を引きずるようにして宗次郎は振り返る。
剣心も立ち上がると、宗次郎を正面から見据えた。
「先程、お主の命を大切に、と言った。志々雄達の分まで背負ったその命を。
だが、命が大切なのはお主だけではない。お主以外の、この世に生きる他の者達の命も同様に、誰にとってもかけがえのないものであると……どうか心にとどめおいて欲しいでござる。今はまだそれに納得いかなくとも」
大仰な言い分ではあった。綺麗事過ぎるのは、剣心は自分でもよく分かっていた。
ただ、この先宗次郎が簡単に誰かを殺めることの無いように、もう殺めるな、と、そうした思いで口にした。
何が正しいのか、何が間違っていたのか、それを決めるのは結局は宗次郎自身だ。それでもその過程の中で、できることなら更なる罪を重ねないで欲しかった。そして己の罪の深さを知り、悩み苦しみながらも、目を背けないで欲しい、とも願う。
それは今言葉で伝えるよりも、宗次郎に自分でいつかどこかで、見つけ出して欲しかった。
剣心の目を真っ向から受けた宗次郎は、その内の真剣さに気付いたのだろう。
くすっと笑いはしたものの、面持ちの中に真摯さはある。
「考えておきます」
とだけ、宗次郎は言った。そして最後にもう一度、会釈する。
「どうもご馳走様でした。それじゃあ」
「達者でな、宗次郎。また気が向いたら顔を見せるでござるよ」
剣心はゆるりと再会の約束をする。宗次郎がここに再び訪れるかどうかも、全ては彼の心次第だ。もう一生訪れないような気もするし、今日のように何の前触れもなくひょっこりと顔を出すかもしれない。
そしてそのどちらでもいいと、剣心は思う。宗次郎が自分で考えて、自分で決めたことならば。
にっこり笑顔のまま踵を返して、宗次郎は去っていった。後ろ姿はあっさりと遠ざかっていく。
髪と着物の襟との狭間にちらりと見えた、うなじの辺りの火傷の赤みが、剣心の目に焼きついた。
<了>
実写映画『伝説の最期編』を見て思いついた話です。
実写宗次郎は精神崩壊したところで終わっていて、その後どうなったのか全く描かれていません(ビジュアルコメンタリーで生存については語られてましたが)
あの後、どうなったんだろうか…生きているとしたら、どんな風だろうか…を想像していたら火傷をしながらも生き残った宗次郎が思い浮かんで、そこからは話の大筋が一気にだーっと出来ました。
しばらくスランプだったので、書きたい意欲がいい方向に爆発したようです。
実写版は、剣心と宗次郎の和解する図が、正直あまり見えませんでした(原作では幻の北海道編で宗次郎が剣心の仲間になるという構想が和月氏にあったので、多少なりとも打ち解けるはずと推察される)。
でもこの小説では、宗次郎に志々雄の象徴のような火傷が残ったことで、志々雄についてや色んな事を改めて考え始めるきっかけになったというか。
脱出後すぐは宗次郎は悩み苦しんだのかもしれないけど…とりあえず、火傷宗次郎と、剣心との会話がだーっと浮かび、こんな話こなりました。
この宗次郎は私の書く宗次郎にしては珍しく志々雄寄りです。志々雄と別れる考えも無く、覚悟も無く、精神崩壊してるうちに気が付けば志々雄死んでるって…そりゃ引きずるよ。
実写宗次郎があのまま終わってはあまりにも気の毒で…だけどこんな風にでも少しは立ち直ってくれたら、と思います
2015,1,25
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