明日へ
宗次郎がその村を訪れたのは、実に六年振りのことだった。
記憶の中のその村は、荒れ果てていて、閑散としていて―――まぁ、もっともそれは自分達がそうさせたのだけれど――― 一言で言えば廃村同様だったのだが、久方振りに足を踏み入れたそこは、思い出の中のものと大分様変わりしていた。
よく手入れのされた畑。柴を背負って行き交う人々の明るい笑顔。村外れの野原では、トンボやらバッタやらを追い回して元気いっぱいに遊ぶ子ども達の姿もある。
村を取り囲む木々の葉を揺らす秋風すらどこか清々しく、何もかもが六年前と違っていた。いや、むしろ、自分達がこの村を占領したそれ以前の状態に戻ったと言い換えた方が正しいか。いずれにしても、あんなにも荒涼としていた村がこうも息を吹き返したということ、人々が持つ立ち直ろうとする力の凄さを、改めて思い知らされる。
(ここって本当に新月村…だよね)
宗次郎が大きく瞬きをしつつ、心の中でそう確認してしまったのも無理はない。
東海道は沼津宿の辺りから少し外れた場所にあるその村の名は、新月村といった。農業や林業で暮らしを営む人々が住むごく小さな村。それでも良質な温泉が湧き出ているということが、その村唯一の誇りだった。
明治政府転覆の足掛かりにする為に乗っ取るには程良い規模の村で、尚且つ志々雄の火傷に効く温泉があり、何より主街道である東海道に近い―――。
そういった幾つかの条件が志々雄の目に留まり、新月村は彼に搾取される村と化した。
志々雄の配下達が村にいた駐在を衆人環視の下で惨たらしく殺すことで、彼らには決して逆らえはしないのだという考えを村人に植え付けた。志々雄やその一派の者には絶対服従、さもなければ死、そういった恐怖に怯える日々を村人達は送る羽目になった。
占領後の新月村の実質の統治者は尖角だったが、それでもこの村を東海地方制圧の軍事拠点にする為に、加えて村の温泉を楽しむ為に、志々雄は時折逗留することがあった。そこには勿論、側近である宗次郎も控えていた。
明治十一年の闘いで尖角は緋村剣心に敗れ、その後志々雄一派も瓦解したことで、ようやく新月村は解放されたのだ。旅に出た宗次郎も何となくそれは分かっていたのだけれど、だからといって足を運ぼうとは思わなかった。宗次郎が個人的に新月村を訪れる理由は何も無かった。
何よりも、志々雄の下を離れると決意した宗次郎が求めたのは、まずは己にとっての答えだった。その為には志々雄や剣心のように十年近くの時間が必要だろうとも考えて、宗次郎は気の向くまま足の向くままにのんびりとあちこちを流浪してみることにした。
六年もあちこちを流離っていれば、鈍い宗次郎にも流石に色々なことが見えてくる。強ければ生き弱ければ死ぬ、その摂理だけを頼りとして生きてきたのに、いざ広い世界へと目を向けてみれば、どれだけの人がそれとは違った考えを持っているか。どれだけの種類の人間がいたか。
貧しい暮らしでも何とか生きようとする人々の逞しさ。見ず知らずの自分に親切にしてくれる、人々の優しさ。飢えや病で死にゆく人達と、それを必死に救おうとする者達。強さをひけらかし狼藉を働く者。金や財産に執着する、性根の貧しい者。
知っていた筈だった。分かっていた筈だった。けれど素直に眺めてみれば、どれだけ自分が人間というものを知らずに生きてきたのかと、宗次郎は少しずつ思わずにはいられなかった。この世は弱肉強食、それはまさにその通りなのだけれど、そんな中で必死に足掻きながら生きている者達が、どれだけいることか。
そんな人達を自分はまさに斬ってきたのだといつしか気が付き始めた頃、宗次郎の中にどうしようもない靄もまた滲み出していた。幼い頃、宗次郎は強者にいいように甚振られる弱者だった。妾の子だから仕方ない、この家の本当の子じゃないのが悪い、そうした事実を受け入れて諦めながらも、それでも痛かったし悲しかったし悔しかった。
自分を虐げてきた者達をこの手で殺し、志々雄の弱肉強食の理念を受け入れて、宗次郎は強く生きることにした。この世は強くなければ生きられない。あの嵐の夜にそれが身に沁みたから、だから宗次郎は強者の側に立って生きてきた。強いことは何よりも正しいのだと、そうひたすらに信じて。
それなのに、旅に出て、いざ客観的に見えてきた自分は、かつて自分を虐げてきた者達とまるで同じだった。強者であるという驕りが、いつしか宗次郎を無遠慮な殺しへと駆り立てていた―――。
無論、主君である志々雄から命じられたから、それはある。それでもこの手は、多くの人間を殺めてきた。それを考えるたびに、胸の奥が苦しくて息が詰まった。けれどその正体が何なのか、宗次郎にはまだ分からなかった。これが悲しみなのか、悔恨なのか、或いは自分自身への怒りなのかそれすらも。他人が怒ったり悲しんだり、それは見れば分かったのに、自分自身の情の動きについては、未だ掴みかねていた。ただ、少なくとも喜ばしい痛みではない、それは分かる。
これを解消するにはどうしたら良いのかも、宗次郎には分からなかった。自分はどうしたいのかも。ただ、苦しみの根源は自分の犯してきたことにあるのでないのかと、ぼんやりとそんな風にも思っていた。たくさんの人を殺めておきながら、自分はその人達に何もしてこなかった。直接ではなくとも苦しめた人達のことも、放りっぱなしだった。
それに思い当ったから、宗次郎は手始めに新月村を訪れることを決めた。
当時、志々雄の領地となっていた村は他にも幾つか存在していたが、宗次郎にとって印象深かったのは、やはり新月村だった。思うにそれは自分の生き方を大きく転換させるきっかけとなった人物、緋村剣心と初めて剣を交えたのが、その村だったからだろう。
自分達が手を引いた新月村がその後どうなったのか、急遽湧いてきた好奇心もそれを後押しした。普段は意識しない心の深い所がちくちくと針で刺されるような、恐らくはそんな幾ばくかの罪悪感も宗次郎に足を向かせたのかもしれなかった。
そうした経緯があって、宗次郎は今再び新月村に立っている。
まずはすっかり代わり映えしてしまった村の光景に驚き、人々が日々の暮らしを送っているのをただ何となく眺めていた。しかし、そうしているだけでは何も意味がない。ここを訪れてみれば何か掴めるかもしれない、まだ見えない答えの一欠片のようなものが…そうしたささやかな期待もあって、宗次郎はこの村に来たというのもある。
とりあえず宗次郎は、しばらく突っ立ったままだった足を踏み出し、村の中央を横切る道へと歩を進めた。歩きながら村の様子を再度眺める。
かつて志々雄一派に打ち壊された家々も立て直されているようであり、一見すると本当にごくごくありふれた村だ。初めてこの村を訪れた者ならば、昔不当に略取されていた場所だったとは気付きもしないだろう、そういった具合の見事な復興ぶりだった。
きょろきょろと首を動かして歩いている宗次郎を、村の人々は怪訝な顔をして見ているようだった。今の宗次郎は旅姿だから、歩きでの旅の者はまず東海道を通るだろうに何故こんな辺鄙な村に、と不思議に思っているのかもしれない。
それとも、宗次郎が昔この村を占拠していた一味の者だととっくに感付いていて、だから警戒しているのか。
そこまで察していながらも、宗次郎はまだのんびりと歩き続けていた。多分、実際に来てみたのはいいけれど、かといって取り立てて何をどうすればいいのか分からない、そんな迷いの表れでもあったかもしれない。
このままこの道をずっと進んでいけば、昔志々雄が好んで滞在していた村の湯治場に着く。
あの屋敷は立派だったけど、中は尖角と緋村さんとの闘いでぼろぼろになったなぁ、今は流石に直してあるかなぁ、それとも取り壊しちゃったかなぁ。
この期に及んでまだ呑気にそう考えていた宗次郎は、けれどその時「おい、」と自分を呼びとめる声を聞いた。
その声に宗次郎は素直に応じる。
「はい、何でしょう?」
にこやかに振り向いてみれば、そこには十数人の村人の姿があった。ほとんどが壮年の男性だったが、女性の姿もちらほらあった。彼らは皆一様にして怯えるような顔でこちらを見ている。
「やっぱり…間違いない」
「ああ、そうみたいだな」
そんなひそひそとした会話が彼らの間で交わされる。宗次郎の姿をじろじろと見回し、何事かを確認するように囁き合う。
すると突然、先頭にいた男が地面に這いつくばるようにして宗次郎に向かって平伏し、他の者達も一斉にそれに続いた。あれ、と宗次郎がぽかんとしていると、彼らは両手両膝を地につけた姿勢のまま、顔だけを上げて必死に言い募った。
「ど、どうか勘弁して下さい!」
「できることは何でもしますから…!」
「お願い致します!!」
唐突な彼らの懇願に、宗次郎はますますぽかんとしてしまった。
「あの…どうしたんですか?」
やんわりと聞いてみるが、彼らの必死の訴えは止まらない。今度は地面に額を擦りつけるようにして、口々に言う。
「許して下さい…!」
「い、命だけは、どうかお助け下さい…」
「もう志々雄様に逆らうような真似は致しませんから…!」
志々雄。
その名を聞いて、宗次郎はようやくあぁ、と思い当った。
恐らく彼らは志々雄の側近だった自分のことをやはりしっかりと覚えていて、処罰か粛清か何かに来たのだと勘違いしているのだ。彼らからしてみれば、志々雄や尖角からの支配から逃れ、ようやく平穏な暮らしを取り戻して数年…そうした時に宗次郎の姿をまた目にしてしまったものだから、かつての恐怖を思い出し、恐れ慄いているのだろう。
「あの、頭を上げて下さい。僕は別にあなた達に何かをしようと思ってここに来たわけじゃないんです」
宗次郎が口にしたのは、紛れもない事実だった。志々雄が死に、組織も無くなった今、この村に手を出す必要は宗次郎には何一つなかった。答え探しという自分自身の目的の為に、訪れたに過ぎない。
ただ、丸腰の自分にすら怯えた顔つきで震えあがる村人達の姿を見て、改めて思う。自分達は、それ程の傷跡を彼らに残したのだ、と。直接ではなくても、傷つけてきた人達。それが今目の前にいる。
(あぁ……まただ)
胸の奥が疼いた。もやもやする。けれどそれが何だか分からなくて、宗次郎は着込んでいるシャツの胸元を握り締めた。
何だろう。
何だろう、この痛みは。
分からない、ただ、それでも苦しい。
「…志々雄さんはもう、ずっと前に死にました。だから今更この村をどうこうするつもりはありません」
ようやく吐き出した声は、宗次郎が思った以上に沈んでいた。
今度は村人達がぽかんとする番だった。志々雄一派が村から手を引いたことは分かっていても、彼の死までは思いも寄らなかったようだった。志々雄真実は歴史の闇を生きた存在、だからその死が人々に知れ渡ることも無い、そうしたことも村人達の反応に垣間見た。
困惑に似たさざめきが彼らの間で広がっていく。彼らに何もする気も無い宗次郎にまだ膝をつけたままで、そしてそうした姿を見ているうちに、やっと宗次郎はこう思った。
(……謝ら、なきゃ)
彼らは宗次郎のことを確認した途端、許しを乞うようにひれ伏した。けれどそれは、むしろ宗次郎の方がしなければいけないことだった。多くの者を傷つけ、殺めてきた。殺めてきた者達はもうこの世にはいない、幾ら謝罪の言葉を述べた所で伝わりはしない。ならばせめて、今目の前にいる、かつて自分が苦しめてきた者達に―――。
宗次郎は固い地面に膝を付いた。ああこの胸の中の靄は彼らのような者達に対しての後ろめたさだったのか。両掌を細かい砂利でいっぱいの地面へと、しっかりと押しつける。掌が僅か痛んだが、けれど今まで自分が斬ってきた者達の痛みに比べればどうということはない。
宗次郎が平伏したことに、村人達は狼狽しているようだった。彼らにとって、意外な行動であったことは間違いない。
しかしそれは、宗次郎にとっても同様だった。新月村の者達や、他の多くの者達を散々苦しめ、虐げてきていながらも、彼らに謝ろうなどとは今の今まで思いもしなかった。
歩いている途中で対向者と肩がぶつかったりだとか、そういった時には「すみません」とさらっと謝ったりする癖に、もっと重い、肝心なことにはまるで謝ろうとはしてこなかった。多分、どこかで避けていた。答え探しをすると言いながらも、要のその点からは逃げていた。
一番考えなければいけないことなのに、深く考えようとすることも。考えようとするときっと、例の靄が襲ってきて、苦しくて切なくて落ち着かなくなるから。だって今更どうしようもなくて、取り返しもつかなくて、それでもどうにかしないといけないことだから。
「謝っても……済まないことだとは分かっています。それでも、僕達はあなた達の村を奪い、あなた達を苦しめてきました。こんなことは何の償いにもならないでしょうけど、それでも、……謝らせて下さい」
宗次郎はうな垂れた。そのまま、自分の膝の辺りを見ていた。袴の膝から下は乾いた土で汚れたことだろう。元々長旅で袴は大分くたびれていたからどうということもないけれど。場違いにそんなことを思いながら、頭を上げずにいた。
ああ、謝るのって、こんなに苦しいことだったんだ。
謝罪というものの重さを、宗次郎はひしひしと感じていた。
ずっとずっと昔、義理の家族達と共にいた頃を思い出してみれば、その頃はよく謝っていた。言いつけられた仕事をこなせなかった時。失敗した時。殴られた時。蹴られた時。
『ごめんなさいすみません、今度はちゃんとします、もう失敗しません、だから蹴らないで下さい殴らないで下さい、許して下さい、もうしませんから、……』
言い訳をすれば罵倒は酷くなるだけだったから、素直に謝罪の言葉を口にした。自分が至らないせいで、と申し訳なく思う気持ちよりも、謝るからもう酷くしないで欲しい、そういった気持ちの方がいつの間にか大きくなっていたかもしれない。
ただ、今に限っては許しを乞う気持ちはない。謝るから許して欲しいなどと、それこそ自分勝手だ。それでも、自分達が彼らにしてきたこと、それについては謝りたいと思ったから―――。
頭を上げないままでも、平伏したまま相対している村人達の間に動揺が漂っていることは宗次郎は分かった。
「本当に、志々雄…様は死んだのか」
「あんたは、俺達に何もする気はねぇのか」
恐る恐る、といった風な声が聞こえる。宗次郎はまだ目線を地面に落としたまま答えた。
「はい。志々雄さんは死にました。僕はこの村に…あなた達にもう何もする気はありません」
声色こそ穏やかだが、宗次郎ははっきりと言い切った。もう彼らに何かをする気も理由も必要も存在しない。ただ一つあるとすれば、謝罪という名の償い。
こんな言葉一つでどうにかなるとは思わないけれど。
「色々、酷いことをして……本当に、すみませんでした」
言わないまま、知らんぷりをしたまま過ごすのよりは、ずっといいと思えた。たとえ何の形にもならない一言だったとしても。ただ言いたかっただけ、そんな自己満足かもしれなくても。
(昔の僕だったら、考えられなかった行為だな)
かつてこの村にしたことを思い出し、宗次郎は声に出さずに呟く。
弱者を好きにすること、虐げること、それは以前の宗次郎には当たり前だった。こうして彼らに申し訳ないと思うことも、剣心との闘いで心の蓋が開かなかったら起き得なかったことだろう。それでも今は、自分が犯してきた事の大きさを、じっと噛み締めなければいけない時だから。これを乗り越えないと、答えにも多分、辿り着けないような気もするから。
未だ頭を垂れる宗次郎の向こう側、村人達が立ち上がる気配がした。
宗次郎はそれでも姿勢を崩さない。何を言われるんだろう。それを待っていたということもある。謝罪した自分に村人達は何を言うのか、それが分からないと、宗次郎もまたこの後どうすればいいのか分からない、そうした心持ちもあった。
何かしらの言葉を待っていた宗次郎に、しかし一番初めにぶつけられたのは言葉ではなく、石つぶてだった。
「…!」
肩の辺りから滑り落ちる石ころを見て、宗次郎の目が少し丸くなった。力を込めて投げつけたわけではないのか、対して痛くはなかった。ただ驚いた。
驚いて顔を上げた宗次郎の頬に二つ目の石がぴしゃりと叩きつけられた。今度は石が尖っていたのか、少し痛かった。
「今になって、何を言っていやがる…!」
石を掴み振り上げる一人の村人の顔は、酷く歪んでいた。
「いくら謝っても、あんた達のせいで死んだ奴らが戻ってくるわけでもねぇ!」
「そうだそうだ! 今更ふざけたこと言うな!」
「あんた達のせいで新月村は滅茶苦茶に…!」
「あの時はよくも!」
村人達は宗次郎を口々に罵りながら、石を投げてきた。宗次郎はまた俯いた姿勢で、それをじっと堪える。いつの間にか村人達は宗次郎をぐるりと取り囲んでいて、石は四方八方から飛んできた。
頭や背中、肩、腰…体のあちこちが石が当たるたびに痛かったけれど、小さく呻き声を上げたくらいで、宗次郎は何も言わなかった。
「よくも…よくも!」
「俺達の暮らしをぶち壊しやがって」
「今更謝ったって遅いんだよ!」
宗次郎が何の抵抗もしないことで勢いづいたのか、村人達の暴力は激しさを増した。石を投げるのではなく、今度は直接殴る蹴るという形で宗次郎を痛めつけ始める。
宗次郎はそれでもなすがままにされていた。背中を踏みつけられ、腹を蹴られ、顔を殴られて口の中を切って、血が流れても。
目線だけで見上げた村人達は、先程までとは一転した表情をしていた。ある者は憎しみに、ある者は怒りに、またある者は悲哀に顔を歪めて、その感情の高ぶりのままに宗次郎を殴打している。
つい先刻までは宗次郎に諂い、許しを乞うていたというのにその立場が逆になった途端にこの態度。
人間というものの醜さ、浅ましさを見せつけられたのと同時に、宗次郎は思った。これは報復なのだ、と。殴る蹴るだけでは本来済まされないことを、自分達はしてきたのだ。それが分かっていたから、宗次郎はこの容赦ない暴力を甘んじて受けた。内臓が痛み、骨が軋んだ。
逃げることも抵抗することも、反撃することも宗次郎には無論できた。けれど今は、敢えてそうしなかった。ここで逃げてはいけない、何となく、そう思った。そして一撃を受けるたび、その痛みに己の罪を考えた。
こんなことくらいでは贖えない。村人達は宗次郎への、ひいては志々雄一派への憎悪を暴力という形に変えて宗次郎に浴びせている。志々雄や尖角にはもう直接恨みを晴らすことができない、そこにこの無抵抗の宗次郎だ。村人達は宗次郎を、自分達の行き場の無い思いの捌け口にしている。怒り、悲しみ、苦しみ、憎悪……あらゆる負の感情がこれでもかと、宗次郎に注がれている。
人に憎まれる、恨まれるとはこういうことだ。それだけのことを、自分はしてきた……。
いつしか力無く地面に体を横たえ、大人しく暴力を受け続ける中で、宗次郎の中にそんな思いがよぎっていた。義理の家族達の元にいた頃、毎日嫌という程に突き刺さっていたそういった人の感情、あの頃はそれを確かに悲しいとか苦しいとか思っていたのに、すっかり忘れてしまっていた。そしてそれを生み出す方へと、自分は力を貸しながら生きてきたのだ。
それがどれだけ、愚かしいことか、……今更知っても、遅かったかもしれないけれど。
「…おい、見ろよ」
流石にひっきりなしに暴力を振るってきて疲れたのか、村人の男の一人が攻撃の手を止めぜぇぜぇと息を吐きながら言った。
「こんなにズタボロにしたのに、……こいつ、笑ってやがる」
力無く、ぼんやりと野の草を眺めていた宗次郎の耳に、そんな言葉が届いた。
え? 笑ってる?
宗次郎には、その自覚は無かったのに。
「気味悪ぃな…」
「おい、もうそろそろいいんじゃねぇか?」
「そうだな…これだけ痛めつければもう十分だろ」
「もう二度とその面見せんなよ!」
「そうだそうだ、二度と新月村に来るな!」
村人達は口々にそんなことを吐き捨てながら、宗次郎から遠ざかっていった。
人の気配が消え、足音がすっかり聞こえなくなった頃、宗次郎はようやくゆるゆると身を起こした。
「痛たたた……」
地面を掌で押し上半身だけ起きる形で、宗次郎は身を起こした。全身のあちこちが痛かったが、脇腹が特にずきりと痛んだ。この分じゃ今夜はご飯は慎んだ方がいいかも、などと頓珍漢な事が頭をよぎる。
こんなに容赦ない暴力を受けたのは、それこそあの嵐の夜以来かもしれない、と思う。剣の修行などで体を痛めたことはあったが、それでも誰かからこんな一方的に、というのは実に久方振りだった。
着物や袴はあちこちが解れ、破れ、土塗れでそれは酷い様相となっていた。髪の毛もぐしゃぐしゃで、埃臭い。とりあえず手で頭や着物の土埃をぱんぱんと払い落としてみるが、効果は薄そうだった。そして手や体のどこかを動かすたびに、体全体が痛んだ。口の中には血の味が充満している。
血の混じった唾を一度吐き出して、今度こそはっきりと宗次郎は苦笑した。
(殺されてもおかしくないって、思ったのに)
あの暴力の行きつく先が死でも、不思議では無かった。それだけの怒りと憎悪とが彼らの内にはあった。そしてそれでも仕方ないかなぁ…、と諦めに似た気持ちすら浮かんでもいたのに、結局はまた笑顔に助けられてしまったらしい。
初めは身を守る為に作り始めた笑顔が、もう作り笑顔ではなくなってもこの身を守ってくれた。
「…なんか、複雑だなぁ」
言いながら、宗次郎はやはり笑っていた。けれど答えが見つからないまま死ぬのは正直嫌だったので、命が残っていることにほっとする。
そしてこれだけぼこぼこにされていながらも、宗次郎の心の中はどこか晴れやかだった。胸の中のもやもやの正体は、分かったような分からなかったような……それでも、滅茶苦茶に絡まった結び目が一つ解けた、そんな心境だった。
宗次郎はぼんやりと座り込んだまま、遠くを見た。夕焼けが辺りに少しずつ茜色を醸し出していた。鈴虫やら蟋蟀やらの鳴き声が、草むらから煩いくらいに響いてくる。
しこたま殴られたせいか、頭がくらくらする。顔もこの分じゃ、相当に腫れていることだろう。この村には当然泊まれっこないし、ここから離れたところで今夜は野宿かな…そんなことを宗次郎が取り留めも無く考えていると、背後から複数の足音が近づいてくるのが分かった。
彼らが戻って来たのか、と一瞬思ったが違うようだ。今度の足音は随分と軽い。別に振り向いても良かったが首も痛くて振り向くのも億劫なので、宗次郎はその足音の主達が正面に回ってくるのを待った。
「あの…お兄ちゃん」
おずおずと話しかけてきたのは、五、六歳ほどの少女だった。足音が軽い筈である。彼女の周りには、同じ年頃の少年少女の他、更に小さな子もいた。
合わせて五人のこの村の子ども達、といった風体だが彼女らが何故自分に声をかけてきたのか分からず、宗次郎はやんわりと尋ねた。自然、人当たりの良い笑みが浮かぶ。
「僕に何かご用?」
ごくごく普通に言った筈なのに、少女は顔を歪めると目尻に涙を溜め始めた。そのままぽろぽろと泣き出す少女に、宗次郎は呆気に取られてしまう。見れば周りの子ども達も真っ赤な顔をしたり鼻を啜ったり、とにかく泣き声の大合唱。
何が何だか分からなくて、宗次郎はひたすら少女達に「どうしたの?」と訊く他なかった。
最初に宗次郎に話しかけてきた少女が、頬を伝う涙を掌で拭いながら言った。
「お兄ちゃん、村の人達が酷いことして…ごめんなさい」
「……えっ?」
宗次郎はその言葉をうまく飲み込めなかった。飲み込めないまま他の子達の顔を見ると、その子達も口々に「ごめんなさい」「ごめんなさい」と言う。
「お兄ちゃん、こんなに怪我しちゃって、痛かったよね。ごめんなさい、ごめんなさい…」
「……どうして、君達が謝るの?」
宗次郎はきょとんとした顔で問う。
心底不思議だった。
暴力を振るったのは村の大人達で、この少女達は関係ない。そして暴力を振るわれたのには宗次郎も原因があるわけで、そういった意味でも少女達に謝られる筋合いは無い。
それなのに彼女達は怪我をした宗次郎を気遣い、涙すら流しているのだ。
「だってあんなに殴って、蹴って、……酷いよ、父ちゃん達」
「そうだよ。理由はよく分からないけど、いくら何でもあんなの…」
「止めた方がいいかなって思ったんだけど、怖くて止められなかったの。ごめんなさい…」
涙ながらの子ども達の言葉に、宗次郎は何も返せなかった。
この子達は幼い。だからきっと知らないのだ。過去にこの村であった忌まわしい出来事を、宗次郎達が犯した悪事のことを。
だからこそ無抵抗の宗次郎に暴力を振るう村人達の行いに対し、酷いと憤っている。あの出来事を知らぬ子ども達が物心つくまで成長して、それでも未だなお残る禍根。この場合正当性があるのは村人達の方で、罪人は宗次郎なのに。
何も知らないのに、いや何も知らないからこそ、表面だけで物事を見て、一方的に暴力を振るう大人達は酷い、と。
一方的に暴力を振るう者、それは紛れも無く、かつての自分だったのに。
「…村の人達は、酷くなんかないよ。僕の方が、ずっと昔、この村に酷いこと……」
宗次郎はその続きも言う筈だったのに、喉の奥が詰まってそれ以上は何も出てこなかった。
どうしてだか、先程村人達に謝罪をした時よりも、ずっと苦しかった。何も知らぬ無垢な瞳達が見つめてくるのが、こんなにも痛い。
きっとこの子達は、知らないからそんなことが言えるんだ、とさえ思った。事情を知らないから、こんな風に口を挟んでくるのだと。自分がしてきたことを知ったなら、きっと村の大人達と同じように、怒りや侮蔑の籠った目でこちらを見るだろう。
何も、知らないから……。
でも、何も知らないからこそ、こんな風に、純粋に心配してくれている。多くの人々を斬り捨て、傷つけ、殺めてきた宗次郎の事を。先程の村人達よりももっと多く、もっと重い罪を犯してきた宗次郎の事を。
今この体を伝う血よりも余程多くの血を、かつてこの地に流させた。いや、この場所だけでなく、もっとたくさんの所で、たくさんの命を奪ってきた。
それを何一つ知らないままで、だからこそ率直に投げかけられた子ども達の言葉。ごめんなさい、と、それを言われる理由も、資格も、宗次郎はどこにもないのに。
「ごめんね。僕の方が、よっぽど酷いことしたよ。ごめんね、ごめんね、……本当に、ごめん……」
地面にあてた手がぎゅっと握り込まれていた。純朴な子ども達を見ていられなくて、宗次郎はうな垂れた。訳もなく涙が出てきた。何故泣いているのか、よく分からなかった。それでも子ども達にごめんねを繰り返しながら、宗次郎は一粒二粒と涙を落とした。涙が頬の傷に沁みて、その部分が熱くなった。血と涙とが混じってあやふやな色をしたまま、地面に吸い込まれていく。
宗次郎が泣きながらおぼろげに思い出していたのは、ずっと昔の自分だ。
義理の家族達に理不尽に暴力を振るわれて、幼い宗次郎は痛い痛いと泣いていた。どんなに怪我をしていても、周りの大人達は誰も心配などしてくれなかった。むしろ泣いているとまた「鬱陶しい」と小突かれるから、宗次郎は誰もいない場所で、たった一人で泣いていた。泣いても事態は好転しないし、傷も余計に痛く思えるからいつしか泣くことすらしなくなって、痛みも怒りも悲しみも、偽りの笑顔で塗り潰した。
あの頃弱かった自分は、ひたすら耐えるしかなかった。けれど強くなった自分はそんな忍耐を、新月村の人々や他の多くの者に強いてきた。だから罵倒されるならばともかく、この子ども達に己を心配して貰う謂れは無い。自分達が軽く扱っていた命の中に、この子達の縁者もいたかもしれないのだ。
それなのに、……それなのに、どうしてこんなにも、勝手に涙が出てくるのだろう。
子ども達が気遣わしげに宗次郎の顔を覗き込んでくる。例の少女が宗次郎に手拭いを差し出してきた。これで拭けということだろう。宗次郎は一旦受け取ろうとして、しかし血だの土埃だので少女の手拭いを汚してしまうのは何だか忍びないので、手を引っ込めた。
「大丈夫、…ありがとう。これでも、怪我とかには慣れてるんだ」
にっこりと笑いながら言うが、痩せ我慢では無かった。確かに痛いは痛いが、これだけ時間も経ってくればその痛みにも慣れる。
涙を拭って、宗次郎は立ち上がった。掌も汚れていたから、今の顔は相当に酷い状態になっているに違いない。
それでもまだ心配そうに宗次郎を見上げてくる子ども達に、宗次郎はやや身を屈めるようにして向き合った。動くたびに体中に痛みが走るが、それでも子ども達の顔をしっかりと見て言いたかった。
「昔、悪いことをしたのは僕の方だから、村の人達は悪くないんだよ。むしろこのくらいで済んで、僕もびっくりしてる」
久し振りの涙が心の内の何かも洗い流してくれたのか、妙にすっきりした気分だった。
宗次郎があははと笑い声すら上げると、子ども達は一斉に合点のいかない、という顔つきになった。でも、と子どもの一人が抗議の声を上げかける。
「不思議に思うんなら、村の人達に訊いてごらん。僕達がこの村に、昔何をしたのか。…まぁ、訊いても教えてくれるかどうかは分からないけどね」
こればかりは宗次郎は何とも言えない。村の人々にとっては志々雄達のことは封印したい過去かもしれないし、子ども達の様子を見るに何も聞かされてはいないのだろうし。
「もし本当のことが聞けたなら、あとは考えてみるといいよ。僕のしたこと、あの人達のしたこと……」
子ども達に言いながら、宗次郎はそれは自分自身に向けて言っているような気もしていた。
まだまだ、考えることは多過ぎる。己の罪とはっきりと向き合ったのが流浪し初めて半分過ぎた今日、というこの体たらくでは、答えまでは相当に遠そうだ。
それでも、宗次郎にはこの歩みを止めるつもりはない。どれだけ苦しくても、傷付いても、悩んでも……答えを見つけるその日までは。宗次郎はあの闘いで生き方の指針を見失った。新たなそれを見つける為に、何よりも自分自身で見つけてみようと、歩き出したのだから。
まだ不思議そうに雁首を揃える子ども達に、宗次郎はじゃあね、と爽やかに言ってあっさりと背を向けた。彼らの目には、宗次郎はさぞかし不思議な大人に映っているに違いない。
また村の中を通って行くのは憚られたので、宗次郎はその道をそのまま進むことにした。例の屋敷の様子をちらりと眺めてからこの村を離れても、それでもまぁいいだろう。
歩くたびに、痛めつけられた太腿や脛の辺りが痛んだ。脚絆も大分ずれているので、あとで巻き直さないと。
一度だけ、宗次郎は振り向いた。夕焼け空の下、遠く点々と家の並ぶ村と、まだ先程までの場所で宗次郎を見送るように立ったままの子ども達の姿が見える。
すっかり乾いた涙の痕が、風に触れてちりりと痛んだ。未だ血の滲む唇は、緩やかに弧を描いていた。
もう来るなと言われてしまったし、二度とこの地を踏むことはないかもしれない。散々、罵られたり殴られたりしたけれど、……それでも見て見ぬふりをしてこの村を避け続けるよりは余程色々なものと向き合えたのではないか、宗次郎には何となく、そう思えた。
村人達にとっては望まぬ再会だったかもしれない、彼らにとっては忌まわしい思いが掘り起こされただけかもしれない。けれど少なくとも宗次郎にとっては、僅かでも実りのある再訪となった、そんな気がした。
改めて思い知った、償いというものの難しさ。
やはり謝罪一つでどうにかなる程、軽いものではないのだ。しかしその為の道も、この先模索しなくてはいけない。具体的にどうしたらいいのか、まだ何も見えないけれど…。先の出来事は、宗次郎にそう強く思わせた。
そしてもう一つ今日出会えたのは、あの子ども達の純粋な涙と、よく分からないままに流れた自分の涙。
誰かの涙に自分の落涙が促されるというのは、初めての経験だった。だがそれは恐らくは、決して無駄な事ではない。きっと何か得るものがあったと……まだ宗次郎は自分ではうまく説明できない、けれどまだ見ぬ未来へ、明日へと繋がる何かだった、と。そんな予感がして止まないのだった。
「さて、と…」
宗次郎は再び前を見据えた。答えはまだ遥か先にある。
そこに向けての一歩を、しっかりと踏み出した。
END
実写映画『京都大火編』を見て思いついた話です。
前々から何となく、宗次郎に新月村との決着をつけさせたいなとは考えていたけど、実写であの悲惨な村の状態を見てこれは何としてでも宗次郎にケリをつけさせねばいけないな、と思ったらこの話が浮かびました。
我ながらまとまったのかまとまってないのか…そして書こうと思ったことをうまく書き切れたかどうか自信がないので、もしかしたらこっそり加筆修正したりするかもです。
うん、でもホント実写版での新月村は悲惨だった。実写だから当たり前っちゃ当たり前なんですが、何というかリアルでね…。人間の裏表含めて。
ところでセルフ突っ込みなんですが、私が流浪中の宗次郎を書くと、最後に再び歩き出して終わる話率高ぇ…!!(締め方がワンパターンともいう)
2014,10,4
初稿:2014,8,8
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