red moon



目に映るのは一面の茜だ。
は野原に四肢を投げ出して寝転んでいた。四月半ばの今、すっかり生えそろった野草は敷布にするには少々くすぐったいが、どこか心地良くもある。紅色の着物と臙脂色の袴、そして長い黒髪が投げ出された様は、高い所から見ればどこか大輪の花の形のようにも見えたかもしれない。
緑の寝台に身を任せたまま、はぼんやりとそのまま空を見遣る。時折思い出すように瞬きをして、これまた茫漠と考え事に浸る。
「大久保利通卿暗殺、ねぇ…」
ぽつり呟く。
それはこれまで仕えてきた主・志々雄真実が来るべき国盗りに備えて放つ大きな一手。
成程確かに、局面を左右する大切な手だ。大久保は事実上、今の日本の頂点に立つ男であり、彼が斃れれば日本そのものも大きく傾く。志々雄らしく大胆で、かつ効果的な策だ。
そしてそれを任されたのは、瀬田宗次郎、志々雄一派の最古参であり、にとっては一派に所属する大きな理由となる人だった。
は幼い頃、志々雄に両親と兄を殺された。それは到底許せるものではなく、だから自らの手で断罪するために、志々雄の命を狙って彼の組織に身を置いている。
志々雄がそんなを拾ったのは恐らく気まぐれでしかない、けれど無邪気に小さな手を差し伸べてくれた宗次郎こそが、にとってはいつしか大きな支えとなっていた。
いつも宗次郎は傍にいてくれた。志々雄について回っている時。修行の時。食事の時。初めて人を殺したその夜にすら、宗次郎は「僕と同じだ」と言って屈託なく笑ってくれた。
無論、任務などで別行動をすることも多い。それでも拠点へと戻れば、いつもあの笑顔がそこで待っていてくれた。「お帰りなさい」、そう柔らかく笑んで、待っていてくれた。
かつてすべてを失っただけに、志々雄に無残に奪われただけに、その笑顔だけが、何よりもの心の拠り所になっていた……。
そんな彼が、この度に任されたその任務。
「内務卿暗殺だなんて、」
随分と大きく出たものだ。
鼻で笑うように言う。
当然、志々雄とて闇雲に暗殺するわけではない。血気盛んな石川県士族の者達が近々大久保を襲撃するという計画を秘密裏に掴んだからこそ、それに乗じて実行するという手に出る。
放っておいても大久保は死ぬ。しかしそれはあくまでも予定であり、確定ではない。
だからこそ己の手で、正確には己の手下の者によってその計画を完璧に遂行する。罪は石川県士族達に被せ、表舞台に出ることなく大久保の命を奪う。その為の実行役に選ばれたのが宗次郎というわけだ。
要人暗殺の任務は、宗次郎にとってはこれが初めてではない。表向き発覚していないだけで、彼によって消された人間は大勢いる。それでもの中の嫌な予感が消えないのは、今度の標的の肩書きがあまりにも大きいことによる。
維新大三傑の一人で、幕末、そして明治への移行期に大きな貢献をした男。同じく三傑の木戸、西郷が既に亡き今、大久保の損失は日本にとっては大きな痛手となる筈だ。
そしてその彼を殺めた下手人である宗次郎が万が一にでも、明治政府側に露見するようなことになったら……。
宗次郎の力をは無論信じている、それでも微かにでも漂うその可能性が、どうしようもなく不安を呼んでいた。そしてその不安が現実のものとなった場合、宗次郎はまず死罪は免れない。今までの罪状はどの道、山積みだか、大久保一人を殺すだけで標高は一気に跳ね上がる。
彼も自分も、もう引き返せない道を歩いている。むしろだからこそその道をそのまま進むことを決めたのであっても、それでも事実が発覚すれば抗えないであろう彼の死に、の心は塞ぐ。
もっとも―――、
宗次郎が殺さなくても、どちらにせよ大久保は石川県士族の一団に襲われることになっているのだ。命運は既に尽きかけているのだ。ただそれが志々雄一派の介入でより確実なものになっただけで。
そう考えれば、宗次郎が手を下そうが放っておこうが、流れはそう大きくは変わらないような気はした。元より、大久保に私情は無い。あるとすれば、何故志々雄を暗殺しようとしたその時に確実に止めを刺さなかったのか、そう問い質したいと思う心だけだ。彼が死のうが生きようが、にとっては関係ない。
しかし、彼がいなくなれば、志々雄の計画はより順調に進む。明治政府の政権を打ち崩し自身がその頂点にとって代わる日本掌握の計画―――彼の言う国盗りだ。
その為に宗次郎も自身も今まで動いてきた、けれどそれが実際に間近に迫ると、ただ怖くなったのかもしれなかった。志々雄が国盗りを成し遂げた時、自分は、自分達はどうなっているのか。今までのようにいられるのか。
そのことについてだとか、今回の任務についてだとか、色んなことへの懸念が混ぜこぜになって、息苦しい。
(私は……日本の行く末なんてどうでもいい。ただ、宗がいれば……)
少しだけ瞼を動かし、思う。何よりも現状維持を願う少女としては、当然の思考かもしれなかった。
さん」
ひょっこり頭上から覗きこまれ、はわあっと驚く。
びっくり顔のに構わず、唐突にやってきたその人物はくすくすと笑いながら右隣に回り込んできた。「こんなところにいたんですね。ちょっと探しちゃいましたよ」などと言いながら、そのまますとんと腰を下ろす。今の今まで考えていた、宗次郎その人だった。
「あー、びっくりした〜…」
「嫌だなぁ、ちゃんと声かけたじゃないですか」
「その声のかけ方に驚いたのよ! 人が考え事してる時に、いきなり上から覗きこまないでくれるっ!?」
口調こそ荒っぽいが、実は言うほど怒っているわけでもない。は上半身を起こし、両手を腰の後方につくようにして座る姿勢になった。
隣で無造作に座っている宗次郎は、よく見慣れたにこにこ笑顔だ。
「…あのさぁ、宗」
「何ですか?」
「この間、志々雄サンが言ってた大久保卿暗殺の任務…、本当にやる気?」
「勿論。命令ですから」
の心配など露知らず、宗次郎はあっさり頷く。この任務に伴う危険性も、宗次郎は分かっているのかいないのか。
(…ううん、)
思い直す。例え分かっていたとしても、宗次郎は笑って実行するのだろう。理由は一つ。その命令を下すのが志々雄だからだ。
宗次郎にとって志々雄は絶対の存在だ。端から反発しているとは、そこは大きな違いである。
どうして宗次郎がそこまで志々雄に心酔しているのか、実はは良く知らない。訊いたところで、「所詮この世は弱肉強食。強ければ生き、弱ければ死ぬ。そう僕に教えてくれたのは志々雄さんだったんです。そしてそれは本当の事で、正しいから」、そんな風にしか返ってこなかった。
と宗次郎とでは、生まれ育った環境も違う。詳しく話してくれたことは無いし訊いたことも無かったが、家庭に恵まれていたと正反対に、宗次郎は酷な状況で生き抜いてきたらしい。宗次郎の口からはっきりと聞いたわけではないが、言動の節々からそう察せられた。
それなりに気にはなったが、それでも詳しく訊こうとは思わなかった。人にはそれぞれ事情がある、そして何より、今目の前で笑っている彼がすべてだから、と。深く知ることは避けた、ただしそれは宗次郎の為ではなく、恐らくは自分の為だ。
ともあれ、宗次郎がそんな中で志々雄と出逢ったというのなら、宗次郎が彼にどこまでもついていく訳はそこにあるのかもしれない。
宗次郎が志々雄に忠実なのは分かり切っていたことだった、だから先程の返答は予測の範囲だったが、は少しこんなことを言ってみたくなった。
「かなりの大物よ。バレたら只じゃ済まないわよ」
「バレるようなヘマはしませんよ」
「分かってる。それでも……」
今までの任務中に、宗次郎が足が付くような失敗をやらかしたことは無い。その実力の高さと正確性が志々雄が彼を重用している所以でもあり、もその辺りは信頼している。
だからこれは仮の話だ。それでも、言ってみたかった。
もし、もしも、だ。でき得るのなら来て欲しくは無い未来。それでもそうなることが確かなら、自分が選ぶであろう道。
「もし、今回の事も含めてあなたのこれまでの悪事がぜ〜んぶバレて、刑場にでも送られることになる、そんな日が来たなら……、
私も一緒についていく。宗と一緒に裁かれる」
悪戯っぽい笑みをわざと唇に乗せて宗次郎を見つめると、さしもの彼も驚いたように目を瞬くのが分かった。悪戯ついでと、幾ばくかの心細さで宗次郎の左手の甲に己の右の掌を重ねる。表面は外気に晒されて冷たくて、けれどそっと握り締めると温かかった。手の感触が心地良かった。
「それなら…寂しくないから」
あなたの事を一人にはしない、そうとでも宗次郎に言っている風で、その実、やはり自分自身に向けての言葉だった。一人が嫌なのも寂しいのが嫌なのも、どれもの感情だ。宗次郎の思惑なんて知ったことではない。
宗次郎がいつも自分に近い場所にいてくれる、その事実に甘えて言っているのに過ぎない。ただそれでも宗次郎はに傍にいることを許してくれて、時には宗次郎の方からふらりと同じ空間にやって来てくれることもある。親しげに言葉を交わしてくれる。
自分と同じ恋情が宗次郎にあるかどうかなど、分からない。それでも宗次郎は嫌な顔もせずに笑ってくれて、触れることを許してくれて。自惚れでも、少しは自分には気を許してくれていると。そんな風に思っても、いいだろうか?
「ふふ。心強いなぁ」
すぐ笑顔に戻ってそう漏らしてくれた言葉も、一体どこまで本気なのか。
思ったことをすべて素直に口にする一方で、どこか本音が読めない気がする、彼がそんな人であるということはとうに分かっているのに。
それでもはやはりその言葉を率直に受け取ることにした。そう、彼は思ったことはそのまま言葉にする人だ。そしては今までの彼の言葉は信じてきた、だからこの言葉もきっと本当に違いないと。本当だ、と。
だから安堵して自然と頬も綻んで、はようやく彼に触れていた手を離した。そうしてまた、草の上に寝転ぶ。
「まぁ…、あくまでも仮の話だけど」
再び空へと視線を向けながら言う。年頃の少女が野原に寝転ぶなんて、と小言を言う人間もいるだろう、けれど宗次郎はそんなこと気にしないし、も何となくまだこうしたい気分だったから、体全体を草に委ねた。
視界の中で赤い雲が緩やかに右から左へと移動していく。
「さっきもそうでしたけど、随分と熱心に空を見てるんですね」
こちらは姿勢を変えないまま、宗次郎が言う。目は空からは離さずに、は歌うように続けた。
「この時間は空が綺麗だもの。もうすぐ夜になるのに空はすぐに暗くはならないで、陽は最後の足掻きみたいにさ、夜の前に赤く輝いてて」
の言葉通りの夕陽が、西の空の山の端にかかっていた。昼と夜との間、沈みゆくその時まで残る珊瑚球のような鮮やかさ。押し寄せる夜の帳に抵抗するかの如き刹那の瞬き。
「朝とも昼とも違うあの赤々しさ。まるで……」
「血の色みたい、ですか?」
「…物騒な発想ねぇ」
口を挟んできた宗次郎には苦笑する。
赤い色にすぐ血を連想するのは、彼がそれだけ血に親しんできた証だろう。他人のものと、或いは己のものと。
も連想しなかったわけではない、ただ彼女も今までに多くの人間に血を流させてきたからこそ、思う。
あの色は、他の何物でも表せない、と。
「血じゃないわよ。血はもっと赤くて、鮮やかで、たとえようがない…」
あの赤さはまさしく命の色だ。一見大した傷では無くても、そこから体中の血液全てが流れ出してしまえば、その人間は死に至る。
生きている人間を斬れば、その血は勢い良く噴き出す。死んだ人間を斬っても、同じようにはいかない。
は医学には詳しくない、それでも血は人間に生たらしめる重要な要素には違いないと思うのだ。ぬめりと温もりとをも兼ね備えた赤。
「夕焼けは…血じゃないわ」
単純に、はこの景色が好きだった。完全に夜になる前の、昼間とはまるで表情を変える緋色の空気。空の端にある夕陽がそれでも反対側の空まで浸食する、それはまるで燃え上がるような。
「たとえるなら…炎。空一面を茜色に染め上げて……」
赤い色を炎にたとえるのは、これまた炎を統べる悪鬼と長年共にいるからだろうか。
自分も宗次郎も、形は違えどあの焔に囚われている、そんな風にも時折思う。
は、間違いなく宗次郎の事は好きだ。けれどどんなに宗次郎が好きでも、日頃の態度に出していても、はっきりと好きだと言葉にしたことは無い。その二文字を言ったが最後、もう彼や志々雄から金輪際離れられない気がするからだ。
宗次郎は好きだ。
しかし彼は志々雄の忠実な部下だ。志々雄がいる限り、宗次郎は彼から離れようとはしないだろう。
そしては志々雄を殺すということを口実に彼の組織にいる。彼を殺せればそれで良く、本当は無関係の人間を殺めたくは無い。しかし志々雄を殺すため側にいるには、彼の命令に従い、誰かを殺さなくてはいけない時もある。志々雄を殺すという明確な目的があるからこそ、は一派にいられて、宗次郎とも近い場所で過ごせる。裏を返せば、宗次郎と一緒にいる為には、志々雄の側にいる必要があるのだ。
限りなく悪の道を突き進む男、けれどはその道を共に進みながら尚、まだ正道への未練がある。きっと心の底には。
初めは不本意に進んでしまったからか、しかしそうでないと志々雄を仕留められない。宗次郎とはいられない。けれどその押し込めた未練があるからこそ、宗次郎には、言えない。
どうしようもなく泥沼にはまっておきながら、それでもまだどこかに一条の逃げ道を残しておきたい、そんな自分自身が堪らなくずるい、と思う。もう既にたくさんの人を殺しているのに。見殺しにしているのに!
それでも、宗次郎に好きだと告げてしまったら……、そして宗次郎がそれを受け入れてくれたとしたら、きっと、自分はますます宗次郎から離れられない。離れがたくなる。たとえ本懐を遂げる時が来ても。
もし本当に志々雄を殺したら、宗次郎に好きだなどと言っている場合ではないだろう。幾ら普段から志々雄が標的であるということを公言していても、実行したなら最後、一派のすべてはの敵に回る。それまで親しくしてくれた由美も、それなりに関わってきた方治も十本刀達も、もうの事は敵としか見なしてくれないだろう。宗次郎だって、今まで通りの態度でいてくれるかどうかは分からない。
居場所も、彼も、何もかもを失くしてしまう―――…。
遠い昔のあの日のように、全てがこの手をすり抜ける、あんな思いをするのはただただもう嫌だった。だから。
今のままであるのが一番良かった。志々雄を殺したいのは本当だ。それができないのも本当だ。宗次郎とは離れたくないのも確かで、失くしたくないのも確かで、大好きなのも間違いなくて―――だからこそ、告げるのも怖い。言ったら本当に離れられなくなる。そしてそれが、また怖い。
自分自身の立ち位置も、宗次郎との関係性も、今まで通りであるのが何よりのようにには思えた。実際には、どうしようもなく詰んでいる盤上であっても。
だからこそ、何かを突き崩してしまうような予感がする今回の任務に、諸手を上げて賛成できないでいるのかもしれない。
成功すれば、国盗りへと一歩近付く。失敗すれば、宗次郎の命は無い。無論願うのは前者だが、そうなったらまた自分達は多くの人間を踏み潰して、生きていくことになるのだろう。それは心苦しいのには間違いない、それでも、
(私は―――)
この人とずっと一緒にいたい。
天秤にかけるものがあまりにも大きい己の幸福だった。
そしてこのままでいても志々雄を殺めても、どちらにせよ言えそうにないこの恋心。
流されるままに生きてきた、こんな不安定な自分がもし宗次郎に本音を吐露する時が訪れるとしたら、それは一体どんな状況でなのだろう…?
まるで想像がつかなかった。
そしてその時が来て欲しいのか、来て欲しくないのかについても、酷くあやふやな心境だった。
日の入りが進み藍と茜とが混沌と混じり合う、今の空のようだ。
「今日はさん、えらく気取った言い方するんですね」
「…まぁ、たまにはそういう気分の時もあるわよ」
宗次郎に言い返しながら、確かに少々らしくない言い回しだったかもしれない、とは思う。それでも今しがた言ったように、今日はいつになく感傷的な気分だった。
多分、日暮れという時間帯とこの紅い空のせいだ。
「そろそろ帰りましょう? のんびりしてたら、あっという間に夕餉の時間になっちゃいますよ」
先に立ち上がった宗次郎が、何気なくの方へと掌を差し出した。遠い日のあの時の光景と重なって今度はが動揺する番だったが、すぐにそれを払拭して微笑む。
「…そうね」
あの時、結局選んだのはこの手だった。この手を取った時から、私はこの道を歩いて来た。
そして、できることならずっとこの手と共に進んでいきたい。もう共に血塗れでも、いや、血塗れだからこそ。
この手以外選べはしない。いや、選ぼうと思いもしないから。
誰に何を言われようと、私はこの人と、ずっと共に。
「ありがと、宗」
軽く礼を言っては宗次郎の手を取る。が立ち上がるのに合わせて、宗次郎が軽く手を引く。滲む力強さを逞しく思い、は笑みを深める。
無事に立つとどちらともなく手を離し、二人は共に帰路につく。
ひと時の茜はやがて夜の藍に塗り潰された。






END














今度の実写映画化に当たって、原作軸の宗次郎と、原作沿い夢ヒロインをまた書いてみたいな、と思い、久しぶりにこの二人を書きました。
でも久しぶりに書いたのでヒロインのキャラが本編とは少々違うかもしれません。とにかく宗次郎に依存してる感を書きたかったのですが…−−;


そう言えば今更、史実の紀尾井坂の変の実行犯達がその後どうなったのかを調べてみたのですが(本当に今更過ぎだ)、やっぱりほぼ斬罪に処されたようですね。
あれ、やっぱこれ、宗次郎アカンのではないだろうか…。しかも自分から剣心にばらしているという(汗)
多分、剣心をむしろ来させるために軽く挑発しておけとか何とか志々雄に言われたんじゃないかとその辺り脳内補完してはいますが。


イメージソングはKalafinaの『red moon』。
あくまでもイメージなので、こう、曲の雰囲気だけ拝借している感じです。
歌詞の雰囲気がこの二人っぽい。


お読み頂きありがとうございます!


2014,3,5








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