春、桜の花を見ると、いつもあの人を思い出す。
散桜歌
柔らかな風に誘われるようにして、薄桃色の花弁がひらひらと舞っている。
桜の木の下を歩く少女に、それは優しく降りていった。長い髪や着物に付いた花弁を払おうともせず、少女は空を見上げた。
もう夕暮れだ。茜色の中、咲き誇る桜。昼間の桜とも、夜桜とも違う雅な魅力を秘めた光景が、そこにあった。
少女の名は、といった。空を映す大きな瞳がほんの少しだけ細まり、小さな口が笑みの形を作る。
―――こんな景色を見るのは、今日が最後かもしれない。
今まで、何度そう思ったことだろう。
病に侵され、いつ死ぬか分からない身。もう、先が長くない事は分かっていた。
一月先か、一週先か、それとも明日なのか。
毎日、そんなじわじわと迫り来る死に怯えていた。両親は既に亡くし、心を許せる友人もいない。は、自分はただ一人で寂しく死ぬのだと、ずっと思っていた。それでいいとも思っている。どうせ死ぬ身、望みなど何も無い。ただ、残された日々を、最愛の桜を見ることで、せめて心穏やかに過ごしていたかった。
川沿いの桜並木の中を、はゆっくりと歩く。人気はない。元より、人家は側には無い。心置きなく一人になれるこの場所を、は気に入っていた。
不意に歌いたい衝動に駆られて、は口を開いた。幼い頃、母親からよく聴かせて貰った歌。その母親は既にこの世にはいないが、もうすぐ会いに行けるかと思うと、死ぬのなんて怖くない。
澄んだ歌声が辺りに響き渡る。静かな情熱と、僅かな切なさを帯びた歌―――それでも、久しぶりに思い切り歌を歌えて、は満足だった。
最後の一節を歌い終え、はふうと溜息を吐く。と、背後から拍手が聞こえてきた。
「すごいですねぇ。とっても綺麗な歌声でしたよ」
少し高めの少年声が聞こえる。その声の主もまた、透き通った凛とした声をしていた。
人に聞かれていた、という羞恥が、かあっとに湧き上がる。この場から逃げ出したくなったが、褒めてくれた相手にそれは失礼だと思い直し、観念したようにくるりと振り向く。
そこにいたのは、年の頃は十六、七の、整った顔立ちをした少年だった。恐らく、と大して歳は変わらないだろう。その少年は、女子のようにも見えるその顔に、あどけない笑みを浮かべていた。
「歌、お上手ですね。あんな綺麗な歌、初めて聴きました」
「・・・・あ、ありがとう」
人から褒めてもらったのなんて、いつ以来だろう。少年のその言葉はお世辞には聞こえず、素直に感嘆しているように思えた。
頬を少し赤く染めながら、はその少年を改めて見た。書生姿をしていたが、それに似つかわしくなく、刀を帯びていたのが気に掛かった。
「・・・あなた、剣客さん?」
「ええ、まぁ、そんなところかな」
「そう・・・・」
曖昧な返答ではあったが、十分に肯定していた。もう、剣の時代は終わったのに、何故この少年は、刀を持っているのだろう。―――いや、理由は聞かない。人には、人それぞれの事情があるに違いないからだ。
「私はっていうの。あなたは?」
「僕は瀬田宗次郎といいます」
「いい名前ね。あなたに似合ってる」
はふと微笑んだ。思えば、誰かとこんな風に親しげに話をしたのは、本当に久しぶりな気がする。
その顔に覚えが無かったから、宗次郎はこの辺の人ではないと、は察した。
「失礼だけど、あなたこの辺の人じゃないよね?」
「ええ、ちょっと用があって立ち寄っただけです。すぐにでも帰ろうと思ったら、さんの歌声が聞こえてきて。帰るのも忘れて、思わず聞き入っちゃいました」
そう言って笑う宗次郎は、限りなく無邪気だ。まるで子どものように笑うのだと、は思った。
宗次郎には、帰る場所があるのだ。もっとも、それが何処なのかはまでは分からないが。一時の邂逅、それが終われば、宗次郎はまたそこへと帰ってしまう。多分、もう二度と会うことは無いだろう。
―――ならば。
唐突にある考えが浮かんで、の背中に冷たいものが走った。自分は、何てことを考えるのだろう。何て恐ろしいことを考えるのだろう―――けれど、存外本気だった。
は、薄く笑って、その言葉を口にした。
「宗次郎君は、人を殺したこと、ある?」
宗次郎は、一瞬その答えにきょとんとして、すぐにまた笑みを浮かべて答えた。
「ある、って言ったら、どうします?」
予想外の答えでは無かった。むしろ、どこか期待していたかもしれない。
こんな、自分とさほど歳の変わらぬ無垢に微笑う少年が、本当に人を殺した事があるなんて、寂しくもあったけれど。そして自分は恐ろしいことに、彼の罪を、更に増やそうとしている。
「私を殺して欲しいの」
もう二度と会えないと言うのなら。今、会っているこの時に死ねば、そうしたら自分は、ただ一人で寂しく死ぬことはない。
一人きりで死んだって別に良かった。ただ、こうして彼に出会ってしまって、孤独でなく死ねる事に、一縷の望みを抱いてしまった。もし、彼とこんな形でなく出会っていたら、多分自分は、彼に惹かれていたと思うから。
久しぶりに感じた人の温かさ。たとえ宗次郎が、に何の感情を動かしてなくても。自分勝手だと分かっている、けれどそれでも、それを感じたまま逝きたかった。
「ええ、いいですよ」
あっさりと、宗次郎は答えた。それが哀しくて、そして嬉しくて。
夕焼けの空と桜の木を背後に刀を抜く宗次郎に、は安堵した。
「でもどうして? どうして自ら死を望むんです?」
煌めく刀身をに向けながら、宗次郎は本当に不思議そうに尋ねる。
は微苦笑した。この少年は、今にも人を殺すというその時にも、そんな表情をするんだな、と。その理由は、少し、知りたかった。
「どうせ死ぬなら、あなたに殺されたいと、そう思ったから」
それ以上の答えは無かった。
宗次郎が、少しでも苦しまないよう、は穏やかな微笑を浮かべた。最期まで宗次郎を見ていられるよう、その瞳は閉じなかった。
宗次郎もまたにっこりと笑って、そのまま刀を振るった。の肩から腹にかけて赤い線が走り、血が迸る。
は長い髪を揺らしながら崩おれた。どうしてだか痛みは感じず、脱力感だけがあった。血に塗れる自分を前にしても、笑顔のままで見下ろしている宗次郎に、は最期の笑みを向けた。
桜の花弁が、宗次郎に舞い降りている。それは、生きてきた中で一番美しい光景だったように、には感じられた。そしてそれを嬉しく思いながら、はそっと、瞳を閉じた。
「ありがとう」
そう告げるのを忘れずに。
それきりもう、は目を覚まさなかった。
「・・・どうしてだろう、理解できないや・・・・」
刀を鞘に納めながら、宗次郎は呟いた。
どうして彼女は、会ったばかりの自分に、殺して欲しいと願ったのだろう。
どうして彼女は、自ら死を望んだのだろう。
いくら疑問符を浮かべても、当の彼女は既にこの世にはいない。弱肉強食の理念に基づくなら、彼女もまた弱かったということか?
ただ一つ信じているその理念だったが、けれど今は、その言葉だけで片付けられないような気がして、宗次郎は考えるのをやめた。
それでも、今まで数え切れないほど人を殺めてきたが、その中でもは特別だったと、宗次郎は思わずにはいられなかった。
藍色が広がりつつある空の下、宗次郎はようやくその場を去った。
あとは、未だ降り続けている桜の花弁が、眠るように息絶えているに降り積もるばかり。
あれから、何度春が巡ってきただろう。
が何を想って逝ったのかは、真実の答えを探して歩いている今でも、分からない。
それでも、宗次郎は、桜の花が咲く頃になると、いつも彼女を思い出す。
<了>
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またもヒロイン死にネタでごめんなさい。って言うかこれ、ドリームじゃないなホント・・・・(汗)
先日、「天河」という演奏を聴きに行って、その時聴いた曲のタイトル「散桜歌(さんおうか、と読みます)」の響きがとても素敵で気に入ってしまって、何としてでもこれでるろ剣の話を書けないものかと、考えて浮かんだのがこの話です。かなり季節外れだけど(^^;)
切ない話を目指したけど、何かうまく書けなかった気もする・・・。でも、ところどころ、うまく表現できた文もあって、お気に入りです。
さん、こんな話でも読んで下さって、ありがとうございました!
2004年9月25日
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