Sweet memory,sweet days





確か桜の季節だったろうか。
あの人が、初めてここを訪れたのは。
「こんにちは」
今しがた思い浮かべていた青年の声がすぐそばでして、は飛び上がりそうになった。
「あ、い、いらっしゃいませ」
愛想笑いを浮かべながらが振り向くと、そこには自分よりずっと滑らかで、整った笑顔のその人がいた。
「お団子、二つお願いします」
「分かりました。今お茶もお持ちしますね」
青年の笑みが更に深まり、見慣れている筈なのに、はどきっとしてしまう。
だってこの人は、他のお客さんの誰よりも端正な顔立ちで、物腰も柔らかくて、高めの声もすうっと耳に馴染むようで…、
要は、とても魅力的だったのだ。
は店の奥へと引っ込んで、注文の品である串団子を二本皿に乗せる。急須に茶葉を入れながら、昔のことを思い出していた。
京都の外れの竹林の中にひっそりと存在している、この茶屋。先祖代々受け継がれてきた、といっても、本当にこじんまりとした店だが、両親とその一人娘であるとで、切り盛りしていた。
店を構えている場所が目立たないだけに、そんなに大勢の客が来るわけでもなく、かといって閑古鳥が鳴いている状態でもなく。知る人ぞ知る隠れた名店、と客が評していたのを聞いたことがある。
事実、は両親の作る団子や饅頭や練り菓子の類は、身内贔屓を抜きにしても素直に美味しいと思っていたし、京都の大通りの名の知れた菓子屋のそれより、口に合っていた。いつか自分もそんな美味しい物を作りたい…と、憧れつつ、は店の看板娘として、毎日働いていた。
筍が土から少しだけ顔を出し、遠くの緑の山々の所々が山桜の鮮やかな色に染まる頃だ、ひょこっと、本当にひょこっとその青年が訪れたのは。
『あれ、ここってもしかしてお茶屋さんですか? 知らなかったなぁ、こんなところにお店があったなんて』
その頃はまだ青年ではなく、少年といった方が正しかった。恐らく、十二、三歳くらい。より幾つかは年上だった。
『うわぁ、美味しいですね、ここのお団子』
少年はニコニコ笑いながら、あっという間に団子を三本平らげた。あんまり美味しそうに食べるものだから、見ているの方まで嬉しくなった。その後、少年は土産にするんだと言って、団子を十本程包んで貰い、持ち帰った。
それ以来、彼は時折このお店を訪ねてくるようになった。
ある時は饅頭を、またある時は羊羹を、そしてまたある時はやはり団子を所望する。元より客が大勢来るわけでもないこの店だったから、訪れる頻度の割には、彼はすっかり常連さんになってしまった。
何度目かの訪問の時、は思い切って彼に名前を聞いてみた。
『瀬田宗次郎です』
彼は涼しげな声でそう名乗った。爽やかな雰囲気を漂わせる彼にぴったりの名前だと、は思った。
さらりとした散切りの髪。睫毛の長い大きめの瞳。整った鼻筋に、笑みを絶やさない口元。
細身ではあるけれど、貧相ではない身体付き。青を基調とした書生姿も、彼には良く似合っていた。そして丁寧な口調に、穏やかな物腰。
惹かれるな、という方が無理だった。ただでさえ周りに異性の影が少ないのに。
が自分の名を告げると、宗次郎は『さん、ですか。可愛らしい名前ですね』と褒めてくれた。お世辞でも、嬉しかった。
いつしか、は彼の来訪を心待ちにするようになった。宗次郎が来てくれた日は嬉しくて、陽が暮れても心が弾んでいた。来てくれない日は、諦めの気持ちもありつつ寂しくて、どうしようもなく心が沈んだ。来ない日の方がずっと多かったから、だからこそ宗次郎が店に来ると、反動で喜びが跳ね上がるのだ。
こちらにも仕事があるから、もずっと彼ばかりにかかずらっているわけにはいかない。それでも、彼の世間話に付き合って、話をすることもあった。今日はいい天気ですねとか、この時期は草餅が美味しいですねとか、そんな他愛のない話がほとんどで、宗次郎は自分のことをあまり話そうとはしなかったし、についてもほとんど何も聞いてこなかった。
そんなやり取りでも、は嬉しかったのだ。は宗次郎のことを何も知らない。時たま来ることから、恐らくは京都に住んでいるのだろう、という見当くらいはつくが、詳しい住まいも、普段は何をしているのかも、彼の家族構成も。
姿形は書生のそれだから、は一度「宗次郎さんは、書生さんですか?」と訊いたことがあったが、「まぁそんなところかな」と笑顔ではぐらかされた。何だかはっきりしない答えだったけれど、は追求するのはやめておいた。
彼はこの店の単なる客に過ぎなくて、との関係性だって敢えて呼ぶのなら“顔見知り”といったところだ。お互いに深入りはしない、深入りはできないごく細い繋がり……けれど、は彼がこの店に来てくれていることだけでも嬉しかったし、それで十分だと思っていた。憧れの気持ちや、或いはそれ以上の淡いものはあるかもしれないけれど、高望みはしない。
こんなに素敵な人だ、単なる茶店の小娘とじゃ釣り合わないし、しょっちゅう土産を買っていっていることから、もしかしたら恋仲になっている人も、いるのかもしれない……。臙脂色の小袖に生成りの前掛け、長い髪は後ろ頭で纏めて結わえているだけ、という洒落っ気のない自分より、きっともっと彼に似合うような、綺麗な女性が……。
(あ…駄目だ。なんか落ち込んで来ちゃった)
自分で考えていた筈なのに、その想像に沈んでしまいそうになり、は意識を引き戻す。急須に湯を注ぎ、しばし湯と茶葉を馴染ませてから、湯呑みに茶を淹れる。そうしてその湯呑みと皿を乗せた盆を持って、宗次郎の元へと運んでいった。
宗次郎は店の前の腰掛けに、姿勢良く座っていた。
「お待たせ致しました。ごゆっくりお召し上がり下さい」
言い慣れた常套句でも、宗次郎が相手となると声色がほんの少し変わる。宗次郎は待ったことなどさして気もとめずに「ありがとうございます」と礼を述べる。
「う〜ん、やっぱりここのお団子は美味しいなぁ」
咀嚼も碌にせずに一つ目を飲み込んで、宗次郎は感嘆の息を吐いた。こんなに喜んでもらえると、両親の腕も褒めて貰えた気になり、も誇らしい。
二つ目、三つ目となると良く噛んで、ゆっくり味わっているようだった。
「いい季節ですね。天気も良くて過ごしやすいし」
「そうですね」
は相槌を打った。桜が散り、若芽がぐんと萌え出づるこの時期。風も澄んでいて心地いい。今を過ぎると、長雨や、盆地故に蒸す夏が京都にはやってくる。世辞抜きで、はこの時節が好きだった。
店の周囲の竹林の、葉の揺れるさわさわとした音も耳に届いて来て、こんな風に言葉を交わすこの一時が堪らなく幸せな時間のように、には思えるのだ。
「御馳走様です。これ、お勘定」
「いつもありがとうございます。またどうぞ」
注文の品を食し終えた後はそれこそ微風のようにするりと去っていく彼を、は普段より心を込めて頭を下げ、見送る。
顔を上げると、の目に映るのは、遠ざかっていく彼の後姿。歩く姿すらも様になっていて、どこか凛々しい。こちらを振り向きもしない、涼やかな背中。
堪らなく胸が締め付けられる。
「また…来て下さいね……」
遠く離れた彼に聞こえる筈も無いが、はぽつりと言う。
また来て欲しい。また来てくれれば、それだけでいい。
心底そう思っているのに、それ以上を期待してしまう自分もいて、はまた少しだけ、落ち込んだ。







密やかな願いに反してしかし、宗次郎はそれからぱったりと姿を現さなくなった。
早い時は一月、遅い時でも半年に一度程は店に顔を出していてくれたのに、このところさっぱりだ。
前回の来訪から、実に一年以上が経過していた。
(もしかして、彼の身に何かあったんじゃ…)
あまりの音沙汰無しぶりに、悪いことばかり考えてしまう。
よもやここよりもっと美味しい店を見つけてしまったとか? この店の味に飽きてしまったとか?
それとも、他の事情……例えば、京都から他の町に移住することになったのだとか。だったらその前に、挨拶くらいはして欲しかった。
或いは体調を崩して長いこと伏せってしまっているとか、それともまさか、まさか―――。
最悪の事態を思い浮かべ、は青くなりながらもぶんぶんと頭を振って、その不吉な予感を追い出す。
こんな風に嫌な方向へとばかり考えてしまうのは、きっと今の日本の世情がどこか落ち着かないからだ。五月に東京の方で起きたという大久保利通卿暗殺以降、こんな片田舎にもそれが薄々と伝わってしまう程に。だからだ、きっと。
そうだ、多分あの人のことだから、また何の前触れも無くひょっこり顔を出してくれるだろう。こんな心配なんか知りもしないで、何も無かったようにいつもみたいな笑顔で―――、
「こんにちは」
「わぁっ!!?」
ほら、この通り。
想定していた事態だったのに、けれどやっぱり突然だった彼の登場に、は素っ頓狂な声を上げる。
相当に変な声だったのに、宗次郎は全く動じもせずに言う。
さんて、いつも僕が来るたびに驚いてますよねぇ」
(誰のせいだと思ってるのよ、まったくもう!)
不満は心の中で吐き出して、は口を尖らせるが、しかし彼がまたこうして来てくれたことは、仰天しつつも、やはり嬉しい。
「このところずっとご無沙汰でしたね。だから、心配、しちゃって…」
まさかまさかとは思いつつ、しかしそのまさかの最悪の事態が回避されていたことは喜ばしい。
「良かったです、お元気そうで」
これは本音だ。頬が緩む。
「このところ忙しかったから、来たいって思ってもなかなか来られなかったんですよ」
やっと来られました、そう言って宗次郎はにこりと微笑む。もつられるようにして、また笑った。忙しい中でもここに来たいと思っていてくれたんだ、この人は。じわりと、胸の奥が暖かくなるのを感じる。
「でも、相変わらず忙しくって、残念ですけど今日はお茶していく時間は無いんですよ」
「え…そう、なんですか……」
がっかり、という思いを、は声音の中に隠し切れなかった。
やっと、久し振りに来てくれたのに、いつものあの穏やかな一時は望めないんだ、と。
肩を落とすに対し、宗次郎はこれといって反応せずにいつもの調子で話を続ける。
「今日はお土産を調達に来たんです。何かお勧めの物はありますか?」
「お土産、ですか?」
「そうだなぁ、久し振りに京都に来た人も多いから、やっぱり京都らしい物がいいかなぁ」
「京都らしい物ですか? それなら…」
話からするに、客に振る舞うものらしい。御遣い物を用意するのに、この店を選んでくれたことは光栄だ。
の店にある物で、京都らしい物…。思い浮かべてすぐ、はそれを口にした。
「八つ橋はいかがですか?」
「八つ橋かぁ…、いいですね。それにします」
然程思案する様子も無く、宗次郎は頷いた。じゃあさっそくお包みしますね、と店の奥に下がりかけたを、宗次郎は「あ、ちょっと待って下さい」と引き留めた。
「できれば、箱に詰めて頂けると助かるんですけど」
「分かりました、そのように致しますね。少々お待ち下さい」
「三箱分お願いします」
「三!? …随分とお客さん、いらしてるんですね」
箱詰めの八つ橋を三箱となると、相当な量だ。
「ええ、まぁ、大所帯なので」
「そうですか…分かりました、今ご用意します」
注文を受け、は今度こそ奥に向かった。厨の両親に声をかけ大量の八つ橋を用意して貰うと、底に油紙を敷いてある箱の中に、端から丁寧に敷き詰めていく。ニッキの強い香りが辺りにふわりと漂う。
詰めながらふと思い立ち、は顔を上げて店先に立つ宗次郎に尋ねる。
「風呂敷でお包みしましょうか?」
「うーん…まぁいいや、すぐに使いますから」
「はーい」
お土産菓子に対して使う、という表現に何か引っかかるものはあったが、頼んだ本人が風呂敷はいらないと言うものだから、はその通りにした。
存外重量のあるそれを手渡しながら、告げる。
「なるべく早めにお召し上がりになって下さい。風味も落ちますし、この時期ですから」
日中は蒸し蒸しする日も多くなってきた。気温が上がれば、当然食べ物は傷みやすい。
のやんわりとした忠告に、宗次郎はやはりにっこりと笑う。
「ありがとうございます。助かりました」
「いいえ…」
久し振りの彼に今更気恥ずかしくなって、は俯く。どうにも背中がむず痒くて、は何となく前掛けを握り締めた。彼が来てくれたのは喜ばしいのに、このよぎる不安は何なのだろう。
「それじゃあ、今日はこれで」
「ありがとうございます。……、あのっ……」
「? 何か?」
去り際に引き留めてきたを不思議に思ったのか、宗次郎は顔を少し傾けた。
「いえ、あの、……お忙しいとは思いますけど、お体を大切になさって下さいね」
宗次郎は笑顔のまま軽く会釈をして、そのまま去っていった。
今度はいつ頃来てくれるのか、とは、は訊けなかった。






その今度は、存外早く訪れた。
前回彼が八つ橋を買っていった時から数えて、およそ一月、といったところだったろうか。
「こんにちは」
「…こんにちは」
蝉時雨を背景に、同じ挨拶を交わし合う。
真夏日の中にあっても、そこだけ涼しさを感じさせるような微笑み……しかしいつもなら見るといっぺんで幸せになるそれを前にしても、の心は晴れなかった。
宗次郎は、旅姿だったからだ。
「京都を離れることにしました」
「そうですか…」
「だから最後に、このお店のお団子を食べたくて」
「そう言って頂けると、光栄です」
京都を発つ前に、最後に食べたい。
彼がそう言ってくれるのは、前の時と同様に本当に光栄だと思うし、そこまでこの店の味に親しんでくれて、何よりだと思う。
は確かにそう思っていたのに、何故かちっとも、嬉しくなかった。
「お団子を、二本下さい」
宗次郎はいつものように注文し、もいつものようにそれを用意した。
宗次郎はいつものようにそれを美味しそうに平らげ、もいつものように勘定を受け取った。
今まではそんな何気ないことでもは心踊って止まなかったのに、今日はどうしようもなく、寂しかった。
(この人は、ただのお客さんで、私も、ただの店の者で……)
たったそれだけの、接点。
それ以上を求める方が間違っている。
それなのに、こんなにもこの人に惹かれてしまった。彼のことを何も知らないのに。向こうだって自分のことを、何も知らないのに。
「御馳走様です。本当に美味しかったです、ここのお団子。しばらく食べられないなんて、残念だなぁ」
「京都を離れた後は、どちらへ?」
「さぁ……、でも、日本のどこかにはいますよ、きっと」
ほら、こんなにも掴み所がない。
自分などではきっと、どうにもならないくらいの存在なのだ、この人は。今更ながら、気付く。
気付きたくなかった。それなら、まだ愚かな夢を見ていられたのに。
「あの、私……あなたのことがずっと好きでした」
それでも、の口は勝手に動いていた。宗次郎の目が見る見るうちに丸くなる。そんなことは思いも寄らなかった、という顔だ。
無理も無い、自身だって、この思いを告げるつもりは無かった。単なる客と店番で良かった。彼がふらっとこの店に食べて来て、他愛無い話を二、三、交わして、またの来訪を期待して見送る、そんなささやかな幸せで良かった。
「お気をつけて。……旅のご無事を、お祈りしています……」
けれど彼がここでない土地へと行ってしまうというのなら、そんな些細なことですら、もう、叶わない……。
いっそ、諦めてしまいたいと。そんな思いが、の唇を動かしたのかもしれなかった。
「…さん」
「……」
頭を垂れたの上から、柔らかな声が降ってくる。
「僕も楽しかったです。あなたとお話をするの」
「……」
今のから宗次郎の顔は見えず、ただ彼の足が、脚絆を巻き草鞋に紐を幾重にも結び付けてある足が見える。
「あなたこそ、お元気で」
は顔を上げられなかった。泣き顔を見られたくなかった。
多分、やっぱり笑っているであろう宗次郎の顔を、見られなかった。
「…それじゃあ」
ややあって、宗次郎の足が動いた。踵を返し、こちらへと背を向けた。
はまだ顔を上げられなかった。涙がどうしようもなく落ちて、乾いた地面に幾つも黒い染みを描いた。
最初から諦めていた筈なのに、無性に寂しくて、悲しかった。
宗次郎の足音が遠ざかっていく。
思っていた通り、彼は立ち止ることは無かった。









……それから、長い長い時が流れた、竹林の側のあの密やかな茶店。
菓子職人であった父と母とが二年前に相次いで身罷り、は店を継いでいた。
文明開化の世とは申せ、女一人で職人として身を立てるには難しく、けれど父や母や先祖が残したこの店の味を守るために、は懸命に修行に励んだ。
父母が存命だった時に手ずから教わった技術を必死に磨く日々を繰り返し、菓子作りに没頭した長い歳月。そろそろ婿を取った方がいいんじゃないかと、齢二十四にしていかず後家であるをからかったり、或いは本気で心配していい人を紹介しようか、と世話を焼いたりしてくれる客もいたにはいた。
しかしはまだ誰にも、嫁ぐ気が無かった。未熟とはいえ父の味に近い菓子を作れるようになってきて、もっと上達すべく腕を磨くことが楽しかったこともあるし、もう十年も経った今でも、は柔らかな笑顔のあの青年のことを、心の奥底で、忘れられないでいたのだ。
この十年、一度も訪れることのなかった人なのに。
諦めの気持ちの方がずっとずっと大きいのに、胸のどこかで想っている。未練がましく、今でも。
不意に強い風が吹き、竹の葉がさざめいた。風で目が痛い。店先の掃除をしていたは瞼を閉じた。
その時聞こえてきた、足音。風の音に混じり、こちらに歩いてくる。
客、だろうか。
「いらっしゃいま、せ……」
応対しようとする明るい声が、途切れる。
再び開いた目に映った人影に、一瞬、時が止まったような気がした。
さらりと流れる散切りの髪。目鼻立ちの整った柔和な、けれどぐっと大人びた顔。
あの頃より広く見えるような肩幅に、着古した感があるものの、あの見慣れた着物。
「お久し振りですね」
「宗次郎、さん……」
信じられないような思いで、は目を見開いた。耳に馴染む声は、あの頃のそれよりほんの少し低くて、けれどその表に浮かぶ温和な笑みは、変わらぬままで。
「この十年、日本全国あちこちを流浪れたんですけど、やっぱりここのお団子が一番美味しくて」
そう、実に十年振りだった。
それでもまたこうして来てくれて、そして嬉しいことを言ってくれる。
「ずっと忘れられなかったんです。甘味だけじゃなくて、あなたのことも」
「私の、こと……?」
信じられない、といった顔では目の前のその人と向き合う。
自分も少しは背が伸びた気がしていたけど、彼も幾ばくか背を伸ばしていたようだ。相変わらず女性めいた顔をしているのに、あの頃よりずっと逞しくなったような、そんな印象を受ける。
「旅の途中、あなたのことをふと思い出すことがありました。暗い森の中で野宿している時とか、雪降る中を歩いている時だとか、どうして思い出すのはあなたなのか、自分でも良く分からなくて。でも、長いこと考えているうちにやっと気付きました」
それはが初めて見た表情だった。宗次郎の唇は笑みを象っているのに、困っているような、懐かしいものに思いを馳せているような、そんな揺らめきを含んでいた。
「ここであなたと色々な話をした、そんなささやかな……本当にそんなささやかな出来事が、殺伐とした日々を過ごしていた僕にとっては、息抜きのようなものだったんだなぁ、って……。その時は分からなかったけど、今になって、ようやく分かりました」
今度こそ、宗次郎は迷いなく笑う。
ささやかな、時間を。
この上なく安穏だと感じていたのは、だけではなかったのだ。意味合いとか、日々においての比重とかは違っていたのだとしても、宗次郎も、ほんの少しでも同じように思っていてくれた。そんな奇跡のような一致に、の目頭が熱くなる。
「それでも僕は、あなたについて何も知りませんから。だから教えて下さい、さんのこと」
「私も、もっと知りたいです、あなたのこと…!」
お互いに、何も知らないことが多過ぎる。
けれど、これから少しずつ知っていけばいい。またこうして邂逅できたのだから、少しずつ、互いの距離を埋めるように。一歩ずつ、歩み寄るようにして。
また、この、ささやかな時の中で。
「代替わりしたって聞きましたけど、またあのお団子、食べられますか?」
「はい、まずは長旅の疲れを癒さないとですものね、今お持ち致します…!」
宗次郎に腰かけに座るように促して、は店の奥に向かう。今は自分が作っている団子を、果たして彼は喜んでくれるだろうか?
不安を抱えながら差し出したそれを、宗次郎はにっこりと笑って食べてくれた。懐かしいその光景にも微笑む。
「うん、やっぱりここのお団子は、美味しいですね」
「喜んで貰えて良かったです」
そして本当に久方振りの、馴染みの会話が交わされる。
















90000ヒットキリ番リクエスト小説、麻模梨様のリクエストで、「ほのぼので甘い宗次郎夢小説」でした。
大っっっっ変お待たせして申し訳ありません!!(土下座)
数年越しの消化で、誠にすみませんでした…!!


もうひと方から頂いているリクエストが、流浪人になってからの宗次郎の夢小説だったので、こちらは十本刀時代の宗次郎の話にしてみました。
十本刀時代の宗次郎に関われそうな人…→宗次郎団子好きだし、八つ橋繋がりでこんなんどーだろー、ってことで、ヒロインは和菓子屋の娘というこの設定になりました。
京都大火前、宗次郎は八つ橋を一箱だけ持っているイメージだったのですが、改めて原作を読み返すと三箱持ってました…!


本っ当〜に久々に書いた、純度100パーセントのドリーム小説です。
「ほのぼので甘い話」というリクエストでしたが、ほのぼのはともかく、甘い…か、コレ…??(自問自答)
大変お待たせした上に未熟な品で申し訳ありませんが、この小説をキリ番90000を踏んで下さった麻模梨様に捧げます。
リクエスト、ありがとうございました!
重ね重ね、遅くなってしまって申し訳ありません(汗)。少しでも楽しんで頂けたら幸いです。


2013,3,2







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