晩夏






その客人が来たのは、もう夏も終わろうかという時だった。
中にシャツを着込んで水色の着物を重ねた、書生姿。しかしながら手甲、脚絆を身につけた旅装束の出で立ち。黒髪の散切り頭は明治の時代らしく、柔和そうな顔には、穏やかな微笑が浮かんでいる。
そんな青年がじっと、神谷道場の看板をひたすらに眺め続けているのだった。午後とはいえまだまだ暑い日差しの下、背後には蝉時雨。中に入って来る風でもなく、にこにこと表門の側にいるだけ。
不思議に、いや不審に思わぬ方がおかしかった。稽古の休憩中、つい先程見かけた姿と十分以上も変わらぬままでそこに立っているから、弥彦が思わず声をかけてしまったのも、無理もない話だった。
「おいあんた、さっきからそこにいるけどよ…何か用か?」
その眼光は、明らかに相手を疑ってかかるもの。けれどその客人の青年は大して気にする様子もなく、逆に弥彦を見て感心するような声を上げた。
「あれ、それ刀じゃないですか。廃刀令って知ってます?」
青年が小さく指差したのは、弥彦が左腰に帯びた逆刃刀だった。外見そのものは一般的な日本刀と何ら変わりは無い、だからこその疑問だったろう。
無論、廃刀令は知っているし、実際に刀を腰に差して歩く人間も、まったくと言っていい程見なくなった。弥彦自身、官憲に見咎められたことは幾度かある―――しかしこれは、己の元服の日に日本一の剣客から受け継いだもの。今となっては何よりも、大切なものだった。
「いいんだよ、これは、特別なもんだからな」
「へぇ?」
逆刃刀の柄尻にぽん、と左の掌を乗せた弥彦を見て、青年はどこか意味ありげに笑う。
そうして弥彦ははたと気付いた。何だか質問をはぐらかされた気もする。そこで弥彦は、改めて尋ねた。
「で、あんたはここに何か用でもあるのかよ?」
「まぁ、そんなところです」
にっこりと笑って、青年は答えた。笑う姿はまるで子どものようで、年齢不詳のきらいがあった。恐らくは二十代、或いはもう少し上かもしれなかったが、不思議と自分とそんなに変わらないのかも、という印象もまた弥彦は受けた。この時、明治二十四年、弥彦は二十三歳である。
「あら弥彦、お客様ぁ?」
朗らかな声に、弥彦もその青年も目をそちらに向けた。長い髪を頭の後ろで結わえ、そのしなやかな黒髪を揺らめかせながら、女性が一人、歩み寄る。
この神谷道場の主にして神谷活心流の師範、薫だった。
「こんにちは」
青年は明るく会釈をし、つられるようにして薫も頭を下げた。やたらに人当たりが良さそうな青年だ。薫は彼に対し、そんな第一印象を持った。
「あの、ご用件は―――」
そうして切り出した薫に、青年はやや間をおいて、それから例の穏やかな笑みを絶やさないままでこう答えた。
「ここに緋村さんは御在宅ですよね? ええと…緋村、剣心さん」
その時、弥彦と薫の表情がさっと凍りついた。
折しも風が吹き荒れ、一同の足元に落ちていた葉を巻き上げながら通り過ぎて行った。
一瞬途切れていた蝉の声が、またやかましく響き出す。
「あの…?」
顔色を変えた弥彦と薫に、青年が不思議そうに首を曲げた。それを受けて、薫は右の二の腕を左手でぎゅっと握りしめて、俯いている。
「…剣心は、いないわ…」
「あぁ、お留守ですか。それじゃあ、また後で、」
言いかけた青年を弥彦は引き留めた。まだ要領を得ないような顔をしている青年に、弥彦はただ一言。
「剣心は、死んだんだ」
青年の動きが止まる。いや、一同にその動きを止めていた。しんと静まり返ったその場所の中、ただやはり蝉達だけが、場違いに声を張り上げ続ける。
そう、弥彦が誰よりも尊敬し、薫が誰よりも愛したかつての伝説の人斬りは、病により半年ほど前に天寿を全うしていた。
剣心のいない日々にも少しずつ慣れ、ようやく浸透するように彼の死の実感が湧いてきた今、しかしその事実を口にしたことで、弥彦は改めて氷塊を呑みこむような思いだった。
青年は少し真顔になった。それで何かを考え込むような顔をして、小さく頷いた。今度ばかりは苦い微笑を浮かべて、
「…そうですか」
と言葉を吐き出した。青年は視線を落とし、地面に映る影を見つめて、一つ瞬いた。 それから、拍子抜けするくらいにすぐ顔を上げると、黙りこんでしまった弥彦と薫に、またも子どもめいた笑みを見せた。
「それじゃあ、お線香だけでもあげさせて貰っていいですか?」
亡き夫を偲ぼうとする人間を断れる筈は無かった。薫はいつまでも落ち込むまいと、気丈にも明るく振る舞った。
「ええ、是非。剣心も喜ぶわ」
「ちょっと待った」
しかし、弥彦が見咎めるような顔をした。肝心なことを訊いていなかった。
「あんた、何で剣心がここにいたこと知ってんだ。あんた一体何者なんだ」
突然ふらりと現れた青年に、弥彦は見覚えは無かった。
剣心が生きていた頃も、一度も訪ねてこなかったように思う。大体、剣心を訪ねてきたのは、彼の過去を知る政府の人間か、そうでなくては彼を敵視する類いだと、そう認識していたためでもある。勿論、彼の気の置けない友人が訪ねてくることもあるけれど―――。
問い詰めてくる鋭い視線を、青年は笑顔で受け流した。
そうして、どこか凛然とする声で言った。
「僕は、瀬田宗次郎といいます」








神谷家の奥の間に、剣心の位牌はあった。
その前に正座した宗次郎は、線香を供えた後両手を合わせ、今ばかりは笑みを消し神妙な顔つきで目を閉じた。
少し離れたところに薫と弥彦はいて、その後ろ姿を声もなく見守っている。
(瀬田宗次郎か…)
弥彦はその名を、心の中で静かに反芻した。
もう十三年も前に死闘を繰り広げた志々雄一派。彼はその配下、十本刀の筆頭の剣客であったという。弥彦や薫自身はその青年と面識は無かったが、剣心や左之助に、彼の話を幾らか聞いたことはあった。
剣心よりも速く動けて、奥義・天翔龍閃を出させたほどの男だと。
それに思い当たった時、弥彦は彼を家に上げるのに一度反対したが、結局薫に押し切られてしまった。故人を弔おうとする人を、たとえ元は敵であっても、蔑ろにするわけにはいかない、と。
そうして今、その宗次郎は剣心に静かに黙祷を捧げている。
「…緋村さんが、」
ふと、静寂を打ち破る声が当の宗次郎の口から漏れた。彼はまだ剣心の位牌に向き合ったままで、こちらを振り返ったりはしなかった。
「緋村さんがまだご存命なうちに…もう一度、会いたかったなぁ」
それにはどこか、残念そうな響きが含まれていた。
宗次郎はようやく合掌を解いて、剣心の仏壇の前から後ずさった。そうして、薫と弥彦の方に向き直る。彼らが座した卓袱台の上には、宗次郎の分も含めて三人分のお茶が淹れられていた。ただし誰も手はつけておらず、湯呑みの底に茶の澱がゆるやかに沈んでいた。
宗次郎は柔らかな笑みを湛えたままで、語り出した。
「…緋村さんとの闘いに敗れた後、僕は日本中を流浪れました。緋村さんの真似ってわけじゃなかったんですけど、あの人が言った、僕だけの答えを見つけるためには、そうした方がいいのかなって…」
宗次郎の話に、弥彦も薫も口を挟むことなく聞き入っていた。過去に剣心が成した行いと、それによって起こった事象。そしてそれは、剣心の口からは語られてないからこそ、二人が初めて知る事実と成り得た。
「日本全国、ほとんどを流浪れました。何度か、東京のそばまで来ることもあった。だから緋村さんに、会おうと思えば会いに来られたんです。でも何となく、顔を出し辛くて。
あの人のことだから、僕が訪ねていっても、嫌な顔はしないんじゃないかなって気もしていました。驚くかもしれないけど、拒んだりはしないんじゃないかって、そんな風にも思ってた。
けど、何て言うかその…うまく言えないんですけど、自分からあの人に会いに行くのは、何だか今更で、気恥ずかしいって言うか、照れ臭いって言うか…そんな風で、だから何となく、足が向かなくて。
それに、緋村さんがここにいるのは分かっていましたから、会おうと思えば、いつでも会いに行けるって、そう思ってて…」
長い語りだった。
その中に出てきた宗次郎の予想する剣心は、あくまでも予想であったが、存外、剣心なら本当にそうだったのではないかと弥彦と薫に思わせた。
剣を交わし、命を削り合った者同士であっても、こんな風に訪ねて来てくれた相手を剣心は邪険にはしないだろうと、そんな気がした。例えば左之助や蒼紫に対してそうであったように、闘ったことをすっかり水に流したかの如くつきあっていた姿を見ていたから、尚更だったろう。
この穏やかそうな咎人と、何事も無かったかのように縁側で共に茶を啜っている姿が、目に浮かぶようだった。
しかしそれは、もう永遠に実現しない光景だった。
「でもまさか、いつの間にか緋村さんが亡くなっていただなんて。こんなことだったら、もっと早く…来れば良かった」
零れた言葉には、後悔の色があった。
膝に落とした両の拳を握りしめ、宗次郎は唇を震わせて俯いている。涙こそ流さないものの、揺らめく瞳は酷く頼りなかった。そしてそれでも、宗次郎は唇を笑みの形に引き結んでいる。
その姿に、薫は胸がつまるような思いだった。薫はこの青年のことを何も知らない。つい先程、出会ったばかりの人間だった。それでも、喉の奥が痛んだ。
かつての剣心がそうだったように、この青年も日本全国を流浪れていたと言った。それは、行く先も無く、戻る場所も無い、果てしない旅路。季節ごとに海を渡る鳥達でさえ、目的地はある。それすらも無い、長い長い一人旅なのだ。
志々雄が死に、組織が瓦解し、彼の拠り所が無くなったその時から、歩き出す前の彼を知る人間がほとんどいなくなった。ならば、ほんの少し旅に疲れた彼が、ふと剣心に会いたいと思ってしまったのも、無理からぬ話だった。鳥達が止まり木で休むように、この青年も足を止めたことはあったろう。そしてその止まり木の一つが、恐らくは剣心だった。
(…剣心、)
薫はそっと在りし日の剣心の姿を思い浮かべた。闘っていた時の勇ましい姿よりも、日常の優しい笑顔ばかりが思い出される。そうして彼だったら、もしももっと前にこの青年が訪ねて来ていたのだったら、きっとこんな風に言ったかもしれない。
『おろ、誰かと思えば、宗次郎ではござらんか。久し振りでござるな』
そしてちょっと困惑した顔の後に、やはり温かく笑うのだろう。
「母さん、誰か客か?」
道場から師範と師範代の姿が揃って消えたことを訝しく思ったらしく、廊下から剣路がひょっこりと顔を出した。剣心がこの世に残した、薫との一粒種である。
赤い髪に凛々しい風貌、そしてちょうど剣心を子どもにしたらこんな風だろう、といったその外見を見て、やっと宗次郎はにこにこと破顔した。
「ああ、もしかして緋村さんの息子さんですか? 凄いですね、本当に緋村さんに瓜二つですよ」
嬉々として感想を述べる宗次郎に、剣路は面食らったような顔になった。
「何だ、コイツ…親父のこと知ってんかよ?」
「こら、剣路! お客様に失礼な態度取らないの!」
じろじろと遠慮なく宗次郎を見ていた剣路に、薫の声が飛ぶ。
宗次郎はそういった剣路の態度を気にするふうでもなく、笑顔のままで剣路の手にした竹刀を見た。
「あなたも、剣術をしてるんですね。飛天御剣流ですか?」
「いや、剣心は飛天御剣流の理こそ残したものの、流派そのものは伝えてねぇ…。俺も剣路も、神谷活心流だ」
剣路ではなく、弥彦が説明した。
そしてその弥彦は、剣心から受け継いだ逆刃刀を己の隣にしっかと置いていた。宗次郎はこの部屋に通される途中でそれを知り、その時は少しばかり複雑そうな笑顔をしていた。
しかし今は、宗次郎は淡く笑う。
「人を活かす剣、ですか。成程、あの人らしいですね」
それは、何かに納得するように。
そうしてふと、どこか遠い目をして、やはり独り言のように言った。
「時代は志々雄さんの言ったように、どんどん弱肉強食に流れているのに、それでも人を活かす剣を残そうとするなんて…本当に甘い人だ」
「おい、お前、」
まるで父親を馬鹿にされたような気分になったのだろう、剣路が宗次郎を非難するような声を上げた。父親に対し、様々な不満こそあれど、心の底から嫌っていたわけではなく、そして直接その剣こそ学んでいないものの、いつか父親を超えたいとの自負もある。
何より、剣路にとっては全くの見知らぬ人間に父親のことをこんな風に揶揄されたことが、単に苛立たしかった。
けれど実際、宗次郎が言った通りに今の日本は、ただひたすらに強くあるべしと、富国強兵へと傾いていた。明治十五年に朝鮮で勃発した壬午事変を皮切りに、政府は武力の拡張に力を注いでいる。
明治十八年の清仏戦争、明治十九年の長崎事件など、日本の国内外で不安な情勢は続いていた。いつ諸外国と戦争が起こるやもしれない、そんな危うさを大いに孕んだ時代を、明治は突き進んでいたのだ。
そして今や、もはや刀などではなく、重火器を主とした新しい武器が台頭していた。戦争の中で、兵器は瞬く間に進化し、次々に開発されていく。より威力を持った、より殺傷力を持った物へ、と。白兵戦で刀を持つことはあっても、それを主として闘う時代ではない。
それなのに、剣心は新たなる世代へと、新時代の刀の道を、その志を、その生き様を以って残そうとした。
「でも、それがどんなに難しいことかも、きっとあの人なら分かってたんでしょうね。あの人は生粋の剣客だったから―――。
より難しいことを貫こうと、貫かせようとするなんて、やっぱり、」
宗次郎はそこで一旦言葉を切り、にっこりと笑ってこう続けた。
「緋村さんは、どこまでも厳しい人ですね」
剣路はそれを聞いて、憮然とした顔になった。薫はそんな息子の姿に小さく笑みを零す。
かつて敵であった人間にこんな風に評されるとは、何だか誇らしいようなくすぐったいような、薫はそんな気分になった。
果たして剣心と彼は、一体どんな闘いをしたのだろう。少なくとも、剣心と闘ったことが、彼に大きな影響を与えたのは間違いなさそうだった。
薫のその考えを肯定するように、宗次郎は呟くようにこう言った。
「僕はまだ、志々雄さんや緋村さんみたいに自分だけの答えは見つかっていないけど…あの人がいなかったら、こんな風に、それをしようとする僕も、多分いませんでした」
どこか懐かしいものに思いを馳せるような、そんな瞳の色だった。宗次郎のそういった姿を目にして、薫はこう言わずにはいられなかった。
「きっと、剣心も安心しているわ。あなたの今の姿を見て」
確証は無いが、きっと剣心ならそうだろうと、薫は思った。もしあの世という場所で、かつて闘った青年のこの姿を見ていたとしたら、きっと。
それで宗次郎は一度目をぱちくりさせた後、「そうかなァ」と屈託なく笑った。それはどこか嬉しそうだと、弥彦は思った。
弥彦もまた、剣心と出会ったことで夢や目標といったものを見つけ、歩き始めた者。自分と闘った敵に対し、時にはどこまでも厳しく、時には限りなく優しかった剣心の姿を、弥彦は鮮明に覚えている。そしてこの宗次郎もまた、闘いの最中で、そんな剣心の姿に触れた一人なのだろう。
そして、改めて思い知らされた。緋村剣心という偉大な剣客の姿を、かつて敵だった人間を通して。
その宗次郎は少しばかり声を上げて笑った後に、あっさりとこう切り出したのだった。
「すっかり長居しちゃって、すみません。そろそろ、お暇しますね」
もうすっかり冷めていたお茶を一息で飲み干した後、宗次郎は立ち上がった。外の空は茜色に染まり始め、うっとおしい程だった蝉の声も、どこか物悲しいひぐらしのものへと変わっていた。
「あら、もう行っちゃうの? せっかくだから、もう少しゆっくりしていったらいいのに。もうすぐ夕飯の時間だし―――」
些か残念そうな声を漏らした薫に対し、弥彦は真面目腐った顔で宗次郎に耳打ちする。
「それが正解だぜ。薫の飯はめちゃくちゃ不味いからな」
「弥彦ォ!」
薫が目を吊り上げて声を荒げた。それで宗次郎はまたあははと笑う。
「今日はいきなり訪ねてきちゃいましたから。また今度、ゆっくり来ますよ」
言いながら、宗次郎はすでに出立する気配だ。縁側から足を下ろし、草鞋を履いてその紐を結び始めている。
「あのさ、次に来たらよ。その、剣心との闘いはどんな風だったか、教えてくれよな」
弥彦が頬を掻きながら、どこか言い辛そうに言った。
単にそれは剣心と宗次郎との闘いがどんな風だったか知りたいという好奇心と、在りし日の剣心の姿を聞きたいという、憧憬と思慕の入り混じった思いからだった。ただ、人の口からでも何でも―――身罷って久しい剣心に、会いたかっただけかもしれなかった。もっとも、弥彦は己のそんな子どもじみた感情を、おいそれとは認めようとしないだろうけれど。
そういった訳で照れくさそうな弥彦に、宗次郎は何か悪戯を閃いたかのような顔をした。
「あれ、そんなこと言っていいんですか? あんまりいい話聞けないと思いますよ? たとえば僕が緋村さんの逆刃刀を折ったとか、二度目の闘いでは緋村さんの背後を取ったとか…」
「……」
「な、何っ!? 本当かよ、それ!」
本当のこととはいえあっさりと述べられた事実に呆然とする薫と弥彦と、宗次郎の話に思いっきり食いつく剣路。
そんな反応に、宗次郎はおかしそうに笑う。それはやはり、幼子の仕草のようだった。
「まぁ、それは次のお楽しみ、ってことで」
剣路をやんわりと制し、宗次郎は己の荷物を肩に下げ、庭へと降り立った。そうして室内の剣心の位牌に対し姿勢を正すと、小さく一礼した。 また少しばかり、寂しげな色が宗次郎の瞳に宿ったが、それはほんの刹那のことだった。次の瞬間には、何でもないといった風な、明るい笑顔が浮かんでいるのだった。
「それじゃあ、どうもお邪魔しました」
今度は薫達にぺこりと頭を下げ、宗次郎は踵を返す。そんな彼を、薫達は門の外まで見送った。「また来てね」、と薫も言った。弥彦同様、彼女もまた彼の口から、剣心の話を聞いてみたかった。
一匹が鳴き出すと、少しずつ重なっていくひぐらしの鳴き声を背に受けながら、宗次郎は歩いていく。黄昏の空気の中、その姿はだんだんに遠ざかって、そしてやがて、見えなくなった。
夕暮れの穏やかな風が、薫達の頬を撫でる。気温こそ下がったものの、身に纏わりつくような熱気は相変わらずだ。
「なあ、母さん…あいつって、」
途中から話に参加した剣路は、結局宗次郎の正体を知らないままだった。ただ、かつて父親と闘ったことがあるらしい、ということは分かった。
剣路自身も良くは知らないままだった、父親の本当の剣。彼はそれを知っていて、そして恐らくは本気で、やり合ったことがあるのだ。剣路はそれを、自分でも良く分からないうちに、羨ましいと思った。
剣路の問いに答えるように、或いは独りごちるように薫はこう口にした。
「…宗次郎君も、流浪人ですって」
今となっては懐かしい、あの人の肩書きだった。
彼はそれと同じ生き方をしている。きっと、この先も当分は。
宗次郎が去った先を静かに見据え続ける薫と、それと同じような目の色をして、弥彦もその隣に立っている。
本当に不思議な巡り合わせだった、自分も、弥彦も、遠くの地にいる仲間達も、かつての敵も―――そして宗次郎も、あの人を取り巻いて所縁が生まれた。あの人がいなかったら、結ばれることが無かったら、そもそも剣路は存在すらしない。
失った彼を思うと悲しみに押し潰されそうになる時もあるけれど―――思いがけず剣心を思い出した今日は、寂しく、恋焦がれる想いよりも、幸福が仄かに勝った。今日の出会いがもたらしたものに、薫は感謝の念を抱いた。思い出話の中でも、彼に触れられた。彼の生き方が、一人の青年の生き方を、恐らくは良い方へと変えた。それを知れただけでも、切なくも甘い僥倖だった。
薫はそっと瞼を閉じた。にこやかな宗次郎がまず浮かび、入れ替わるようにして剣心の姿が浮かんだ。
左頬に十字傷の彼は、薫の大好きな笑顔をしていた。



















宗次郎が神谷道場に来て剣心と再会して云々、っていう設定の話をいくつか書いておいてなんですが、何となく、宗次郎は自分から剣心を訪ねにいかないような気がします。
北海道編があったとして、北海道で剣心と関わったことで神谷道場を訪ねることはありそうですが、そうでもしないと宗次郎は自分から剣心に会いにいかないんじゃないかな、とそんな風に思います。
とはいえ、何の前触れも無く、ひょっこりと宗次郎が神谷道場を訪れる絵もあっさりと想像が付きます。それが宗次郎クオリティ(笑)



そんなわけで、宗次郎があの闘いから十年以上も経った後に、やっと神谷道場を訪れるものの、剣心がすでに死んでいたら…というのがこの話です。
発想元は、某動画サイトの、二次創作でるろ剣の続編をUPしている素晴らしい作者様の、最終話を見てです。
昨日たまたま観て、宗次郎が剣心の死を知らずに神谷道場を訪れた様を想像し、そのままいきおいで突っ走って書いてしまいました…。
実際剣心が死ぬとこ想像すると寂しいし切ないのですが(注:管理人未だに怖くて星霜編観てないです;)、その作者様のるろ剣愛に触れ、思わず書いてしまった次第です…。いやほんと、クオリティ高いって、あのシリーズ…!! 北海道編も好きです!!(こんなところでラブコールしてどーする)

いつも宗次郎視点の話が多いので、今回はあえて薫・弥彦視点で書いてみました。
後書きが長い…(苦笑)



ちなみにタイトルの晩夏は挽歌(中国の葬送曲)とかけてます。


初稿:2012,6,21







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