夢の浮橋
初めて人を殺したのは、十歳の時だった。
「ぎゃあああっ!」
耳にこびりつくような絶叫。
できることなら、もう聞きたくない種類の声だ。
「ふん・・・・つまらねェな。明治政府の手先の癖に、俺を殺すのには全然力が足りねェな」
刀の血を払いながら不敵に笑んでそう告げるのは、己の仇敵・志々雄真実。
元よりこの場には、その志々雄と明治政府からの刺客、そしての三人だけしかいなかった。その日のねぐらにしていた宿から遠く離れた森の中、月明かりも碌に届かないその場所に、志々雄はその刺客を誘うように敢えてその場所に踏み込んだ。を連れて。
案の定、好機とばかりに刺客は襲い掛かってきたが、志々雄の剣の前に到底敵うはずもなく、あっさりと返り討ちに合いこのザマだ。
「ぐ・・・ああ・・・・」
「俺を殺したいんだったら、もっと歯応えのある奴を仕向けるべきだったな。まぁ、これからあの世に行くあんたにゃあ関係ねェが」
志々雄を狙っていたその剣客風の男は、呻きながらももはや立ち上がることもできない様子だった。生臭い血の臭いが嫌でも鼻へと届いてきた。
は眉を顰める。
人が目の前で成す術もなく死んでいく光景は、志々雄に連れられてから数え切れない程見てきた。皆一様にして浮かべるのは無念の表情、けれどには何をどうすることもできなかった。
が志々雄と行動を共にするのは、家族の仇を討つ為。
四年前に皆殺しにされた家族。失われた平穏な生活。それまでの全て―――それを奪った志々雄という存在を許せないが為。
その目的を果たす為には、自身が剣の腕を磨き、そして志々雄にとって”使える人材”とならなければならなかった。目の前で多くの人が死んでも、手を差し伸べたりなどせず、平気で見殺しにしなければ。
志々雄の意に沿わねば、彼の側にはいられぬから。使えないと分かったら、自分もすぐに足手纏いだと殺されるであろうから―――。
「オイ、」
不意に声をかけられて、はびくっとして志々雄を見上げた。月明かりを背にする志々雄の表情は、影となって見えない。けれど、は何となく、その顔に笑みが浮かんでいるように見えた。
「こいつを殺してみろ。止めを刺すくらい、お前にもできるだろ」
唐突過ぎて、その言葉をすぐに理解できなかった。
確かにその言葉を聞いたのに、それはどこか志々雄が遠くで喋っているかのようで。
茫然としているに、志々雄はもう一度酷薄な笑みを口元に浮かべると、手にしていた刀を彼女の前に放った。
カシャン、という金属音がの耳に届いた。
「殺ってみな」
「・・・・・」
志々雄の声に、は何も返せなかった。
志々雄を殺す覚悟はある。そのために剣術の修行を重ねてきたし、多くの人を見殺しにしてきてもいる。とっくにこの両手は血に塗れてるも同然なのだ。けれども。
それでも、やっぱり直接人を殺すことには抵抗があった。
殺したくなかった。苦悶の表情で息絶えた者達を、ずっと側で見てきたから尚更。それに、自分自身が家族を不条理に奪われた悲しさ、悔しさを知っているから。
志々雄を殺す。その為には彼の部下となって機を窺うしかなかった。たとえ数多くの人を見捨てても。
―――けれどできれば、本当は、人殺しなんか・・・・―――
刃を無言で凝視し続ける。誰かに救いを求めるかのような眼差しでその光景を見ている虫の息の男。
誰もが静止していたのは、ほんの数秒にも満たなかった。
「・・・・殺れ」
有無を言わさぬ、志々雄の無感情めいた冷たい声が降ってきた。凍てついた響きに、は恐ろしくて彼の方を見上げることができなかった。
これは多分、殺気だ。はまだ一人前の使い手ではない、けれど、本能的にそれが分かった。まるで肉食獣に睨まれた時の小動物のように。
ここで逆らったら、間違いなく自分が殺される。
「・・・・分かった。やればいいんでしょう?」
震えながらは刀を拾った。刀なら、鍛錬の時に幾度も手にしたことがある、けれどそれはあくまでも鍛錬で、例え相手の息の根を止めるための剣を学んでいたとしても、稽古相手を殺しているわけではない。
それが今、刀がこうして確実に相手を奪う物として手の内にあると、恐ろしくて堪らない。本当は、今すぐにでもこの手を放したい。こんな凶器、持ってなどいたくない。
迷いが柄を握る手に震えとなって伝わり、刃がカタカタと小刻みに揺れる。未だ躊躇するに呆れた風に、志々雄が溜息を吐く。は再びびくっと身を竦ませた。言葉より、志々雄のその態度が雄弁に語る。
志々雄は試そうとしているのだ。がこの先、部下として側に置くに値するか否か。
(父様、母様、兄様・・・・)
はぐっと目を瞑った。
大好きだった家族達を想う。それを奪った存在を思う。
(・・・・ごめんなさい)
ごめんなさい。みんなの仇を討つ為に。
は、人殺しになります。
「・・・・そうだ、それでいい」
ようやく柄をぎゅっと握り転がる男に向き直るに、志々雄は満足気に笑みを浮かべた。
は重い刀を引きずるようにして男に近付く。男はこんな少女が自分を殺すなんて冗談だろ、とでも言うようにを見る。
「・・・・・ごめんなさい」
小さく呟かれた言葉は、男に対してのもの。死に逝く男もそれを悟り、その面は絶望の色で一気に染まる。死を目前にした人間のみにしか浮かべられぬ、恐怖と怯えに引き攣った表情―――。
見ていられなくて、は目を瞑った。刀を振り上げて、けれどここで思い直した。
目を閉じていたら、どこに刀を突き立てられたか分からない。しっかりと見て、一発で急所を仕留めなければ。
自分が初めて命を奪う人間の顔など見たくなかった。だが、は志々雄を殺す覚悟を新たにする為にも、しっかとその目を見開いた。
「悪いけど・・・死んで頂戴っ・・・!」
は刀を振り下ろした。確実に死ぬように、男の内臓を狙って刃を突き立てる。刀が背中側から腹側に貫くように、全体重をかけて刀を深く深く沈めた。ずぶずぶと、肉と血の中を進んでいく感触が手に伝わってくる。硬過ぎず、柔らか過ぎず、まさに人間を殺した時の感触が・・・・・。
「がっ・・・」
死にたくない、助けてくれと懇願するような眼差しが、の目と心に深く突き刺さった。今生の最期に自分の命を奪った者を見つめる、その恨みがましい瞳の色も。
男は幾度か痙攣するように体を震わせた後、ぴくりとも動かなくなった。
それでもどこか、にはその男を殺したという実感がどうしてだか湧かなくて―――ただ、突き立てた刀を杖のようにして今にも崩れそうな自分を支えていた。
ただ一閃、刀を振り下ろす。それだけのことしかしていないのに、全身から汗が流れているようだった。の口からは、とめどなく荒い呼吸が繰り返されていた。
「上出来だ、」
その声に、浅い息を吐きながらはようやく振り向く。家族の命を奪い、ついには自分にまで人殺しの咎を負わせた憎むべきその男を、はおよそ少女のものとは思えない程の昏い目で睨みつけた。
「そんな顔すんな。遅かれ早かれこの日が来るってことは、分かってた筈だろ?」
志々雄にそう切り返され、はぐっと言葉に詰まった。
そう、分かっていた。分かっていたつもりだった。いつか、自らの手を人の血で汚す、その日が来ることは。
けれど所詮、それは本当に”つもり”だった。誰かの命を自分の身勝手で奪うことが、こんなにも苦痛で、後味の悪いものだとは知らなかった。
知りたくなかった。
「宗も待ってるだろうからな、お前は先に宿に戻れ。今日はゆっくり休むんだな」
「・・・言われなくても、そうするわよ」
精一杯の強がりを吐いて、は刀を投げ捨てるようにその場に放った。
「いつかは・・・あんたのことも殺してやるんだからっ・・・!!」
家族の命を奪っただけでなく、己の手をも汚させた男。
必ず、いつか必ず殺してやると、改めてその暗き誓いをその胸に秘めて、は一目散にその場を去った。これ以上ここにいたくなかった。
宿に戻った後ははすぐさま湯浴みをし、何度も何度も湯を頭から被って部屋に戻った。
待ちくたびれたのだろう、宗次郎は既に布団の中ですうすうと穏やかな寝息を立てていて、そのあどけない姿を見ては思わず泣きそうになったのだけれど、ぐっと堪えて隣の布団にもぐった。文字通り頭から布団を被った。賭け布団の中で亀のように丸まった。ゆっくり休むなど、到底できそうに無かった。
(ごめんなさい。ごめんなさい。許して許して許して許して許して・・・・・!)
心の中で繰り返されるのは、ただひたすら許しを乞う言葉。
赦されることなどないと分かってる、けれどそれでも、叫ばずにはいられなかった。
(私は母様達の仇を取りたいの。私が志々雄サンを殺せば、私みたいに、理不尽に家族を殺される人達だっていなくなるでしょう? だから仕方ないの、仕方ないことなの・・・・!)
言い訳のようにひたすら繰り返す。
先程の、殺してきたばかりの男の最期の瞬間の生気を失った顔が頭から離れない。目の前で志々雄に殺されていく罪も無い人々の、生に執着するその眼差しが忘れられない。
何度も何度も体を洗ったのに、血の臭いがしっかりと自分から漂っている気がして、そのおぞましさに吐き気がしそうだった。
(ごめんなさい、許して・・・・)
「・・・・さん?」
ぎゅっと体を握り締めて、自分の殻に閉じ篭もってそれ以外何も考えられなかったに、けれど突如降って沸いたような宗次郎の声。
のろのろと起き上がったの背には掛け布団が背負うような形になっていて、隣の布団の宗次郎はしっかりと身を起こしてニコニコと笑っていて。
「戻ってたんだね。お帰りなさい」
「宗・・・・」
暗がりの中でも、窓から刺す月明かりでその穏やかな笑顔が見える。その笑みを目の当たりにして、の涙腺がもう一度緩んだ。
そう、思えば彼がいなければ、家族の仇とはいえ志々雄についていくことを決めはしなかっただろう。
全てを失くしたに、この少年は柔らかな笑みを、向けてくれたから。
―――ソレニ、私、コノ人ヲ失イタクナイノ・・・―――
「宗、わ、私、私・・・・・」
ぼろぼろと、の目からは涙が零れていた。志々雄に弱みを見せまいと、必死に堪えてきた今までの分の涙が、ついに我慢しきれなくなって溢れてきた。
がずっと溜め込んできた苦しみ、辛さ、痛み、悲しみ・・・・そういったものが宗次郎の笑顔を見てほっと気が緩んだ瞬間に表へと出てきたのだ。
「私、人殺しになっちゃったよぅ・・・・」
家族の為とはいえ、自分の為とはいえ、それでも自身が人を殺したという事実は変わらない。覚悟を決めていたとしても、実際に罪人となってしまったことに、後悔の念がないはずなどない。
次から次へと零れる涙をそのたびに手で拭っていたを、宗次郎は呆気に取られた顔をして見ていたが、先程の一言で事態は飲み込めた。
宗次郎はの肩に両手をそっと乗せ、その顔を覗き込んだ。泣きじゃくっていたも、宗次郎のその仕草にしゃくりあげながらも顔を上げる。
宗次郎は相変わらず限りなく穏やかな笑みを浮かべたままで、に囁いた。
「大丈夫、さん。だって僕も、同じだから」
宗次郎の言葉に、はもう一度しゃくりあげた。宗次郎は目を細めて、顔をほんの少し傾げて笑った。
「僕も同じ、人殺しだから」
更にもう一度しゃくりあげて、は再び声を上げて泣いた。
その言葉が嬉しかったからじゃない。
どちらかといえば悲しかった。そうだ、このにこにこと無邪気に笑う宗次郎も、既にその手は人の血で汚れている。
ただ、何の解決にもなっていなくてもその言葉で少し、救われた気がした。
拭いきれぬ罪を犯したのは、自分だけではないのだと―――・・・。
「二人だから、大丈夫だよ」
宗次郎はなおもニコニコと笑っている。
色んな感情がない交ぜになったまま、はしばらくは泣き続けていた。
己の手を汚した以上、後には引けない。もう、罪人としての道を歩くしかない。
たった一人だったら、耐えられなかっただろう、志々雄の側にいることも、人を殺すことも。
けれど、宗次郎が傍にいるから。
同じく人を殺めた宗次郎がいるから。
それはきっと、本当は哀しいこと。その二人が幼いながらも咎を背負っているという、とてもとても哀しいことだったのだろうけれど。
それでも。
「そうだね・・・もう、私は大丈夫・・・・」
自分のような存在が一人ではないということに。自分だけが罪人で無いというそのことに。
何よりも、その宗次郎の存在に。
は少なからず、安堵していた。
「―――っ!!」
急激に意識がはっきりし、はガバッと飛び起きた。
目の前の暗闇を茫漠と見つめながらはぁはぁと荒い息を吐く。寝汗もかいていたのだろう、額が濡れている感覚がして、体も熱い。
「・・・・夢・・・・?」
呟いて、二、三度目を瞬く。次第に闇に目が慣れ、いつもと変わらぬ様子の寝室の光景がぼんやりと見えてきた。
すぐ隣の布団には、すぅすぅと小さく寝息を立てている我が子達の姿。それを見てもはぁっと大きく息を吐く。
「夢、見てたんだ・・・・」
もうずっと昔の、初めて人を殺した日のこと。
忘れたことは無い。今は平穏で家族と共に平穏で幸せな生活を送っているとは言っても、自分が咎人であるというその事実は。
初めは家族を仇を討つ為だと、仕方なく人を殺していた。けれどそれはいつの間にか、今の居場所を幸せを失いたくないという、自分の我侭故への目的に摩り替わっていた。
だから尚更、己は罪深いと思う。
今が本当に幸せだからこそ、だからこそ時折、思い知らされる。この先どんなに償っていっても、結局己の犯した多くの罪は消せやしないのだと―――。
そんなこと、あの京都での闘いの時から分かっていたことだったのに。
「怖い夢でも見たんですか、さん」
ごくごく小さく紡がれた言葉に、それでもいきなり声をかけられたことに驚いてはバッとそちらを振り向く。見れば子ども達の更に向こう側、川の字になって寝ている一家四人の一番端の宗次郎が、いつの間にか起き上がって穏やかに笑ってこちらを見ていた。
子ども達越しに会話をするのも何だと思ったのか、宗次郎はそろそろと畳の上を四つん這いで歩いての傍までやって来た。
間近で見る宗次郎の笑顔に、はもう一度大きく息を吐く。それはやはり安堵のもので。
「うん、まぁね・・・・」
宗次郎の問いに、は曖昧な返事をした。
夢の内容までは言いたくなかった。内容を言えば、宗次郎にとっての”その日”のことを、嫌がおうにも思い出さずにはいられないだろうから。
誰も、彼を守ってくれなかったあの時のことを―――・・・。
昔の夢で苦い思いをするのは、自分だけで十分だ。
それに、自分をそうさせた志々雄ももはやこの世には亡く、彼に向ける思いもまた、あの頃とは違うものも確かに存在するから。
「ごめん、心配かけちゃって。でも大丈夫。もう夢から覚めたから・・・」
の浮かべた苦笑に、宗次郎もそれ以上何も言わなかった。
ただ、そっとその肩をふんわりと抱き寄せた。宗次郎がいきなり自分の肩に触れたということに、は思わず動揺する。
「そ、宗・・・・?」
「大丈夫、さん」
宗次郎がの見た夢を知る筈など無い。それでも、その口から出た言葉はあの時のものと同じもの。
宗次郎の胸に顔を埋めたまま、訪れた不思議な既視感にはハッと目を見開く。けれどその言葉の続きは、あの時と同じではなくて。
「僕がいるじゃないですか」
は緩やかに宗次郎を見上げた。彼もまた長い時を経て、その面には楽の感情だけではない笑みもまた浮かぶ。
柔らかい眼差しが、にっこりと細められた。
「それに、子ども達だっているんだし。一人で怖がらなくたっていいんですよ。みんな・・・・さんの傍にいますから。勿論、僕も」
胸が一杯になり、は不意に涙が出そうになった。
あの時とは違う。その涙の理由は多分、確かな安堵と、嬉しさで。
罪は消せなくとも、過去は変わらなくても、確固たる自分の居場所は存在するのだ。愛しい子ども達と、何よりもこの宗次郎の傍に―――。
「そうだね・・・私は、大丈夫・・・・」
はようやく、うっすらと笑んだ。あの頃、何よりも手放したくなかった幸せ。
それは確かに、ここにある。
「ありがと、宗。もう私は大丈夫だから、また寝ましょ。明日だって早いんだし」
「そうですね。じゃあ、もうちょっとだけこうしてから・・・」
「ちょっ・・・・」
離れようとするに対し、宗次郎は無邪気にぎゅっとその体を抱きしめる。戸惑いながらも、も悪い気はせず、大人しく宗次郎の腕の中に収まっていた。
じゃれあう二人の隣には、まだ相変わらず起きる気配も無い二人に良く似た子ども達が穏やかな寝息を繰り返している。
夜空には満月。
懐かしい血染めの夢は、その色を拭えなくても、の心の痛みだけは和らいでいた。
それは救いとなる存在がいたから。
あの頃と同じ、けれど確かにあの頃とは違う彼がきっと、今もの傍にはいるから。
<了>
『今、そこにある幸せ』の番外編です。
初めて人を殺した日のヒロインの情景、その後の宗次郎とのやりとりがぽんと浮かびまして、完結済みの長編であるにもかかわらず番外編を書いてみました。
もっとあっさりとした短い話になる予定だったんだけど・・・おかしいなぁ(汗)
久々に『今、そこに〜』の二人を書きましたが、私も何だか懐かしい気分になりました。
2007年1月28日
戻る