震える手





ぽん、と一つの鍵盤を人さし指で叩いてみる。
ト音記号の五線の一番下、ドの音は長く長く響き、やがてデクレッシェンドで消えていった。
笠井は椅子を引くと、その上にそっと腰かけた。背筋を伸ばし、右足をペダルの前に出す。両手を鍵盤の上に滑らせ、深呼吸してから指を上下させた。
優しい旋律が笠井の指先から生まれた。シューベルトの子守唄。誰しも一度は耳にしたことがあるだろう、母の柔らかな慈愛に満ちたような曲だった。
眠れ眠れ母の胸に。
眠れ眠れ母の手に。
心の中でそんな歌詞を諳んじながら、笠井はなおも白鍵と黒鍵を叩いていった。中学二年生のスポーツ少年が奏でるには酷く不釣り合いで、甘く幼いメロディだ。けれどこれは、笠井にとっては大切な思い出の一つ。ピアノを習い出してから初めての発表会、その時に弾いた曲だった。
小学一年生のあの時、衆人環視の大舞台で緊張したのと、足が震えて仕方なかった感覚を今でもありありと思い出せる。何度も練習し、指の運びもメロディもばっちり覚えていたのに、拍手で溢れんばかりの会場に出た時に頭が真っ白になった。ピアノに立てかけられた楽譜も目にしても自分の中に入ってこず、痺れの走る指でようやく弾いた曲は、一応人が聞ける形になってはいたものの、笠井にとっては全くの失敗だった。途中つかえてやり直したり、指がずれて音を間違えたり。焦る気持ちでようやく弾き終えた時は、満足感とはほど遠かった。
それでも大勢のお客さんは拍手をくれたし、ピアノの教師も両親もミスを責めたりせず、むしろ堂々と発表できたことを褒め称えてくれた。それは幼い笠井にとっては純粋で嬉しく、同時にとても気恥ずかしく悔しくもなったものだった。
それで発表会が終わった後もこの曲は引き続き練習し、その甲斐あって暗譜してスラスラ弾けるようになった。その時は初級者用に簡単に編曲してあった楽譜だったが、今では原曲もマスターしている。しかし笠井は、その子ども用の曲の方を、今は弾いているのだった。
眠れ眠れ母の胸に。
眠れ眠れ母の手に。
簡単故に、曲の終わりも早い。曲の頭に戻るダ・カーポを幾度も幾度も繰り返す。
サッカーに夢中になり出してから、両立は難しく、笠井はピアノ教室を小学五年生の時にやめた。それでもピアノを好きな気持ちは変わらず、趣味として続けていた。口さがない同級生からは、「男のくせにピアノなんて」と馬鹿にされたこともある。けれど、そのくらいで投げ出してしまう程、ピアノへ傾けてきた情熱は浅くはなかった。寮住まいである今はピアノに触れる機会もめっきり減ってしまったが、携帯式の電子ピアノを持ち歩いて空き時間に弾いたりと、それなりに満喫してもいる。
仲間と共にするサッカーを動の楽しさとするなら、笠井にとってピアノは、一人心を落ちつかせられる、静の楽しさだった。
楽しさの質は違う、けれどその双方に携わってきた時間は、少なくとも笠井には何事にも代えがたい、心地良く充実した日々だった。
「…やっぱ、お前か〜」
耳に馴染んだチームメイトの声が背後から聞こえ、笠井は一瞬手の動きを止めた。けれどそのまま、曲の続きを奏で出す。
「うちのチームでこんな時にピアノ弾くのなんて、笠井くらいしか思いつかなかったもん。でも、いいわけ? こんなに堂々と自分の場所ばらしちゃって。発見したの俺だったから良かったけど、もしゲームに乗ってる奴だったらやばいじゃん?」
それこそ『こんな時』なのに底抜けに明るいお喋りが、その人物の口から飛び出した。藤代誠二。武蔵森学園中等部サッカー部のエースであり、チームメイトであると共に笠井には気の置けない友人の一人だった。
後ろを振り向かないままだった笠井はその表情は分からなかったが、口調からするに、やはりいつものような陽気な顔をしているのだろう。
「―――俺は、乗らないよ」
指を止めぬまま、笠井はそう返事をした。ピアノを弾きながら話をすることは、慣れている者なら造作も無い。
「俺は乗らない」
もう一度、きっぱりと笠井は言い切った。言の鋭さと違って、紡ぎ出される旋律はやはり甘美で優しい。
今回の特別プログラム。選ばれたのは武蔵森学園中等部サッカー部一軍メンバーだった。傑出した才能の持ち主達を惜しんだのか、或いは普段厳しくとも教え子のことは大切に思っていたのか、反対した桐原監督は見せしめとして彼らの前でプログラム担当教官に殺された。
耳が痛くなる程に間近で聞いた銃声、跳ね上がった血飛沫が、否が応でもサッカー部員達に現実を教えた。やるしかない。選ばれてしまった以上、仲間同士でも、もう殺り合うしかないんだ、と。
温厚で部員達からの信頼厚いキャプテン・渋沢をはじめ、それでも殺し合いゲームに抵抗しようとする人間も、もしかしたらいるかもしれなかった。
笠井はその道を選ばなかった。積極的に殺しに走る道もまた、選べなかった。
名を呼ばれ分校を出て、半ば呆然としながら歩き続けているうちに、集落へと辿り着いた。ひとまず身を隠すつもりで入った一軒の家で、笠井は見つけてしまった。応接間の隅、埃の被ったアップライト・ピアノを。
目にした瞬間、たまらなく弾いてみたくなった。殺戮者に狙われないよう息を潜めて身を隠すのが最善のこのゲームにおいて、それが自殺行為であることは十分に承知していた。
けれど、長らく触れていなかった本物のピアノ。死の差し迫った自分。プログラムという現実。それらすべてを天秤にかけて、笠井は結論を下した。
苦楽を共にしたチームメイトを殺すなんて、できっこない―――。
最高に楽しくて、いい奴らばかりだったみんなとサッカーすることは、もう絶対に叶わない。なら。
躊躇いながら、笠井は最初の音に触れていた。指先に感じた、鍵盤の重い感覚。このピアノ自体ももう長らくは、多分調律もされていないんだろう。しかし触れてしまった瞬間、笠井はやはり戻れなくなってしまった。
ピアノに熱中していた子どもの頃。同じくらい、或いは仲間がいることでそれ以上に没頭したサッカー。その頃の思い出だとか、感傷だとか、哀しさとか、悔しさとか、このゲームに巻き込まれた理不尽さとか。全部が笠井にこみ上げて来て、弾かずにはいられなくなっていた。無意識のうちに弾いていたのは、一番の思い出の曲だった。
既に永遠の眠りについた仲間達がいるこの島で奏でるには、存外、相応しい曲かもしれなかった。
恐怖で震えている者達にとっては、家族や故郷を思い出させる、残酷な曲かもしれなかった。
「で、どーすんの? このままずっとピアノ弾いてるわけ?」
藤代がやっと笠井の顔を覗き込むようにして話しかけてきた。音楽室にあるようなグランドピアノと違って、壁に沿って設置されるアップライト・ピアノでは、前にまわれない。
笠井の方もようやく、藤代に目を向けた。藤代は大型の銃を手にしていた。それはショットガンの類だったが、笠井には分からなかった。そして藤代は、シャツに赤いドット模様が一面に広がっていた。
目にする前から、笠井は何となく、そんな気がしていた。藤代がそういった選択をすること。
もしかしたら今すぐにでも撃たれるのかもしれない、他人事のようにそんなことを思いながら、笠井は口を開いた。
「うん。もうここが禁止エリアになろうが誰かに殺されようが構わない。俺は単に、最期まで好きなことをしていたくなったんだ」
目線はピアノの方から離さないままで、笠井はそう言った。この時ばかりは演奏を止めていた。
返事は心底本音だったが、現実逃避してるだけだ、という負い目も笠井からは消えなかった。もしかしたらこのゲームにおいては一番幸福で、それでいて愚かしく、卑怯な行為かもしれない。
「…ふ〜ん」
藤代は面白そうに口の端を吊り上げただけだった。笠井の指先に視線を落して、それからショットガンを構え直す。
冷静に構えていた笠井だが、その実、手の全体が小刻みに揺れていた。あの、発表会の時のようだった。
「ホントはさ、笠井がここにいるって気付いて、殺すつもりで入ったんだよね、俺。でもやめとく」
ごくごく軽く藤代は言った。まるで世間話でもするような調子だ。何故彼がこのゲームに乗ったのか、理由を問うても仕方がない。それでも殺戮者となってなお、藤代もやはり彼らしいままだった。
「弾、無駄撃ちしたくないし。何となくその気も失せちゃったし」
笑みを浮かべたまま藤代は続けた。それで笠井は再び藤代の顔を見た。
憎らしい程に、いつも通りの藤代の顔をしていた。
「もし、俺が最後まで残ってね、その時まだここが禁止エリアになってなくて、それで笠井もまだ生きてたら…
その時、また来るから」
何をしに、とは藤代は言わなかった。言われなくても笠井には分かっていた。
それでもいいような気持ちがしていた。
「じゃね、笠井」
ひらひらと手を振りながら、藤代は無防備に背中を見せて去っていく。
それを見送って、笠井はまたピアノへと向き直った。絶望しかないこのゲームで、甘くも苦いこのひと時の中に、ただただ浸っていたかった。
そして或いはこの指先から迸るメロディが、聴く者の心を満たし、ほんの救いを持てる何かであったらいい。
まったくの自己満足だった。
しかし笠井はつい先程までと同じように、やはり指で鍵盤を叩き始めた。
曲は違う。
純粋な優しさではなく、切なさを滲ませたその旋律。ベートーベンのピアノソナタ『悲愴』。限りなく美しい主旋なのに、胸に迫るような哀しみがあった。
それはさながら、このゲームで散りゆくすべての者達への鎮魂曲だった。







END








割とふと思いついた話。
笠井まともに書くのは久々なのですが、この人良く分からないよ…!
って言うか、原作でもそんなに出番ないのに二次や同人で独り歩きしているこの人の存在感すごいよ…!!
ピアノについての設定は100パー捏造です。
そして乗ってる藤代、いつもこんなんだ…(苦笑)

初稿:2012,7,24





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