メビウスの輪



「この寮とも今日でお別れ……か」
 桜の蕾が、少しずつ目覚める準備を始めた頃。『松葉寮』という文字が記された看板を、智之はそっと撫でる。中等部に入学し、サッカー部に入部してから、この3年間ずっと世話になってきた。
 結局2軍止まりで、レギュラーに昇格することは叶わなかったけれど、それでサッカーを辞める気は智之には無かった。自分にはサッカーの才能はないかもしれない、それでもサッカーが好きだから。憧れだった武蔵森学園に入ることができたから。高等部に上がっても、サッカーは続けるつもりだった。
 だから中等部のサッカー部寮であるこの寮は、今日が最後の日。明日からは高等部の寮に移る。部屋の荷物を纏めた2つのスポーツバッグを抱え直し、智之は寮の外観を眺める。
 ずっと家代わりだった。感慨深い。3軍時代は毎日雑用で一部の先輩達にこき使われて、寮に戻ってくる頃にはもうヘトヘトだった。だけど寮のご飯は美味しかったし、ベッドは安心して眠れる場所だった。
 中等部でのサッカー生活は、楽しいばかりではなかった。せっかくサッカー強豪校の武蔵森に入ったのに、3軍でろくに練習にも参加できず先輩達のしごきもキツく、理想と現実の差に打ちのめされて、退部していく同級生も多かった。
 智之自身も何度も心が折れそうになり、上に行ける見込みもないのなら辞めるべきか、それでも続けるべきか、よく悩んだ。しかし挫けそうになる智之の心を支えたのは、友達の存在だった。
『良かったら半分食べる?』
 入試の時から縁があった少年、風祭将。彼は弁当を忘れた智之に、快く自分の弁当を分けてくれた。とても助かったし、その優しさが嬉しかった。あの出来事がなかったら、弁当が無いことに動揺した気持ちを引きずり、午後の試験がうまくいかなかったかもしれない。
『シューズに人格が表れてると思って』
 将とはサッカー部入部の際にばったり再会し、寮も同室になった。一年生のうちは仲良く3軍だったけれど、雑用でも前向きに取り組む将の姿に励まされた。
『最後の一人になったって諦めない!』
 頑張りに対し成果の上がらない毎日に、思い悩んでいたのは将も同じだったのかもしれない。だけど将がサッカーを続けようとする姿勢が、智之の支えと励みになった。将が続けるのなら、俺も続けよう。将と一緒なら、辛い境遇でも頑張れる。将と一緒なら。
『ごめん……トモユキ。ぼく、武蔵森を辞める』
 けれど1年生の終わりに将から切り出されたのは、衝撃の言葉だった。サッカー部だけでなく、武蔵森学園自体も退学し、別の学校に移るのだという。
 ショックだった。裏切られた、と思った。信じていたのに。将ならきっとサッカーを辞めないと。将となら、頑張っていけると思っていたのに。
 世界が途端に真っ暗になったようだった。失望よりも、怒りが跳ね上がった。
『聞いてくれよトモユキ。ここにいたんじゃ、ぼくは…』
『言い訳なんか聞きたくない!』
 訳を話そうとした将を、智之は突っぱねた。言い訳など聞きたくなかった。どんな理由があったとしても、この裏切りは許せないと思った。そのまま、将とは喧嘩別れし、将は武蔵森を去っていった。
「……」
 今までのことを思い出しながら、智之は松葉寮の周りをぐるりと回る。百人近くが共同生活をする松葉寮は大きい。部屋数が多い分、一つ一つの部屋はさほど広くはないけれども。将がいなくなった後の部屋は、とても広く感じた。
 辛い時に励まし合えない友達がいないのは寂しかった。将が転校してすぐに、同じようにルームメートがサッカー部を辞めて一人部屋になった者と、相部屋になった。そいつとも仲良くはなれたが、将が去った喪失感は消えなかった。
 将が勝手に武蔵森を辞めたことへの憤りは続いていた、しかし日が経つにつれ、もっと冷静に話を聞けば良かったとか、酷いことを言ってしまった後悔とかが智之に押し寄せた。友達だったのに。唐突だったとはいえ将はきちんと話をしようとしたのに、こちらが一方的に話を断ち切ってしまった。
 あの時もっと、将の言葉に耳を傾けていれば。もっと武蔵森で頑張ろうと、引き留めていれば。
「……ッ」
 智之は松葉寮の外壁に、ドンと拳を打ち付けた。何度も、何度も、この無念と悔しさをぶつけるように。
 あの時に彼を、引き留めていれば。
『桜上水の9番、風祭だぜ』
 将と再会したのは、春の大会。転校先の桜上水中学校で、将はレギュラーとしてフィールドに立っていた。
 その時の将のプレーを見ていて分かった。懸命に相手のシュートを阻む姿。ゴールへ向かって直向きに走る姿。将はサッカーを辞めようとしたのではないのだと。武蔵森から逃げたのではなく、きっと自身を取り巻く状況を変える為に、転校という道を選んだのだと。
 新しいチームメイトに恵まれたのだろう、将は生き生きと、楽しそうにサッカーをしていた。そんな彼に正直に謝罪し、和解できた。『願えばかなう!!』今や敵チームであっても、将のことを応援したかった。事実、あの武蔵森と桜上水の試合は、素晴らしいものだった。
 春の大会こそ桜上水は初戦敗退だったが、夏の大会は都大会出場まで行き、それまでの弱小校というイメージを払拭する、目覚ましい活躍だった。将もめきめき力をつけていて、応援に行った岩清水との試合でも、必死にゴールに食らいついていた。そうした将の頑張りに触発され、智之は改めて奮起し練習を重ね、2軍にまで上がれたのだ。
 桜上水は、傍目から見ていてもいいチームだった。何気にタレント揃いということを差し引いても、皆で和気あいあいとプレーし、楽しそうだった。
 その桜上水で力を伸ばした将は、東京都選抜チームのメンバーにも選出され、試合でも相応の成績を上げたという。選抜チームでのプレーも楽しいと、以前電話で嬉しそうに話していた。いつの間にか先を行く将に、複雑な感情もなくはなかったけれど、彼の頑張る姿を1年間間近で見ていただけに、納得の結果でもあると思った。
 将が武蔵森にいたままだったなら、果たしてここまでの跳躍はあっただろうか。身長の低さで弾かれたまま、陽の目を見ずに終わっていたかもしれない。
 将はナショナルトレセンの選抜合宿にまで参加するほどになり、その中の練習試合で左足に大怪我を負ってしまったけれど、またサッカーができるように、ドイツに渡って治療するのだと語っていた。『辛いかもしれない、でも頑張るよ! サッカーが好きだから』
 電話越しでも、将の前向きな笑顔を見た気がした。その将がドイツに渡る寸前……、桜上水の将のクラスがプログラム対象に選ばれ、そして将は、そこで命を落とした。
「…くそっ…! なんでだよ、なんで、あいつが死ななきゃなんなかったんだ! あいつが何したっていうんだよ、あいつは、大好きなサッカーやってただけなのに! なんでっ…!」
 智之は肩を震わせ、叫ぶ。桜上水はいいチームだった、だけど将が転校しなければ、武蔵森に残っていたなら、プログラムに巻き込まれることはなかったのに。一緒に中等部卒業を祝えていたかもしれないのに。
 ガキっぽい意地を張らずに、もう少し一緒に頑張ろうと、お前と一緒に頑張りたいと、素直に引き留めていれば良かった。そうすれば、あいつはまだ生きていたかもしれないのに。
 ぼたぼたと、涙が地面に落ちる。きっと将は桜上水でサッカーできたことを、後悔してはしないだろう。それも頭では理解している。だけど……!
 どうしようもなく、嗚咽と後悔が零れた。彼を突き放したあの日よりもずっと、強く、深く。






END
















『将が桜上水でプログラムに巻き込まれ死亡、転校してなければあいつ生きてたのに…』という感じのトモユキ主演話。もっとさらっと書く筈が、意外に長くなった。
ネタ出しの為に『笛』を読み返していて思い付きました。松葉寮…というか武蔵森学園の寮システムについては分からないことも多くて、色々捏造してます(汗)

2019,4,19










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